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第三十七夜 加藤優


 佳乃は過去を思い出したようですね。


 では、今宵に相応ふさわしき語り手を。佳乃の父親、加藤優かとう ゆうの若き頃の話です。誰にでも秘していることの一つや二つはあろうというもの。

 大方は語られることなく野辺のべに送られるわけですが。ふふ、私にもまだまだ秘した話は御座いますよ。まあよろしいじゃありませんか。今日のところは、加藤優の話です。



……妻には内緒の話だ。


 娘の名前は、昔、好きになった人の名前からとった。その名は佳乃よしの。そもそも人ではないのだろうけど、たとえ幽霊だとしても、やっぱり好きになった人と言いたい。


 幽霊話を信じようと信じまいと、妻にとってみれば嬉しいわけもないだろう。だから、このことは墓場まで持っていく秘密だ。


 僕は幽霊を信じている。


 正確にいうと、目に見えなくても存在するものは確かにあると信じている。その方が面白いし、実際、人間には見えない光や音があるじゃないか。学生の頃から、そう思っていた。


 その頃の記憶は、幼い頃の記憶よりもあやふやで、ガラスびんを透かして向こうを覗き込むような感じがする。佳乃との出会いも、そんなボヤけたセカイでのことだった。


 大学の図書館に幽霊が出るという噂を聞いて、冷やかし半分に出かけていった僕は、そこで本物の幽霊に出会った。いや、よくよく考えれば幽霊とは限らないのだけれど、目に見えぬ少女と出会ったんだ。それが佳乃だった。


 結局、最後まで姿を見ることは叶わず、去り際に見えた稲妻柄の着物と筆談でのやりとりがすべての儚いもの。それでも僕は、優しく妖しい図書館幽霊に恋をした。


 夏の図書館内は静かで、しんとした空気が重い。エアコンも効いているが、空気の流れは足元をねぶるかどうか、その程度だ。いまでも図書館へ行くと、当時のことを思い出す。


 学内に流れる噂は無責任なもので、いわく、本好きな少女の幽霊である。曰く、孤独の中で死んだ少女の幽霊である。曰く、いじめを苦にして自殺した少女の幽霊であるなどと。そもそも大学の図書館に少女の幽霊というのはどうなのか。ただのオカルト浪漫ろまんだ。


 だが、オカルト浪漫好きな僕は、毎日のように図書館通いを続けた。そんなある日のこと、一人でいた僕の目の前で、ボールペンが勝手に動いて佳乃の言葉を書きつけたんだ。

 

 流麗りゅうれいな文字で書かれた警告を無視して、僕は図書館に通い続け、やがて佳乃をかたる何か悪いものに取り憑かれた。それを救ってくれたのも、やっぱり佳乃で、去り際に残してくれたのは、その名前と、垣間かいま見えた稲妻柄の着物だけだった。


 去り行く気配に向かって、もしいつか子供が生まれたら佳乃と名付けると伝えた。その約束を果たすことができて嬉しい。


 いまも語り継がれているのかどうかは知らないが、書庫の床のどこかに図書館幽霊の名前が記されており、どれだけ磨こうと決して消えないという。煙草たばこを吸って空を見上げる度にそのことを思い出す。


 夏休みの図書館独特の静かで疲れたような空気が頭の中でゆっくりと対流している。



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