第十九夜 スー
今宵は少し風が出ておりますね。
鬼の匂いというのは昔から変わらず、腐った溝川のような匂いですか。御歯黒溝もかくや、あるいは腐った人の心の匂いなのかもしれません。
そのようなことのないように、一粒、一粒、神水に浸し、清浄な夜風にあててから詰めていくとしましょう。なに、時間はかかりますが、まだまだ余裕はありますから。
さて、ゆったりと語ってもらうとします。お喚びするのは欧州系華僑のスー。その碧き目に何を映すのでしょうか。
……ふぅ、やはり日本の夏は暑い。
風のある時はまだしも、今日みたく蒸し暑く空気の重い日には欧州へ帰りたくなります。いつまで経っても慣れない。
伊勢の地に店を構えて数ヶ月、商売もまだまだ軌道に乗りません。これも私の不徳の致すところ。骨董品の扱いも面白いものですが、さきほどのお客さんは変わったものをお求めでしたね。ゲホーバコとは、外法箱のことでしょう。
明治の始め頃まで各地を歩いて回る若い巫女らが持ち歩いた小さな箱で、中には神像や猿の頭蓋骨、人形が入っていたとか。口寄せをしたり祈祷したりする際に使ったようですね。さすがに骨董品として売り買いすべき物でもない。
歩き巫女らは末には売春婦であったとも聞きますが、そもそも巫女と売春婦とは表裏一体、その始まりから神々の妻であり、聖なる婢女なのでしょう。
この伊勢の地からほど近く、御杖代とも呼ばれた斎王の御所があったと聞きます。初代斎王、倭姫命は倭建命の叔母であり、草薙剣を授けた方です。
常世の波の寄せる地と言われながら、今も昔も深い森に覆われております。整地され、拓かれた場所だけが人の領分。それ以外の場所は人ならざる者たちの領分のままです。手を入れ続けなければ、人の領分は急速に失われていく。
その儚さよ。
神様がいるから神聖な場所になるのではなく、神聖な場所だから神様がいる。八百万の神という言葉ほど日本人の美しい在り様を表しているものもないと思うのです。すべてを受け入れ、溶け込ませ、呑み込んでしまうような。何者も拒絶せず尊崇せず、ひたすら在るものを在るままにみる先人の知恵がそこにあるような。
そうした神と人の間を取り持つ者こそが、斎王であり、歩き巫女であり、聖なる婢女なのです。また死と生をつなぐ者であり、死者と生者の間をつなぐ者でもある。菊理姫の言葉は永遠に謎のままですが、古い古い昔から変わらぬ巫女の役割を示しているようにも思えます。
いまもどこかで誰かがその役割を果たしている。そう考えるのもあながち誤りではないのかもしれません。