第85話- 蠢動。-Virus-
黒々とした世界の中、CH-47チヌークを改造したヘリは飛んでいた。
時折、ちらちらと煌めくものがコックピット越しに見えるのは、夜の間もうねり続ける海原が機体のランプを反射するからだろう。
神戸万可を出てしばらく、襲撃されるリスクを下げるためのルートを選択した隠密輸送班は、丑三つ時という時間帯に海上飛行に差し掛かっていた。
この作戦に参加しているのはヘリ三機であり、全て同じ機種だ。通称『ウォッカ・ウォッカ』と呼ばれチヌークは大型の輸送ヘリで、長方形の胴の前後にローターが付いた見た目をしている。
映画で回転翼が2つある長細いヘリから隊員がロープを伝って降下するシーンがよくあるが、その時使われているヘリを思い浮かべると分かりやすいかもしれない。
今回用意されたものは、万可が多少いじった機体とはいえ、性能はほとんど元のものと変わらない。
万可には学園都市使用の『マンタ』という超大型輸送機が存在しているのだが、隠密には向かない上、今運んでいるものがごく小さなものである事もあって、チヌークが使用される事となった。
輸送物が何か知らされている作業員にしてみれば、この装備では心許ないし、戦車をそのまま載せられるマンタの方が安心できるというものだが、世の中ままならないものである。
まぁ、上の判断が間違っているわけではない。
三機の中で、積み荷ありのヘリを運転する事となった男は自分にそう言い聞かせた。
実際、運んでいるモノの性質上、"もしも"の事があった場合、より多くの乗員を要するマンタでは被害を拡大させるだけだ。それよりは見つからないようにこっそり輸送する方が遙かに低リスクというものだろう。
だいたい、アレは手に入れたところで特殊な連中以外にとっては使い道がない。襲撃される可能性自体、決して高いものではないのだ。
むしろ、アレを欲している連中が、いったいどのような用途に使おうというのかが気になるくらいだが、下っ端の彼が知っても栓無い事に違いない。
いや、普段知らされていない荷物を運ぶ事が多い彼らのような人間にとって、今回の荷物について教えられてるだけでも知りすぎているぐらいだ。
上にとっても、下にとっても、この手のものは運び屋が『知っている』と不都合な事の方が多い。
だが今回ばかりは彼らにとっても他人事ではない故に知らされていた。
――積み荷の中身は『H.O.Xウイルス』である、と。
四年前、あの現場に関わっていた人間が、彼らの部隊にも多数所属している。
荷物の情報を聞いて、彼らが身を引き締めたのは言うまでもない。
上の連中が情報開示したのは志気を上げるという意図もあってだろう。
僅か5cmのアンプルが彼らの気を重くしていた。
目的地は沖縄、琉球万可だが、そこで積み荷の半分を降ろした後、護衛として鳳凰――瑞桐小鳥を乗せて、次はアメリカはペンシルバニア州まで行かなければならない事も気鬱の原因だ。今回の任務は長丁場になる。
その間ずっと緊張を保っていられるかが彼には心配だった。
計器を確認した後、もう一度コックピットの外に視線を向ける。灯りの一つすら見えない暗黒の世界が見えた。
いや、距離感すら掴みづらい光景に対して、見えるというのもおかしな話なのかもしれない。風景を見ているというよりは、黒い画用紙を見つめているような感覚だ。
ヘリの爆音で実感はできないが、静かな海原がヘリの下には広がっているのだろう。
かすかにヘリのライトに照らされて海面が姿を現した。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・ん?」
その僅かな間に、目が妙な影を捉えた気がして、彼は瞳を瞬かせた。
(イルカか?)
その割には水面の下から映った影というよりは、水面に落とし込まれて影のように見えたのだが。
と、彼が念のために身を乗り出してその正体を確認しようとした時だ。
ゴンッという、鉄板を殴ったような音が上からした。
「――――っ、敵襲ぅ!」
その物音、現在の状況から、能力者が能力にものを言わせて襲撃してきたのだと直感した彼は、称賛に値する速さで機内無線で呼びかけたが、その時には既に遅かった。
荷物や別の隊員が乗っている後部で、鈍い音がして、それから倒れる物音、次の瞬間には仲間のうめき声が聞こえてくる。
海上という特殊な環境、直前まで気づかれずに接近、ヘリの上に着地したような音。それらから敵の一人が座標転移だと導き出せる。
だが、導き出せたところでどうすればよいというのか。
荷物は超能力兵が守っているはずだ。彼らで叶わぬようなら、ただの人間でパイロットの彼に対抗できるわけがない。
この機体を護衛している他の二機もどうなっているかなど分からないし、機内に侵入を許してしまった時点で対処のしようがなかった。
しかし、何故だ。何故、この機体が、アレを運んでいる事が分かったのか。
いや、そもそもアレを何に使うというのか?
だが、彼はそれ以上思考を巡らせる事ができなかった。
頭部に衝撃を受けた彼は意識を失い、パイロットを失ったヘリは海原へ。
そして、残り二機も同じく墜落の運命を辿った。
救難信号を受けた万可の人間が現場に到着した時、ヘリは無惨な姿となって海面を漂い、運の良い生存者の他に回収できたものはなく――、
当然、H.O.Xウイルスはなくなっていた。
♯
とある地方都市に、表向き『ロゴス』と名付けられた衛星による鉄槌が下ってから一ヶ月以上。
当事者達にとって、決して短くなかった三十幾日が過ぎ去った現在になっても、能力者と反能力者のデモ騒動は未だ静まる事なく続いていた。
神の火の存在によって反能力者の勢いが削がれた事。能力者が学園都市を警戒して、国政機関の乗っ取りを踏みとどまった事。その二つの要因によって、事態は現状維持という形でとりあえずのバランスを保っている。
だが、そのバランスが近い将来崩れる事は誰の目にも明らかであったし、両者のどちら側にも膠着状態をよしとしない連中は存在する。
実際、九つ子機関壊滅で万可統一機構が色々な処理に追われている最中にも、学園都市でのデモやマスコミの報道競争は激化していく一方だった。
さらにはロゴス破棄、あるいは技術提供の要請が各国からなされる事態にまで発展し、その各国による要請先が『学園都市行政機関』だった事がさらなる火種となっていた。
『学園都市』は日本の特別開発都市システムに則って運用された都市機関である。
本来ならロゴスの問題も『日本』に向けて行うべきなのだが、日本国内が能力者、反能力者と割れている中、超能力者を統括している『学園都市』に要請を行ったとなれば、それは各国が日本国の主体を能力者にあると捉えていると言っているようなものだ。
これに日本政府側は反発、当然『学園都市』に自分達が仲介する形でロゴスを引き渡すように要請したが、これを学園都市側は拒否した。
いっそ、ロゴスを捨ててくれればやりやすいのにというのが釧の思いだったが、世の中そううまくはいかないようだ。
一連の出来事により、能力者・非能力者の亀裂はもはや修復不可能であろうところまできていた。
この世情に勢いづいた一部の反応力者主義の議員達は耳当たりのよい政策を謳い、ここぞとばかりに支持者を集めているが、彼らの存在が能力者・非能力者問わず刺激してしまっている事は言うまでもない。
反能力者デモに、ロゴスへの各国の反応、能力者による至極期間への破壊活動・・・・・・と世間は目まぐるしい変化の中にあった。
だが、その中にいて釧は、ここ一ヶ月間、比較的穏やかな日々を過ごしていた。
タレント能力者業が成り立たなくなってきて久しく、万可に呼び出される事もない。
というより、呼び出されても適当に理由を付けて渋りつつ、万可が弱るのを待つ心づもりなのだった。
世の中の能力者・反能力者のにらみ合いにしても、状況が動いたところで結果が見えている彼にしてみれば、小競り合いを続けている今のところは興味のわく対象ではなく、うまく万可に火の粉がとんでくれないものかなという淡い期待を抱く程度のものでしかない。
いわば今は待つ事が彼にとっての仕事なのだ。
これは別に学園都市の行く末についてだけではない。
結局のところ、朽網釧の役割は『待つ事』なのだと、彼は自身の事をそう捉えている。
目下の目標として、万可やその他組織の壊滅を挙げてはいるが、それは『葉月が自分の元へと帰ってこれるように』という動機からくるもので、突き詰めれば待つという事に他ならない。
もちろん、能動的に葉月を探していないわけではないが、あの葉月が本気で隠れている間は彼であっても探し出せるとは思えないからだ。
・・・・・・・・・・・・神戸を去った後、葉月は姿を潜めた。
考えなしに葉月が行動するとは思えないので、今まで現れないのは何かを行おうとしているためだと推測はできる。
その内容までは彼には思い及ばないが、今はまだ『その時』ではないという事なのだろう。
だから、そういう意味でも彼は待っている。
葉月が帰ってこれる場所を作るのと同時に、葉月が動き出すその時を待っているのだ。
ところが、そんな大義名分のもと自宅のベランダの日陰で涼みながら、積んでいたゲームを消化して過ごしていた釧はその日、いきなり押し掛けてきた万可の連中に連れられて、あれよあれよという内にプライベートジェットに乗り込む事になっていた。
状況がいまいち掴めていない彼を機内で出迎えたのはマッドサイエンティストの加藤倉密。彼を見て釧が苦虫を潰したような顔をしたのは想像に難くない事だが、それはおいておく。
釧にとって幸運だったのは、機内に居合わせたのが目の前でやたらハイテンションにハシャぐ老人だけではなく、瑞桐小鳥も居た事だ。
琉球万可と深く関わりを持つ彼女とは、その特殊な『眼』をコピーしようした時に知り合っている。能力と性癖を除けば高位能力者としてはまともな性格である彼女の存在は心強い。
いつもの赤コートに軍帽を加えた奇抜ファッションに身を包んだ小鳥は、今まで寝ていたのか重そうに瞼を瞬かせている。
今の今まで、沖縄から神戸までの空旅だったのかもしれない。
「あー、釧ちゃん、おはよう」
「・・・・・・こんばんは、瑞桐さん。
久しぶりですね・・・・・・一応言っときますけど、もう陽は沈んでますよ?」
「え、そうなの?機内じゃわっかんなかったなぁ。
いきなり呼び出されて数時間一人でフライトだもの。暇で暇で・・・・・・」
「機内サービスで新作映画ぐらい見れたでしょう?」
「最近はリメイクものばっかりで面白くないのよ」
「ああ、なるほど」
と釧は相槌を打った。
彼自身はそこまで気にしていないが、確かにこの頃はリメイクものが多い。
「まぁそれはいいとして、いきなりって事は瑞桐さんも何で集められたか分からない?」
「んー、いや、私は微妙に関係者かしら?
といっても、現状をちゃんと把握しているわけじゃないから――話は加藤じぃに説明してもらいましょ?」
そう言って彼女は妙にうきうきとして急須で三人分のお茶を淹れている男を見やった。
ジェット機は既に離陸し、釧の知らない目的地に向かっている。極上の席に身を置いているとはいえ、多少は揺れもするわけで、老人の持つ急須はびちゃびちゃとお茶をテーブルにまき散らしていた。
もっと言えば、せっかく万可が血税からせしめて造った無駄遣いの権化のような機体なのだから、機内サービスを使った方がうまいお茶が飲めるのは自明である。
が、本人が楽しそうにやているのを見て、若い能力者達は子供が率先して行っている手伝いを見守るような面持ちでそれを見ていた。
色々と滴った湯呑みが配られた後、ようやく今回の強引な召集について事情を知る人物は話し始めた。
「四年前、千代神葉月が散布したウイルスについては知っとるな?」
「葉月が神戸から出る際に使ったウイルスか?リスクグループのGroup4に分類されるとかいう・・・・・・」
リスクグループはウイルス等の危険度を表す指標だ。4が最高なので、葉月の作ったウイルスは冗談抜きに人類の大敵であるという事になる。
「そのウイルスサンプルを神戸は『H.O.Xウイルス』と名付けて保管していた」
「H.O.X?」
「『HADUKI ORIGAMI Xday』からきている。
それでだ。今まで厳重に保管していたのだがな。
先日、琉球万可にその一部を輸送する事になったのだが――」
そこまで聞いて、誰もがまず思い浮かべる想像に釧は額を押さえた。
「まさか・・・・・・」
「空輸中、組織化された能力者の一団が襲撃しウイルスを奪った」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・馬鹿じゃねぇの?」
釧の容赦ない罵倒に倉密は苦笑した。
「まぁそういうな。あれは盗んだところで手に余る代物である上、琉球に到着すれば護衛も付くはずだった。盗む輩がいた事自体が私には驚きだったぞ」
「その護衛というのが私だったのよ」
と小鳥が補足する。
彼女の言葉に釧は得心して肯いた。
「なるほど、鳳凰が守っているものを盗もうという能力者はそういないか。
けど、その前に盗まれたたんじゃ世話ないよな」
「一応極秘任務だったのだがな」
残念ながら、『極秘』と書いて『ただもれ』と読むのが最近のトレンドのようだ。
万可の情報管理能力が不安になる話である。
「で、本命はどこだったんだ?」
「ん?」
「沖縄で護衛を付けるという事は、そこから別の場所に輸送するつもりだったんだろ?」
「ああ、琉球で一部降ろした後、アメリカに運ぶ予定だったらしい」
「アメリカ・・・・・・?」
「欲しがっている所があるのだ。お前さんは知っている事だからぶっちゃけてしまうが、例の『DNA』の替えと交換条件という話だったのだが、盗まれてそれどころではなくなった。
まぁ、その時は嫌がらせだと考えて、そこまで重要視していなかったのだが・・・・・・」
倉密は恐ろしい事をさらりと言ってのけ、それからお茶でびちょびちょのテーブルに一束の新聞を叩きつけるように乗せた。
当然濡れた新聞を摘んで、釧が一面の見出しを見ると、『ウイルステロ!能力者の卑劣な手段』と書かれていた。
内容を読まずとも、釧はこの新聞社の系列局が反能力敵である事をよく知っている。
「今日の夕刊の記事だ。内容はともかくバイオテロがあったのは間違いない。現場はこの系列のテレビ局、使われたウイルスはH.O.Xウイルスではなかったが、同じ能力者組織らしいとまでは突き止められた。
そこまで判って、H.O.Xウイルスが使用される可能性を考え、お前さんらが呼ばれたわけだ」
「盗まれた時点でアウトじゃないって突っ込みは駄目なのかしら?」
「小鳥嬢は生物兵器に必要な条件は何だと思うね?」
「・・・・・・・・・・・・毒性と感染力?」
「それもだが、何より重要なのは自分達へのリスクをコントロールできるかどうかだ。
ワクチンの有無、感染や潜伏がどのくらい続くのか、どのくらいで無力化できるのか。
自分達までウイルスに冒されては意味がないからな。
だが、H.O.Xウイルスにはワクチンがない。毒性、感染力も強すぎて自然界に放つにはリスクが高すぎる!」
「だから盗みはしても使わないだろうとたかを括っていたわけか?」
「能力者が住むこの国にバラマくまい?
ところが今回のテロだ。今はまだ既存のウイルスだが、連中が『とっておき』としてH.O.Xウイルス使う可能性はある。ウイルスの危険性をいまいち理解していない可能性もな」
「今回のお仕事はそのテロをどうにかする事?」
小鳥はいつの間にかやたらと大きなパフェを抱え込んでいた。
この機に乗って長いとはいえ、この状況でなかなかの順応ぶりだ。あまり食欲の沸く話題ではないはずなのだが。
「いや、どうにかするのはウイルスだな。先のテロで連中は爆発装置でウイルスをばらまくやり口である事が分かっている。お前さんらにはこれを解体してもらう」
「爆弾解体なんて経験ないぞ?」
「仮に爆発しても、その葉月製の身体ならウイルスは効かんだろうし、小鳥嬢はウイルス"だけ"を燃やす事ができるだろう?
はっきり言ってしまうと今回の件に自衛隊といった非能力者の組織を関わらせたくないのだな、万可は。
そういう理由で岱斉がお前さんらを処理員としてねじ込んだ」
「要するに針のむしろに座りに行けと?有り難くない話だな」
とはいえ岱斉、ひいては万可の考えも分かる。一触即発の状態の日本で能力関係のテロ行為、しかも相手が反能力者的なテレビ局。非能力者だけに対応させて禄な事になるとは思えない。
納得はしていないが理解はした釧は、やけ食いをするために高価な食事を大量に頼む事にした。
やってきたCAにあれこれ値段を聞くのが怖くなりそうな注文をした後、ふと、気になっていながらすっかり忘れていた疑問を思い出した。
「そういえば既存のウイルスって結局何なんだ?」
「んむ、天然痘だが?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そんなもん使われてる時点で大惨事じゃねぇーか!」
♯
東京、某空港。プライベートジェットの行き先はそこだった。
考えてみれば託された任務の内容から、まず行うべきは送られてきた犯行予告の確認と第一のテロの様子を聴取する事だ。
目的地が放送局本社、ひいては東京である事は予測できた。
慣れない汚れた空気に鼻を擦りながら、二人が本社ビルに到着したのは、テロ発生から一日後の暮れ。
その頃には世間ではバイオテロについての報道がなされ、瞬く間に大混乱を引き起こしていた。
当然本社ビルでは取材の人だかりができていたが、法の下定められた『特別捜査員』という身分を万可が用意していたため問題はなかった。
だが、強引に認めさせた事には相違ない。
相手が報道関係者という事もあって、今後の流れが釧には不安で仕方なかった。
彼らは応接室と銘打たれた部屋に通されて、そこで待つように言われた。
この手のやりとりでは『待たせる事』も手段の一つだ。
相手をじらして判断力を鈍らせる・・・・・・つもりかどうかは分からないが、単純に嫌がらせをされる可能性もあって、向こうの交渉相手がやってくるまで長くなる予感が釧にはした。
長丁場を覚悟した方がよさそうだ。
そう考えながら釧が用意された茶菓子をかじっていると、小鳥が「そういえば」と話しかけてきた。
「天然痘って、そんなに危険なの?」
「・・・・・本気で言ってます、それ?」
ロールケーキを口に運んでいた手を止めて問う釧。
そんな彼に臆面なく小鳥は頷く。
「私、微生物とかはあんまり詳しくないのよね」
「いや、専門知識というか一般知識の類だと・・・・・・。
いいですか?過去に猛威を振るい大量の犠牲者を出し続けた病『天然痘』、その原因となった天然痘ウイルスは1980年に根絶宣言がなされたウイルスなんです。つまり自然界には存在していない」
「へぇ、耐性菌がどうの、イタチごっこがどうのって時代に珍しい」
「ええ、珍しい例ですよ。それ故に流出した場合どんな影響を及ぼすか未知数なんです」
「けれど既知のウイルスでしょう?一度根絶できたという事はワクチンも存在しているはずよね?
それに今回のテロ、死傷者は居なかったらしいわよ?」
「まあ、確かにワクチンはありますよ。そのおかげで大事に至らなかったようですし。
けど、こういう免疫っていうのは数年から数十年でなくなるものなんです。根絶されて既に何年経ってると思います?
存在しないウイルスの予防接種が行われるわけもないでしょう?
要は今の世界、特殊な例を除いた全人類が天然痘に対して免疫を持っていない。
パンデミックが起きた場合、果たしてワクチンは足りるかどうか」
釧がそこまで説明すると、さすがに彼女は顔をひきつらせた。
「ぞっとしない話ね」
「全くもって、ね。そこに葉月のウイルスまで出てきたらもうお手上げです」
「ねぇ、実は今、日本って結構危ない?」
「天然痘、未知のウイルス、パニックを誘発させかねないマスコミのコンボでトリプル役満待ったなしです」
そう口にした釧の脳裏に先述した不安が再びよぎった。
この局に理性的な報道も、自制的な行動も期待はできない・・・・・・。
そして、その不安は的中する事になる。
応接室の扉が開き、そこから入ってきた責任者らしき男は、撮影スタッフを引き連れていた。
「すみませんねぇ、こっちも色々と対応に追われてまして・・・・・・」
とその男はヘコヘコと頭を下げてくる。
だが、その目には申し訳なさなど微塵も宿ってはなく、現状をいかに自分の利益になるように運ばせるかを考えているようだった。
「・・・・・・そちらの方々は?」
分かってはいるが、釧が一応形だけの質問をすると、彼は脂肪でできた頬皺を深くした。
「撮影スタッフです。いやぁ、今回の件、我々も当事者であるわけですし、大衆には知る権利というものがあり、我々はそれを正しく履行する権利がある。
捜査の取材をさせてもらいたいのですが?」
撮られてまずい事なんてありませんよね?
言外にそう語ってニタニタと笑う男。
実は、パニックを起こさないためだとか尤もらしい理由を付けて断る事はできるのだが、今回の釧には探られて痛い腹なんて本当に存在しない。
嫌そうな顔をする小鳥をたしなめて、彼は「いいですよ」と淡泊な態度で取材を了承した。
すると今度面白くないのは男の方だ。苛立たせる笑みが少し歪んで崩れた。
「それよりも今回の件について最初から話してもらいたいのですが」
「・・・・・・・・・・・・そうですねぇ。とはいえ、話としては単純な構造でして。
サブ――番組放送時にテロップ等を付ける副調整室ですな。そこでいきなり小規模の爆発がありまして、警察に届け出たらあれよあれよとウイルス、爆弾、バイオテロ・・・・・・と、その後になって能力者団体『メトイカ』からの犯行声明文が届いたんです」
「犯行声明文ですか?」
釧は怪訝な顔をした。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・?何か?」
「いえ、犯行予告が届いたと聞いていたので」
「ああ、次の犯行については予告が届いてます。声明文は一回目の分ですよぉ」
「声明文と予告が別に届いたんですか?」
「ええ、そうなりますねぇ」
そうですかと適当に相槌を打つ釧。
「見せてもらえますか?」
「どうぞぉ」
こういう流れになる事は分かっていた事だ。先に用意していたのだろう、彼がスタッフに目配せすると、チャック付きポリ袋に入れられたはがきサイズのカードがテーブルに置かれた。
カメラはそのカード、それからカードを手に取った釧へと被写体を変えていく。
そんな事を気にも留めずにカードを確認し始めたが、少し見たところでその眉が僅かに跳ね上がった。
カード自体は何の変哲もない白い厚紙だ。はがきの切手枠や郵便番号の記載枠はなく、本当に画用紙を切り出しただけのものだろう。
そこにゴシック文字で『メトイカは以下の日時に再びウイルス爆弾テロを行う――』といった内容が印刷されている。
犯行予告だ。そして、これ一枚しかない。
もしかしたら重なっているのかと思ったが、袋の中はこれだけだった。
「犯行声明文の方は?」
「ああ、まぁ、ありますがねぇ。それと内容はあまり変わりませんよぉ?」
「一応、確認させていただけます?」
「んー参ったなぁ」
男は大げさに頭を掻いた。
その『困ってます』という身振りが鼻についたようで、小鳥は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
とりあえず彼女が余計な事をしないように釧路はテーブル下で彼女の足を小突いておく。
「実はですねぇ、声明文の方は警察にも現物お渡ししていませんで」
「科捜研には残留思念読取がいます。提出を求められたでしょう?」
と釧路。
それに対して、彼は大仰に人差し指を立てた手を振りながら答えた。
「それですよ。科捜研には能力者がいる。だから我々も慎重にならざるを得ないわけでして。
ご存じとは思いますが、我々の放送局は能力者方の在り方について否定的な立場でして――要は能力者は信用できない」
「なるほど」
さすがに釧はこの手の嫌がらせに慣れている。
これまた適当に流しながら、今の会話は編集でカットされるんだろうなと無感動に考えていた。どうせテープは小鳥に燃やさせるつもりなので、本当にどうでもよい。
「まぁ何にせよ、見せてください」
タレント業で培った笑顔を張り付けて釧は言った。
「は?」
「声明文を見せてください。そちらがこちらをどう思っていようと、捜査に必要な事なので」
「いやーははは、困ったなぁ。あまり強権な態度を取られると・・・・・・」
ちらりと彼の目がカメラに向けられた。
「どうしても声明文を必要とする理由があるのかと勘ぐっちゃいますねぇ」
しかし、間髪入れずに釧は問い返した。
「どうしても見せたくない理由でもあるんですか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
無言のやり取りは数分間に渡って続き、折れたのは責任者の男の方だった。
♯
犯行声明文の実物を提出させ、小鳥と二人で手にとってそれを確認した後、とりあえず犯行予告のなされた翌日に備えるという事でお開きとなった。
それに際して、急な召集で泊まる場所も決めていなかった二人に、男は案内人を付けると言ってきたのだが、「安心してください。貴方も面識がある人物ですよぉ」という彼の言葉を真に受けるほど彼らもお人好しではない。
どうせ禄でもない事になるだろう。
とはいえ、変に相手を刺激するのも得策ではないと、局本社ビルのロビーでその人物を待つ事になったのだが、その段になってようやく口を開けるようになった小鳥は、今まで溜めてきた鬱憤を晴らし始めた。
「何なのかしらね、あの男は!」
「何ってまぁ・・・・・近年稀にみる禄でもない男ってところでしょう」
「あそこまであからさまに偏向取材していいものなの?」
「生放送じゃないんです。どうせ都合の悪い所はカットする気なんでしょうよ。
とりあえず犯行予告については公表を避けれただけでもまだマシですし、それにテープ、瑞桐さんなら遠隔で燃やせますよね?」
「まぁ、そうだけれど」
「この件が片づいたら焼き消しといてください」
自分と違って冷静だと思っていた釧からの過激な台詞に、小鳥は思わず彼を見た。
「いいのかしら?」
「どうせまともな使われ方しないでしょうし、それに犯行声明文の件、警察に提出を渋れるような相手です。
最悪な事に力だけはあるようなので」
「なーるほどね」
考えてみれば、大切な証拠品をテレビ局がまだ持ち続けているなどおかし話ではある。
どういう手段を使ったかは知らないが、一筋縄ではいかない相手のようだ。
小鳥は辟易して溜め息を吐いた。
厄介事は覚悟していたが、こういう対人的な場面での厄介はごめんだ。彼女は腹芸が得意ではない。
そういった事に慣れている釧がパートナーになった事は幸運だった。
彼の方は何か考え事をしているのか、スマホをいじっては首を傾げていたが、「あ、実草さん!」という声に顔を上げた。
そして、声のした方を向き、その主を視認したところで、あの男の前では崩さなかった表情をひどく歪めた。
自分達に向かって、綿貫美由紀が駆け寄ってくる。
その状況が指し示す最悪の結論に釧は頭痛がする思いだった。
「もしかして、案内人っていうのは・・・・・・」
「ええ、私です!」
あの男マジふざけんな。
神は死んだとばかりに額を手で押さえる釧。
彼は目の前のジャーナリストを見、となりの発火能力者を見、それから足下を見た。
自分の足はロシアで駄目にしてから意地で修繕したお気にのハイヒールを履いている。
ジンクス、というものを彼はそれなりに信じている。
――今回の件、禄な事になりそうにない。