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第七十五夜 稲田勝樹


 懐かしい光景が目に浮かびます。


 水の枯れた谷間に山霧が満ちみちて、上古の湖が戻ってきたように思えたものです。朝まだき、薄雲の向こうから投げかけられる日の光に美しく輝いておりました。


 水無瀬みなせといい鬼無里きなさという。


 地名ひとつに歴史があり、暮らしがあり、名もなき人々の想いがある。打ち寄せる山霧に洗われて、波よけの鳥居が姿を見せていた日のことを、ありありと思い出します。


 さて、文字の霊を紙上に封じ込めるようになっての幾年月いくとしつき。とはいえ、気紛れな者たちですから、口伝ほどでなくとも変わり続け、移り続け、かたり続けます。


 次には、戸隠異伝とがくしいでんについてお聞きください。語り手は稲田勝樹いなだかつき殿で。



……物語には必ず異伝がある。


 戸隠とがくしの鬼についても同じだ。呉葉くれはと呼ばれた娘はまじないをよくし、自らに似せた人形ひとがたを作り出すことができた。あるいは戸隠の鬼は、双子の姉妹だったという伝承もある。


 姉は人に倍する怪力の持ち主で、その名をかさねという。逆に妹は姉に力を奪われたのか、生まれつき病弱で、残りかすとして、くずと名付けられた。


 ただし、成長するにつれて、くずの美貌は名高く、広く知れ渡るようになった。また、とこから離れられないものの、呪術に優れ、薬師くすしとしても人の信望を得ることとなった。姉妹の周囲に人が集まり、賑やかさを増した。


 それが不幸の始まりだ。


 いつの世でも、優れた者、世の評判を得た者は怨嗟えんさの対象となる。ねたまれ、恨まれ、いわれなき中傷を受けるのだ。


 その頃、都ではやんごとなき方の世継ぎが重いやまいに伏せっていたという。その原因として化外けがいの民による呪いであるとか、人を集めて謀反を企んでいる、また呪術のにえが必要だなどと理屈をつけて、戸隠の鬼も狩られることになった。


 荷駄の如き扱いで、遠く都へ運ばれていく途中で妹は死んだとも言われるし、姉の方は冷たくなった妹を抱えて山へ消えたともいう。


 一方で、姉妹は生きて都へたどり着き、貴人の寵愛を受けたとも、呪術のにえとされたとも。先の世継ぎの病平癒やまいへいゆを祈って成し遂げ、多くの褒美を得たともいう。また逆に、世継ぎを呪い殺した者こそが戸隠の鬼だとも。


 何が本当で何が嘘か、俺にはわからん。


 一説には、世継ぎの病平癒のために禁術が使われたのだという。蜘蛛くも百足むかで、蛙、蛇などを用いての蠱毒こどくに代えて、人を用いての蠱毒が為されたとも伝わるが、それが事実だとすれば無道な話だ。


 人の歴史においては、記された限りであっても、とても想像がつかないような残酷で残虐で酷薄な出来事がある。



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