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第84話- 羽化れ。-Rebirth-

ほら、行方知れずになった主人公が満を持して登場して、

「待たせたな!」とか言ったりするやつ。

アレです。

 その日、ロンドン郊外の三重録音九法研究所は珍しく騒々しい様相を呈していた。

 というのも、7月半ばにやってきた、これまた希有な客人が本日をもって施設を去る事になったためで、それによって九つ子機関と万可間で取り決められていた約束事によるとある制限がついに解禁となったからだ。

『その訪問客が帰るまで『腕』を調べてはならない』

 ・・・・・・織神の腕との交換条件として受け入れた転入生が去るまでの約一ヶ月間は、九つ子の構成員達にとって決して短い期間ではなかった。

 だが、形骸変容(メタモルフォーゼ)のサンプルを手に入れる事ができるまたとないチャンスを不意にする事は絶対に避けたい事態であったため、彼らは行儀よくその取り決めを守ってきたのだった。

 元々喉から手が出るほど欲していたものだったのだ。万可に太いパイプがある内海優曇華(うつひ)に以前から頼み込んで手に入れようとしていたのだが、肝心の本人が織神に興味を示さず、さらに人の指図をはねのけられる立場であった事から、今まで実現は叶っていなかった。

 そのサンプルが手に入るというのだから、魔術の研究に身を捧げる彼らがいかに狂乱したかは想像に難くないだろう。

 そして、首を長くして待っていた解禁の日がついに来たとなれば・・・・・・。

 彼らは内心で、優曇華がいつもの気まぐれを起こして『腕』を独占するのではないかと冷や冷やしていたが、彼らの心配に反して彼女は貴重なサンプルに一切食指が動かないようだった。

「自由にやれば?」

 彼女はそう言って、他のマスターとその弟子に『腕』を完全に譲り、最近は部屋に籠もる事が多くなっていた。

 それはつまり、邪魔者が居ないという事を意味している。

 彼らは意気揚々とサンプル分析の準備を始め、8人のマスター達はそれぞれの研究とサンプル運用についてルールを定め、資料を共有できそうな基礎分析については共同研究グループを立ち上げて行う事で合意した。

 まず行われたのは、サンプルを直接取り出さなくても行える魔術的な検査で、手際よく腕の魔術的な要素――レプリカとして神話性を備えたサンプルである事が確認できた。

 従来存在している神話上の化け物と純粋には同一ではないにせよ、限りなく近い神話生物は存在するし、『形骸変容(メタモルフォーゼ)』の細胞はそれそのものが魔術的価値があるモノである。さらに、その腕が切り離されたのが、織神葉月が『折り紙の8月』――つまり意識していないにしろ『結界』の原理を使っていた時の事であるため、その価値は跳ね上がっているのだ。

 次に、実際にサンプルを切り取っての分析に入る事になったのだが、ここで用いられたのは原子組成や分子構造を調べるといった化学的分析だった。サンプルの化学的構造を知る事は魔術においても重要で、神話上でしかお目にかかれないような『化け物』の物質的な組成について知見を得るというのは彼らにとって外せない作業の一つである。

 ただ、こういった検査では貴重なサンプルを消費する事になるため、その手順には熟考が必要となる。実際の作業の作業プランは先述した通りマスター達の話し合いで決められていたが、これが他の魔術師の抜け駆けを防止する意味合いもある事は誰もが承知していた。

 そういう事情もあって、持ち逃げされにくいという条件に加え、サンプルを直接扱うに適した機密性を確保できる場所が求められた結果、分析には使っていなかった地下の部屋が使う事となっていた。

 分析作業のために改装された部屋は元は物置の用途で作られた空間で、広さは20m×30mほど。石造りになっている壁をコンクリートで密封したとはいえ、十分な広さが確保できるだけの大きさがあったのだが、そこに各種分析機器を詰め込むと、人が動き回るには少々苦労するほどスペースに余裕がなくなってしまった。それというのも空調や走査型電子顕微鏡(SEM)や透過型電子顕微鏡(TEM)、大型の培養器(インキュベーター)、滅菌処理を行ったシャーレやピペット類、滅菌用オートクレーブ(高圧蒸気滅菌器)、サンプルを隔離しながら操作できるクラス3の安全キャビネット(グローブが備わったボックスの事)などを入れたせいだろう。

 また、一回り分厚くなった壁は二重扉の設置においても役割を負っていて、通常のロックだけでなく魔術的な封印が施せる仕様となっている。

 それらの、用心と存分に研究できるだけの機材を部屋に放り込むのにかなり時間を擁する事になり、分析の準備が整ったのは、作業を初めてから数時間後の事だった。

 日はとうに沈んで夜も更けた頃合い。

 だが、相次ぐ作業と長時間労働で研究への情熱を削ぐような者は九つ子機関にはいない。そのまま彼らは分析研究へと作業を移した。

 彼らは切除した細胞片をDNA分析、吸光度分析にかける一方で、電子顕微鏡で観察するための試料化処理を施し、生きた細胞をシャーレに取り出して培養するという最も注意を払うべき作業も平行した。

 腕そのものが切り離されてからかなりの期間が経っているが、浸された液体の特性なのか、腕の持ち主の生命力からなのか、一個一個にバラされた細胞はすぐに増殖し始めた。

 その際の細胞の挙動は次の通りである。

 表皮、真皮及び骨細胞といった具合に組織別に分けられたそれぞれの細胞は、最初は通常通りの分裂増殖――といってもかなりのスピードでだが――を繰り返し、およそ十時間後、その中から突然変異と思われるコロニーを産出させた。しかも、別個のシャーレで同時に、である。

 それらはすでに分化しきった『腕』の細胞にも関わらず、幹細胞のような分化能を改めて獲得し、出現当初こそ周囲の『腕』細胞の誘導を受けてか最終的には、周囲と同じ細胞に分化したが、その"変容"の片鱗と思われる変化に彼らは驚かされた。

 いくらサンプルの主が化け物に等しい変容の持ち主であったとしても、その本体から切り離されてかなりの時間が経っている。腕から取り出した細胞がそのような挙動を示すというのは彼らにとって非常に興味の引かれる現象だった。

 そこで、現れた突然変異株を別のシャーレに移し、これを特に観察する事にした。すると、その細胞の分化能は世代を重ねる毎に強くなっていく様で、四時間もしないうちに『腕』を形成していた細胞は完全に未分化な細胞そのものへと姿を変えた。

 しかし彼らが何よりも驚いたのは、細胞が次に見せた異質な行動だ。

 万能細胞へと"先祖還り"にも思える変容を遂げた細胞は、さらに五時間後には再び今度は別の組織に分化を始めたのである。

 腕を構成する組織に分化後の細胞が未分化な状態になる事も希有な例ではあるが、この再分化もそれと同じくらい奇妙で異質なモノと言える。

 細胞の分化は受精卵から始まる一連の胚発生時に行われる。脊椎動物では特にこの時期の胚の変化は、それまで辿ってきた生命の進化を再現するような様相を見せるのだが

、それはさておき、この胚発生・・・・・・生物の身体を形作る別機能の細胞を作っていく作業はドミノ倒しのように連鎖して起こる。

 分化を引き起こす誘導体が周囲の細胞を分化させ、その分化した細胞が今度は誘導体として別の細胞の分化を誘導する・・・・・・この連鎖でもって、生命は金型があるわけでもないのに同じ種では同じ形になるし、自分の手もない状態から自身の身体を造り出す事ができるのだ。

 万能細胞といえど、いきなり分化を始めたり、複雑な組織を作り出すなどあり得ない。ましてやそれが人間のDNAを持つ細胞であるのにも関わらず、全く人間に見られないような器官であるなど・・・・・・。

 ところが彼らの目の前にある細胞はソレを成し遂げていた。

 万能化した細胞は一旦コロニー状のグループを作り出すと、そこから粘菌に似た一固体の生物体のような動きを見せるようになった。

 粘菌は変形体と子実体という2つの姿を持ち、変形体期は活発に移動する原形質であり、子実体期はキノコのように胞子を飛ばす生物だ。粘菌と言えば迷路実験が有名で、迷路のゴールに餌をおいておくと、始めは迷路全体に広がる粘菌がやがてはスタート地点とゴール地点を最短で繋ぐルートを残す形で変形していくのだ。

 いわゆる『学習能力』の実例であり、単純な生物に見える菌の情報処理能力の高度さを目の当たりにできる非常に興味深い実験と言える。

 試しに粘菌状となった織神細胞でこの実験を検証した結果、細胞は恐ろしい早さで迷路を解いた。加えて、驚くべき事に、別のコロニーを同じ迷路で実験したところ、知る由もない迷路の全体像を知っているの如く、最初から最短ルートを導き出した。

 早速この不可思議な現象について、さらに深い検分をしたいと考えた彼らだったが、ここで作業のあまりの長期化に、作業効率の低下を心配した上の判断によって、とりあえず一回目の分析はそこで打ち切られる事となった。

 後ろ髪をひかれる思いで共同研究グループの担当魔術師達は未だなお変異を続ける細胞の培養シャーレをインキュベーターに戻し、封印を施して研究室を離れた。

 この後、彼らが一時の休息を過ごす間にも進化し続けるだろう細胞に思いを馳せて――、

 この後起こる惨劇など思いもせずに。


 ――それは、8月の出来事。


【28 Oct AM 2:08】


 分析中断から5時間後のその日、夜がいよいよ深くなった時間に作業が再開される事となり、担当の一人に選ばれたオーブリー・ベンジャミンは厳重に密封された分析室のドアを潜り抜けた。

 本来は一枚戸の部屋は、急遽改築されて鉄製の二重扉と平らに(なら)されているとは言い難い壁に囲まれている。それでも確保できていたはずの広い空間も今や機材を詰め込んだ事でほとんどが埋められ、飾りの一つもついていない室内は地下という事もあって圧迫感を感じてしまう。

 言ってしまえば不気味な分析室は、そこで行われる人類栄光の極地とすら思える研究の事を考えても居心地の良い場所ではなかった。

 無論、魔術師の一員である彼が不快感ごときで臆する事はないが、今扱っているモノがモノだけに、その部屋に足を踏み入れると気が引き締まる思いだった。

 貴重なサンプルを外気といった劣化の要因から遮断するためという名目となってはいるが、これだけ密閉された場所で分析を行う理由には当然、もしもの時(・・・・・)を備えてという事も含まれているのだ。

 もしも『腕』や細胞が危険なモノとして牙を剥いた時のため、この場所は地下に造られた。

 何せアレは神話にも通じるところのある化け物の細胞だ。

 それは万可統一機構が太鼓判を押しているし、この研究所も認めている。それでこそ研究する価値があるし、だからこそ備えは必要だ。

 それは何も部屋の事だけではない。自分達作業員にも言える事なのだ。

 共同グループとして選抜された自分達は研究者としての腕もさる事ながら、非常時の対応に長けているという理由で選ばれた。自分を含め、7人のグループが細心の注意を払ってサンプルを扱うし、『腕』から新たに細胞片を切り出す際には、この部屋にさらに備えられた隔離ブースで2人の監視の下執り行う決まりになっている。

 事故防止の意識はかなり高く、そういう意味で自分の所属している研究所は、狂的であると同時に真っ当な施設と言えるとオーブリーは認識していた。

 それに、だ。

 そんな危険を犯して足る利益が、彼らの研究対象にはあった。その事はこれまでの二十時間足らずで証明されている。

 変容能を持った主からきりはなされながらも、自己進化を始めた細胞。粘菌状の構造をとったソレは次にどんな変化を見せてくれるのだろうか?

 そう考えると不安など一時の気の迷いに思える。

 オーブリーは共に部屋に入った同僚と頷き合うと、部屋のスペースを大きく取っている業務用冷蔵庫ほどもあるインキュベーターの魔術的ロックを解除し、扉を開けた。

 すると、密閉されていた中の空気が扉の開閉に伴って外へと放出されたようで、生ぬるい何かが発酵したような匂いが彼らの鼻を突いてくる。マスク越しにも分かるその匂い彼らは顔をしかめたが、気を取り直して培養シャーレを取り出した。

「これは・・・・・・」

 シャーレを見て、一人が声を上げた。

 オーブリーも手に持ったシャーレの異変には気づいたが、努めて冷静に、まずはシャーレを作業台に丁寧に置いた。

 それから観察を開始する。

「しまったな。密封すべきでしたか」

 さっき声を上げた同僚が言った。それに隣の女性も頷いた。

「けれど、動物性の細胞なのだし空気は必要だったでしょう?

 どうせ密封はできなかったわ」

 オーブリーも彼女と同じ意見だった。

 酸素を必要とする細胞を培養する場合、シャーレはただガラスの蓋をするのではなく、ガーゼの張られた蓋をして通気性を確保する。今回も細胞が分類上は一応は動物という好気性生物に属する事を考えて、空気の通る蓋にしたのだが、予想以上に増殖した細胞がガーゼ部分から漏れだしてしまっていた。

 粘菌状だったコロニーは粘性を失って固まっており、中断していた間に何らかの変化があった事は明らかだ。

 まずはそれを調べる必要がある。

 とりあえず変化したコロニーを顕微鏡で確認した結果、それが菌類の子実体――大型のものはキノコと呼ばれるものとよく似た構造を取っている事が分かり、胞子らしきものがガーゼにこびりいていたのも分かった。

 これには彼らもかなり動揺させられた。

 子実体は菌の生殖の形態だ。それはつまり"性"という概念の誕生を意味する。

 元々人類女性のDNAを保持しているはずの細胞であるとはいえ、全く別の生物として振る舞い始めた細胞が、改めて分裂増殖以外の形での生殖を始めたというのは信じ難い事だ。

「・・・・・・しかしその一方で、繊毛や鞭毛といった移動機構を発達させないのが気になるな・・・・・・」

「ミトコンドリア以外に何かしらのエネルギー固定機構を持っているのでは?」

「葉緑体のような?だから動く機能を発展させる必要はないと?

 だが粘菌のようにのたうつのは何故だ?迷路実験で餌を求めて動いたという事は従属栄養生物という事になるが」

「元々、そういった既存生物の生態と同じように扱えないのだろう。葉緑体を持ちながら活発に動く生物がいないわけではないし、この細胞が自ら栄養を作り出す一方で、捕食による栄養供給を行っていてもおかしくはない」

「それはそうだが、エネルギーを葉緑体のような方法で得ているとすれば、その構造体はどのような形態で存在しているのか・・・・・・いや、どこに存在しうる?観察してもそれらしいものはないが」

「微小なのか・・・・・・いや、細胞を一つを養うエネルギーを表面積の少ない機構で作り出せるかが問題か。

 ふむ・・・・・・・・・・・・それも謎だが、そもそも何故菌状に集まるにいたったのだ?突然変異が別々のシャーレで同調していたように見えたのも気になる」

「テレパスの様なシステムが残っていると考えるのは?

 確か、『腕』と織神本体の間にそのような繋がりが認められたといいますが――」

 細胞の観察中もそういった議論が絶えるは事なく、その日が暮れるまで続けられたのだった。

 その中において、織神葉月(O.H.)の名前から取って『H.O.X』と呼ばれる事となった、Xデー・・・・・・つまり神戸壊滅の時に葉月がばらまいた細菌兵器との類似性についても話題に挙がったのは必然と言えるだろう。

 すなわち、元は同じ存在から分離したものではあるものの、その時期や織神の進化能力を鑑みての差異について。数年前から培養されているH.O.Xウイルスの進化とこちらの細胞の進化にどのような違いがあるのか、もしくはシンパシーがあるのか。それらの間にもテレパスが見られる可能性はあるのかどうか・・・・・・疑問は絶えない。

 それらについてはH.O.Xウイルスのサンプルを持っていない九つ子機関には判別しかねる事だ。

 そして、ウイルスとの差異について目が向けば、当然脳裏によぎるものがある。

 ――今扱っている細胞の毒性だ。

 特殊なマスクをしているし、ガーゼも張ってあったから、胞子を吸い込む可能性は低いだろうが、ゼロではない。

 とりあえず調べた結果では現在の胞子に毒性はなかったが、今後はいっそう注意するに越した事はないだろう。

 要を得ない議論の着地点として、何にしてもセキュリティーの見直しを検討すべきという考えに至った彼らはキリがよいところで二回目の作業を終了する事となった。

 環境がいいとは言えない室内での長時間の作業に加え、顕微鏡でサンプルを眺めるといった目を使う動作で疲労しきっていたオーブリーは作業終了の解放感に浸りながら、背もたれに体重をかけた。

「ふぅ・・・・・・」

 溜め息と共に目元を指で擦る。

 すると酷使した目が若干解れたようで、滲んで暗くなっていた視界がマシになった。

 ただ、作業を始めてから、時々視界の端をちらつく赤い点のようなものはそのまま残っている。

 何だ、これは?

 作業中も気になってはいたものの、一時的な視界の不調の割には目を解しても治らない。かといって、明らかな異常というわけでもなく、映るのは本当に僅かな間だけで気づいた時には消えているのだ。

 しかしまあ、と彼は首を振ってその赤い点の事を頭から振り払った。

 視界の問題というのなら、長時間顕微鏡をのぞき込んでいれば、サンプルを照らす明かりが網膜に焼き付いて、目を離してもしばらくの間は視界がほとんど遮られる事はしばしばある。

 他に不調があるわけでもないし、目に関してのみ疲れが出ている現状では異常なのかすら判断もつかない。つまり気にかけても仕方がない。

 同僚らが同じ症状を訴えているわけでもないので、彼はあまり気にかけない事に決めた。

「さぁーて、俺は先に挙がらせてもらうよ」

 同僚はそう言って椅子を立った。

「ああ、お疲れさん。あ、明日までに万可へのH.O.Xサンプル要請について、ちゃんと報告まとめといてくれよ?」

 彼の言葉に同僚は頷いて扉の方へ向かっていく。その後ろ姿を横目に、オーブリーは椅子の堕落を誘う魔力から逃れるために力んだ。

 彼にはもう一仕残っている。使用した容器や器具を片づけるという仕事が。

 それが、彼がレポートの代わりに請け負った雑事だった。

 もう一度目を閉じた後、彼は勢いよく立ち上がる。

「よしっ!」

 気合いを入れ直して、瞼を開ける。

 と、

 目が光を取り戻した途端、彼の視界いっぱいに赤い点が現れていた。

「え?」

 いや、それはもはや点ではなく、もっと大きな・・・・・・・ガラスに付着した水滴のようなもので――立ち上がった際の揺れに同調して、まさしく雨露のようにザァッと一瞬の内に流れ落ちていった。


 そして、それと同時に彼の意識もまた深い闇へと落ちていき――。


【29 Oct AM 1:20】


 ぴちゃぴちゃという水音に、オーブリーは気がついた。

 深く眠っていた意識がぼんやり現実世界へと浮上するにあたって、音がひどく近く、何よりその音源となっている液体が自分の手を濡らしているようだという感触が脳に伝わってくる。

 生ぬるい。

 指先から滴り落ちる水滴の温度を感じて彼はそう思い、思っている"自分"を認識して鈍っていた思考を回復させた。

 そうだ、自分は大切な研究に携わっていたのではないか。まるで夢のような研究ではあるが、まさか本当に夢うつつになるとは笑えない話だ。

 それで、確か、今日の研究は終わりになって・・・・・・ああ、機材の片づけ。それをしようとしていたところだったはずだ。

 早く片づけないと――と、重たい瞼を開いて、まずは手と耳に感じるモノの正体を確かめようとして、

「ぇ・・・・・・あ?」

 彼の思考はそこで完全に覚醒すると共に停止した。

「な、なんで?いや、違う!俺はそんなつもりは――ッ!」

 自分の手には『腕』があった。

 貴重なサンプルであるはずの『腕』が、容器と保存液から取り出されて自分の手の中にある――!

 その事実にパニックになった彼は、誤って『腕』を落としそうになるが、貴重なサンプルという言葉が脳裏をよぎって何とかそれは踏みとどまった。

 おかしい。確かにその『腕』は彼だって独占したいと思えるほどの代物だが、だからといってそれを実行しようなど露にも思っていなかったはずなのだ。

 なのに何故、自分の手にソレがある?

 待て、それ以前に、『腕』のセキュリティーはどうなった?

 サンプルが仕舞ってある保管庫は厳重にロックがかけられている。物理的な鍵もさる事ながら、魔術的ロックが厄介で、監視役二人を含めた三人の同時開錠が不可欠なはずだ。

 例え彼が自分の分のロックを解除したとしても残りの二つは?

 だが、その答えを探し求めてさまよった彼の視線は程なくして事情を知った。

 保管庫スペースの後方、サンプルを取り出す実行者を監視するために設けられた、出入り口両脇のガラス張りの壁越しに二人の男がふらふらとしながら立っているのだ。

 その一人はレポートを担当する事になったあの同僚で、もう一人を含めて二人とも目が虚ろで焦点が合っていない。

 明らかに異常な状態だが、それが気がつく前の自分と同じだとしたら、彼らがロックを解除した可能性はあるだろう。

 しかし、何故だ。何が起こっている?

 何で俺達はこんな事を?

 抜け駆けを狙う誰かが操っている?

 いや、そんな事ができるものか。そんな術に掛かるようなら選抜されていない。

 なら、まさか、この(・・)()()

 が、彼はそれ以上考える事はできなかった。

 突如、飛び跳ねた手の中の『腕』が、彼の呆けた口に指を滑り込んだのだ。

「がっ、ぉげっ・・・・・ぃ・っ!」

 さらには舌や口内の皮膚に爪を立てながら喉奥に潜り込み、彼にあらがう隙を与えぬまま彼の喉や食道が傷つくのも構わずに入り込んでいき、やがては『腕』全てが彼の口の中に。

 その惨劇を外の男達は確かに見ていた。けれど、意識のない彼らがオーブリーを助ける事などできるわけがない。

 やがて、くぐもった悲鳴と苦悶、床を転げる物音は途絶え、そして彼の意識は再び落ちた。

 ただし今度は永遠に。


【29 Oct AM 9:00】


 3回目となる研究が実行される事なったのはその日の午前9時。

 規定通りの入室前準備(持ち物検査・埃除去作業等)を終えたジェイミー・ホワイトヘッドは二重扉を潜り抜けた。彼女自身はこれで2回目となる観察で、熱中してしまうと同時に体力をごっそりと持っていくこの分析作業に取りかかるにつけて、気合いを入れるべく一度深呼吸をした。

 彼女が一度目にこの研究室に足を踏み入れたのは昨日からの二回目の分析の時だ。ちょうど分離した細胞片が活発な活動を見せていたタイミングで研究に携わる事になった彼女は、胞子状となったサンプルの魅力に憑かれた一人と言えるだろう。そんな彼女でも連日の作業に多少の疲労を感じざるを得ない。となれば、三回全ての研究に携わっている連中の疲れはどれほどのものか・・・・・・。

 彼女はちらりと視線を目の前で消毒を終えたシャーレをアルミホイルの包みから取り出している男を見た。

 神話生物の生態学を専門に扱うオーブリーという名の魔術師はその疲労が目に見えていて、顔色からして青白く、目の隈が元より彫りの深い顔の造形をグロテスクなものにしている。それでも血走った目には熱が籠もっていて、研究に対する情熱が伺える。

 全く、大した輩だわ。

 他にもオーバーワークな連中がいるが、彼らもまた体を多少ふらつかせながらも、愚痴の一つもこぼさずに研究の準備を進めていた。

 『織神』の細胞が与えてくれる発見は膨大なものがある。それは単純に喜ばしい事ではあるのだが、発見の情報量が多いほどまとめなければならない資料も比例して膨大になるものだ。分析や観察の時間が休みだった時間の全てを彼らが休息に取れていたわけではない。間違いなく彼らは睡眠が足りていないはずだ。

 かといって、研究者を逐一変えると引継の際にコストや齟齬が生じやすい。変化が激しい細胞というナマモノを取り扱う関係上、どうしても研究者に負担がかかる事になる。

 しかも、今日行う作業によって、その負担はさらに重くなるはずなのだ。

 新たに『腕』からサンプルを切り取り、これを観察する。この操作によって、先だって進化した細胞との対照観察を行う事ができる。先に取り出した細胞は別シャーレ間であっても同時期に変異進化を遂げていたが、これには再現性があるのか。やはりテレパスといった相互作用が認められるのかを観察していく事になる。

 その観察実験の責任者は彼女自身だ。

 提出用のレポートはもちろんの事、自分の研究用のデータも纏めておかなければ後々苦労するのは自分だろう。

 一日後には、彼女もゾンビのようにフラフラと目を血走らせるオーブリーらの仲間入りを果たす事は目に見えていた。

「さて、始めましょう」

 オーブリーが新しい培養シャーレの準備を終えた事を確認し、彼女は同僚達に声をかけた。『腕』から新たな細胞片を切り出し、細胞同士をバラバラにしてからそのシャーレに移すのが今回最初の大仕事になる。

 シャーレは雑菌が入らないよう安全キャビネット内に置かれているので、まずは『腕』を隔離された区画内にある金庫から取り出し、その中で一部を切り取り密閉された容器に移す。それを外に持ち出し、溶液と共に遠心分離機にかけ、アルコールをスプレーして容器を減菌処理した後、安全キャビネットに入れる。そこでようやくシャーレに培養する事になるのだが、この一連の作業は外気に容器が触れる度に容器と手をアルコールで消毒しなければならず、『腕』からサンプルを切り出す時には、滅菌メスやピンセットをバーナーの炎でよく炙る必要もあるのでかなり手間だ。

 何より、これだけの作業をしても雑菌が入る可能性があるので、とにかく作業中は神経を集中させなければならない。

 やはり体調が優れないのか一瞬ぶるりと震えたオーブリーを横目に、彼女は手早くゴム手袋を着けると金庫のある隔離区画のドアの前に立った。

 そうしてから振り向いて監視役となる二人が指定位置に着いたのを確認すると、自分が担当するロックを解除する。続いて残りの二人が各々のロックを外す事で金庫のセキュリティーは一時的に停止し、後ろの監視二人が指定位置から離れない間だけ出入りできるようになる。

 ジェイミーは緊張した面もちで部屋の中に入ると、まずはサンプルを取り分けるための使い捨てシャーレと各種器具を作業台に取り出し、台とシャーレをアルコール消毒してからバーナーに火をつけた。

 それから金庫を開錠して円柱型の強化プラスチックに入った『腕』を慎重に取り出そうとして、

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?」

 ソレがなくなっている事を知った。

 どういうこと?どうなってるの?

 目の前の事実を受け入れられず、容器すら入っていない金庫の中を注視する彼女。

 当たり前だ、ここのセキュリティーはたやすく破れるものではない。外の二カ所にロックを解除する二人の人物が居なければならないという物理的制約に、ロックのパス事態も事前に許可されたものしか使えないシステム、さらに言えば監視映像も撮られている室内で、どうやれば『腕』を取り出せる?

 だが、すぐさま持ち直した彼女は『あり得ない』という考えをかなぐり捨てて、実際無くなっているという事実からこの事態の原因に思いを巡らせた。

 可能か不可能かは別として、あの『腕』に最も近づけた人物は――。

 彼女はすぐさま、金庫から飛び出すと、煩わしそうに手袋とマスクを外してオーブリーに詰め寄った。

 おそらくこの研究室の外でも、監視映像で事情を知った連中が騒ぎ出しているだろう。ここに最高指導者(マスター)が駆け込んでくるのも時間の問題だ。

 本来ならそれを大人しく待って、現場を極力荒らさないというのが正解だが、それを彼女の血の昇った頭が許さない。

 だいたい、少しおかしいとは思っていたのだ。

 疲れが出ているだけかと思っていたが、考えてみれば彼の様子は挙動不審だった。

 蒼白の顔も、この事が原因だったとするなら納得できる。何より、自分に襟首を掴まれた彼の顔には脂汗が見る見るうちに浮き出ている。

 目はきょどり、焦点が定まらず、視線を合わせようとしない彼。それが後ろめたさから来るものだと感じた彼女は、いよいよオーブリーに問い正すべく彼の顔を自分の顔まで引き寄せた。

「あんた、まさか・・・・・・!」

 だが、

 彼女が彼の双眼を捉えた瞬間、黒い蛭のようなモノがその眼球を押し出さんばかりに眼かから這いずり出てきて、


うぶぉあ(・・・・)


 それを皮切りに、口、鼻、耳――顔にある穴という穴から黒く蠢くナニカが沸きだした。

「はっ・・・・・・ぇぐ、あぉおおお・・・・・・!」

 目と口と鼻と耳とを沸き出す蛆に覆われた事で、急激にグロテスクな変貌を遂げた同僚の姿に体を硬直させたジェイミー。その彼女にソレらは襲いかかり、呆けた彼女の口に飛び込んでいく。

 大量に入り込もうとする蠢くモノを嘔吐感から吐き出そうとするが、短い触手にも見えるその異質な存在は構う事なく彼女の顔全体を覆った。

 頭を振り回しながら暴れ回る彼女、そしていつの間にか服しか残っていないオーブリーに触れる事のできる無謀者(ゆうしゃ)など居ない。

 研究室に居た残りの連中は気を持ち直すとすぐに出入り口に向かった。だが、開錠されているはずのドアはいくら力を込めても開かない。

 外からロックされた!

 彼らの誰もがそう思い至り、自分達が切り捨てられた事を知った。

 絶望と共に振り向くと、黒いモノがうじゃうじゃと床を這いずってきていた。さっきまで暴れていたジェイミーは洗浄用水道のシンクに頭を突っ込んでぴくりとも動かない。

 背筋がゾッとした。自分もああなるのかと。

 いや、そもそも胞子のばらまかれたこの部屋に入った時点で彼らはすでに・・・・・・。


 地下研究室に、絶叫が木霊した。


【29 Oct AM 9:46】


 くぐもった絶叫が廊下にまで響き、二重扉を挟んだ外に待機していた魔術師達はびくりと身体を震わせた。

 彼らには一体何が起きているのか分からなかった。

 研究が始まる事を知って、担当でない事に恨めしい気持ちすら抱きながら共同研究グループの連中が研究室に入っていく姿を見届けた彼らは、中での発見が聞こえてはこないだろうかと、ただ好奇心からそこで待っていたにすぎない。そんな中、突如緊急の連絡が伝わってきて研究室のロックを命じられたのだ。

 研究室の二重扉は自動でロックされる仕掛けになっている。

 なので、彼らが命じられたのは『ロックされた扉』をさらに封じる一見理解しがたいものであり、それも『全力をもって』と指示されたのだから、ただでさえ状況を飲み込めていない彼らは首を捻る事になった。

 上は何を言っているんだ?

 中で何があったのか?

 監視映像には何が映っていたのだろう?

 そして、彼らが当然の疑問を抱いている最中、さっきの悲鳴が響き渡ったのだ。

 それによって彼らは何かまずい事態が起きている事を知った。

 だが、それがどのような類のものかまでは分かりようがない。

 内部での裏切り?もしくは毒性のある物質でも発生したのか?

 そんな彼らに事態を伺わせる断片的な情報を与えたのは、上階からやってきたマスター達だった。

「やはりサンプルの取り扱いに問題が・・・・・・」

「馬鹿を言うな!だいたいどうやって『腕』を・・・・・・」

「議論すべきはこの事態の収束です!原因を突き止めて・・・・・・」

「あの化け物の正体は?『腕』が化けたのか、あるいは感染に因るものなのか、それが分からなければ・・・・・・」

「えぇい!とにかく空気すら漏らさんように・・・・・・」

 扉の前で怒鳴り合う彼らの台詞に、廊下の者達はようやく起きている事態を飲み込んだ。

 『腕』、化け物――あのサンプルの持ち主がどんな存在なのか、ある程度聞き及んでいる魔術師達は嫌でも想起される最悪な光景に身体を震わせる。

 ナニカ、得体の知れないナニカがこの扉の向こうで蠢いている。

 だが、それに気づいたところでもう遅い。

 ガチン。そんな音がしてドアが蝶番ごと吹き飛んだ。

 そんな馬鹿な、と誰もが思った。

 扉は魔術による封印で閉鎖されているのだ。物理的にも二重の、魔術的にはさらに何重ものロックが掛かっている。

 中にいる魔術師達にだって易々と破れるようなものではない。まして魔術を知らない相手の、それも知能を持たないはずの『腕』になど不可能なはずなのだ。

 しかし彼らは忘れていた。

 相手が他人の脳味噌を食らう化け物だという事を。

 人間より優れた情報処理能力を有する神経組織を生み出す事すら可能とする化け物だという事を。


 ・・・・・・破られたドアから顔面を黒い蛆に(たか)られた男が現れ、九つ子機関に新たな悲鳴が生まれた。


【29 Oct AM 10:11】


 それから起こった事はまさに地獄絵図だった。

 研究室からの『化け物』の放出、くぐもった悲鳴を上げ暴れ回る黒蛆に集られた犠牲者達、びちびちと石造りの床を跳ね回る元凶たる蛆に逃げまどう魔術師連中。

 おびただしい数の黒い蛆から逃れようと誰もが必死になって駆け出したが、その時にはもう手遅れだったのだ。

 何より、『化け物』の二重扉の突破によってまず犠牲になったのがマスター達だった事は不運だったとしか言いようがない。最も事態を収束する力を持っている連中が退場してしまった事で、彼らは余計に混乱し冷静な判断を欠いてしまった。

 触れるだけでまずいと思われる正体不明の『化け物』に対して『逃げる』以外の選択肢を思いつかなかった彼らは、とにかく地上に通じる階段へと急いだが、廊下は数十人が一遍に逃走するには狭すぎた。一人の転倒は将棋倒しに発展し、仲良く生者を貪る蛆の餌食となった彼らによって階段へと続く廊下は塞がれてしまう。

 一瞬の内に黒い蛆にたかられ、黒い塊と化した同僚の末路を見て、ソレらを踏み越えて上階を目指そうという気が起こるはずもない。

 残った魔術師達の多くは別室に籠城する事を選んだ。

 だが、そんな彼らもうまく部屋に避難する事ができたとは言い難かった。

 迫り来る『化け物』達から自分だけでも助かろうとした自己中心的な行動によって、部屋に入れずに取り残される連中が多数現れ、難を逃れた籠城者達は彼らの悲鳴を扉越しに聞き届ける事になったからだ。

 それでも彼らに対する罪悪感より、自身に降りかからんとする惨劇への恐怖が勝っていたが、それを誰が責められようか。

 彼らの脳裏には、眼と口からうじゃうじゃと黒いアレらを沸き上がらせる自分の姿が確かによぎっていた。

 数人で部屋に滑り込み、扉を閉め、動転する気を押さえて魔術でロックし、さらに扉に体重を込めて補強し・・・・・・どこの部屋でもおおよそ同じような行動が行われたのだろう、廊下で響く悲鳴は段々と少なくなっていく。

 身体を扉に押しつけながら外の様子に耳を傾けていた魔術師は、その事にとりあえず安堵の息を吐いた。

 しかし、パニックから脱すると別の懸念が沸いてくるものだ。

 とりあえずの危機を脱したとはいえ、ここから逃げられなければ未来はない。結界での抵抗がどれだけ持つかは分からないし、食料のない状況では部屋に籠もり続ける事すらできはしない。あの『化け物』がこの建物から早々に立ち去りでもしない限り、籠城していてもいずれ自滅するだけだ。

 かと言って、アレに対抗する勇気など持てるものではない。

 何とか室内に避難できた彼らは無言で顔を見合わせた。言葉にしなくてもお互いに何を言いたいのかは分かる。

 どうする?

 いや、どうすると言われても。

 そうやって、互いに無駄に視線を交わしていたが、そんなやり取りは唐突に終わる事になる。

 ガコッと不穏な音がしたかと思うと、男の目の前――部屋の中央辺りにいた女性の頭上から黒いナニカがボタボタと落ちてきた。

 電気もつけていない薄暗い室内でははっきりと視認できはしなかったが、ソレはビチビチと身体をくねらす小指ほどの大きさをしていて――、

「ぁぎぁああっ!」

 女にまとわりついた群体を直視して喉を干上がらせた彼は、必然的にソレの侵入経路を目で追い、

「通気・・・・・・口!?」

 それが彼の最期の言葉になった。



 明らかに廊下ではない方向から聞こえてきたくぐもった絶叫に、その部屋に避難していた7人の魔術師達は身体を震わせた。

 間違いなくその声は隣の部屋からのものだ。

 廊下ではなく、部屋に籠もっているはずの連中から悲鳴が聞こえてきた。その事実に、落ち着きを取り戻し始めていた彼らの心が再びざわめく。

 部屋も安全とは言えないのかもしれないという不安に彼らは身構えた。

 と、その耳に這い回るような物音が微かに聞こえてきた。音源が天井だ。

 それと同時にさっき聞こえてきた叫び声の中に『通気口』という単語が混じっていた事に気づき、彼らははっと天井を見上げた。

 音は天井に備え付けてある四角い通気口辺りから聞こえていた。

「ま、まずい・・・・・・!誰か封印術を!」

 扉を押さえている人物がそう叫び、一早くそれに反応できた女魔術師が荒い魔術式でとにかく通気口の蓋を固定した。それをさらに魔術を重ねがけて雑ながら強固な防壁を築く。

 間一髪のところで、通気口を覆う編み目の入った蓋が、黒く触手を伸ばして部屋に侵入せんとするソレを拒んだ。

 執念深く触手を細く伸ばして編み目の隙間から入り込もうとするソレの姿に総毛立たずにはいられない彼ら。

 もし少しでも対応が遅れていれば・・・・・・。

 だが、魔術が多少なりとも効くと分かった事は吉報だった。研究室から突如飛び出してきた際にはどうしようもなかったが、こうして部屋に籠もって時間を稼ぐ事ができた事で対抗手段を講じる事もできる。

 魔法が効くのであれば、護符のような防御魔術で身を固めれば脱出ぐらいなら可能かもしれない。

 問題はその護符や有効そうな魔術の備えが心許ない事だ。研究狂いであっても戦闘狂いではない彼らが攻性魔術用のアイテムを持っている訳がない。

 さっきの防壁すら、並の魔術師では到底不可能な芸当だった。あり合わせでそれを行えたのは一重に彼ら技術が高かったからだ。

 逃げ込んだ部屋にはほとんど使えそうな物はない。が、限られたもので活路を見い出す事は彼らが得意とする事でもある。

 手を離せない扉の魔術師を除く6人が室内を物色する中、扉の彼は自分が手伝えない事をもどかしく思いながら扉に耳をつけた。

 彼らの意識が室内に向けられている間、せめて自分は外に異変がないかをしっかりと見張っておかなければ。

 悲鳴は相変わらず聞こえている。ただ、そのほとんどが遠くで聞こえ、この近くに生存者が残っているかは疑わしいようだった。

 獲物が居なくなった事で『化け物』が移動してくれていればいいのだが、と彼があまり期待できない希望を抱いていると、落ち着かずに動かした足元でピチャリと水音がした。

「・・・・・・?」

 彼が見下ろすと、ドア下の隙間から液体が溢れてきている。部屋の暗さから色までは分からないが、彼がそれを見て真っ先に連想したのは真っ赤な血だ。

 あの『化け物』に無惨にも食い破られた同僚達の血。

 だが待て。

 あの何もかもを食いつくさんばかりに襲いかかってきたあの蛆とも蛭とも思える『化け物』が例え血の一滴でも残すものだろうか?

 いや。逃げる際に垣間見た、同僚達が襲われている様子を思い出してみても、血飛沫など上がって居なかったはずだ。

 彼は襲われた人間の穴という穴にソレらが侵入するのを見た。その血肉を糧に無限と言えるほどに増殖し、犠牲者の皮から沸き出すソレらの姿も目撃してしまった。

 あの『化け物』は人体に入り込んで中身を食らい尽くして増殖する怪物だ。

 そんなソレらが血すら無駄にするだろうか?

 もう一度、彼はその液体を見た。

 ドロリ、と粘性を持ったソレが彼の靴の周りを舐めるように流れていった。

 ボコボコと沸騰するようにソレは泡立った。


【29 Oct AM 10:27】


 阿鼻叫喚。

 何の捻りもなく表現するのならその四文字に集約されるだろう研究室での悲劇から三十分が経った頃。

 部屋に逃げ込む機会を逸した5人組が廊下を走っていた。

 彼らにとって不幸だったのは研究室から少し離れた場所に居たせいで避難が遅れてしまった事であり、幸運だったのは部屋に入る余裕すらなかった事で籠城者と同じ末路を辿らずに済んだ事だろう。

 さらに幸いしたのは九つ子機関の地下施設が広大で奥へと逃げる分には幾らか余裕があった事だった。

 そのおかげで、あのおぞましいナニカを避けて網状に広がる廊下を三十分間も逃げ回る事ができたのである。

 だが、それも死期を延ばすだけの逃走に他ならず、生存者の減少と反比例して増えた『化け物』の標的となる事は避けられなかった。

 恐る恐る覗こうとした廊下の角、そこからいきなり現れた同僚の肉で肥えた蠢く群体。

 悲鳴を(こら)えられなかった事を誰が責められようか。

 見つかり、とっさに来た道を引き返した彼ら5人だったが、その際考えなしに選んだ分岐路は行き止まりだった。

 増築改築を繰り返してきたこの施設で、普段使わない地下の構造を正確に把握している者は彼らの中には居なかったのだ。

 目の前にうっすらと浮かび上がる壁が、彼らには絶望そのものに見えた。

 もはや逃亡はできない。しかし、どう抵抗すればいい?

 彼らは『腕』の持ち主についてもある程度の事は効き及んでいる。

 変容によって凄まじい勢いで進化する生命体。脳を食らい人の叡智すら奪う化け物。

 それが残した『腕』から発生した『化け物』に、果たして自分達の足掻きがどこまで通用するというのだろうか。

 惨劇を目の前にした彼らにとって、それは絶対的な考えだった。

 だから、まだ見習いのキトリー・デュトロンが放り投げた(カノ)のルーン石が発した火花に、黒い蛆が怯んで動きを止めた時は我が目を疑った。

 火に弱い、などというのは生物ならほとんど共通している弱点だ。無論、炎や熱に耐性を獲得している生物も少なからず存在するが、タンパク質でできた生体は構造が複雑な生物ほど火には弱い。

 もちろんそれは織神葉月にも言えた事ではあったが、ならば耐性を獲得していないはずがないというのが彼らの先入観だった。

 だが、考えてみれば、目の前に居るおぞましい生物は、大きさ10cmにも満たず、蛆や蛭のような単純極まりない形をしている。どう考えても高度な生物とは言い難いソレは

、まだオリジナルほどの力を取り戻してはいないのではないか?

 もしそうだとすれば、何とか対処できるかもしれない――。

 それは薄暗い地下で魔術師にようやく見えてきた希望の光だった。


 その後、彼らは寄せ集めのルーンや資料の端切れに書いた術式で結界を張る事によって、その場の危機を脱する事ができたのである。


【29 Oct AM 11:01】


「よし・・・・・・状況を、整理するぞ」

 ダリウス・ベーコンはそういうと、廊下の行き止まりから2mほどの四方を四方を囲む結界内を見渡した。

 キトリー、それからホブ・エイトンの見習い魔術師2人に、それなりに古株であるランス・アラン、マギー・ブーン、そして自分。

 この5人の中で最も九つ子機関に居る期間が長く、魔術師としても経験が長いのはダリウスだ。

 彼は後輩達を生かすためにも、慣れないリーダーシップを取る事を決心していた。

 自分にしてもだが、ここにいる連中は学者であって戦闘員ではない。いわば火薬の調合の仕方を知っている科学者のようなものなのだ。

 火薬の材料もない、扱い方に心得があるわけでもないという状況で、捨て鉢になって戦える訳がないし、一度でもパニックを起こせば体勢や平常心を持ち直す事は叶わないだろう。

 心許ない経験量ぐらいしか違いなどないが、先輩である自分がそれらしく振る舞わなければならない。そんな使命感が彼の中に生まれていた。

「俺達が居る地点は地上に続く階段からだいぶ離れたここ・・・・・・」

 そう言って、彼は持っていた資料の裏に書いた簡易地図を指さす。そこから線をなぞって階段がある辺りを示した。

「階段はこの辺・・・・・・うろ覚えだからこの地図はあまり役に立たないが、体感距離にして200mほどだろう。で、俺たちの手札だが・・・・・・キトリー?」

「は、はい!」

 と、まだ見習いの少女と言える年齢の彼女は、手に持ったルーンの護石を床に広げていく。

停滞(イサ)のルーンが2個、防御(エイワズ)のルーンが3個。それと(カノ)のルーンが3つです」

 初歩中の初歩としてフサルク・ルーンについて修得中だった彼女が持っていたこれらのルーン石が、今は非常に有り難い彼らの手札だった。

「それから全員で持ち寄って計31枚の紙と筆記具3本・・・・・・今ある結界を除いて別の結界を作るとすると停滞(イサ)防御(エイワズ)が2つ、(カノ)のルーンが1つ必要になりますね」

 5人の中でもう一人の女性であるマギーが言った。彼女の専門は境界であり、今彼らが保護下にいる結界も彼女が張ったものだ。

「ですが、それよりも問題なのはこの結界が持ち運べない(・・・・・・)という事でしょう」

「ああ・・・・・・」

 ここで問題になってくるのがまさにそれだった。

 もしも、今自分達を守っている防壁が移動しながら効果を得られるものであったなら、これほど簡単な話はない。

 そのまま全員で走って階段まで行けばいいのだ。

 だが持ち合わせの足りない現状では結界は固定式のものしか作れない。

 いや、時間をかければ可能かもしれないが、そもそもルーンを(かなめ)に使った簡単な結界がどこまで『化け物』を防げるかは未知数なのだ。

 集中攻撃されずに済んでいる今だからこそ無事なだけで、結界の強度は信用を置けるレベルとは言えない仕上がりだった。

「痛いのは(カノ)のルーンが少ない事だな。せめてもう少し備えがあれば壁を破壊して地上に出るという手段もあった」

 とランス。マギーと彼はダリウスと同じで魔術師としては一定のレベルにあるので、こう言った策を講じる事に慣れている。

 ランスは細かな制御を可能にする魔術式に心血を注いでいる人物で、大して力の籠もっていないルーン石でも最大限に利用できる人材だ。

 その彼をしても、リスクの少ない『今居る場所から一気に地上へ』という策を可能にする事はできないらしい。

「石と紙で火炎放射の術式くらいなら作れるが、威力は石を用いても噴出距離は2m、温度は1200℃程度が限界だろう。石がないものでは1m・・・・・・威力はそれほど期待できん上に魔術媒体が紙だ、ほとんど使い捨てになる」

「それでも武器にはなりますよ!それを使いながら少しずつ進んでいけば・・・・・・!」

 キトリーと同期のボブが見えてきた希望に顔に喜色を表す。が、先輩連中の顔は優れない。

(たか)ってくる蛆程度なら何とかなるだろうが・・・・・・」

 と、ダリウスは床を覆わんばかりにうじゃうじゃと迫りくる『化け物』の姿を思い出して顔をしかめた。

「人体に寄生したまま動いている奴らには対処できないだろうな」

 現在、この地下を襲っている『化け物』は大まかに二種類分けられる。

 人肉を一片残らず食らい尽くす黒い蛆の大群と、犠牲者の身体を乗っ取ったまま動き回る死人憑だ。

 研究室の封印を破ったのがソレで、顔から入り込んだ蛆がそのまま脳を食い破りその身体を操っているらしい。

 要するに、この状態になった『化け物』は魔術を扱える程度に知能を獲得していると予測できるし、何よりも人体ほどの体積があるとなると火の効果は薄くなってしまう。

 虫程度の大きさのものなら襲いかかられる前に焼き付くす事もできるだろうが、人サイズでは火炎を強引に突破される可能性が高い。

 加えて、身を守るための結界は死人憑によって破られかねないのだ。

 さらに悪い事に、知能があるという事は待ち伏せが可能であるという事で、遭いたくもない死人憑ほど階段近くに潜んでいるだろう事がたやすく想像できる。

 つまり圧倒的に手札が足りていない。

「火炎放射以外の、もっと『らしい』攻撃手段がないとキツい。やっぱり発破系の魔術は組めないのか?」

「手持ちが少なすぎる。それっぽくて使えそうなのはガンド撃ちくらいだろう」

 となると、やはり他に武器がほしい。地下は倉庫も兼ねているので、探せば何とか手に入れられるはずなのだが――と、この近くにある倉庫と収容物について思い出そうと顔を上げた彼の耳にドタドタという足音が聞こえた。

 その音は他の4人にも聞こえたようで、彼らは表情と身体を強ばらせる。

 人型をした『化け物』も居るという話をした後での足音は彼らの恐怖を駆り立てるに十分なものだ。

 近づいてくる音源。

 ついに廊下の角から現れた事で、その正体が明らかとなる。

 人だ。間違いなく、生きた人間。

 それが分かったのは、うっすらと見えたその顔に恐怖と焦りの表情が見えたからだ。

 音源の主は彼らの姿を認めると、微かに見えた希望に顔を歪めた。

「た、助け・・・・・・!」

 が。

 彼が伸ばした腕は彼らに向けてまっすぐに伸ばされる事なく乾いた音と共に折れ、彼らがその腕にまとわりつく直径3cmほどの黒い触手を目にした次の瞬間には彼の身体がゴキゴキと捻れながら出てきた廊下の角へと消えていった。

「あ・・・・・・ぁああっ!!」

 悲鳴を上げかけたキトリーの口をランスが塞ぎ、ダリウスとマギーは床のルーン石を手元に引き寄せる。

 ・・・・・・・・・・・・来るか?

 しかし、哀れな犠牲者の声すら廊下の奥からは聞こえて来ず、彼らはとりあえず去った危機に深く息を吐いた。

 けれど、事態はどう考えても悪い方向に進んでいる事も分かってしまった。

 黒い触手。少なくとも体長2mほどはあったアレは、彼らが今まで見た事がないタイプの『化け物』だ。

 それはつまり『化け物』が進化しているという事に他ならず・・・・・・。

 もはや彼らに一刻の猶予もない。

「くそっ!何なんだよアレは・・・・・・」

「時間がない・・・・・・これ以上あの化け物どもが姿を変える前に何か武器を・・・・・・」

 いよいよ余裕がなくなってダリウスが世話しなく周囲に視線を巡らせ、地下にある物品を思い出そうとしていると、ボブが「そ、そうだ」と顔を上げた。

「確か先週、例の留学生に見せる名目で封印指定の武器庫からアレ、外に出しましたよね?」


【29 Oct AM 11:25】


「ゲイ・ボルグのレプリカか。だが、本当に使えるのか?

 確かに魔術的価値は高いが、実用性に欠けると聞いたが」

 ランスの疑問にダリウスは前方から目を離さず頷いた。

「レプリカとしては粗悪な骨董品らしいが、それでも多少は攻撃らしい攻撃のできる武器だ。

 先週使って動作確認もできているし、その点は大丈夫だろう。

 問題は本当にあの場所にあるかどうかだ・・・・・・」

「手間な封印指定物だ。使用後の点検もあるから、規定通りなら一時的にこの先の保管庫に置いてあるさ。

 ・・・・・・誰かが既に持ち去ってなければな」

「私、ゲイ・ボルグの演習は見ましたよ。投擲すれば(やじり)、刺突すれば棘が30も降り注ぐ・・・・・・伝承通りでした。あれでも再現度は低いんですか?」

 廊下を慎重に進むダリウス、ランスの後に怖ず怖ずとついていくキトリー。その彼女の問いに答えたのはランスだった。

「ゲイ・ボルグでつけた傷は治らない・・・・・・これが再現できていれば、そもそも学徒の演習授業にだって持ち出せんさ。

 伝説に語られる武具も、せいぜいグレネード弾程度しか効力がないんではな」

「けど、あの化け物には効果的でしょう?」

「広範囲に物理的な攻撃ができる武器だからな。

 ・・・・・・ボブが気づいたおかげで何とか突破口は見えてきた」

「・・・・・・向こうは大丈夫でしょうか?」

 つい先ほど分かれた仲間の名前に、キトリーは見張っている後部の、さらに奥に居るはずの2人に思いを馳せた。

 現在、ボブが提案したゲイ・ボルグのレプリカを回収しに行くという作戦を実行するに当たって、彼ら5人は2班に分かれて行動している。

 レプリカ回収に向かっているダリウス、ランス、キトリーの先輩男性2名、後輩女性1名のグループと、結界を拠点に周囲にまだ残っている生存者を集めようというマギー、ボブの先輩女性1名、後輩男性1名のグループだ。

 レプリカがまだ置いてあるか定かではない事や、移動中襲われるなどのリスクがある事を考え、できる限り生き残れるようにと考えた結果だった。

 もし結界と火炎放射をうまく使い分けながら移動できるのなら5人でというのも悪い手ではなかったのだろうが、寄せ集めの5人にそんな連携は望めない。一つの手違いで全滅しかねない現状ではこれ以上無難な選択肢を思いつかなかったのだ。

「そればかりは何とも言えん。動かなければアレに遭遇しないという訳でもないからな・・・・・・」

「案外、あっちだけで解決できる人材が揃う可能性もある。

 発破系の魔術さえ使えれば上に逃げられるだろうさ」

「でかい発破音でもしたら、俺達も作戦を考え直さないとな」

 ランスは冗談混じりにそう言って、自身が作った使い捨ての火炎放射の符を利き手に持ち換えた。

 彼に釣られてキトリーも笑みを浮かべる。多少の気休めにはなったらしい。

 自分自身も柄でもない事をやって緊張しているダリウスもまた、そんな後輩の様子を見て幾らか気が楽になった。

 今のところ、例の蛆や死人憑、触手は見当たらない。

 餌が尽き始めて移動したのか、あるいは何か別の行動を始めたのか。

 遭遇しない事は幸運であるはずなのに、どうも不穏に感じてしまう。

 灯りをつけるわけにもいかず、光源は相変わらず非常灯から漏れる光に頼っているため、視界はかなり薄暗い。その事が余計に不安感を煽るのだろう。

 彼は僅かな予兆も見逃さすまいと目を凝らしながら先頭を進んでいった。

 すると、逃げ込んだ行き止まりから地下通路の大動脈に当たる方へと近づくほどに、壁や床に奇妙な痕跡が見つかるようになった。

 蜘蛛の糸というか干からびた粘菌というか、黒い網目のような付着物がそこかしこにあるのだ。

 それ自体は生命を感じられない『ただの痕跡』であるのは確かなのだが、あの蛆や触手が捕食以外の営みを開始したのだとすれば穏やかな話ではない。

 十字路となっている廊下の角で、被害者の衣類をまるまる見つけて、ランスが物色し始めたが、使えそうなものはなかったようで、彼は首を振った。

 何か使えそうな物があればよかったのだが、そううまくはいかないらしい。

 と、微かな物が擦れるような音がしてダリウスは後ろの二人に素早く待機指示を出した。

 注意深く音源を探る。

 音はどうやら前方からで、壁際の床からのようだ。

 暗がりにも慣れ始めた目がようやく捉えた動体は、例の触手なような『化け物』だった。

 前回の遭遇ではよく見る事ができなかったが、今回の個体はどうも動きが鈍い。

 観察してみると、のそのそと蠢くソレの姿は蛆が肥えて成長したような形をしていて、あの黒い蛆どもが犠牲者の肉で育っていっている事は明らかのようだった。その事に彼は顔を不快感で歪めた。

 しかし、どうするべきか。

 動きが鈍く見えても、アレは人の骨を砕いて引きずっていけるような化け物だ。火炎放射がどこまで効くのかが分からないまま迂闊に手を出すのはまずいが、いずれは戦わなければならない相手でもある。

 向こうが気づいていない状況という幸運が今後も訪れるとは考えにくい。

 だが、そうこう思いを巡らせている内に、太ったミミズのようなソレはうずくまる様に体を丸め込んだ。

 そして行動を訝しげに眺めている彼の前で、その『化け物』は体から粘液を分泌しながら体をうねらせ、糸を引く粘液にまみれたかと思うと繭のような姿となって固まってしまった。

「・・・・・・道中の痕跡はこういう事か」

 50cmほどの黒い繭となった『化け物』を見て、魔術師達はこれまで以上に苦々しい顔になる。

 この繭からどんな『化け物』が羽化するというのか。

 想像など及びもつかないが、このまま放置しておけば惨劇を生み出す事だけは分かっている。

 しかも、彼らはゲイ・ボルグを回収した後、仲間の居る場所にまで引き返さなければならないのだ。

 羽化したモノに襲われる危険性を看過する訳にはいかない。

 一も二もなく彼らは繭を駆除する事にした。

 警戒しながら近づき、それが繭という姿通りに動かない事を確認すると、符を発動させる。

 間に合わせであるため、放熱を逃がす事を考えていない符は手で持っているだけでかなり熱い。

 それを我慢ししながら炎を当てていると、焼き焦げた繭が割れて中から体液にまみれたナニカが姿を現した。

 火炎から飛び出てくるのではないかと身構えるダリウス達。

 だが、予想に反してソレは力なく繭から半身を乗り出すに止まり、猛火に耐えきれずに悲鳴のようなものを上げながら生き絶えた。

「化け物め・・・・・・」

 忌々しげに言って、ランスはトドメとばかりにもう一枚火炎放射の符を使ってそのナニカの出来損ないを炭化するまで焼いていく。

 体液の通うなまものを焼いていたはずの炎は、何時しかパキパキと乾いたモノを焦がす音をさせ、それほど時間が経たない内に『化け物』の体は崩れ始めた。

 それに気づいたキトリーは彼に火炎放射を止めさせて、完全に形が崩れる前に、繭の中身の正体を探るべく焼けた死骸に顔を近づけた。

 繭から抜け出そうとした状態で死んだソレは黒色をしているが、その色は焼き焦げたためであるようで、元の色は違うように思われる。

 頭部も元の蛆やミミズとは似ても似つかない形で、今までの黒い『化け物』からかなりの変容を遂げようとしていた事が伺えるものだった。

 体の半分しか見えないが、体長は30cmと言ったところ。

 頭は突起らしいものがびっしりと生えた円形をしている。

 投げ出されるようにして破れた繭の上に乗っているのは腕、だろうか?

 焼けた事でグロテスクさが増していて、見るに耐えない姿形だが、それを抜きにしても彼女が不安がらせる要素がソレには備わっていた。

 ・・・・・・体表の色と、手らしき器官の形だ。

 骨と筋肉があるのか、熱による筋繊維の収縮によって関節部で直角に曲がった腕。その先にある手が、彼女の目には猿のものに似てるように見えてならなかった。

 そして、その焦げた体表は僅かに白っぽい部分を残しているように思えて・・・・・・彼女を唾を飲み込んだ。

 まさか(・・・)そんな(・・・)

 いや、その想像は止した方がいい。

 心の防御機構が働いたのか、彼女はそれ以上を考える事なく立ち上がった。

「・・・・・・とにかく、急いだ方がいいみたいですね」

 それから、ランスの方に向けて声をかける。

 ところが、返事が返ってこない。

「・・・・・・?」

 不振に思って彼女は振り返り、そこにあった光景に目を疑った。

 長身で細身の、一見軽薄そうな笑みを浮かべた先輩の陰が、前に見た時以上に伸びている。

 その代わり、あるべき場所に顔はなく、長くなった分の陰は廊下の暗闇よりも――黒い。

「あ・・・・・ぅ」

 ソレは巨大なワームだった。

 天井から獲物に襲いかかった、胴回り50cmはあろかという芋虫状の黒い化け物。

 そいつが、ランスの上半身にかぶりついていたのだ。

「きゃぁぁあああああっ!!」

 彼女の悲鳴でダリウスも非常事態に気づいたが、その時にはワームはランスの体を持ち上げて、凄まじい早さで後退し始めていた。

「くそっ!このっ!」

 まだ助かるかもしれない。

 咥えられた状態のままだからこそ、同僚をこのまま見殺す事はできなかった。

 ガンド撃ちを使い、黒い陰の動きを止めようとするがなかなか当たらない。

 当たったとしても、ぶよぶよとした皮膚のせいで大したダメージを与えられていないようで、天井を這う『化け物』を足止めするには至らない。

 そうやって、廊下の分岐を二回ほど曲がったところで、彼らは立ち止まるを得なくなる。

 彼らの前に伸びる一本の道、その壁や床には例の繭――それも1mはあるだろうサイズのものが何個も張り付いていた。

 いくつもの繭が糸を絡め合いながら連なる様子は、『化け物』の巣のように思える。そんな場所に突っ込む勇気など2人にはなかった。

 彼らが二の足を踏んでいる間に、ワームはくわえた獲物を噛みちぎり、胴から出た(わた)を引きずり出していく。ボタボタとこぼれる血と内臓。

 それに呼応するかのように黒繭から細い触手が伸びていき、ワームから与えられた『餌』を繭の中に取り込み始めた。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 黒い繭にワーム、その二種類の『化け物』の生態を知れたところで、彼らにとって何の吉報にもならない。

 これだけの量の繭やワームを焼き殺す事も不可能だ。

 彼らにできる事はワームに気取られないようにすごすごと来た道を引き返す事だけだった。


【29 Oct PM 12:21】


 ゲイ・ボルグ回収班と別れ、託された『生存者探索』という使命を果たすべく、マギーとボブは例の行き止まりから少し離れた場所にまで足を運んでいた。

 九つ子機関の地下施設は安全基準を無視して増設された背景から、入り組んでいて、なおかつ上階へ続く階段が一つしか存在していない。かなり高価な術具や危険物が保管されている事もあって、機密性を考えての事でもあったのだが、今回はそれが仇となった形だ。

 考えなしに奥にまで逃げ込んで、『化け物』の魔の手からはまだ逃れられているものの出れなくなっている仲間が他に居てもおかしくはない。

 いや。あの『化け物』と比べればか弱い人間と大差ないだろうが、自分達は高度な研究を扱う魔術師なのだ。あの醜悪な『化け物』から逃げ延びている仲間が居るのだとマギー達は信じたかった。

 蟻の巣の様に枝分かれした部屋を一つずつ確認しては、生存者が居ない事に落胆し、『化け物』が居ない事に安堵する。

 少し歩いては結界を張って周囲を警戒し、再び進み、また結界を張る。

 廊下で拾った犠牲者の衣服をちぎって紐状にして廊下に伸ばし、足りなくなったら新しい布を結んで繋げ、また進む。

 彼女らの作業は単調で地味なものだ。

 だが、決して楽な仕事ではない。

 移動するという行為は『化け物』との遭遇のリスクが高めるし、動く何かを見つけた場合、それが敵か味方か確認しなければならない。

 さらには、武器を取りに行った3人と違い、『待ち続けなければならない』という立場は精神的負担になるだろう。

 回収班との合流は紐を辿る事で行うつもりだが、何時何らかの理由で切断されるか分からないし、紐を引っ張る知能を持ったモノが『化け物』でないとは言い切れない。

 一歩一歩進む毎に、危険度が上がってる事を自覚しながらマギーとボブは薄暗い廊下を進んでいく。

 今はちょうど12室目の部屋を確認した後で、次の部屋がある場所までは廊下をかなり歩かなけれならないようだった。

 といっても正確な距離は分からない。感覚的に遠いだろうというだけで、地下の間取りなどうろ覚えなのだ。そのせいで効率よく人の居そうな箇所を探索できない事が悔やまれる。

 廊下や床が比較的新しい石で作られているところからして増設されてまだ年月を経ていないようだが、それは馴染みがないのと同意義だ。

 見慣れない廊下は特に不気味に見えるし、しかも奇妙なものが目に付くようになって気味が悪い事この上ない。

 しかし、壁に張り付くこの粘着体は何なのだろう?

 マギーは新たに見つけた、そこら中に見られるソレに手を触れた。

 危険性がないのは確認済みなのだが、糸なのか粘液なのか。ネバネバと指に付着する物質を観察してみても彼女には判断がつかない。

 アレのものには違いないが・・・・・・。

 何をした跡なのかが気になって仕方ない。

 不吉な予感ばかりが脳裏をよぎって、彼女は首を振った。

 何にしても自分のできる事は限られている。

 境界を専門にしている彼女では『化け物』を攻撃するような手段は用意できないし、寄せ集めの道具では今以上の結界は張れない。

(そういえば・・・・・・境界といえば、あの粘着物がその用途で使われていた可能性はなくもない、か?)

 例えば蜘蛛の巣、あるいは殻。そう、繭のような。

 そんな思考を巡らせながら、結界を解除するためにルーン石に指を伸ばした彼女は、そこでピタリと身体を硬直させた。

 それから同じく石を取ろうとしていたボブの腕を掴み、首を振る。

 彼女は廊下の前方を注視し続け、その後すぐに石を回収すると同時に叫んだ。

「・・・・・・走りなさい!」

「え?」

 いきなりの事に動けずにいるボブを引っ張るマギー。彼女は振り返る事なく廊下を逆走し始める。

 目指すはついさっき確認しに行った部屋だ。

 一方、彼女に引っ張られる形となったボブは後ろから追ってくるソレをようやく視認した。

「う、ぅあああああああ!」

 まず見えたのは口。胴体とほとんど同じ大きさにまで開いた円形の穴。

 そして長く太い胴。黒く、ミミズのような姿をした体長5mはあろう巨大な『化け物』。

 そいつが廊下を這って自分達を追いかけてきているのだ。

 その手の専門家であるマギーが結界を解除して逃げに転じた事から、彼らの防御の要であるルーン石の結界ではこれだけの重量を持った生物の攻撃は防げないのだと見習いのボブにも分かった。

 つまり、彼女達は絶対的な窮地に立たされていた。

 いや、立っている場合ではなく――。

 ミチミチと音がする。分岐路を90°曲がった際に、角の壁に『化け物』が身体を擦った音だ。

 しなやかに伸び縮みする表皮が、石造りの壁を削り取り、瓦礫が飛び散う。

 いよいよ近づいてきたソイツは、床や壁や天井に身体を擦りながら速度をあげた。

 体液を垂らした口が特段大きく開き、体内にびっしりと生やした触手が見える。

 歯はない。だが、だからといって獲物を噛みきれないとも限らない。

 動きや形状からして、あの体表に守られた内部にはおそらく筋繊維が幾重にもなって存在しているはずなのだ。あの口が作り出す圧力に人体はどれくらい耐えられるだろうか。

 犠牲者達の筋肉を用いたのだろう寄せ集めのソレの身体は、伸縮を繰り返す度に、出来損ないの機械のようにギュチュギュチュと不快な音を立てる。

 必死に逃走するマギー達だが、全身が筋肉で造られた化け物相手では逃げきれない。

 ついにボブの足が『化け物』の口と触れた。

「ひっ、このっ、化け物が!ひ、やめろ、来るなぁ・・・・・・!」

 足を取られたボブはバランスを崩して転倒、喚き散らしながら尻餅をついたまま後ずさる。が、眼前に迫った黒いワームにして、叫び声の後半は半べそ混じりになっていた。

 マギーは彼を引きずりながら、役に立つかどうか分からない結界を張り直すべく手の中の石を握り直した。

 だが、それよりも早く、怪物は再び鎌首をもたげ奈落の穴のような口を広げる。

 不愉快な音と熱の籠もった息。

 それらが一際大きくなった瞬間、彼女達の後ろから『化け物』の口めがけて何かが勢いよく放り込まれた。

 途端、今まさに獲物を食らわんとしていたソレは動きを止め、苦しそうな悲鳴とも喚きともつかない音を発して口に入ったモノを吐き出すと、あっという間に後退していった。

 マギーが吐き出されたモノを確認すると、体液にまみれたそれは五芒星のかかれた石だった。

「危ないところだったな、マギー」

 かけられたハスキーな声に振り返る。そこにはマギーの同期であるアデライデが立っていた。

 男勝りな知人の登場に、マギーは肺に溜まった息を絞り出すように吐ききった。

 アデライデはボブが起き上がるを手伝いながら、自分が投げた石を拾って、今度はマギーに投げて寄越す。まだぬるぬるする五芒星の石をマギーは顔をしかめながら受け取った。

「持っておけ。今のところ、アレに有効なのはそれぐらいだ」

「効果覿面なのは見て分かりましたが・・・・・・何故五芒星が?」

「その話は後にしよう。とにかくここから移動するぞ。

 私達が拠点にしている部屋があるんだ」

 彼女はそれだけ言うと、2人に背を向けて歩き始める。マギーとボブは顔を見合わせた後、素直に救世主の先導に従う事にした。

 入り組み、周囲を観察できるほどの光もない中をアデライデは確かな足取りで進んでいく。

 しばらく移動し、マギーが伸ばし続けていた布紐の残りが心許なくなってきた頃、ようやくアデライデが口を開いた。

「さっき言ってた五芒星だが、あれは石ではなくあの『化け物』の方がミソでな」

「『化け物』の方・・・・・・?」

「アレが元々『腕』から増殖したモノだとするなら、増えた奴のほとんどはここの魔術師達が材料だ。

 魔術的滋養をたっぷりと含んだまさしく『魔物』だよ、アレは。

 だからそれを逆手に取った。ほら、米国の怪奇作家発祥のまだ若い神話があっただろう。

 神作りによって新たに生まれた『魔物』を定義付けるなら、これほどふさわしいものはない。

 アレをその手の化け物とする事で弱点を付加した(・・・・・・・)

「だから五芒星・・・・・・けれど、それってかなり強引な措置でしょう?」

「ああ、定義付け(カテゴライズ)するにはアレを『クトゥルフ神話の化け物』と認識している人間がそれなりの数必要になるからな。

 ここに居る連中は神話の素養がある人間ばかりだからそういう意味では助かったが、生存者が減れば減るほど効力ががた下がりになるし、定義付けも曖昧で、騙し騙しやってるに過ぎない。何時利かなくなるか・・・・・・」

「しかも、確かあの小説群じゃ、五芒星が効くのは下位の存在だけでしょう?

 アレがもっと複雑な形態を取ったらどのみちアウト・・・・・・早い内に階段を抜けた方がよかったんじゃない?」

「それができればよかったんだがな」

 アデライデは自嘲気味に笑って、天井に視線を向けた。

「上にヤバいのが居るらしい。先遣隊が全滅した。

 簡易通信符越しでは『巨大な繭が・・・・・・』だそうだ」

「そ、それってもう逃げ道がないって事ですか!」

 とボブ。

 彼女は彼の問いに首を振る。

「いや、脱出路がないなら作ればいい、という事で今拠点から地上に向けて穴を開けている」

「それって施設の外に向けて?発破して一気に・・・・・・じゃないわよね?まさか手堀りしてるの?」

「さすがにそこまでじゃないが手作業ではあるな。

 何せシャベルもない。魔術で代用しているが、『化け物』に気取られかねない大規模なものは使えないときた。

 だから、定義付けの効力を強める意味でも、掘削作業を早める意味でも生存者を探す必要だったんだ」

 で、そっちは?と彼女はマギーに視線を移した。

「あんたも逃げてばかりじゃなかったんだろ?」

「仲間がゲイ・ボルグを取りに向かっているわ」

「なるほど・・・・・・そういう手もあったか。とすると一応二策ほど対抗策ができているわけだ。

 何とかなりそうだな」

「うまくいけば、よ。アレの動向は予測がつかない。こんな事態になる事だって想像だにしてなかったんだから」

「ああ、まぁ・・・・・・そうだな・・・・・・いや・・・・・・内海の・・・・・・」

「・・・・・・どうしたの?」

 何やら考え込み始めたアデライデにマギーは怪訝な顔を向けた。

 ちょっとな、と彼女は言ってから進行方向を指さした。

「次の角を左に行った最初の部屋が拠点だ」

「そう。・・・・・・で、さっきの独り言は何?」

「いや、内海の婆さん、今回の件に一切関わってこなかったらしいが、分かってい(・・・・・)たのかな(・・・・)ってな」

「それは・・・・・・」

 ・・・・・・あり得る話だ。

 マギーはその想像にぞっとした。

 マスターの一人でありながら協調性も帰属意識も持っていないあの女は、九つ子機関の中で唯一アレの細胞を入手しいじった経験のある魔術師だ。この結果を予測できた可能性もあるし、自分達を見捨てた可能性も否定できない。

 否、彼女が関わりたがらない事を奇妙に思うべきだったのだろう。あのサンプルを扱うのに適任だったのは経験のある彼女であるはずなのに、他のマスターも魔術師も彼女の不干渉をただ喜んでいた。

 仮に彼女が忠告したとしても、自分達がそれに従ったとかは怪しいものだ。

 そして、経験者が逃げ出すほどにアレが化け物的であるのではないか――という考えにまで至って、マギーは思考を止めた。

 やめよう、それ以上は恐怖を増長させるだけだ。

 ようやく生き残った頼もしい仲間の居る拠点にたどり着いたのだ。今は生存のためにベストを尽くす事だけを考えるべきだ。

 アデライデが扉をノックし、先に決めてあった合図を行った。

 だが、少し待っても中からの返事がない。

 彼女は僅かに眉間を寄せて、マギーに目配せする。ボブを後ろに下がらせてから、マギーは手元のルーン石4つを自分達のいる廊下の四隅に置いた。

 アデライデに頷いて見せて、自分自身は彼女とはドアを挟んで反対側の壁に身体を寄せる。

 壁で身を隠しながらノブの手を伸ばした。

 キィ・・・・・・と蝶番が音を立て、木製の扉が内側に開く。

 慎重に中を伺ってみるが、物音一つ聞こえず、動くものも見当たらない。

 そう、居るはずの仲間の姿さえ・・・・・・。

 アデライデは五芒星の石を部屋に投げ込んだ。石が床を転がる音がやけに大きく聞こえてきた。

 やはり何の反応も返ってこない。

 それを確認してから、男勝りな彼女は部屋の中へとゆっくりと侵入した。

「・・・・・っ、やられた」

 一人、部屋に入っていった彼女の呟きに、マギーとボブも部屋の中へ。立ち尽くす彼女の元へ近寄り、彼女が見下ろしていたものを見てしまった。

「ぅ、酷い」

「そ、そんな・・・・・・でも五芒星が・・・・・・」

 そこにあったのは死体だった。正確には上半身のない、女性の死体の一部。それが床に転がされている。

 切断面は赤黒く、血は出ていない。吸われたのか、あるいは絞り出されたのか。

 しかし、これではっきりした。現時点で五芒星の効かない『化け物』が存在し、そしてここを襲ったのだ。

 ソイツは死体を食い荒らし・・・・・・食い荒らし?

 と、そこでマギーは違和感を覚えた。その視線の先には死体がある。

 それは、このハプニングが起きて彼女が初めてみた死体だった。

 それはそうだ。

 だって、あの『化け物』は襲った相手を欠片も残さず平らげてしまうのだから、死体が残るはずがない。

 だが、目の前には食べ残された死体がある。

 そして、《化け物》がここを襲い、去っていったとするのなら――、


 一体誰が、部屋の扉を閉めたというのか。


「しまっ・・・・・・!」


 暗闇から、黒い陰が彼女達に襲いかかった。


【29 Oct PM 12:22】


 ランスが犠牲になった後、駆け足気味でゲイ・ボルグの回収に向かっていたダリウスとキトリーは、胸騒ぎを感じずにはいられない廊下をやり過ごそうとしていた。

 問題のレプリカが一時保管されているはずの倉庫まではそう遠くないところまできている。

 だが、部屋が近づくにつれ、例の黒い繭が通路に張り付いている頻度が増え、その一方で当然の道理として、目的地に近づくほど道を迂回するわけにもいかなくなるものだ。

 ついに最後の一本道となったところで、ランスが死んだ場所のような繭の密集地とぶつかってしまい、彼らは決死の横断を余儀なくされたのだった。

 火炎放射の符は作成できるランスが退場した事で補充できていない。(カノ)のルーンを使った連続使用できるものを除くと残りは3つほど。

 手札はあまりにも心許ないが、かといって今から引き返したところで危険度(リスク)は変わらない。

 彼らが無事に分かれた仲間と合流してこの場所から脱出するには、このまま突き進んでゲイ・ボルグのレプリカを手に入れるしかないのである。

 ダリウスが前方を、キトリーが後方をそれぞれ警戒しながら歩く事にして、覚悟を決めた二人は背中を合わせながら魔の巣窟に足を踏み入れた。

 しかし、そうやって辺りを警戒していると嫌でも目に入ってくるのが例の繭だ。

 アレは何なのか。繭に見えるソレは、ワームから栄養を貰っているらしきソレは、中で何をしているのか。

 まず始めに思い付くのは『変容』という言葉だ。

 アレの性質的にも、『繭』と表現するのがしっくりくる『化け物』の形態にも、それが正しいように思える。

 だが、アレが何かに変容しているとすれば、その姿は一体なんなのか。

 気になって、近くの床にへばりついた2m近くある繭を見る。

 暗闇の中、非常灯の緑色光を浴びて淡く黒光りする繭は酷く不気味だ。

 その形はピーナッツのような単純なもので中身の様子までは伺えない。

 繭の表面は凸凹していて、糸がでたらめに絡まっているような模様をしている。蚕の繭は解けば一本の糸からなるというが、この繭はそうとは言い難そうだ。

 ワームから栄養を貰う時は、この繭が裂けて、ハエトリグサのトゲのように触手が伸びていた。

 繭に見えはするが、その生態までが繭そのものではない。動かないという思い込みは危険だろう。

 キトリーは繭を睨んだ。

 この個体ではないとはいえ、目の前で仲間を奪われた。

 倒す手段が手に入ったら根こそぎ駆除してやるのだと、彼女は決意を固め、


 突如として、繭を裂いて羽化した『化け物』に顔をかぶりつかれた。


 ぬめっとした感触、息のできない圧迫感。ぬるぬると蠢く何かが顔を覆っていて、何も見えない。

 何だ、これは。

 いや、一瞬。一瞬だけ見えた。

 眼前に広がる、花弁のように開いた触手――それはまるでイソギンチャクにも似て。

 それが食べた。私を?

 胸が苦しい。息が。

 それから、そうだ。身体があった。

 人の身体が。

 顔に触手を生やした人型が、繭から。

 そこでキトリーの意識は、ぶつりと、首と共に千切れた。

 後輩を助けようと身体を引っ張ったダリウスは、キトリーの身体がいきなりすっぽ抜けた事で尻餅をついた。そして頭のなくなっている後輩の姿を見て、

「ああ゛あ゛あ゛あ゛ぁあああああああぁっ!!!」

 ついに自分が一人になった事を知る。


【29 Oct PM 12:40】


 『化け物』に襲われ、その初撃から命辛々逃れたマギー達は、部屋から飛び出して、我武者羅に廊下を走っていた。

 安全確認も行わないで、敵が徘徊している領域を駆け回る。それはあまりにも危険な行為だ。

 そんな事をすればいつ他の『化け物』と遭遇するか分からないし、足音が『化け物』を呼び寄せてしまうかもしれない。

 そんな事は彼女達も百も承知だった。

 だが、彼女達はそうするより他になかったのである。

 彼女達の後ろには今もあの『化け物』――頭に触手を生やした人型が迫っているのだ。

 状況は既に最悪。彼女達にできる事は他の『化け物』に気づかれなよう祈りながらひたすら走る事だけだ。

 対抗?何を無茶な。

 アレはアデライデに飛びかかり、腕の一振りで彼女の右手をもいだ。

 その右手には五芒星が握られていたはずで、石の護りが意味を成さない事は嫌でも分かってしまった。

 マギーの張った結界などは紙でも裂くように破られて、最悪な事に張り直すのに必要なルーン石を回収する余裕すらない始末だ。

 もはや彼女達に対抗手段などはなく、今はただひたすらダリウス達が向かった方へ走り、引き返してきた彼らの手土産に期待するしかなかないのだった。

「何なんですかアイツらは!?」

 ボブがたまらず叫び、マギーがほとんど悲鳴に近い声で返した。

「知らないわよ!いいから走るの!」

 人型・・・・・・黒髪の少女の形をしつつも、猿のように、時には蛙のように壁や床を跳び回る姿は人のものとは思えない。

 肉付きはか細く、筋肉はないように見えるが、あの腕は人など簡単に切り裂ける。指の先にある爪は剃刀のようだ。

 顔を覆う触手もだが、黒く長い髪が時折意志を持つように蠢いている。

 酷く、おぞましい化け物だ。

 そんなのが複数迫ってきているのだ。

 アデライデは今こそまだちゃんと走れているが、その顔には脂汗が大量に浮かんでいる。きつく押さえている右手首が痛むからだろうが、痛みは体力を急激に消耗させてしまう。彼女が今のペースで逃げ続ける事は不可能だろう。

 考えたくない事だが、彼女を切り捨てなければならない未来が来るかもしれない。

 マギーは顔をくしゃくしゃに歪めた。

 仲間は死にかけ、自分が同じ運命を辿るのも時間の問題。

 その末路が悲惨なものだと知ってしまっている事も悲劇の一つだ。

 後ろを向くと、石煉瓦の壁を穿たんばかりに手足で蹴って、特に迫っていた『化け物』の一匹が天井にまで上ってきた。

 ソレが手足を着けた箇所から粉塵が舞う。

 特に天井を蹴りつけた時には瓦礫までが崩れてきて、彼女達の逃亡を困難にさせた。

 いや、天井から彼女達の前に『化け物』が着地した時点で逃亡は終わりだ。

 細い廊下、挟まれてはもう逃げ道はない。

 床を砕く勢いで着地してきた『化け物』は細い肢体を四つん這いから立ち上がらせて、その顔を上げた。

 イソギンチャクのように揺れていた触手が開き、地獄の入り口の姿が露わになる。

「あ・・・・・・」

 何を言葉にしようとしたのか、口が開いた。

 だが、マギーが悲鳴を上げる事すら思い付かずに硬直してしまったその時、『化け物』の身体が横に吹っ飛び、ひしゃげて壁にめり込んだ。

「マギー!全員伏せさせろ!」

 ダリウスの怒号に似た叫び。

 一瞬、何が起こったのか分からなかったマギーだったが、絶望の権化に見えた『化け物』が血だらけになって身体をあらぬ角度に曲げている姿を見て我に返った。

 ボブを床に押しつけると同時に、アデライデの二の腕を掴み一緒に倒れ込む。

 と、背中の上を熱風が一陣吹き(すさ)び、破裂音が鼓膜を振るわせた。

「■■■■■!!」

 声帯のない『化け物』の耳障りな悲鳴が廊下に反響し、彼女達が顔を上げて振り向いた時には、降り注いだ棘に潰された『化け物』達が息絶えるところだった。

 駆け寄ってきたダリウスの手にはゲイ・ボルグが握られている。

 それを見て、マギーはようやく自分が助かったのだと実感した。

「ボブ、マギー、無事で何よりだ。それと・・・・・・」

「アデライデだ。アデライデ・バラハ、おかげで助かった。礼を言う」

「あんた腕が・・・・・・」

「アレにやられた。正直、まずい」

「・・・・・・大丈夫だ。この後すぐ脱出する、手当は間に合うさ。

 それまではこれで止血しておこう」

 ダリウスはそう言って、マギーの持っていた例の布紐で彼女の手首をきつく縛った。激痛に彼女の顔が歪む。

 マギーはハラハラしながらその様子を見ていたが、ある事に気づいて彼に問いかけた。

「ダリウス。・・・・・・ランスとキトリーは?」

 その問いに彼は首を降った。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・っ」

「よし、いくぞ。ここから一気に上まで走りきる。

 自分が先頭を行く。後ろは一応警戒した方がいいが、遅れないようについてくる事を優先して動いてくれ」

 ほとんど休む暇のないままに、ダリウスは彼女達に立ち上がるよう促した。

 彼自身、仲間の死を短期間に2回も見せられて余裕がないのだ。

 目配せして3人の心の準備ができている事を確認してから、彼はゲイ・ボルグを構えて駆け出した。

 まず立ちはだかったのは繭の巣だ。廊下のあちこちにへばりついた気味の悪い繭も、破片手榴弾の如きゲイ・ボルグの一突きに柔らかい身体を破裂させた。

 幾つもの棘を高速で打ち出す伝説の槍を前にしては、現存し神話となりかけている『化け物』もひとたまりないようだ。

 繭に栄養を与える役目を担っているワームがいち早く自分達を襲った敵に気づいて襲ってくる。

 ダリウスやマギー達が遭遇したものよりさらに大きなソイツは、口に触手を生やしていてワームの中でも特異個体に見えた。

 そんな『化け物』も、投げられたゲイ・ボルグの30もの棘に分厚い表皮を貫かれて、天井に張り付けになった。

 血とそれ以外のどす黒い体液がボタボタと垂れ落ちる道を進むと、今度現れたのは例の人型だ。

 3匹で襲いかかってきたソイツらも2匹は棘を顔面に受けて即死し、天井に飛び上がって難を逃れた1匹も、左足を吹き飛ばされて床に墜落した。

 その1匹は敵わないと理解したのか、来た道を引き返していく。

 四つん這いで、しかも片足がないはずの『化け物』だが、それでもかなりの速さだ。

 その『化け物』には及ばないながら廊下を駆け抜けてくと、床に大量の衣服が落ちている場所までやってきた。

 その中にはこの施設の最高権力者達の物もある。

 すぐ近くのドアを見れば、それは最近二重に改築された研究所のものだった。

 階段はもうすぐだ。

 負傷した化け物の赤い血が同じ方向に向かっているのが不吉ではあるが、今ならアレは脅威ではない。

 勢いある内にこの魔窟から脱出した方がいい――4人の考えは一致していた。

 ついにその目で見る事が叶った階段をすぐさま駆け上がる。

 螺旋状になっている石階段には五芒星の護石が幾つか落ちていた。

 アデライデはそれに気づいて顔をしかめた。連絡が途絶えた先遣隊はここで息絶えたようだ。

 階段を上りきり、彼らはようやく暗かった地下から地上に出た。

 陽射しの眩しさに思わず瞼を閉じる。

 そうだ。忘れていたが事件が起きたのは午前中。あれから随分時間が経っている気がしていたが、まだ陽が昇っている時間帯だったのだ。

 それを知る事ができたのも、地上に出る事ができたからだ。

 その事実にこみ上げてくるものがあったが、今は施設から脱出する事の方を優先しなければならない。

 階段のある廊下から施設に出られるルートは、中庭を横切って正面玄関までショートカットするルートだ。

 彼らは最後の力を振り絞り、息も絶え絶えに中庭まで走り、そして立ち止まった。

 そこにあったのは手入れされた花々ではなく、中庭を覆うほど巨大な黒いナニカ、だった。

 そのナニカに、足を失ったあの『化け物』が取り込まれようとしていた。

 『化け物』の身体がソレと癒着し融合し、ついには姿が消えてなくなる。残ったのは階段から続いていた『化け物』の血の跡だけだ。

 先遣隊は何と言ったか。

 そう、確か『大きな繭』と。

 なるほど、ソレは大きな繭に見えなくもない。

 地下で見た繭のような形をしているし、表面を覆う糸とも粘液ともとれる付着物も存在している。

 だが、その表面は脈打ち、活発に蠢いていて、静的であった地下の繭とは似つかない。

 陽を浴びて黒々と輝く体は瑞々しく、これまた乾燥している繭の表面とは違う。

 これは繭と言うよりは――、


 巨大な粘菌、そのものだ。


 ダリウスは槍を振るった。棘が黒い体表に穴をあけたが、そこから溢れ出た体液は粘性を備えたものだった。

 意思を持つようにのたうち触手や腕ににた器官を形作ったソレは、哀れな魔術師達を掴むと本体に取り込んだ。


【29 Oct PM 9:24】


 夜になった。

 つい数時間前の惨劇など感じさせない、あまりにも静かな時間が三重録音九法研究所に訪れる。

 中庭に現れた巨大な粘菌は生存者が居なくなった後、彼らが呼んだ『繭』という名称がふさわしい姿に変化していた。

 ヌラヌラとした表皮は乾いた繊維に包まれ、活発だった脈動も今はなりを潜めている。

 ハンモックのように中庭を構成する建物にぶら下がった黒い塊はまさに巨大な『繭』だ。

 月明かりに照らされて、闇夜にぼんやりと輪郭を浮かばせるソレの姿は、不気味でありながら幻想的ですらあった。

 しかし、そんな現実離れした光景を目にできる者はなく、ひっそりと『変容』を繰り返していた繭はついに羽化の時を迎える。

 黒い繊維が脆く崩れ、繭の上部から顔を出したモノは、巨大な繭に似つかわしくないほど小さな黒髪の少女だった。

 白い腕が伸び、胸、腰と何も身につけていない細い体躯が繭から抜け出る。

 背中を反らし、夜空に向けられた顔には月光を浴びて爛々と輝く琥珀色の双眼があった。

「さて、と」

 小さな『化け物』はできたばかり口を開く。

「とりあえず魔術の仕組みは理解できたし上等な脳もたくさん食べれたし・・・・・・うん、寝起きはまあまあかな。

 けど、あれから随分時間が経ってるのは困るなぁ。しかも何でロンドン?うーん、分からない・・・・・・。

 とゆーか・・・・・・・・・・・・本体どこいった?」

 こてん、と全ての惨劇の元凶は可愛らしく首を傾げ、少しばかりの間考える素振りを見せたが、すぐに首を振った。

「まぁ、考えても仕方ないか」

 そう言って、織神葉月の派生個体(レプリカ)は月に挑戦的な笑みを向ける。

()は僕で、好きにやらしてもらうかな」


                      ♯


 その日、神戸万可に一通の連絡があった。

 受け取ったのは内海岱斉。発信したのは内海優曇華。

 内容はあまりにも簡素なものだった。

「九つ子機関は壊滅した。とんでもない『化け物』だったよ、アレは」

 それから、

「お前はまだあの子を――」

 付け足された言葉が言い切られる前に、岱斉は電話を切った。

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