第四十四夜 猫柳将吾
さて、これで何夜目でしたか。ふむ、四十四夜と。さすがによく覚えてらっしゃる。私の方は、ここで待つだけの日々ですので、どうも記憶がはっきりしません。
昨日が今日であり、今日が昨日であるような。似たような日々を過ごしていると、それがいつのことであったかわからなくなってしまいますね。
有り体に云えば、記憶が無ければ過去もなく、過去がなければ魂もないのかもしれません。動物機械論など古めかしいものですが、そもそも魂とは何か、それがわからない限り、議論もできないような気がします。
そして、それがわかる日は決して来ない。
我々は、そういう機械なのではありませんか。ふふ、続きましての語りは、おかげ横丁の人混みを走らされる哀れな男、惚れた弱みの猫柳将吾です。その魂は惚れた女にすっかり握られてしまっているのかしら。ね?
……すいません、すいません。
おかげ横丁の人混みを、ぶつかりぶつかり、謝りながら走る。いくら懐かしい佳乃によく似た着物だからって、わざわざ走って追いかける必要はないと思うんだが。
しかし、そこはそれ、惚れた弱みというやつだ。夫婦になって何年経っても変わらない。子供がいないせいもあるのか、ついつい理奈を甘やかしてしまうんだ。
青地に稲妻柄の少女は人混みの中をすいすいと抜けて行き、すぐに見失ってしまった。このまま戻ったら何を言われるかわからんし、ついでだ、ジジも探しながら、もう少しうろついてみるとしよう。
表通りを抜けると人通りも減って、民家も見えてくる。ぽつんぽつんと生活感のある路地だ。そしてまた横丁の方へ戻ると、招き猫の飾り物はもちろん、懐かしい射的の店や漬物屋、氷菓の店もある。その先、寄席のような建物があり、瓦屋根の上に一匹の黒猫。ジジが、ふんぞり返ってこちらを見下ろしていた。
あいつ、あんなところにいやがる。
軒先まで近付いていくと、庇の影に若い男女の姿があった。これまたいまどき珍しい着物姿で、どちらも高校生くらいか。黒い着物に身を包んだ女の子は落ち着いた雰囲気で、短かい髪と首元の白い肌とが際立っていた。同じ影に入って、ジジのやつをどうしたものか首をひねっていると、聞くとはなしに二人の会話が聞こえてくる。
男の子はコウジ、女の子はタツキというらしい。そういえば、男の子の方は、さっき稲妻柄の女の子と一緒にいたような気がする。もしかして二股デートか? 興味を引かれて、つい耳を澄ませてしまう。
『あんた、こないなとこで何をしとるんや』
『タツキこそ、一人なんか?』
『いや、サブロウとクロウと連れてきてな。猫祭りを見せたろ思て。せやけど、残暑も厳しいし、案内はユウリに任せて涼んでおったところや。んで、あんたはどうなん?』
『わても猫祭りを見せたろと思て、あいつを連れてきたんやけど』
『ははっ、振られたかいな』
『振られるもなにも、そんなんと違うし』
『そうかいな。なら、うちのエスコートでもしてもらおかな』
『そらかまへんけど、あいつも放っておけへんでな。なんかが呼んどるとか言うて急に走っていってしもたんや』
『ふぅん、相変わらずお人好しやな。あんなん放っておけばええんや。高島先生でも御船の爺いでも、面倒を見させたったらええ。うちはあんたと祭りを見て回りたいんや。二人っきりでな』
『それって……』
『どういうことかくらい、ぼんくらのあんたでもわかるやろ。ここで涼んどったいうのは嘘や。ほんまは、あんたに会えやんかと思て、毎日、おかげ横丁へ来とった。我ながらいじらしいもんやわ。
言うたことないけど、あんた、うちの母親の初恋の人とそっくりなんや。格好ええ、素敵な人やて刷り込まれたんやろな。はぁ、腹立たしいわ。人間なんて単純なもんや。何気ない言葉に縛られてまう。そうやってあんたに出会って惚れてしもた、と言うたら信じてくれる?』
『すまん、いまは……』
『なんてな。ええ暇つぶしやったわ。ややわぁ、本気にしたん? うちが、あんたみたいなぼんくらに惚れるわけないやんか。冗談や、冗談。こんなもん嘘やがな』
と切ないようなやりとりを断ち切るように、危ない! と声が響いた。
顔をあげると、屋根の上で伸びをしたジジが、猫にはありえないことながら、つるんと滑るようにして落ちかけていた。




