第73話- 狼。-úlfheðinn-
ポメラが壊れるは毎日実験あるわと結構バタバタしていたんですが、なんだかんだいって続けられるのは読者様のお陰です。
5日間寝泊まりしたシベリア鉄道ロシア号はオムスクの駅を離れてしまった。
穏便、あるいは過激な交渉でもって日本に連れて帰る予定だったレッドマーキュリーことラリーサはよく分からない連中によって連れ去られてしまった。
いくら現場に人気がなかったとはいっても、かなり大きな規模の戦闘を起こしてしまったし、駅付近での一連の出来事に関しては目撃者は多くいるだろう。
状況は大変よろしくない。
だというのに、朽網釧がこの地で得たものと言えば、徒労感とお気にのハイヒールをダメにしてしまった苛立ちと、それから不快感しかない雨水を多分に含んだ衣服だけなのだからやり切れない。
雨足を急激に増した雨が、にわかに騒がしくなっていた周囲の関心をも濯ぎ落としてくれたのは助かったが、濡れた服の始末の手間を考えると素直に喜べるものではなかった。
兎傘鮮香に連絡を入れた後、タクシーの予約も入れたのだが、そんな彼にとって身体がびしょ濡れであることは非常にまずい。
よって、ケータイをしまってから、まず釧がしたことは駅構内のトイレを探すことであり、着替えるために必要だったお目当ての場所を見つけ出すと、すぐさま個室の1つに滑り込んだ。
途中、奇異な目で見られたが、今はそんなモノはどうでもいい。
脱いだ服をビニールに入れ、濡れたウィッグの水気を発火能力の熱で乾かし、同様に地毛の方も乾かすと、バッグに入れておいたワンピースに着替えた。
ウィッグの替えは列車に置いてきたので、被り物をするために後ろで纏めていた地毛を後頭部の下辺りで2つに縛り、両肩に垂らして印象を変える。
度の入っていない眼鏡をかければもはや別人だ。
さっきまでは赤茶ロングだった女性は、暗色系の茶髪をした地味っ子に早変わりした。
この変装のし易さこそ、彼が女装を行っている理由なのだが、タレントデビューに加え、綿貫美由紀のような虫を呼び寄せてしまっている辺り、あまりメリットはないのかもしれない。
トイレを出た後、売店で折り畳み傘を購入した彼は待ち合わせの場所へ。すでにきていた鮮香と合流し――――その際、変化した外見について一悶着あったが――――タクシーに乗り込んだ。
行き先はロシア号の次の停車駅ペルミへの便が出ている空港だ。今からでもうまく立ち回れば十分先回りできる。
が、この手段を採るに当たって問題になるのが、先回りする前に列車から下車される可能性である。
オムスクからペルミまでの間、列車はどこにも停まらないはずだが、無理矢理途中下車、ということもなくはないし、既にもぬけの殻になった列車を探す間抜けはしたくない。
というわけで、釧路が取った行動は、今まで散々鬱陶しがっていた美由紀に連絡を取ることだった。
「・・・・・・そう、そうです。メールで送った写真の・・・・・・ええ、できれば全車両チェックしてください」
隣で鮮香が、あれほど嫌っていた相手にあっさり手の平を返して助力を求めた釧の身代わりの早さにあきれかえっていたが、当の本人は気にも留めていない。
「あ、無理な行動はしないように。
ええ、分かってますよ。後で説明しますから」
いくつかの注意事項を伝えた後、最後にそう締めくくって彼は通話を切った。
ケータイを閉まって、それから大きく息を吐く。
駅でのこと以来、今までやるべきことが多すぎて息吐く暇もなかったが、それもこれでひと段落だ。
やっと一息入れられて、釧はそのままタクシーの座席に深く身を沈めた。
レッドマーキュリーは今追っている。列車の監視は美由紀に任せた。連中のことも万可に一報入れてあるので一応手は打ってある。
今後、状況がどう動くかは分からないが、今はこれでいい。
と、物思いに耽っていると鮮香が話かけてきた。
「いいのか、教えて」
もちろんそれは、美由紀に対する釧の約束を指した言葉であり、彼女を巻き込んだことに関する問いだ。
釧はその質問に対して頷いて返した。
「いいんですよ。知りすぎたら知りすぎたで、どうせ記事にはできません」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「この世界には口封じの方法が2種類あるでしょう?
殺すか、話せば命の危険を及ぼす程度に教えてあげるか」
「買収するって手段が抜けてることにお姉さんどん引きだよ・・・・・・」
「お金で人の心を買おうだなんてっ、この人でなしっ!」
「「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」」
「すみません今のは忘れてください」
言われなくてもそうするつもりの鮮香である。
「・・・・・・万可の方はなんて?」
「他に狙ってる連中は知らなかったようです。
ロシアの超能力関連組織をピックアップさせてますけど期待はできませんね。
形態変身者という手がかりにしても、超能力者自体を秘匿するのが普通ですからね、外国では。
TF関係ってことで来島さんにも聞いてみたんですが、収穫はなしでした。
で、そっちはどうだったんですか?あの足止めさん」
「どうもこうも、さっき言った通りだ。
拍子抜けするほどあっさり逃げに転じやがった。
元々足止めだったてのもあるが、実力差を目の当たりにして勝てないと思ったのかもな」
「自分で言ってて悲しくないですか、それ」
「いや、というか」
鮮香はその時のことを思い出してか眉間を寄せた。
「ホントよく分からん奴でさ。
・・・・・・ほら、横取りされた前、角曲がった時受けた攻撃があったろ?
たぶんそいつの仕業だと思うんだが、こう・・・・・・」
と、手でピストルを作って、それを釧に向けた彼女は「BANG!!」と撃つ真似をした。
「ってやって、念力っぽいのを放つ奴なんだが、攻撃方法がそれだけなんだよ。それにしたって威力は低かったし・・・・・・」
「まぁ、結果的にその割り振りはそれでよかったわけですけどね。
『心臓殺し』、能力技巧的にどうかは知りませんけど、戦闘能力的には凶悪過ぎます」
「あー確かに当たんなくてよかったよ。
つーか、形態変身者に回収されたんだろ?
人相は?次きたら私はすぐ逃げるからな」
「いやそこは頑張ってくださいよ。
心臓潰れて、僕今は絶対安静ですよ?」
「ヤだよ。どう考えてもそれは君の役目だ。で、人相は?」
「・・・・・・どうせフード被ってるでしょうけど、女性です、女の子」
「こっちの方も声色からして女ぽかったぞ?他に見分けがつきそうなのは?」
「といっても、本当に普通のロシアっ子でしたよ。髪は淡い褐色で、目もよく表現される灰色がかった緑ってやつでしたし。
あ、でも身長165cmぐらいでしたから、それで見分けられるかもしれませんね」
「んー、じゃあ見分け自体はつく・・・・・・か?
こっちのは結構背ぇ高かったし。・・・・・・あぁそういや、英語しゃべってたな」
「英語?ロシア語じゃなくて、ですか?」
「『BANG!!』つってたし、『I』とか『You』とか聞こえたし、さすがにロシア語かどうかぐらい聞き分けられるって。
内容までは分からなかったけどな」
そう言ってから、鮮香は彼女の貴重品、必要品を纏めたサックから栄養補給バーを取り出して食べ始めた。
釧が確認すると、確かに時間はちょうど小腹のすく頃合いだった。
彼女はこれから乗る飛行機に機内食が出るかどうかに思考を傾けていたが、釧は彼女の口にした台詞についてしばし考察し、それからふと思うことがあって視線を膝の上に置いた右腕の時計から彼女の方に戻した。
「『I』とか『You』とかって・・・・・・話しかけられたんですか?」
「ん?うん、初めの方に何か言ってたぞ。
けど、能力者同士のやり合いで名乗り合うなんて珍しいことじゃないだろ?」
鮮香は何ともなしに言ってのけたが、『初めの方』という言葉を聞いたところで、彼は顔をひきつらせた。そして額に手を当て、低いタクシーの天井を仰ぎ見、溜め息を吐いてから口を開く。
「それ、交渉しようとしていたのでは?」
バーを一気に口へ押し込もうとしていた彼女の手がぴたりと止まった。
「・・・・・・まぁ、私らに歩み寄る余地はないからな」
「いや、ちょーやる気のなかった僕としてはそっちの方が――――」
「歩み寄りはないからな!」
「・・・・・・英語ぐらい会話できるようになりましょうよ・・・・・・」
「うるさいよ!」
彼女はバーの残りを口に放り込んだ。
顔を赤くしているところから、今日日英会話もできないことを恥ずかしがっているようだったが、だったら聞き取る努力ぐらいしてほしいと思う釧だった。
「はぁ・・・・・・」
運転席をちらりと見る。車内の空調を能力で制御しているので、これまでの会話は聞こえていないはずだ。
ロシアではタクシー運賃を先に相談して、到着時に支払いするため、日本で馴染み深い料金メーターはない。
視線をずらした際に、そのことを再確認して、それから雨の降り続ける外の景色に視線を移した。
薄暗く、雨がテレビのノイズのように走っていてよく見えない。
両側にをまさに海外といった町並みで飾ったアスファルトの道を、時折電柱が前から後ろに流れいくだけの風景がそこにはあり、電柱に貼られた広告らしきものでも読み取って暇を紛らわせようとしても、雨水を垂らす車窓越しでは文字も判読できなかった。
ケータイでもいじればいいのだろうが、予備バッテリーを持ってきているとはいえ、この非常時に無駄遣いは避けたい。
結局他の思いつきもなく、仕方なしに単調な景色を眺めていると、頭を引っ張られる感覚が。
振り向くと、
「・・・・・・何やってるんですか」
鮮香が彼の縛った髪の一房を手に取っていた。
「いや、よくやるよなぁ・・・・・と。着替えるのはともかく、女装までし替えるなんてさ。
趣味に拘りすぎだろ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
もはや訂正する気にもなれないほどされてきた、女装趣味という勘違いに釧はうんざりした顔をしたが、それはもうどうでもいいと割り切る。
問題は彼女があることを認識していないことの方で、彼は鮮香にいじられた髪を整えながら言った。
「むしろ僕としては、兎傘さんこそその姿でいいのかって思いますけど?」
「うん?」
「倉庫から始まった一連の戦闘、かなり派手にやっちゃいましたし、少ないとはいえ目撃者もいます。
普段でもまずいのに、今回レッドマーキュリーが関わってますしねぇ。
残留放射線が現地で検出されたら、一発でアウト。僕ら間違いなくロシア政府に狙われますよ?」
「あー、ま、まぁだいじょう――――」
「兎傘さん、足止めさん相手に通りで能力使ったんですよね?」
「・・・・・・ヤバいかな?」
ダラダラと汗をかき始める鮮香。そんな彼女に釧は躊躇なく彼の思うところを口にした。
「ヤバいですね。日本ならともかく」
言外に日本ならもみ消せますが、という彼に突っ込むことなく、彼女はあーだの、うーだのとしばし悩んだ後、手を釧路に向け、
「ウィッグ貸してくれ」
助けを求めたが、彼はにべもなく、
「持ち合わせがもうないです。湿ったのしか」
肩をすくめてそう返した。
まぁ、こっちの人には東洋人は皆同じに見えるに見えるらしいですしと、心のまるで入っていない慰みを続けて口にした彼を、彼女は恨めしそうに睨みつけたが、彼は涼しい顔で再び車窓の外に目をやった。
相変わらず、雨のノイズと灰色とが混じり合った、味気ない世界が広がっている。
町並み、アスファルト、電柱、そして読めない広告。
空港までは後どれくらいだろう・・・・・・?
――――と、そこで釧はあることに気づき、腰を浮かせて後ろのリアガラスへ振り返った。
車の後ろにあるもの――――正確には今し方通り過ぎたものを目で追っての行動だったが、問題のモノをかくにんした彼はすぐさま運転席に向き直して叫んだ。
「止めてください!」
「どうした?」
「電柱!全く同じ広告が同じ場所に・・・・・・景色がループしてる!」
自分に出された指示以外日本語でなされる会話に困惑しながらも、鬼気迫った釧の様子に運転手がブレーキをかけた、その時だった。
衝撃と鉄のへしゃげる乾いた音、そして天地が逆転し、さらに反転しぐちゃぐちゃにかき回される車内。
中にいた3人は知る由もなかったが、この時タクシーはとある暴力を受けて、後方部を大きく凹ませ、バク宙する形で縦方向に回転し、フロント部分からアスファルトに落下してフレームをへしゃげさせ、それでも勢い止まらずに次は横回転して電柱にぶつかっていた。
だが、釧も鮮香もこの程度でどうにかできる相手ではない。
潰れて原型を留めていないスクラップがギチギチと音を立てて押し開けられ、内側からまずは釧が出てきた。
「なーんだ、ちゃんとまともな攻撃できるじゃん」
彼が右手で哀れにも商売道具を失った中年男の襟首を掴んで車から引っ張り出してやると、元は彼らが原因とはいえ、助けられたその男は彼の腕を逃れて雨の中を逃げ出した。
仕組みは分からないが、連中の手中に閉じこめられている今、走ったところでここから脱出できないだろうにと思いながら、彼は自分の頭の上に展開していた念力の傘を消して、さっき購入した本物の傘をさす。
彼が鉄くずから濡れた地面に降り立つと、今度は鮮香がタクシーだったものを熔解させて姿を現した。
「全く、何なんだよあの連中は!
能力は出し惜しみするわ、逃げたかと思ったらその日の内に再襲撃してくるわ!」
「知りませんよ。不意を打つのが好きなんじゃないですか?・・・・・・全く心臓に悪い」
「何が『心臓に悪い』だっての。潰れてるくせにこれ以上悪くなるもんか」
「そりゃそうですけど。さて・・・・・・」
そう言って、彼が視線を向けた先、数十m離れた路上に襲撃者はいた。
女性が2人。1人は鮮香が追い払った人物だったが、もう1人は初めて対峙する人物だった。
2人とも黒いフード付きの外套を着込んでいるが、視界が悪くなりすぎるからか、フードは被っていない。
元々、その異様な出で立ちは正体を隠すというよりは所属を表すモノらしく、今は|雨避け「レインコート」としての意味合いが強いのかもしれない。
『心臓殺し』と『形態変身』がいないのは、打破されたのと元から戦闘員じゃないからだろう。
「ま、本人様がいるわけですし、聞きたいことは素直に聞きましょう――――」
と、日本語でここまで言ってからロシア語に切り替えて、釧は尋ねる。
「あなた達は何なんですか?僕達はレッドマーキュリーを回収したいんですけど、歩み寄りは無理なんですかね?」
連中がラリーサをさらっていった事実からして不可能な提案だったが、やっぱり返ってきたのは例の見えない弾丸だった。
当然、釧は前に張った念力でそれを防ぐ。インパクトの際、僅かな違和感を感じたが、その原因を分析する暇はなく、「BANG!!」と鮮香のいったとおりの方法で、次々と飛ばされてくる弾を避けなければならなかった。
手でピストルを模すというスタイルも彼女から聞いたものだったが、彼に向けてそれをやってきているのはもう1人の方で、足止めしてきた女性の方は今は鮮香が相手をしている。
(ロシア流の念力の補助スタイルか?)
とも思うも、指の向きで攻撃が読みやすいし、タイミングはかけ声で丸分かりだ。直線でしか撃ってこないので、全く脅威を感じない。
そもそも雨の中では見えない弾丸の意味もなかった。
それに加えて、何発も攻撃を視てみて、やっぱり敵の攻撃がおかしいことに彼は気がついた。
(念力っぽくはあるものの・・・・・・何かが違う・・・・・・)
自身が念力能力者であると同時に、能力波というものに敏感な釧だからこそ気づいた違和感。それはこれまで珍種を含め多種多様な能力者と対峙してきて初めてのものだった。
だが、念力波解析に用いる例の機械はすでに作動させているので、考察は後回しだ。今は戦闘に集中しなければならない。
いつもならともかく、心臓がまともに機能していない現状では激しい動きはできないし、心臓から漏れた血のせいか、動く度に身体が悲鳴を上げるのだ。
さっきのタクシーを襲った一撃はこっちの彼女によるものだったらしく、またしも強い方の相手を引いてしまったのも辛いところだった。
数発避けたところで、身体のダメージ具合から避けるより念力で受けた方がいいと判断し、釧は足を止めて念力を展開した。
弾と盾が激突し、空気が震動する。
雨水が弾け飛び、その飛沫が傘をさしている釧にもかかった。
敵対する彼女は、今まで立っていた場所から移動を開始。彼を中心点に旋回し、念力の盾で防げない角度にくると、また例の歪な弾を撃った。
彼女の弾が見えるのと同様、釧の念力も可視化されてしまっているがための弊害だった。
新たに盾を作り出す彼と、即座に場所を変えて隙を突こうとする彼女。
2人の攻防がしばし、絶え間なく続けられた後、釧が攻撃に転じた。
盾に穴を開け、そこから火球を放つ。
電気ではないのは、さすがに不純物を含んだ雨の中では感電の危険性があるからで、雨水を凍らせるお得意の攻撃は後で取っておくつもりだ。
彼とは別に、少し離れたところで鮮香が使った発火能力の分も含めて、雨水が蒸発して発生した水蒸気が白く辺りを漂っては、降り注ぐ雨に冷やされてかき消える。
この戦場はとにかく視界が悪い。
迫る火球を相手は打ち落とそうと何発も弾丸を放つが、直径50cmほどの火の玉はなかなか消えない。というのも、釧が火の核に炎色反応で鉄片を仕込んでいるからで、彼女は自分に当たる前に、ソレを何とか逸らすのが精一杯だった。
第二弾、第三弾と彼の火が飛んでいき、防げないと悟った彼女は完全に逃げる側になり、立場が逆転した。
火球の着弾とともに、アスファルトが融けては冷やされ、ミルククラウンに似た形状で固まっていく。
熱に辺りの温度が暖まり始め、すぐには消えなくなった水蒸気で敵弾が見えにくくなっていくことばかりに気がいっていた彼女が気づいた時には、彼女の足場はかなり悪い状態になっていた。
もう一撃。彼女の足をしっかりと止めるために、釧は今までのものより少し大きめの火球を放出する。ねらいは彼女自身ではなく、ミルククラウンを形成しているアスファルトだ。
鋭く地面から突き出していたアスファルト片が、彼の攻撃に弾き飛ばされて、彼女に襲いかかる。
そこで本命の一撃。彼はここで撥水能力と冷却能力を使った。
あまるほどある水を寄せ集めて凍らせ、彼女の頭上から降らせる。雨は雹に代わり、降り注ぐ凶弾に彼女は悲鳴を上げた。
だが、彼女もこれでやられてくれるタマではなかったようだ。
雹から身体を守ることをやめ、無理矢理釧に向かって走り出した。
けれど、それは愚策だ。釧のようなPKには真っ正面から突っ込んでくる相手など格好の的でしかない。
それを当然発火能力で迎え撃つ彼。だったが、
「なっ・・・・・・!」
それが彼女に当たることはなかった。
彼女は火球をギリギリのところで避けた。
ただし――――人間では到底不可能な方法で。
耳をつんざく短い咆哮、チラつく鋭い犬歯、毛の生えた四足歩行動物の体躯。
一匹の、立派な狼。
その褐色の胴体が、火球を飛ばすために開けた念力の穴を、火の輪くぐりのようにするりと通り抜ける。
彼女は念力能力者。そう思い、彼女がいきなり変身したことに戸惑って反応が遅れた彼が我に返った時には、強靱な生態系の強者に姿を変えた彼女はすぐそこまで迫っていた。
慌てて傘を持っていない左手を突き出すが、能力発現は間に合わず、腕に噛みつかれる。
手を丸飲みにされ、手首に牙を立てられて、さすがに釧も呻いた。
葉月印の丈夫な身体とはいえ、それは再生力と運動神経に限った話だ。
肉を噛みちぎるためにある狼の顎に対抗できるはずもなく、だからこそ彼はさらに困惑した。
形態変身はあくまで姿を変えるだけの能力、いわばハリボテである。
狼に変身しようが、その顎は結局は人間の顎ほどの力しか出せないし、そもそも四足歩行で人間が俊敏に走れるわけがない。
だというのに、彼の腕は今引きちぎられようとしている。
牙が刺さった皮膚は乱暴に傷を拡げられ、傷ついた血管から溢れた血が滴り、抉れた肉の隙間から骨が見えた。
ごりごりと音がして、腕の骨が砕けたのが分かった。
(あぁ、さすがにこれ以上はまずいか・・・・・・)
何とかしてこの狂犬を引き離すか、それとも左手は諦めるか。
いや、引き離したところで結局使いモノにならないんじゃないか?
考えを巡らしていた彼は、自分の一部から聞こえる不穏すぎる音に時間切れを悟って、仕方なく左腕ごとこの犬っころを引き離そうと傘を持った腕を振り上げた。
が、彼が自ら腕を切り離すよりも先に、真横から高速で飛んできた光弾が腕にかぶりつく狼を吹っ飛ばし、当然彼の腕も手首から先をそのまま持っていかれた。
身体の自己防衛機能が働き、痛覚はある程度弱まってはいたとはいえ、覚悟していないタイミングと、思いの外派手に吹き出した血潮に釧は呆然とし、それからソレをやってのけた人物の方を見やる。
光の弾、というか火の玉が飛んできた方向、30mほど向こうにはもちろん鮮香がいた。
「ちょっ、何してくれてんですか!手!僕の手が!」
「え?だってどうせ切り落とす気だったんだろ?
だったら、ただ切断するより敵にダメージ与えた方がいいじゃん」
あくまで合理的に、損得を天秤にかけてメリットが大きいと判断すれば、躊躇なく味方を傷つこうが行動する。
これくらいでは死なないという、ある意味では信頼関係とも言えなくもないモノから生じる実にデンジャラスなお国柄である。
日本能力者の恐ろしさを体現する言葉に、人のことを言える立場でもない釧ですら少し引いた。
「いやいやいやッ!だからって普通やります!?
見てくださいよこの血!大怪我ですよ!?」
「早く止血したら?」
「葉月と違ってそこまで器用にできてないんですよ僕の身体は!」
相変わらず血の出続ける左腕を振り回す釧とその向こうで敵の攻撃をよそ見しながら会話を続ける鮮香。
味方の腕を巻き添えに自分を攻撃してきた鮮香や、さらにはいきなり漫才を始めた2人に呆気に取られはしたものの、火球のダメージから抜け出した狼な彼女は再び駆け出した。
自分が敵対している彼はどうやら中距離から遠距離を得意とするPKらしい。ならば、獣の姿で近距離から攻めるのが得策だろう。
4本の脚で水溜まりがいくつもあるアスファルトの地面を駆け、降る雨に体毛を濡らしながら接敵を試みる。
幾分か焦げて縮んだ毛は元の姿に戻った時にどれくらいの火傷になっているのか。
そんなことをほんの間考えた彼女だったが、今は目の前の強敵に集中することにする。
ついに釧の流した赤い血溜まりを、肉球を備えた脚が踏みつけた時だった。
彼女はいきなり目の前に現出した光に目が眩み、そして次の一瞬には自分が鉄格子の中に閉じこめられていることを知った。
炎色反応。
種を明かせばそれだけのことなのだが、本来釧の炎色反応は瞬時に檻のような構造物を作り出せるほどレベルの高いものではない。
自分の近くでなければうまく発現自体ができないのだ。
にも関わらず、今回それができたのは彼の血があったからである。
自分の血を使った位置情報の補正。
それはかつて、礎囲智香が賢者の石研究での副産物を媒体にしていたことや、あるいは葉月が自分の血や髪を『自分』と認識することで能力の拡張を図っていたことと同様の能力運用の仕方だ。
楽しい楽しい掛け合いをしながら血をまき散らし――――ちゃんと布石は打っておく。
これも日本のやり方と言える。
彼の作り出した檻は狼になった彼女が辛うじて立っていられるだけのスペースしかなく、動き回ることはできない。その上、格子の内側が刃になっているため、無理にでることすらできない造りになっていた。
「動かない方がいい。動くと身体がズタボロになる」
役目を終えた傷口をようやく念力で無理矢理止血した釧は、若干貧血でフラフラしながらも彼女の檻へと近づいていく。
血の鉄分をそのまま原料に使ったかのように、血溜まりの中に組み立てられた猛獣用のケージ。
衰えることを知らない雨が血液と混じり合い、気持ちが悪くなる透明と赤色のマーブル模様を描いている水溜まり。
雨の音の激しさがこうも絶えず続くと、ノイズのせいで物音や声を聞き取り難くなっているというよりも、自分の耳そのものが遠くなったのではないかという錯覚すら覚えるものだ。
鮮香がもう1人の方を引きつけていることを確認してから、些か音量を上げて釧は彼が捕まえた狼に言葉をかけた。
「さぁて、それじゃあ聞かせて貰おうかな。
君らのこと、君らの所属している組織のこと、目的、構成人数・・・・・・それから君らの能力について」
要するに洗いざらい吐きやがれという彼の尋問に対して、けれど彼女の答えは言葉ではなく、狼の咆哮だった。
口を目一杯開け、牙を剥き出しに。
至近距離で吠え立てられた釧が思わず怯むほどの唸りを上げ、そして刃付きの檻に構わず前進した。
その結果は言うまでもない。
身体が裂け、もちろんバッサリと切り下ろしにはならなかったものの、生命維持に必要不可欠な部位にまで刃が達したところで、獣の姿になった女性は暴れることすらできなくなって絶命した。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
狼だろうが人間だろうが赤には変わりがない血が流れ、元々あった釧の血と雨水とに溶け込んでいく。
その様子を苦々しく眺めていた彼は、鮮香の上げた声に我に返ってそちらを見た。
彼女の相手をしていたはずの敵の姿はなくなっていて、単調だった周りの景色が微妙に変化し、どうやら自分達を閉じこめていた存在は消え去ったようだ。
いや、彼の前に横たわる今は亡き彼女の方が閉じこめる仕掛けも担っていて、それが解けたためにもう1人は逃げ出したのかもしれない。
いずれにせよ、脅威は去った。
檻をどかし、けむくじゃらの死骸と化した敵を一応調べた釧が再び立ち上がった時には、鮮香も近くまでやってきていた。
「兎傘さん、始末の方よろしくお願いします。
とりあえず死体と血と檻と、残らないように」
彼に言われた通りに彼女はお得意の炎で見つかってはまずい物達を消し去り始める。
焼けるというよりは、蒸発するように死体や檻がアスファルトごと消えていった。
雨の中での、蒸気の混じった火葬が終わった後、釧は握り込んでいた右手を開いて持っていた物を改めて確認した。
「なんだそれ?」
鮮香が横から首を伸ばし、そう訊いてきたが、彼自身よく分からないものだった。
「さぁ、何なんだか。彼女が持ってたものなんですけどね」
彼の手に乗せられているもの、それは黒い石だ。
平べったい表面に、斜めに書かれた『Z』というか、上下両方向を示す矢印のような記号が彫られているのだが、その意味も役割もさっぱり理解できない。
それでもしばらく眺めてから、釧はそれをしまった。
「・・・・・・そろそろ行きましょう」
時間も押しているが、この場所に長く居たくもない。