第二十九夜 河合辰子
ふふ、鬼やら式鬼やら鬼の力やら、ほんにややこしい話ですこと。とはいえ、多くを語るは興醒めというもの。それよりも小豆を清めて皮袋に詰めていくこととしましょう。
万が一にも小豆から芽が出ては大変ですからね。しっかり炒ってやりましょう。煮豆にするわけにも行きませんし。ささ、ほーかい。そちが囀りゃ梅が物言う心地する。ほーかい、ほーかい。私らに色ができれば煮豆に花よ。焼いた肴が泳ぎ出す。ささ、出るえぇ。
おっと失礼をば。懐かしい歌です。小豆を炒りながら聞くは、御船龍樹の下宿のおかみ、河合辰子の話です。同じく竜を織り込まれた名をもつ龍樹のことを気にかけているようですね。
……名は体を表すなどと申しますけれど、同じように名前負けなどとも申します。私に限っていえば、明らかに名前負けなのでしょう。
丈夫な子に育つよう辰子と名付けられたものの、病弱に育ち、嫁ぐこともなく家で過ごして参りました。両親が残してくれた財産も乏しくなり、こうして下宿屋を営んで細々と暮らしてきたものです。
もう十年は経つでしょうか。高島御夫妻から頼まれて学び舎の子らを受け入れるようになって。それは大変なこともありました。曰く言い難いことですが、少し変わったところのある子らでしたから。
いまは御船家の御令嬢、龍樹さんとその弟の悠里さん。それにこの間からは名字のない三郎という方と、若い下宿人がいてくれて賑やかで有り難いことです。
龍樹さんは、一見すると冷たくて可愛げがないような美人ですけれど、本当は優しい子で。ですからきっと、三郎さんはそんなあの子に惹かれているのでしょう。
身体の弱い私に代わって、龍樹さんは悠里さんと一緒に家事までしてくれている。下宿人にそんなことをさせてしまって申し訳ない気持ちですけれど、ちょっとした憎まれ口を叩いて照れ隠しをしながら私が負担に思わぬよう気遣ってくれているのです。
龍の名に沿うた強い女であらんと生きていることもまた自分のためではない。優しく大人しい悠里さんが御船家の跡取りとされて重荷を背負わされぬように。
しかし、このところどこか様子がおかしいように思わないでもありません。どこがどうとはっきり申し上げることのできるものでもないのですが。少し気になるのです。
暑くなってきましたから、龍樹さんも身体の不調が出ているのかもしれませんね。私の方は冬よりは夏の方が調子がよいくらいですから、今日は何か美味しいものでも作ってみましょう。のんびりしていては、すぐ夕方になってきます。どうも夕立ちが来そうな空模様で。
ああ、遠くで神鳴りが響いているようです。
そう思いながら台所に立っていたときのことでした。不意に激しい音と悲鳴が響いたのです。二階の龍樹さんの部屋からでした。落雷かと思いましたけれど、閃光も炎もなく、ただ音だけが神鳴りを示していたのです。
転げるようにして階段を降りてきた三郎さんは、医者を呼びにいく、龍樹さんが怪我をしたと言い立てて飛び出ていってしまいました。呆気にとられていると、ぽんと顔だけ戻した三郎さんから龍樹さんを看ておいてくれと頼まれ、二階の部屋へ向かいまして。
少しばかり怖ろしいような気もしましたけれど、急いで部屋に入ると、悠里さんに抱きかかえられるようにして青ざめた顔の龍樹さんが呻いていました。
その手の平、親指と人差し指の間あたりから血が滴り落ちているのです。何でもないと言うのですが、明らかに何でもないものではない。獣に噛みつかれたような傷跡が深く残されていて、そこから休みなく赤い血が流れ出しているのでした。
しかし、青ざめた頬と、噛みしめた唇と白い肌に流れる血の赤とが綺麗で、思わず見惚れてしまったのです。