ロマンチストな魔法使いとラピスラズリのお姫様
コツン、と近付いていた下駄の音が止まった。
温泉に入っている私を見て、逡巡する雰囲気。
ややあって衣擦れの音が聞こえ、少し離れたところで水音がした。
ぬるめのお湯に、ゆるりと波紋が伝わっていく。
「見ちゃダメ」
視線を向けると、彼女に笑って睨まれた。「コレは失礼」と笑顔で返し、私は視線を空に戻した。
空の頂に美しい満月。優しい月の光に照らされた、絶景の森。獣しか来ない山奥で、のんびりと温泉に浸かる。
これこそ、贅沢。
これを恋した相手と分かち合えるのは、幸せだ。
「私、混浴なんて初めて」
「僕もデスよ」
「日本語、上手になったね」
「猛勉強シマシタから」
彼女と出会ったのは、私が十八歳の時。アイルランドの僻地で育った私に日本語が話せるはずもなく、最初は意思の疎通に苦労した。
「ココへは、迷わず来れマシた?」
「あなたが先に来て待っていてくれたもの。あなたこそ大丈夫だった?」
「モチロンです。私はこれでも魔法使いデスよ」
「そうだったね」
私はゆっくりと彼女の方を向いた。手を伸ばしても少し届かない、そんな距離にいる彼女が、恥ずかしそうに膝を抱えて体を丸めた。
「見ちゃダメ、て言ったのに」
「大きくナリマシタね。もう立派なレディです」
「だってもう二十歳だもの」
「私は二十七歳にナッテしまいマシタ」
「そろそろオジサンだね」
「それはヒドイ」
ごめんなさい、と彼女が小さく笑う。
ああ、そんな風に笑えるようになったんですね、と嬉しくなる。
お湯をかき分けて、抱き締めたらどんな顔をするだろうか。だけどできない、してはいけない。私は衝動をなんとか抑え、岩の上に置いていた花用のガラスドームを手にした。
「コレを見てください」
ガラスドームの中には、青く光る水晶のようなものが入っていた。本来は拳ほどの大きさだが、今はその三分の一ぐらいしかなかった。
「なんとかココまで修復シマした。だけど私一人でデキルのは、ここまでデショウ」
黒目がちの彼女の瞳が、まっすぐに私を見つめていた。瞳に宿るのは、疑問と不安の二つの光。しかしその光のさらに奥に、ほんのわずかな希望の光。
「この先は、アナタの協力が必要です」
私は、その希望の光に応えたい。断崖絶壁の淵に立ち、ふんばり続ける彼女の手を取り、共に未来を歩みたい。そうする事を、許して欲しい。
「……どうして?」
「どうして、デスか……」
その問いを、あなたは何度発したのか。その問いに、誰かが真摯に答えてくれたのか。あなたを助けたいと願う気持ちを、どうして、と問う。それがどれだけ悲しいことか、あなたはわかっているのだろうか。
「簡単なコトデス」
だから私は答える。決して誤解されないよう、簡潔で力強い言葉にして。
「私が、あなたを愛してイルカラです」
彼女が目を見張り、息を飲んだ。
「私……まだ子供よ」
「いいえ、モウ立派なレディです」
出会った当時はまだ子供だった。そんな彼女を愛してしまうなんて、想像もしなかった。
「デスカラどうか。私に、あなたを助ケルご許可を」
「無理よ、そんなの」
「いいえ。必ずお助けにマイリマス」
「私がどこにいるのかも知らないのに?」
「ご安心を。私は本物の魔法使いデス」
私は静かに手を伸ばした。ほんの少しだけ、彼女に届かない私の手。それを、彼女は戸惑った目で見つめた。
「この先、何年かかろうトモ。必ずあなたを探し出し、お助けスルと誓いマショウ」
「……どうやって?」
「どうか、あなたのお名前を教えてイタダケませんか?」
「名前?」
「ええ。あなたをあなたタラシメル、真実の名を。お教えイタダケれば、魔法使いは必ずあなたを探し出し、お助けスルでしょう」
彼女の目が、ヒタリと私を見据えた。
疑問と不安、そしてほんのわずかな希望。私はその希望に向かって微笑みを浮かべた。
「おっと、私から名乗るのが礼儀デスね。私はコルム・ロビンソン」
「……ミヤコ。スズキ、ミヤコよ」
ミヤコの手が水面に浮かび、恐る恐る私の手をつかんだ。私はその手を握り返す。痩せた小さな手が、私の骨ばった手にすっぽりと包み込まれた。
「きっと、何百人も同じ名前の人がいるわ。本当に私が探せるの?」
「探し出してミセマスとも」
ミヤコの体が淡く光り始めた。
青い光がミヤコを包み、やがてミヤコの体が透き通って、幻のように消えてしまう。
──待ってる。
消える直前に聞こえたミヤコの声。私は小さくため息をつき、手の中に残された青く光る石を、ガラスドームの中に放り込んだ。
私は魔法使い。かつてドルイドと呼ばれた人々の末裔。
ミヤコは生き霊。その体はどこかで生きていて、魂だけが抜け出してきたもの。
「さて、君はどこにいるんだろうね」
ガラスドームの中で光る青い石。ほんの少し大きくなった「ミヤコ」の魂に語りかけると、返事をするように瞬いた。
──探してくれるんでしょ?
そんな笑い声が聞こえた気がした。
◇ ◇ ◇
草原に、少女が一人立っていた。
着ているのは夏物の薄いワンピース。冬が終わったばかりで、風は冷たい。寒くないのだろうかと考え、いやそれ以前に、一体誰なのかと首を傾げた。
アイルランドの北端、ファルカラの町に東洋人が来たと聞いた記憶はない。そもそもここは、十歳かそこらの少女が一人で来るような場所ではない。
「君、何してるんだい?」
私は少女に声をかけた──それが、ミヤコとの出会いだった。
粉々にされた人の魂というものを、私は初めて見た。
ここまで粉々になって、なお生きていることに驚いた。
死んだ魂は白く光る。だが、これはまだ青い。
初めて出会ったミヤコの魂は、何も答えぬまま、悲しげな笑顔とともに青い石のかけらになった。
その笑顔は、夢見がちな魔法使いが使命感に燃えて旅立つのに、十分な理由になった。
「君がいるべき場所へ、帰してあげよう」
小さな青い石を手に意気揚々と旅立った魔法使いは、行く先々で困難にぶつかり、打ちのめされた。
当たり前だった。
アイルランドの片隅しか知らぬ、世間知らずの若者なのだから。
見ず知らずの少女のために、なぜ私がこんな目に遭わねばならぬ。
言葉も通じぬ少女。粉々になった魂に意思はなく、ただ無表情に私を見つめるだけ。
助ける義理などない。放っておけばよい。
そう考え、私はアイルランドへ引き返す。そして、しばらくしてまた旅立つ。
そんなことを、何度か繰り返した。
◇ ◇ ◇
二年もの月日を経て、ようやく出会えた二つ目のかけら。
リヒテンシュタイン公国のネンデルンという町の外れ、少し大きくなったミヤコが、肌着姿でぼんやりと星空を見上げていた。
「君は、どこの誰かな?」
私の声はミヤコに届かない。ミヤコの隣に腰を下ろし、私も星空を見上げた。
無数に輝く星のように、ミヤコの魂は粉々に壊れてしまったのだろうか。
時代遅れの魔法使いは、そんなミヤコを連れ帰ってあげられるのだろうか。
私はそれまでの二年のことを、一人語りに語った。半分はミヤコへの苦情。もう半分は、自分の不甲斐なさへの自嘲。
語り終えたとき、ミヤコは星空ではなく私を見ていた。
「君は……どこの誰かな?」
私はもう一度、ミヤコに尋ねた。
まっすぐに私を見つめる瞳には、濁った色の、絶望の光しかなかった。
粉々になり、絶望に染まり、それでも生きている君の手が。
私の手にそっと重ねられた。
ミヤコが消え、私の手には二つ目の青い石のかけらがあった。
「……情けないぞ、コルム」
私はその石を握り締め、己を叱咤した。
◇ ◇ ◇
その一年後、七つ目のかけらを手に入れたとき、ミヤコはようやく言葉を発した。
トルコの首都アンカラ。ビルの陰に隠れるように、ひっそりとたたずんでいたミヤコは、私を見て初めて表情を動かした。
「コンバンハ、オ嬢サン」
アイルランド語がわからない、と首を振ったミヤコに、私は日本語で語りかけた。
ミヤコは目を見張り、小さくうなずいた。
よかった、合っていた、と私は胸をなでおろす。私はミヤコの前に膝をつき、魂のかけらを入れていたガラスドームを見せた。
ミヤコは、ハッとした顔になった。
震える手を伸ばし、ガラスドームをそっと撫でた。信じられない、という目で私を見上げ、瞳を潤ませた。
ミヤコの瞳を満たしていた、絶望が揺らいでいるのが見えた。
私はミヤコの手に自分の手を重ねた。震えている小さな手をそっと握り、私を見つめるミヤコにうなずいた。
「助ケニ、イキマス」
私の拙い日本語に、ミヤコは呆然とした顔をし。
「うそだよ……」
そうつぶやくと、あの悲しげな笑顔を浮かべて消えた。
「必ず、行くよ」
その悲しげな笑顔が、本当の笑顔に変わるまで。
もうアイルランドには戻らない。
私は固く決意し、七つ目の青い石のかけらをガラスドームに入れた。
◇ ◇ ◇
それから七年、私は世界中を旅した。
困難な旅だった。だが、アイルランドに戻ろうとは一度も思わなかった。
ガラスドームに入れた、ミヤコの魂が私を励ましてくれた。
十個目のかけらを集めた頃から、ときどき人の姿で現れて、言葉を交わすようになった。
一人ではない。ミヤコが共にいてくれる。
そう思うだけで、どんな困難も乗り越えられた。
◇ ◇ ◇
青の都、サマルカンド。日本へ来る直前に立ち寄った、二十五個目のかけらを手に入れた場所。
そこでミヤコとともにモスクに立ち、ラピスラズリの輝きに酔いしれた。
「マルで、君の心の中ダネ」
「私、こんなにキレイじゃないよ?」
「イイエ、とても綺麗デスよ」
「……ひょっとして、私、口説かれてる?」
ミヤコは、はにかんだ笑顔で首を傾げた。
ドキリとした。
悲しげな笑顔しか浮かべられなかったミヤコが、そんな顔をするようになっていた。それが嬉しくて、いつまでもその笑顔でいてほしいと思った。
恋に落ちたのは、きっとあのときだ。
そう、あのとき私は。
魔法使いではなく、ミヤコを助ける王子様になりたい、と思ったのだから。
「ふふ、ロマンチストと笑われますかねぇ?」
洗濯機が止まり、ピーッと音が鳴った。
「なんとか……きれいになりましたかね?」
旅を始めて十五年。すっかり年季の入ったドルイドのローブ。くたびれているのは仕方ないが、不潔ではいけない。三度も洗ったから、まあ大丈夫だろう。
ローブを羽織り、右手に杖を、左手にガラスドームを持ってコインランドリーを出た。
「今から行きますから。待っていてくださいね」
ガラスドームの中で、青い石がキラリと光る。
戸惑っているような、喜んでいるような、不思議な光に心が和む。
スズキ ミヤコ。
彼女の名を知ってから五年が過ぎていた。小さな島国とはいえ、人一人を探すとなると、やはり広かった。
それでも、見つかると信じていた。
彼女が名を教えてくれたから。待ってる、と言ってくれたから。
「怖い……私、怖い……」
私がミヤコの居場所に近づくにつれ、彼女はひどく動揺するようになった。
出会えば、否応なく暴かれる。
知られたくないことが、私に知られてしまう。
「コルムに嫌われたくない……」
生き霊となり、粉々にされ、世界にばらまかれた魂。
ミヤコの人生が、幸多いものであるはずがない。
きっと、知られたくない過去もあるだろう。
だが、旅は今日終わる。
「ミヤコ、私はね、あなたの魂と十五年も共にあったのですよ」
嫌うものか。
サマルカンドで見た、あのラピスラズリのモスクのように美しい、あなたの魂。
私はそれを知っているのだから。
君の魂を守るためなら、私は人生を賭けてもいい。
私の恋は、いつしか愛と呼べるものになっていた。
◇ ◇ ◇
途中で花屋に寄り、頼んでおいたバラの花束を受け取った。
本数は108本。
バラの花束を抱えて、私はまっすぐに進む。さすがに緊張して、少しふわふわとした気持ちになる。
やがて私は、大きな建物の前に立つ。
「総合病院」と書かれた看板が目に入る。
「さて」
彼女にたどり着く前に騒ぎになっては元も子もない。私は杖を振り、目くらましの術をかけてから、病院の門をくぐった。
外来病棟を抜け、入院患者の病棟へ入り、さらにその奥の庭へ向かう。
彼女の魂が、私を導いてくれる。
「見つけましたよ、お姫様」
庭の一角、日当たりの良い場所に、車椅子に乗った女性がいた。
身動きひとつせず、焦点の定まらない目で正面を見ていた。付き添いの看護師が背後に立ち、彼女を囲むように三人の子供が本を読んでいた。
私は、彼女──ミヤコの元へまっすぐに進み、膝をついて首を垂れた。
「ちょっと、あなた……」
「五分で済みます。決して害意はありません」
険しい顔になった看護師にそう告げると、私は杖を置き、子供たちに「ちょっと預かってくれるかな?」とバラの花束を渡した。
「うわー」
「すごーい」
バラの花束に歓声をあげる子供たち。
それを聞きながら、私はガラスドームにかけていた布をとった。
キラキラと、ラピスラズリのように輝く石。
指の先ほどもなかった小さな石は、十五年の時を経て、拳ほどの大きさになっていた。
「マイ・プリンセス。魔法使いが、約束を果たしにまいりましたよ」
ガラスドームの蓋を開け、青く光る石を恭しく掲げたのち、彼女の膝にそっと置いた。
何が起こるのかと、看護師と子供達が固唾を呑んでいる。
私もまた、祈るような気持ちでミヤコを見つめる。
世界をめぐり、集めることはできた。
だが、受け取るかどうかを決めるのは、ミヤコ自身。
彼女が拒絶すれば──もうこちらに帰ってこないと決めているのなら。
彼女の魂は、また砕け散り、世界へ飛び散るだろう。
信じているよ、ミヤコ。
永遠とも思える時間──時計の秒針が、ぐるりと一回りして。
ぴくり、とミヤコの手が動いた。
「えっ?」
看護師が声を上げ、子供たちが騒ぎ出した。
ミヤコの膝に乗せた青い石──ミヤコの魂が、ゆっくりと彼女の中へ帰って行く。
「え、なに、なに?」
「魔法使い? おじさん魔法使い?」
私は人差し指を口の前に立て、しーっ、と子供たちにウィンクした。
慌てて手を口に当て、静かにする子供たち。
そして──
「……ありがとう」
かすかに、しわがれた声が、ミヤコの口から発せられた。
ミヤコの瞳に光が戻っていく。絶望も、疑問も、不安もない、澄んだ瞳が私を見つめる。
「きて、くれたんだね……魔法使いさん……」
看護師が大慌てで医師を呼びに行った。子供たちが「ミヤコおねーちゃんが起きた!」と騒ぎ出し、彼女を知る他の患者も集まってきた。
予想外の人の輪ができる。さてこれは吉と出るか凶と出るか。
「あー、子供たち。花束を返してくれるかね?」
私は、こほん、と咳払いをし、子供たちからバラの花束を受け取った。
「そして……あー、本題はこっちです」
声が上ずる。深呼吸して気持ちを落ち着け、私はバラの花束をミヤコに差し出した。
「どうか私と、結婚していただけないでしょうか?」
ミヤコの顔がみるみる赤くなっていく。
子供たちが悲鳴のような声を上げ、集まった患者たちが驚いた声を上げる。
「愛しています、ミヤコ。私を、あなたの王子様にしてもらえませんか?」
おろおろするミヤコに追い打ちをかけるように、私は再度愛を告げた。
たくさんの人に見守られ、恥ずかしそうにうつむいたミヤコは。
もう、ばか。
と口を動かしながら、受け取ったバラの花束を、嬉しそうに抱きしめてくれた。
──こうして魔法使いは王子様となってお姫様を救い出し。
元気になったお姫様と結婚し、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。
めでたし、めでたし。