第三十五夜 伊武先愛
ここしばらく、暑い日が続きますね。
昔と比べてどうか? さあ、どうでしょう。暑くなったようにも思いますし、そうでもないようにも思います。所詮、私どもも一介の茹で蛙。少しずつ変わる時と場所には気付かない。そうでしょう?
実際には蛙もそこまで馬鹿ではないわけですが、これまた喋らぬ蛙に反論の余地なし。死人に口なし、蛙に言葉なしで御座います。
わずかな変化に気付くのは気の利いた男の特権であるか否か。会わぬからこその気付きがある。今宵の語り手は、長く御船家に寝起きする使用人頭の伊武先愛です。龍樹と悠里のことは幼い頃から存じ上げているとか。
……龍樹様、またサボりましたね?
お父上の代理で応援にくるわたくしの身にもなっていただきたいものです。悠里様が一生懸命に走ってらっしゃるというのに。
ほら、見てみなさい。七尾の阿呆と、なにやら獣じみた女と、悠里様を跳ね飛ばすようにして行ってしまいました。あの女、加藤佳乃というのですか。まったく無礼な輩です。
走る姿に可憐さの欠片もない。山犬かなにか、控えめに申し上げて猪といったところでしょう。あら、失礼、ご家族の方がおられましたか。家族ではない? 元家政婦? 新美まやさんと言われるのですか。
ふん、家政婦ごときが。いえ、なんでも御座いませんよ。わたくしは御船家に長く仕える使用人頭の伊武先愛と申します。龍樹お嬢様の可憐さ、優雅さを見慣れておりますので、あのように野蛮な方を目にすると、ついつい本音が出てしまうのです。申し訳ない。
見た目も中身も佳乃様の方が美しい? ほほ、あなた大丈夫ですか。よく目が見えないでいらっしゃるのですね。おかわいそうに。
佳乃様は心根の優しい方だと仰るのですか。虫めづる姫君のように、花を愛し、虫を愛し、人を愛すと。ほほ、龍樹様の方が情愛は深くあられますよ。クールぶっておられますが、いつぞやなど少女漫画を読んでおいおい泣いていらっしゃいましたし、ペットの金魚が亡くなった夜には、しくしく声を殺して泣いていらっしゃったり……。あら、ぽかぽか叩かないでくださいまし。口に出してはいけませんでしたか。よろしいじゃありませんか。わたくしの可愛い龍樹お嬢様の可憐さを知っていただきたいのです。
それより、応援されてます立花浩二様が足を痛められたようですよ。ほら、コース脇でうずくまってらっしゃる。ほんまや、って、そう言われながら、応援なんかしてへんゆうんですか。いやいや、わたくしには分かります。懸想されて……。んぐぐ、お嬢様、おやめください。あらあら、先ほどの猪女が戻ってまいりましたよ。浩二様を抱き上げて走って行ってしまいました。まったくもって野蛮なことで。
ほほ、お嬢様、どうされました。そんな風に爪を噛んで。お小さいころ、欲しいものを買ってもらえない時によくそんな仕草をされておりましたね。
すごい汗ですよ。本当にどうされました? 変に口を押さえて。うまく喋れないのですか。なんでもない、心配いらへんと言われましても。
大丈夫ですか。この後、みなさんは銭湯へ汗を流しにいかれるとのことですが、先にお戻りになりますか?