第60話- 蜜と罪。-Lost Eden-
時の流れは久しく、古き良きあの頃の風景は遠くに霞む。
過ぎ去りし子供だった日々は黄金に輝く夢の中へ沈み、身を包む愛情を知らず童心のままに在れた楽園は失われた。
だからきっと、もう、
■
「好きなものはなんですかっ?」
焦点の合わない世界を眺めるのに眼球すら動かすのが億劫で、この世に在るのに息をするのも億劫で、何もかもに価値を見いだせない全ての失われた視界の正面、転入生と自分を表す単語にはしゃぐ子供達の姿もやはりぼやけていた。
自己紹介という名の「他人を知る」作業にすら、何故他人のことを知るのにわざわざ齟齬の生じる言葉を使うのかが分からなかった僕は・・・"僕"だった私は首を傾げた。
自分と他人の境界もありもしないのだ、好き嫌いに至ってはあまりにも無意味な事柄ではないか。
だから、生徒の1人のしたその質問に、自分はその必要性を問うた。
自分が嫌いでも君が好きであるのなら、それはきっと同じこと。
だってそうでしょう?
"僕"と君のその差異も区別も境界も、結局はあるようでないようなモノなのだから。
そんな応答の後、席に着き幾ばくかの時を経て、辺りが騒がしくなったと認識した辺りで、「ねぇ」、そう声をかけてきたのがクシロだった。
それが、出会い。
当時の人格と共に記憶の底へと沈んだ想い出の欠片。
――――音がした。
携帯がコンクリートに落ちた音。
飛んだ意識が覚醒して、跳ねた携帯が再び地面に着くその前にかすめ取る。
足は駅の方に向いて、足に込められた力に地面の方が削れた。
約束の場所がどこなのか、それを岩男に叫び問う。
駅に着いた辺りで、電車を待つ時間さえが無駄だと思い直して、路線に沿うように進路を変えた。
学園都市までは山3つと谷を1つ越えたほどの距離だ。
走った方がいい。
舗装された路線上なら尚更。
そこでやっと息を継いで、再び携帯に向けた言葉は相手について。
前は反光迷彩だった。
相手が攻撃性能力を持っているとは限らない。
けれどそんな淡い希望は岱斉の答えによって砕かれる。
古き良き風景、久遠将来。
その能力は――――
/
「時行割断。時を司る僕に勝てると思っているのかな?
いや、それ以前に・・・千代神さんは来ない、ですか。
確かに招請されていることを知らなければ、来れないんでしょう。
ですが、貴方は自分のやったことの意味を・・・万可やアレの邪魔をすることがどういうことなのか分かっているんですかね?」
将来の問いかけに釧は沈黙で答える。
ひたすら強い瞳で自分を睨みつける彼に、将来は口角を吊り上げた。
「その覚悟は買いますけど、しかし貴方」
と、自分が千代神と呼ばれる少女について調べた際についてきた朽網釧という少年の情報を引っ張り出しながら続ける。
「騒乱念力の能力ではいくら何でも力不足だと思うな。
言っておくけど僕は千代神さんにだって引けを取る気はないんだ。だからできれば――――」
退いてくれると嬉しいんだけど。
そう言おうとした彼の台詞を遮ったのは、倉庫の床を砕くおぞましい音。
コンクリートの床が粉々にめくれ上がり、自分が座っていたパイプ椅子までがひん曲がり鉄屑に化したのを見て、彼は目の前にいる、それをしでかした少年を見据えた。
「君・・・」
精神的余裕をアピールするための丁寧な言葉遣いは、わずか数分で剥がれ落ちた。
周りの惨状を確認し、そして空気椅子状態になっていた身体を立たせる。
明らかに直撃していた、もし自分が時間列の違う層を皮膜として全身に纏っていなかったら床の染みになっていた、容赦ない一撃に顔の筋肉も少々ひきつっていた。
「君、本当に騒乱念力か?」
コンクリートは脆く思われがちだが、その耐久性は使い方次第で100年単位にもなる強固な人工石だ。
物を動かすことが主な仕様である念力は、破砕するのにはあまり適していないし、ましてや鉄パイプをねじ折るほどの力を発揮する念力能力者は少ない。
灯秋高校の人間圧搾機、綿吊醐楓がその1例ではあるが、あれだって「押しつぶす」という比較的念力らしい使い方をしている。内側から爆砕するようなものではないのだ。
そもそも騒乱念力は能力をちゃんとコントロールできない低技能能力者につけられる、能力名というよりは程度を表す言葉に近いモノだ。
ここまで威力を出せる騒乱念力なんて存在しない。
だが、そんな事情に疎い釧は「ああ」とそれを肯定し、そして手をかざした。
「ただの無力で弱虫な騒乱念力だよ」
破裂音が響き、同時に将来のいる辺りの床が一気に吹き飛ぶ。
飛び散る大小の破片に思わず顔を庇い、力の奔流の中心で改めてその威力を体感して呟いた。
「何が無力だ・・・」
/
景色が流れていく。
夜闇に染まり、灯りを灯した街並みは光の筋に変わって、黒と白や赤の線を幾重にも走らせた視界が後ろへ消える。
自分の息が大きく感じる中、足を踏み出す度に揺れる頭は何を考えているのかもよく分からない。
周りの景色に意識をやる余裕などありはしない。
けれど、どれほどのスペックを誇ろうと目的地にたどり着くには時間がかかる。
手持ちぶさたに空回りし続ける思考は、走馬燈のように様々な過ぎた景色を浮かび上がらせるばかりで、現状を打開する最適な方法を導き出してはくれない。
囁きほどの小さな幻聴がクシロの声を幾度も繰り返して、壊れそうなほど耳が痛い。
「ねぇ、君の名前ってどういう意味なの?」
「君の目ってちょっと薄くてきれーだよね」
「いーな、髪さらさらで」
「ねぇ、学校楽しい?」
「いや・・・ないか。・・・いつも君を連れてくる男の人ってお父さん?」
「車椅子してるけど、歩けないわけじゃないもんね。歩くのって嫌?」
「というか喋るの嫌い?」
「・・・・・・実は、こう喋りかけられるのも鬱陶しい?」
――――そう、オドオドした態度でされた質問に、"僕"は初めて答えを返した。
何て返したのかは思い出せないけれど、きっと否定の言葉を口にしたはずだ。
何も考えず、何も思わず。
入ってくる景色にも意識を向けず、ただ、何故か話しかけてくる少年の言葉を耳に受けて過ごしてきて、あの時初めて。
私は、その少年に意識を向けた。
/
削られるように、抉られるように、平らなコンクリートが耕され、一部は壁の鉄筋までが無惨にささくれだって切断されている。
仮にも数十年は耐久性を求められているはずの倉庫はすでにボロボロ。
倉庫には荒れ狂う騒音が絶えず響き、耳が壊れたのではないかと錯覚するほどだ。
体育祭で本戦に参加できず、これまで使う機会のなかった釧の能力は、今まさに真価を発揮していた。
逃げ回りながら、物を壊させて相手の能力を見極めようとしていた将来は、自分の想像のさらに上をいくそのでたらめさに心の中で素直な賞賛を送った。
鉄筋コンクリートを破砕できるのなら、人体などいともたやすく粉砕できるだろう。
ナノメートルもない薄い皮膜とはいえ、時間を極端に遅らせた層を挟むことで、疑似的に時間と空間を周囲と割断している彼は直撃しても一切ダメージを受けることはない。
能力波は彼の人体に届く前にその層で受け止められ、数時間かけて層を通過することになるため、能力も物理攻撃も通らないほとんど無敵の防壁と言っていい。
数時間も同じ場所に立ち尽くすことはまずないし、移動さえしてしまえば攻撃からは簡単に逃げられる。
だからこそ、戦闘に際しては「攻撃を受けたら移動する」ことを習慣づけている彼にとって、めちゃくちゃに攻撃を仕掛けてくる釧はなかなかに厄介な相手だった。
しかも倉庫が半壊するほど乱発しているわりに疲れが見れない。
この威力で燃費がやたらいい。
それが問題だった。
先に燃料切れになるのはまずい。だが、お得意の時間操作で殺そうにも、相手は自分の時間を止められることを恐れて一定の距離を保っている。
最初に能力名を言ったのは失敗だった。
止められる時間の範囲が1mほどの将来には、今の距離でそれを行うことはできない上、そのことはどうやら相手に知れたらしい。
時間操作の能力者を相手取るにあたって一番に懸念する問題事項はクリア。
ならば距離を取って体力切れを待つ。
それが向こうの算段だろうと将来は当たりをつける。
幸い、能力適応範囲以外の情報はまだ渡っていないだろうが、こうして逃げ回り続ければ気づかれる恐れはある。
(まぁ、気づかれたところで対処できるようなモノじゃないけれど・・・)
何より問題なのは、彼からの攻撃手段だった。
無抵抗な相手に一方的に攻撃できる応用技があるとはいえ、時間操作自体に攻撃性はない。
そのため拳銃を用意してはいたのだが、試しに1発撃ってみれば、それは釧に当たる前にへしゃげて明後日の方向へ飛んでいった。
相手もある意味で規格外らしい。
せめて背後に回れればと思うが、それができるぐらいなら能力の届く範囲まで接近してる。
幾度目かの直撃を食らい足場を崩されながら、能力的ではなく肉体的にも体力を消費する状況に少々嫌気がしたが、彼もただ防戦一方だったわけではない。
相手の能力を何度か観察すれば、規格外念力の制限も分かってくるというものだ。
正面、下から上という方向性。
加えて、一度使えば次の一撃に切り替えるまでに隙ができる。
つまりは操作性には優れていない。
うまく隙を狙えば銃弾を撃ち込むことは不可能ではないだろう。
しかし、持っている弾は現在マガジンに入っている分だけで、残りは6発。無駄遣いはしたくない。
薬剤が入っていた箱の側面が破れ、PTP包装シートがバラバラと雪崩れ、緑や黄色に彩られたアルミと共に中の薬がさらに粉々になって空気中に舞った。
何の薬かは知らないが、白い粉がもうもうと段ボールから上がっていくのを横目に、将来は距離を縮めるべく前方に走る。
すでに足場がかなり悪くなっている。
距離を離されたままこれ以上床を壊されて物理的に離されるのは避けたかった。
一歩踏み出せば、靴底から床が砕かれていく感触が伝わり、途端にバランスを崩しそうになる。
時間を隔離しているとはいえ、地面に足をつけ重力に縛られる彼もまたその影響から逃れることはできない。
空中で自分の周辺の時間を止めたところで落下が止まらないのと同じだ。世界の全てが止まるわけではない。
4mと目測でそのぐらい近づいたところで、手の拳銃を頭部を狙って片手で構える。
(このまま突っ走って、ゼロ距離でしとめる!)
そのシンプルで必殺の策は、けれど完全に床が抜けたことで頓挫した。
地下があったために比較的薄かった床は崩れ落ち、巻き込まれた彼は地下1階へ。
痛さはないが落とされたという事実には冷やっとした。
さらに、聞こえた上からの大音に見上げれば、おそらく念力が天井まで上がっていったのだろう、削り取られた巨大な瓦礫が彼に向かって落ちてきていた。
/
彼はクサミクシロというらしい。
彼は自分の癖っ毛を気にしているらしい。
彼は僕に話しかけてばかりいる。友達がいないらしい。
そして、彼は趣味が悪いらしい。
答えもロクに返さない、表情も動かさない人形のような自分に話しかけ続けるなんて、そうとしか思えない。
椅子にただ佇む自分の正面で、相変わらず机の上で組んだ両腕に顔を乗せながら、話しかける彼。
自分がそれを赦したとはいえ、楽しいわけもあるまいにやめようとしない彼に微かな疑問が沸いた。
何で彼は自分に構うのか。
何で彼は自分と他人の差異を気にするのか。
何で彼は人形に話しかけるような、結局独り言めいた――――自分との対話に価値を見いだせるのか。
興味。失ったはずのそんな人間としての機能が再生し始めたのは、たぶんその頃。
毎日のように顔を合わせ、目の映す顔や耳に届く言葉に意識を向ける。
いつしか彼の様子を目で追うようになって、気がついた。
彼は人に嫌われることを怖がっている。
それが何故なのか、私には理解できず、まだ首を傾げるという人間らしい動作も、訊くという言葉を介した手段も取り返してはなかった。
/
もしも生身なら頭部が潰れて死んでいただろうコンクリート塊は将来の頭に直撃し、転がり落ちた。
遅滞した時間に表面が接した瞬間に運動エネルギーの伝達が極端に遅れ、膜に触れていない大部分が重力の影響を受けて落下する。
それが彼の絶対防御。
ほとんど無敵だと自負する鉄壁だ。
けれど、それとこうも攻撃され続ける不快感とは別であり、圧倒的優勢、上位という立場にいると自覚している分その度合いも大きい。
「いい加減、苛立ってきたよ、全く・・・」
どうせ付着することなく滑り落ちる埃を自ら払い、再び上を見上げる彼。
ただ、そこから釧が降りてくることはなく、距離は離しておきたいが、下にいられると攻撃ができない彼は自分の立つ床に新たな穴をあけて落ちてきた。
ごほごほと咳をして、髪を塵で白くして、目だけは将来を射ぬいている。
「いや、ホントその覚悟すごいよ。
内実はどうであれ、騒乱念力扱いの能力で向かってくるわ、致死確実の攻撃を初っ端から放ってくるわ・・・・・・もし何かの弾みで僕の能力が切れたらズタズタになるってのに、何の躊躇もなく殺しにかかってくるし」
何とか身体で覆って守った銃を三度構えて将来は言う。
「でも、調子に乗りすぎだ。施設出身でもない、名字もない、3等級止まりの一般能力者が踏み入れていい領域じゃないんだよ」
再び試みられる接近。
しかし、今度はまだ真新しい床で、これ以上地下もない。
加え、踏み込む位置に前もって時間遅滞をかけて壊されるのを防ぐ。
ガリガリと大げさな騒音を携えた見えない暴力が嵐のようにそこら中を傷つけていくが、今度の接敵は止まらない。
少し手間をかければ簡単に看破できる。
確信して、1.5mほどに距離が縮まり、釧が下がって壁に背中をついたところで彼は最後の一歩を踏み出し、飛びかかろうとして床から両足が離れた瞬間、無色透明純粋な爆発に似た力を受けて吹き飛んだ。
「っく、ぅお!」
元いた場所にまで転がらされた将来が起き上がる前に、今度は聴覚を狂わせる弾雨が追撃してきた。
夏に、葉月から預かったVz.61を釧が弾数も照準も気にせずに撃ち込んできているのだ。
どうせ訓練を受けているわけではないので狙い撃てるわけがなく、細い腕は反動に耐えきれずいずれ逝かれる。
ならば、その前に全て撃ち尽くす。
そんなシンプルな攻撃の的になり、クリスマスツリーの装飾のように弾丸で飾り付けられた将来は、しかし冷静に考える。
さっき自分が飛びかかったのは偶然だ。
もし普通に距離を詰めていたら、彼に接近を止める手だてはなかったはず。
限定的な時間操作は空間操作に似ている。
特定の物体の時間だけを遅らせれば、世界全体の時間とその物体の時間に相対関係ができる。
全体時間から物体時間を流れるモノに干渉することは確かに困難だが不可能というわけではない。
木から落ちる林檎の時間を止めても、全体時間の空間的に重力は働いて林檎は落ちる。
痛む痛まないの違いはあるが、世界そのものを止めでもしない限り時間操作は空間の影響から逃れられないし、例え落ちる前の林檎の時間を操作しようと、枝ごともがれれば結局は落ちるのだ。
床から足を離せば、座標位置の変更という空間干渉を受けるし、離さなかろうが床全てを破壊尽くされれば吹き飛ばされる。
先ほどはその前者を食らったわけだが、だからといって釧がそれを計算に入れていたとは彼は思わない。
ゴリ押しで攻撃してきているだけだ。
そもそも2等級という他の能力とは一線を画す能力持ちに対して、何の対策もなしにのこのこやってくる相手に策があるわけもないではないか。
勝てる。
攻撃を通す手段も思いついた。
駆けだした将来と、マガジンの弾を全て吐き尽くした小機関銃を放り捨て能力で迎え撃つ釧。
念力の能力が及ぶ前に将来の拳銃から弾が放たれ、空中で止まる。
床の一部ごと時間遅滞して位置を固定させたまま、彼自身は走り続け、あと3歩というところで、上へと昇り始めた念力を潜るように滑り込んだ。
能力の影響化にないことを確認して、その位置からもう1発撃った銃弾は釧の左ふくらはぎを掠めた。
念力を切り、もう一度将来に狙いを定めようとした釧だったが、駄目押しは過去からやってくる。
時間操作を解除された1発目の弾が念力に阻まれることなく、今度は彼の耳に穴を開けた。
/
それまで毎日見ていたクシロの姿が数日おきに変わってクラス替えがあったことを、新学年になったことを、一年が過ぎたことを知った。
思えば、いつの間にか私の世界は彼を中心に動いていた。
新しい学年になって、新たにクラスメートとなった同年代の子供達と、かつて6月の名前で呼ばれた少女を含めた白い同類達と接していた頃のように応じれるようになり、幾らか人間味を得た"僕"は酷く大人しく、無表情ということを除けば、問題のない生徒のように周りに見えているようだった。
クラスが違うのにクシロがやってくるという習慣に変わりはなく、その日を待っている自分に気づいたのは何時だったか。
なんて、無意識に意識が宿る瞬間なんて分かるはずもないのだから、詮もないことではあるのだけれど――――何にせよ、その頃、今は"私"当時は"僕"という自人称を使い使っていた意識は芽生えたのだろう。
ある日、定期的に機構の職員が切ってはいたものの、1年以上の月日が経ってさらに伸びた髪をいじる彼を観察すれば、袖口の隙間から青痣が垣間見えた。
別の日、襟口に掴んだような皺が寄っているのを見て首を傾げ、それを問おうとして止めた。
クラスが変わってから少しクシロの様子が違ってる。
それでもそれを自分に知られたくないらしいことが分かってしまって、いつものように彼の言葉に耳を傾ける日々が続いた。
次の年度の3日後までは。
クシロを苛めている奴らがいる。
薄々気づいてはいたけれど、実際この目で目撃した瞬間我慢できなくなった。
目障り。耳障り。
こんな連中は消えてしまえばいい。
そこに躊躇はなかった。
だって、そんなの前にもやったんだから。
今度は言葉ではなくて、この手で。
そう思った時には椅子の足を掴んでいた。
嫌――――好きも嫌いも、自分も他人も同じこと、そんな思考をしていた私は、その感情をもって再び自他の境界を切り離し、腕を振り降ろした。
鳴り響いた音はあまりにも心地よく、握る手にくる振動もまた心地よく。
久しぶりに見た血の色。
対して興奮も味わえない汚れ血を一瞥し、呻く大根や南瓜ほどにも価値を見いだせない連中を無視して、私はクシロの元へ向かった。
相変わらず全てが等価に見える世界で、それでも価値を見いだして、"僕"は手を差し伸べた。
/
耳はともかく、ふくらはぎの痛みに膝を着いた釧に、将来はトドメを刺しにかかる。
1m、そこまで近づけば勝ち。
だが、生命本能がもっとも活性化するのは命の危機に瀕した時であることは、睦月がそうだったことからも分かる通りで、床のコンクリートごと丸々持ち上げられて彼は気づいた時には天井に叩きつけられていた。
「面倒・・・臭い相手だ・・・・・・」
心底、そう思う。
人はそう簡単に死なないと何かで読んだ覚えがあるが、超能力を持っていても殺人の難易度は変わらないらしい。
足を接した面の時間を遅滞して天井に身体を縫いつけ、逆さまに彼は走り出した。
下から上という制約上、釧の念力が上にまで到達するにはタイムラグがある。
その前に接近できればいい。
十分なところまできて下へと飛びかかる。案の定やってきた念力を自分に届く前に遅延時間の中に閉じ込めてくぐり抜けた。
ただし、天井から床へという上下逆の世界へ帰還するのに、運動能力の高くない将来に空中で身体を一回転させるような芸当はできず、当然宙で銃を向けるような真似も不可能で、タックルするような形で釧に迫ることになった。
それを前のめりになりながら横に逃げ、距離を取ろうとする彼へ将来が銃を向けるのと、釧が振り返るのは同時。
弾は放たれたが、銃身を抜ける前に銃の内部構造ごとねじ曲げられた。
銃の中もコーティングしておくべきだったと後悔しても遅く、使いものにならなくなった鉄屑を捨てた。
もう後半歩近づけばいい。
そこまで迫っているからこそ、必死に抵抗されている。
だがもう一踏ん張りだ。
そう思って足ばかりが先走り、注意が散漫になっていた彼に上から砕けた天井が降り注いだ。
(またッ!)
つくづく閉鎖的な場所で相手をするべきではない能力と思いながらも、離れさせまいと無理に進んだ目先に一際大きな固まりが落ちて、進行を妨害される。
「くそ!」
同時に粉塵だか薬塵だかが地下にまで落ちてきて2人は咳込んだ。
口に入った粉を吐き出し、口を拭う。
そこで釧の手は止まった。
(っ!そういうことか。あぁもう、何でもっと早く・・・っ!)
時間割断という彼の能力の性質と弱点に気がついたのだ。
けれど、そこまで思い至って湧いてくる感情は後悔。
もっと早く気がつくべきだった。せめてVz.61を残しておけば。
気づいたからこそ彼には自分の能力と相手の能力の相性が悪すぎることが分かってしまう。
(地面に伏せさせないと話にならないな・・・)
苦々しく心中で呟いて、釧は広くない倉庫の中央に突き刺さった瓦礫を見た。
1階部分床はほとんど抜けてしまい縦にだけ広い空間、屋根にも穴が開いて夜空も伺える。
なんだかんだで、物理世界の影響から完全に切り離すことはできないのは前に吹っ飛ばした際に理解した。
床一面ごと崩してしまえば体勢を崩させることは不可能ではない。
問題は立ち上がる前に、もう一度念力を当てるのが難しいことだ。
能力のオンオフに隙ができる釧の能力では、間に合うかどうかは微妙なところだろう。
タイムラグを縮めるためにはギリギリまで近づいた方がいいが、その辺の目測も将来の能力有効範囲がはっきり分からない釧にはかなり分の悪い賭になる。
それでもやるしかない。
先制して念力で瓦礫の山を崩し、その向こうに将来の姿を見つけ走り出す。
狙いは足場だ。
床ごと抉り出すつもりで発現させて、すぐに切るイメージで。
今まで近づくことを忌避していた相手が突進してきたことに将来は戸惑った。
自分の防壁が破られるとは思わないが、ただ無闇に突っ込んでくるような馬鹿なら最初からそうしている。
策を思いついたのは確かだ。
それが実際自分に有効かどうかは置いておいて、優位に立っている自分がわざわざ迎え撃つ必要ない。
今度は彼から離れようと後退したところで、その足が空を掻いた。
ゴリゴリと今までで最もおぞましい音を響かせて、巨大な爪が抉り飛ばしたような傷が地下の床のほとんどを剥ぎ取っている。
その様を空中で確認し、さらに将来の目は接近してくる釧の姿も捉えた。
後ろに飛ばされ、壁に身体を打ちつけて凸凹になった床にうつ伏せで倒れるという3連打を食らうも傷一つつかなかった彼は、すぐさま立ち上がろうとしている。
それをさせるわけにはいかない。
釧は自らが崩し走りにくい足場を駆けた。
だが、
/
あれからずっと、私達は一緒だった。
クシロは同じ中学に行けるようにしてくれた。
水族館につれていってくれた。
好意を抱いてくれていた。
・・・なんて滑稽な話。
人形のように魂のない私に、愛情なんてものがあるわけもなく、それが出来損ないの愛着だと気づくこともないままに、今になってそれを思い知っている。
まるで刷り込みのようだった。
歪な、関係だった。
孵ったばかりの雛が親を認識するのと同じで、そこに感情など関係なく、だから間違えた。
他人も無価値で自分も無価値。例え愛着心を得たところでそれは変わらずに、自らを想えないモノに他者を想えるわけもなく、クシロが私のためにここまでの行動を取ることなど思いもしなかった。
あぁ、何で今まで気づかなかったんだろう。
殻を破った雛が最初に見るのは他人の顔で、自分の姿ではないなんて、そんな分かりきったことに。
自分の方が、先に死ぬと確信していた。
当然だ。どうせガタガタの身体だったし、いつ解剖さてもおかしくはなかったんだから。
だからクシロが先にいなくなるなど考えもしなかったのに、今はそのことが頭から離れない。
間に合わなかったら?クシロが死んでしまったら?
胸が痛いのがオーバーワークのせいなのかも分からない。
巡る想いが、溢れる想い出が止まらない。
机に顎を乗せるクシロ。
念力の練習で落ち込んでいる姿。
青く光を透す水槽の前で。
ワイン1杯で上半身を揺らし始めたこともあった。
文化祭で女装して恥ずかしがっている顔。
この前のソファーの上・・・。
それらが全て過去に記憶に成り下がろうとしているという実感が襲ってくる。
クシロがいなくなった後のことなど想像もできないというのに、私はその立場に立たされる人物のことなど考えもできずにいた。
縫い包みを友達と幻視する子供のような、ボロボロになった枕カバーの切れ端をひたすら抱きしめる子供のような、愛情崩れの愛着をずっと抱き続けた無様で酷く惨い有様だったのだ。
「このままだときっと今の関係すら持たない」
そう、クシロが言った通りだった。
そんな関係がいつまでも続くわけがなかったじゃないか。
そんなままで、支障がでないわけがなかったじゃないか。
息がうまく吐き出せない。
胸の圧迫感と身体を揺らす心臓の鼓動。
滲んだ汗が熱を持って身体を蒸らす。
自分の身体を完全に支配下に置ける能力が恨めしい。
そうでなかったら、ここまで乱れるわけがない。
目に入った汗を拭って、開きっぱなしの顎を閉じた。
「俺さ、たぶん、葉月のことを――――」
耳の奥でガンガンと、その台詞が響いて痛い。
「俺がどう見てるかってことだけは覚えてて・・・・・・」
それが意味することは分かっていたはずなのに。
全部、私のせいだ。
あの時でも遅くはなかった。あの言葉にちゃんと向き合えていれば、もっと気を払えたはずだから。
あるいは夏休み最後の日でもよかった。倉庫で分かれた時の、クシロの心配げな表情を見過ごさなければ、カイナの言葉に耳を傾けていれば。
いや、同じ中学に通うよう説得するあの真剣な眼差しに、自分の姿が映っていることに気づいていればよかった。
・・・・・・でも、人形を抱くヒトガタに待っているのは、きっと最初から惨めな結末。
後悔まで混ざって、ぐちゃぐちゃになる思考の中、目を背けていた結論が気泡のように湧いてくる。
あぁ、そっか・・・私は――――
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だが、釧の進行は止まり、唇を歪めたのは将来だった。
時間遅滞されたのではない。
だとしたら止まっていることを知覚することすらできないはずだと釧は今も思考している。
ならばこれは何なのか。
その答えは釧の足が停止した位置にある。
将来が釧の念力を時間遅滞させて隔離した場所なのだ。
キューブ状に隔離されたままの時空間に接したために、ちょうど壁に当たったように進めなかった。
もしそんな状態で釧の凶悪な粉砕念力が隔離された時間体が開放されればどうなるか。
その結末は現実となって示されることになる。
乱気流のような方向性でもって拡散していく力の奔流に呑み込まれ、下から上へと釧の身体は引きちぎられた。
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時の流れは久しく、古き良きあの頃の風景は遠くに霞む。
過ぎ去りし子供だった日々は黄金に輝く夢の中へ沈み、身を包む愛情を知らず童心のままに在れた楽園は失われた。
だからきっと、もう望んだ将来はやってこない。
次回、最終話「生命虐殺。-Biocide-」
――――ていうプランも初期にはあったという怖い話。