第十六夜 立花浩一
祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。猛き者もつひには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。
いつ詠じても心地よい。いろは唄といい、平家物語といい、明治の御代に切り捨てられたものの美しさと儚さを感じます。
とがなくてしす。いろは唄に折り込まれた言葉の不吉さとは裏腹に、かえって美しき音となるはなぜなのでしょう。
色は匂へど
散りぬるを我が
世誰ぞ常な
らむ有為の奥
山今日越えて
浅き夢見じ
酔ひもせず
須佐之男命の本地とされる牛頭天王は祇園精舎の守護神とされます。その祇園御霊会の時に御船家より盗み出されし外法箱には何者が祀られているものか。これもまた鬼なのかもしれません。その禍々しい匂いにひかれて伊勢の地にたどり着いたのは浩二と久美の兄にして、立花兄妹の長兄、立花浩一で御座います。では、お喚びしましょう。
天清浄、地清浄、内外清浄、六根清浄。寄り人は、今ぞ寄り来る長浜の、蘆毛の駒に、手綱揺り掛け。
……禍々しい匂いがする。
妖どもの腸から滲み出る腐った溝川のような匂いだ。忘れもしない。十七年前のあの日と同じ、鬼の匂い。
弟妹の命を奪った鬼は滅せられたはず。しかし、これは何だ。間違いなく同じ鬼の匂いだ。街中に充満しており、どこから匂うのかもわからぬ。おかげ横丁を往きかう人々の中にも、なにかを感じる者もおるだろう。
虫や鳥や獣たちはすでに逃げ出そうとしている。よくはわからぬが、新橋のあたりを中心としているようでもある。落ちてきた鳥の死骸を辿ると、どうも赤福本店を出たあたりか。
目につくのは、白いセーラー服の娘とその連れの子供、着流し姿の男か。先刻、店へ入っていった妙齢の女性も気にはなる。それと、近くにもう一人、同じセーラー服姿の女子高生がいるが、あれで隠れているつもりか。薬屋のマスコットの影から三人組の方を見ているな。
鬼と縁の深いものがいるとしたら此奴らの誰かかもしれん。あるいは鬼そのものが人に化けているのか。ああ、また鳥が落ち始めた。これ以上瘴気が濃くなれば人にも害が出る。仕方ない。少々あらっぽいが……。
ん、赤福本店から出てきたのは?
馬鹿な! あれは浩二と久美か。そんなことはありえない。十七年前に死んだはずだ。たしかに鬼の手で胸をえぐられて死んでいた。兄妹で生き残ったのは私だけだったはず。
傷が癒えてのち、死に物狂いで術を学んだのだ。二度とそのような不幸のないように。
そうか、生きておったのだな。いや、だが、十七年前と姿が変わらぬのは何故だ。妖なのか?
新橋の方へ向かうようだな。もう一人、作務衣姿の若い女も浩二らの連れだろうか。少し離れてセーラー服の女らも同じ方向へ行く。新橋の中ほどまで来て……。
消えた?
掻き消すように居なくなってしまった。鬼の気配もない。いつの間にか瘴気も消えていた。私の願望が見せた幻なのか。いやいや、そうではない。大事の物みつかるも触れてはならぬとの卜占は、これのことだ。この兄が二人を見間違えるわけがない。
十七年前とは違う。
鬼が出ようと恐れはせん。もし、あの時の鬼が黄泉がえったならば、この私が引導を渡してくれる。二人に触れさせはせん。