いつか来る終わりのときに……一緒に死にませんか?
「君はきっと傾世の女だね」
「……?」
私の膝の上に頭をのせた彼は突然そう言った。
指先で私の髪を触りながら、何でもないことのように。
「……はあ、そうですか。
私はそもそも傾世の女どころか女かどうかすら怪しいのですが」
だから、私も何でもないことのように返す。
何度か言ったことのある言葉。私がどういう生き物かという再確認。
かつて男として生まれ、今は女の体を持つ私は、きっと男でも女でもない――そう自分のことを思っている。
「……ああ、そうか、なら傾世の人だ」
「……はあ」
気のない返事を返しながら、彼の顔をのぞき込む。
随分とおかしなことを言っているのに、彼の様子は変わらない。
いつもと同じだ、嘘みたいに整った顔立ちは柔和な笑顔を浮かんでいる。
「……よくわかりません」
「だろうね、君は。
だからこんなことが出来るんだ」
ポンポン、と、膝が優しく叩かれる。
頬が私の太ももに甘えるように擦りつけられた。
「私みたいな化け物に、こんなことをして。
これがどういうことかわかっているのかい?」
「ただ膝枕をしているだけですが」
彼が化け物と己のことを自嘲することは知っている。
その理由も。
「それが問題なんだとも。
いいかい?こんなことを私にしたものは、これまで一人たりともいないんだ」
彼は永遠とも呼べるくらい生きてきた吸血鬼で……この世界では並び立つものがいないほどの力を持っているらしい。
私はその力を見たことはないけれど、その噂は散々聞かされたし、力をふるった跡を見たことがあるから、きっと事実なんだろう。
「……」
たった一人だけで戦争を終わらせてしまうほどの力。
それは人の欲望を呼び、そしてだからこそ、彼は人里離れた城で一人で暮らしてきたのだという。
……ずっと、永い時を。
「……そうらしいですね」
「ああ、そうだとも。だから、君は傾世の人だ」
「……はあ」
……彼は何度も頷き、納得しているようだが、よくわからない。
彼には色々説明が足りていないところがある。
「……」
以前から、彼にはそういうところがあった。
きっと一人でいたからだ。彼には自分の中だけで考えをまとめる必要があったんだろう。
人に説明する必要なんてなかった。
ずっと一人だったからだ。
「……よくわからないので、説明してもらっていいですか?」
だから、正直に聞く。
分からないことを考えるほど無駄なものはない。知っている人から聞くのが一番楽だ。
「ふふふ……私はね君のそういうところに惹かれたんだ」
「……はあ」
首を傾げる。
突然話が変わってしまった。
「分からないところを分からないと言ってくれた。文句を言いながらも傍にいてくれた。君は男でもあって、女でもある。だからこそ、丁度いい具合で私の隣にいてくれたんだろうね」
「……?」
彼の顔を見る。
優しい顔で私を見ていた。大切なものを愛でるように、伸ばされた手が私の髪を撫でた。
「男なら、私の力に嫉妬する。女なら、私に魅了される。そしていつかは、私を恐れる。
でも君はそのどれでもなくて、男として私の友になってくれ、女として私の恋人になってくれた。そして私を恐れずここにいる」
だから、私は君に魅了されたのだ――そう彼は言った。
そうはいっても私には何もわからない。凡人だからだ。
「私が狂いかけてたのは知ってるだろう?
君は生贄としてここに来たのだから」
頷く。確かにその通りだった。
私は、男としての記憶をもって転生した私は、この世界にはなじめなかった。だから、神にも等しい彼が狂いかけた時、真っ先に生贄として選ばれ、この城に運ばれた。
しかしそこにいた彼は今と同じ笑顔で私を迎え、そして今に至る。
「君のおかげなんだ。君がいないと、私は生きていけない。
君を愛しているからだ。この愛のおかげで、狂ってしまった私は正気を取り戻した」
「……」
頬を彼の手が撫でる。
その手つきは、狂ってしまった人のものとは思えない。
「愛を知って、私は自我を取り戻した。
愛を知って、だから私は、人を傷つけないでいられる」
……でも、君を失ってしまったら?
彼はそう言った。
「君がいる間は楽しい。幸せだ。
でも、その君がいなくなったら、私はどうすればいいんだろう?どうやって生きていけばいいんだろう?」
「……」
「だって、只人の君は、百年も生きられない。
その先は暗闇に包まれている。私には何も残らない。君との幸福を知りながら、それでも生きていかなければならない。
……だからその先に待つのは破滅だ。
正気を失ってしまった私は世界を滅ぼすだろう」
そこまで言われて、やっとなんとなく彼が言いたいことを悟る。
私は只人で、察しの悪い人間だ。
「だから、君は傾世の人なんだ。
狂いかけていた私を、完全に狂わせる最後の一欠片」
君によって世界は滅ぼされるのだ――。
彼は念を押すようにそう言い、私は理解した。
「……」
考える、確かにその通りなのかもしれない、と。
彼は最初、何も知らなかった。手のぬくもりも、価値観を共有する楽しさも。
「……ああ」
思い、そして理解する。
貧しい人が貧しさに耐えられるのは、豊かさを知らないからだ。
知らないことは分からない、彼らは豊かという言葉の意味も理解できないまま死んでいく。
……だから、耐えられる。
「私はもう、孤独に耐えられない。
君のせいだ」
もっとも不幸なのは、満たされる幸福を知りながら、それが叶わないことだ。清らかな水を知るものは、泥水を啜ることに耐えられない。
「……」
だから、しばらく考えて、口を動かした。
「あなたは、世界を滅ぼしたくないんですか?」
「……当然だろう?」
それならば、と口を開く。
あなたが狂いたくないというのなら、私との別れに耐えられないというのなら、その答えを一つだけ私は用意できた。
「だったら、私と一緒に死にましょう」
「……え?」
それは、以前から考えないようにしていたことで、そうしてもなお脳の片隅に居座り続けている悪魔の誘いだった。
「今じゃありませんよ?でも、いつか私が死んでしまうとき。寿命が尽きてしまうときに」
「……待て、君は何を」
彼が戸惑っている。
そうだろうな、と思う。彼はそんなこと考えたことも無かっただろう。
彼は最強で、無敵な生き物で……自分が死ぬなんて最初から想定していない。
だから今、見たことのない顔で混乱している。
「一緒に死ねば、世界も壊れませんし、苦しむこともありません。
だってそこで終わりなんだから」
「……それは」
ゆっくりと彼の頭を撫でながら、諭すように囁く。
それはもしかしたら、悪魔のささやきだったかもしれないし、少なくとも正しくはなかっただろう。
でも、それを知りながらもこうして唇を動かすのは……間違っていても、私がそうしたくて堪らなかったからだった。
「……愛しています」
「……」
彼が先ほど私に向けてくれた言葉を、私も繰り返す。
「愛しているから、あなたを一人にしたくない」
その言葉に嘘は無くて、私は彼のことを心から愛している。
男としても、女としても。人として、彼を愛している。
だから……考えないようにしていたけれど、本当はずっと彼を独占したかった。
「私が死んだ後の永い時を、苦しみながら生きて欲しくない」
半分ほんとで、半分は嘘。
苦しんでほしくないけれど、でも立ち直ってほしくもない。
凡人の私は、愛する人が別の人を愛すことに耐えられなくて……。
……全部、全部私のものにしたかった。
「……だから、いつか来る終わりのときに……一緒に死にませんか?」
「……」
間違っていることは分かっている。
だからこれまでは押し殺していた。
……でも、もしそれを彼も望んでくれるのなら。
「……それは」
「……はい」
そんな、私の言葉に彼は。
「……それも、悪くないかもしれないね」
「――」
彼は、そう返した。
胸の中から大きな、大きな喜びが湧き上がる。そしてほんの少しの後悔と罪悪感も。
「愛しているよ。
……だから、私と共に死んでくれるかい?」
「……はい」
彼の手が私の頬に添えられる。
私は湧き上がる衝動のままに、頬を擦り付けた。
「……愛しています」
溢れる涙を抑えるように空を見る。
窓越しに見える闇色の空の中心には、何よりも綺麗な満月が浮かんでいた。