表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
89/100

第八十九夜 御船漁火


 いやはや、万治には悪いことをしました。


 脅そうでもなく、揶揄からかうでもなく、ただ、もう終わりと伝えてやりたかっただけだったのですが。まあよろしい。


 さて、御船漁火みふね いさりの話です。ちと気恥ずかしくもありますが、懐かしく、また大事な出会いのことを。



……だめか、体がいうことを聞かぬ。


 傀儡糸くぐつしも種切れだ。妙に背中が重いが、あたたかく柔らかいものを感じる。妹のりんに引き止められた時のような。やめておけば良かったのだろうか。


 出立しゅったつの際、気が進まぬおれに、いやならやめたらと陽気に言ったものだった。しかし、本家には逆らえぬ。ああ、この失敗で里の立場が悪くなるな。かなでさま、申し訳ありません。


 慈悲か無慈悲か、止めを待つおれに届いたのはやいばではなく、揶揄からかうような声音で、


『あら、お気付きになりましたか』


と、くずの言葉だった。それが背中から聞こえてきて、背中の重さと温かみがくずのものだと知った。


『よくも抜けぬけと。さっさととどめを刺せ。背中から降りぬか!』


『いやです。もう限界です。これ以上、一歩も動けません。さすがは土蜘蛛の技ですね』


『おれの傀儡糸くぐつしなど、まるで効いてなかったろうに。ふざけるなよ』


『効いてなかったなど、そんなことはありませんよ。私の手足を操ろうという傀儡くぐつの奥義は見事なものでした。ただ単純に、それ以上の力で押さえ込んでいただけですから』


『どうしておれを殺さない?』


『貴方こそ、本気で殺すつもりがありましたか。一撃一撃に迷いがいていましたよ。そんな甘い了見で戸隠の鬼を狩ろうなどと、ちゃんちゃらおかしい。うふふ、まだ子供だから見逃してあげる』


『馬鹿にするなよ。おまえだって、まだ子供じゃないか』


『ええ、そうね』


 どこか遠くから聞こえるような声に、首をねじってくずの方を見ると、すすきの穂を透かして、月を眺める小柄な女の姿があった。月と穂と女と。すっと風が吹き抜けるまで見惚れてしまっていて、細く長い黒髪を押さえて首を戻したくずと目が合った。その目は澄んでいて静かで、深い哀しみを湛えていた。


 どれほどの時を見つめおうていたか。一瞬のことのようでもあり、丸一日あるいは丸一月もそうしていたようにも感じた。月を背に、子供じみた体躯に見合わぬ大人びた目でおれをみおろす。その美しく冷たい目には、哀れみがあった。自分を殺しにきたおれを哀れむだと。


 ぐっと拳を握りしめ、里のため、かなでさまのため、りんのために、もう一度心を鉛と化して鬼狩りをなそうと身を硬くしたとき、近付いてきたのは綱丸つなまるだった。はっはっ、と舌を出してふらつきながらも、おれの頬を舐めて起こそうとする。続けて、どうやらくずの頰も舐めてみせたらしい。きゃっ、と里の娘のように華やいだ声が聞こえた。


 体から力が抜け、張り詰めようとしていた空気が緩く穏やかなものに変わった。おれは、もはや今宵は殺せても殺せぬことを悟ったが、しかし、これだけは伝えておかねばならぬ。


『戸隠の鬼よ、もし鬼に慈悲があるなら、今宵のうちにおれを殺せ。おまえは名高い薬師でもあると聞く。苦しまずに逝ける毒薬のひとつやふたつ、手持ちもあろう』


『さて、どう致しましょうか』


『このまま帰せば、おれはまた来るぞ』


『私を殺しに?』


『そうだ。おまえを殺しにだ』


『ふふ、いつでもいらっしゃい』


 そう言って下ろしてきたくずの手がおれの目を塞ぐ。すると、術でもかけられたのか、ふっと気持ちが遠くなっていった。ぼんやりとした意識の底で、くずのつぶやきが聞こえる。やれやれ、山立やまだちめ、逃げてしまいました。この男を人里まで運ばせようと思うたのに、と。


 翌朝、目覚めると、なにか薬でも処されたか、体は常より軽く感じるようで、枕元には干しいいまで置いてあった。


 あたりを見廻してもくずの姿はどこにもなく、その気配もなかった。秋晴れの空の下、すすきの穂を掻き分けて風が走りぬけ、おれの乾いた笑い声をどこかへ運んでいった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ