プロローグ
未成年がアルコールを飲んではいけない。
そんなことは百も承知だった。
しかしこの男・・・(仮にK→ケイと呼ぼう)
ケイの奴は、どうしても飲まずにはいられなかった。
べつに女子にフラレたとか、テストで赤点を取ったとか、
そういう悲しい気持ちを紛らわしたい為ではない。
ただ、小説「長いお別れ」の名シーンに登場するカクテルを、
どんなものか試したいだけのことだった。
たまたま僕の家にカクテルのシェーカーがある(亡くなった祖父がバーテンだーだった)ことを知ったケイは、「明日学校にそれを持ってこい」と、キラキラした目で僕に言ってきた。
そして今日、こいつはどうやって手に入れてきたのか、コンビニによく置いてある安物のジンを、ふとどきにも学校に持ってきた。
「ライムジュースも買ってある、こいつをシェーカーで混ぜればできるぜ」
そう言いながら、ケイは鞄からこっそりと僕に“それら”を見せた。
もちろん学校で飲む訳にはいかない。
僕らは帰りにコンビニで少容量のカチ割氷を買い、人通りの少い河川敷の高架下で、そのカクテルを作ることにした。
ケイは得意気に「ジンと、ローズのライム・ジュースを半分ずつ、他には何も入れないんだぜ」と言う。
知った風に言っているが、それがお前にとって人生初のカクテルだろうが。と僕は思った。
残念なことに計量カップを忘れてきてしまったが、ケイは「問題なかろう」と、目分量でジンとライムジュースをシェーカーに注ぐ。
因みにローズのライムジュースというのは、ローズ社というメーカーの出しているライムジュースのことだ。
しかし、ケイの持ってきたのは日本のメーカーの、それも焼酎をソーダと一緒に割るのに使うライムジュースだった。
これで「長いお別れ」のカクテルと同じのが出来るかは怪しいが、とりあえずケイは、手慣れた(ように気取った)手つきでシェーカーを振る。
高架下にチャカチャカと氷のぶつかる音がやかましく響いた。
僕は、この音を聴いて大人がやって来ないか気になった。
ケイは20回ほどシェーカーを振ったあと、これまた得意気にその蓋を外す。
そして出来上がったカクテル?を、ケイは精一杯優雅な手つきで注ぐのだが、注ぐ先は100均の透明なプラスチックのコップだから雰囲気もクソもない。
「さあ、これがマーロウとテリーの愛した酒だぜ」
と言って、雰囲気のないカクテル(もどき)の入ったコップを高々と掲げる。
ケイはそれを一口がぶりと飲んで、
大いにむせた。
ひどく咳き込みながらもケイは、
いけるもんだな・・・
と、顔をくしゃくしゃにしながらもう一口飲む。
そして酷く顔をゆがませる。
さらに一口含み、
溜めて、
ベッっと吐いた。
これは飲めないと悟って、強がりを諦めたようだ。
ケイは、うーぅと力なく唸り、コン、とコップを置く。
「やっぱ、無理だ。世界が、回る。ぐわんぐわんする。」
そう言いながらケイは、顔を赤くしてコンクリートの上に寝転ぶ。
繰り返すけど、彼はただ酒を飲みたかったのではない。
このカクテルが飲みたかったのだ。
なぜならケイという奴は、ハードボイルド小説の王道、レイモンド・チャンドラーの「私立探偵フィリップ・マーロウ」シリーズにバカみたいに影響を受けてしまっているからだ。
その小説のひとつ「長いお別れ」の中で、
主人公フィリップ・マーロウと、その親友テリー・レノックスが一緒に酒を飲む有名なシーンがある。そこに、このカクテルが登場するのだ。“それ”はこの物語に華を添え、ハードボイルドな世界観を匂わせる重要なアイテムでもあった。
ケイはとにかくそのカクテルに憧れていたのだ。
実を言えば僕もそのシーンは好きだし、ケイと同じように、そのカクテルにも憧れを持っていた。しかし、高校生のうちから飲もうなどとは考えもしない。
ただ、このバカは、真面目な学生である僕らとは違い、
また、社会的なルールを守らぬことに悦を得るヤカラとも違う。
とにかく小説のマネをしないと気が済まない、それだけだった。
もし仮に、マーロウがここでソフトクリームを舐めたとすれば、ケイも毎日のようにソフトクリームを食べて、若くして糖尿病になっていたかもしれない。
とは言え、彼が何に傾倒しようが僕は構わない。
しかしケイはたった一人で、学校にまったく需要のない「探偵部」なる部活を創設し、僕を無理やり引っ張り込むといった、たとえ無茶であろうとその憧れを「実行」に移す無駄な行動力があるからタチが悪いのだ。
今回のカクテルの件もまさにそうだ。
ふざけやがって。
ただ、僕はこいつを・・・
「大丈夫かケイ。水買ってくるから待ってな。」
どういうわけか放っておけない。
というか、
妙に、引き付けられるものを感じていたりした。
それと、あとになって思ったことだが、この時ケイが急性アルコール中毒にならなくて本当によかったと思う。
水を持って帰ってきたら、ケイは死んでました。なんて可能性も十分にあったのだから恐ろしい。
あとになってもそんな心配は一切しなかろうケイのアホは、惜しそうにプラコップを持ち上げて、それをぼんやり見つめながら「すまん~」と言った。
そもそも“それ”は、アルコール度数が30度ほどある、なかなかキツイものなのだ。どだい、僕ら16~17歳のガキンチョの飲めるものじゃない。
アホ面のケイが、見つめているそのカクテル(もどきではあるが)の名は----
「“ギムレット”を飲むにはまだ早すぎるね。ケイ。」
僕は急いで水を買いに走った。