夢中に生きて
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
つぶらやくんのアサガオ、もう芽が出た?
そっかあ、まだか。こういう育てる系のものって、みんなより遅れると嫌な感じだよね。いかにも、自分のほうが下ですって、アピールしているようなものでさ。
自分が上ならバンザイで、余裕しゃくしゃく。舌ならプンプンで、上にいる奴らをぼこしたくなる。
ほんとう、どうしてこんな気持ちになるんだろう。不思議だなあ。
て、つぶらやくん、さすがにそれは水をあげすぎでしょ!
あーあ、水たまりみたいになっちゃった……。いくら遅れを取り戻そうったって「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」だよ。
お腹いっぱいな人に、それ以上ご飯を食べさせたらヤバくなるっしょ? それと同じことが植物にもいえるんだってさ。かえって根っこを腐らせちゃうとか。しかもこんな真っ昼間にいきなり水をあげると、アサガオがびっくりしちゃって、ますます悪いんだって。
あ、そういえば思い出しちゃったよ。お父さんから聞いた、変な水やりをする人の話。もしやとは思うけど、つぶらやくんもそのお仲間じゃないよね。
――むしろ、その話を聞かせてほしい?
ふー、どこまで考えていっているのやら。まあ、君は前からこの手のこと、好きだったもんね。話をしようか。
お父さんが小学生のときにも、やっぱりアサガオを育てたみたい。
一日ごとに、自分たちの鉢植えを見比べてさ。その成長ぐあいで競うとか、いまのぼくたちと変わらないことをしていた。
水のやりすぎはいけない、というのをお父さんたちは先生から教わった。僕がさっき話したことも、お父さんが先生から聞いたことそっくりそのままだ。実際に他のクラスでは、芽を出さないままに、腐ってしまった種もあったらしい。
そんな中、お父さんのクラスの女子のひとりは、鉢植えへ大量に水を注ぎ続けていた。
なかなかきれいな子らしくってさ。その子が、他の女子と同じようなミスをしても、明らかにその子のほうが、追及がぬるい。友達にしても、先生にしても。
まさに「ただし美人に限る」を、地で行っていたとお父さんは振り返っていたよ。そのぶん、早くも女子からねたまれていた節もあったらしいけど。
その子は朝、昼、夕方と、土の乾ききらないうちから、とっぷりと水をあげ続けていた。
鉢の下から水があふれ出るくらいにやる。それだけならアサガオの水やりとしては正しいけど、それは土が乾いていたらの話。彼女が日々やっていることは、水やりじゃなく、水責めだった。
親切ごかして注意する人もいたけど、彼女は知らんぷり。ねたむ側の女子からすれば、「とっとと失敗して、恥かけ」と、影でひそひそしながら、ほくそ笑む人もいたらしいけどね。
けれど、その子のアサガオは芽を出してしまう。それどころか、先に成長していた子たちのアサガオよりも背丈が高くなった。クラス一番の育ち方に、お父さんの周りは複雑な感情を抱くことになる。
お父さん自身も、先んじて調子よく育っていたはずなのに追い越された。真っ先に支柱のお世話になる彼女のアサガオに、なにか秘訣でもあるのかと、彼女に尋ねてみたんだ。
彼女は少し「きょとん」とした顔で、お父さんを見てくる。恋愛なぞ興味がまったくないはずのお父さんなのに、間近で彼女の顔を見ていると、無性に息苦しくなってきた。
でも嫌悪感は湧いてこない。むしろ心地よささえ覚えて、ややもするとうっとりしてくるほど。彼女をつい許してしまうみんなの気持ち、わからなくもなかった。
彼女はいまから「実演」してみせてくれるという。
水やりをする彼女の一部始終を、見届けた者はまだいなかった。じょうろの中にたっぷり水を入れた彼女は、自分の鉢の前に立つ。
土は一面、こげ茶色。いまにも水がしみ出してきそうなくらい湿っているのに、そこへ追い討ちをかけようというんだ。彼女はじわりとじょうろを傾ける。じわじわ注がれる水が、あっという間に水たまりを作り出した。
次の瞬間、お父さんは見る目を疑った。
右手でじょうろを持つ彼女だけど、空いた左手が彼女の右肩をぐっとつかんだ。ワンピースでもろ出しになっている彼女の肌をつまんだかと思うと、さっと離れてじょうろの水で手を洗ったんだ。
そのとき、水に乗って土へ注がれたものがある。彼女の身体の垢だ。
細く小さいそのかけらは、水たまりに注がれるとあっという間に見えなくなってしまう。同じことを4回、彼女はお父さんの目の前で繰り返した。
鉢の底から、水が漏れ出して長い。半径一メートル強という大きな水たまりを作り、鉢のふちからも盛大に水をあふれさせながら、彼女の垢は少しも流れ出ない。水の浮く力に逆らってどんどん中へと沈んでいく。
更に信じがたいことに、早くも水のかさが減り始めた。
土が水をがぶ飲みしていると、お父さんは感じた。溜めに溜めた洗面所の水を、一気に吸い込む排水口のように音を立て、渦を巻きながら取り入れる土たち。
すべてを吸い切り、てかてかと光を放つ姿を見せても、そこにも彼女の出した垢はない。
水と一緒に、土へ潜り込んでしまった。そうとしか、お父さんには考えられなかった。
「真似しちゃだめだよ」
空っぽになったじょうごを揺らしながら、彼女は小さくウインクしてみせる。
彼女のアサガオは変わらず成長を続け、ついに彼女自身の背丈を追い越したところで、ぴたりと生長を止めた。
ようやく限界を見せたと、どこか安心を覚える言葉を漏らすみんなだったけど、お父さんは見ている。
いまの背丈に育ったあと、彼女はあの、自分の垢を使う妙な水やりを、すっかり控えてしまったからだ。もし続けていたならば、さらにアサガオは育っていたに違いない。お父さんには確信があった。
やがて他のみんなのアサガオも軒並み育ち、夏を越える。涼しさを増すにつれ、やがてアサガオは力尽き、茶色く枯れ落ちていく。お父さんのアサガオも善戦したけれど、11月半ばでとうとう脱落を迎えてしまった。
でも、彼女のアサガオは生きている。
夏のころと変わらない、緑のつる。青やむらさきにそまった花。そのどれもが色を失うことなく、たたずみ続けていた。
お父さんは見ている。10月のあたりからまた、彼女が例の垢入り水やりを再開したことを。きっとそれが、アサガオに生き生きとした力を与え続けているんだ。
いよいよ彼女の不思議な力が、気になってきたお父さん。12月の終業式まで生き残り、件のアサガオを持ち帰ることに。
事情を尋ねるべく、彼女の荷物持ちを買って出たお父さんは、その荷物半分以上を受け持つ。彼女自身、アサガオの鉢を自分で持ちたいと話して、譲らなかったからだ。
両手が塞がる彼女を先導しつつ、二人きりになったところで、お父さんはアサガオの長寿の秘密。ひいては彼女の垢の秘密について尋ねてみたらしい。
彼女は首をかしげ戸惑った様子。いかにも小動物的な動きは、やはり胸がドキドキしてしまったけど、その後の言葉にお父さんは固まる。
「――サキュバスって知ってる? 人にエッチなことをして、力を得るっていう存在。私ね、それなんだ」
目が点になるお父さんに、彼女はぽつぽつと話し出した。
サキュバスは人から精力を奪い、生きていくと伝わっている。けれど彼女は、いまのところ少食らしく、人のものを奪うのはあまりに「おごちそう」なのだとか。
だがらアサガオくらいが手軽でいい。サキュバスの出すものは、あらゆる生き物を元気づける。ますますおいしく食べるための、本能なのだとか。
お父さんは疑問だ。
自分の垢を水に含ませるのに、意味があるのは分かった。でもアサガオ相手にエッチなことなんかしてないじゃないか。それじゃ栄養がとれない。
そう告げると、彼女はゆっくり首を振った。
「サキュバスにとって、エッチなことは必ずしもすべてじゃないの。
大事なのは時間。相手が自分に夢中になって、動き続けようとする。そうして力を振り絞って、限りある時間を私たちに割いてくれる。その時間こそが栄養なのよ。
エッチが関わるのは、相手が時間を作ってくれる指折りの要素だから……っていうのは、お母さんの話。
まだよくわからないけどさ。人間にとって食べること、寝ることにならんで、エッチなことって大事なんでしょ。大人でも夢中になって、簡単に離れられなくなるくらい」
ここまででいいよと、彼女は大きな一軒家で足を止めた。
周りを囲うブロック塀には、青々としたつるが巻いている。中には奥にある二階建ての家よりも、背が高く育ったアサガオの姿もあったらしいんだ。
サキュバスとしての栄養。彼女たちはアサガオを夢中にさせ続けることで、得ているんだろうかね。