聴覚障害者の日常 父の死
内容は5年前のものです。ずっと放置していましたが、せっかくなので。
聴覚障害には関係ないのだろうかもだけれど、私の記録として書き留めておきます。
ある年の8月半ばに、父は末期癌の告知を受け、自宅療養を選択し、9月初めに亡くなった。
告知では、ちょうど夏の休暇中だったダーに付き添ってもらい私も立ち合った。ステージ4で、父の年を考えると抗ガン剤投与や手術をするには体力もなく、なにもしないほうがよいと。おそらく年は超せないだろう。ダーの通訳があったので医者の説明はわかったのだけれど、頭がついていかないというのはこの事かと、後から思うほど混乱し、だけれども必死で冷静さを取り繕った。いつかは親が先に死ぬことは理解していたけれど、闘病することになろうとは思わなかった。
父の、自宅で療養したいという意向に沿い、母だけでは難しいからアタシが帰って母と二人で看ていこう、と決めた。子供たちも大学生、親がいなくとも自分達で生活をやりくりするいい機会だろうと思ったが、子供たちもおじいちゃんのそばにいてあげて、と快く送り出してくれ、ダーも最後の孝行を頑張ってねと理解してくれた。
父の闘病は、日ごとに出来たことが出来なくなり、動けなくなっていく。入れ歯を嫌がって外すと、発語が不明瞭になり、母も理解できなくなるし、私も読めない。片足の力だけ残っていてそれでベットの中で回転してしまったり、痰を自分でぬぐえなくなってしまったので、気がつかないと首や口周りが痰だらけになったり。急速に進行する病状に気持ちがついていかず、なにもできない自分を何度歯痒く思ったことか。
譫妄状態の父が「帰ろう……帰ろう……」と呻くので、「お父さん!お父さん!」と大声で呼びかけて、ハッとした父に「怒ってるのか?」と言われたのがひどく心に刺さっている。「怒っていないよ、お家だよ、わかる?」と言ったが、わからないようでそのまま目をつぶってしまった。
食事を許否し始めたので、もう長くないと覚悟をしていたけれど、9月7日は子供たちに成人の記念撮影を予約していて、娘に振り袖を着付けて、撮影の後見てもらおうと思っていた。撮影は朝から始まり、終えて帰ってきた時は既に息が荒く、意識もなくなって、目を開けてもらえなかった。娘の晴れ姿を見せたかったのだが、そのまま1時間後くらいに母と三人の孫に看取られて息を引き取った。アタシは母に頼まれて買い物していたので、息を引き取った後に帰宅し、死に目には会えなかった。まだ体温の残る父の顔を触り、「お疲れ様でした」と声をかけるしかなかった。
ちょうど子供たちの夏休み中だったためお通夜、葬儀はずっとそばにいてくれて、ダーも急遽駆けつけて、通訳全般を引き受けてくれた。
子供たちやダーのお陰で葬儀は滞りなく済ませられたし、あまり考えずにすんだ。
葬儀の後、ふとした時に自宅療養で良かったのか、自分のお世話は良くなかったのではないか、色々グルグルと考えてしまい、もっと長く生かせられなかったのかと落ち込んだ。告知からあまりに進行が早かったのは自分が至らなかったからではないかと自分を責めた。もともと父は寡黙で、あまり会話したこともないので意思疎通を図るのは難しかった。
時が過ぎて、父のいない実家に来るのに慣れてきたが、母のとの話の中に父が生きているのだなあと思う。