第58話- 無垢。-Fig Leaves-
――――禁断の果実を食べた少女は羞恥心を得、
微かに聞こえる水音に目が覚めた。
うつ伏せで枕に突っ伏していた顔をもたげると部屋の中は真っ暗で、カーテンの隙間から漏れる光もない。
携帯で時刻を確認するともう夜だった。
昨日の邂逅で得た収穫をきっちり自分のモノにすべく机に向かい、思いの外熱中してしまった結果、眠りについたのは今日の午前5時ほど。
そう考えると起床にはいい頃合いだろう。
どうせ冬休みなんだから昼夜が逆転しようが大した弊害はない。
寝返りでズレていたヘアバンドをひとまず外して、手櫛で髪を整えてから部屋を出た。
ドアを開くと同時に大きくなった水音は浴室から聞こえてくるようだ。
葉月がシャワーを浴びているのだろう。ここにインターフォンなしに入れるのは彼女しかいない。
寝ぼけた頭を起こすのに炭酸でも煽ろうとリビングに入って、冷蔵庫からサイダー缶を取り出して一口つける。
横目で見たテーブルに葉月の携帯を見つけた。
何やら随分と傷がついているが、それでもちゃんと機能はしているみたいで、赤と緑のランプが点滅して着信を知らせ、ディスプレイに「岩男」と表示されている。
珍しい。あの男は基本的に現代文明の恩恵というやつを使わない人間だ。大抵の場合パソコンの方かあるいは手紙でことを済ますのに、何か急ぎの用事なのか。
そのことが少し気になったけれど、干渉しようのない話だ。
携帯から意識を外してもう一口煽ったところで、シャワーから揚がった葉月が入ってきて、その足音に振り返った俺は盛大にむせた。
「葉月・・・ちゃんと服着てから出てきてくれ!」
「ん?んー」
俺の切実な叫びに生返事を返して、葉月は胡乱と眠たげにしている瞳を擦った。
どこやらかなり疲れているようで、首がぐにゃぐにゃと傾いで、身体もフラフラと揺れている。
それをバスタオル一枚を巻いた姿でやるものだから、酷く扇状的だった。
返事を返したものの、内容はまるで耳に入っていなかったらしい彼女は服を着には行かず、幅がそもそも足らない上にちゃんと巻けてもいないタオル姿のままに歩み寄ってきて、俺の手から缶を取り上げると一気に飲み干した。
間接何ちゃら・・・まぁ、今更だけど。
どうやらそれが炭酸飲料とも判断がつかないほど意識が朦朧としていたと見えて、辛そうに顔をしかめ、それから目を閉じたまま天井を仰いで身体を揺らし、
「ぁー・・・もぅ無理」
気だるそうにそう呟いたかと思えば、リビングデッドのような足取りで歩み寄ったソファーに倒れ込んだ。
形骸変容を発現してからはこうもあからさまな疲弊を見せなかった彼女だったのだが、どうやら身体強化をも越えた疲れに身体を支配されているらしい。
せめて自分の部屋のベッドまで我慢したらいいのに。
そう言おうとして、それ以前に結局着衣という大問題が解決されていないことに気がついた。
「葉月、だから・・・服!」
けれど、葉月はもう顔を上げることすらせず、
「・・・寝てる間に着せといて」
さらりととんでもないことを言ってくれた!
「あのな、一応俺も男・・・なん、だけど・・・・・・葉月?おーい葉月さん?」
「下・・・着は3番目・・・の、引き出し・・・だから・・・・」
俺の抗議は軽くスルーし、むにゃむにゃと半分以上寝言のようにそう言って、葉月は本当に寝入ってしまった。
空しく開いた口をそのままにしばらく突っ立った後、その行動が葉月の半裸を凝視してるのと変わらないことに気がついて首を振る。
自然と太股に目がいってしまっていたことに激しく後悔。
・・・・・・布団かけてやるか。
タオル一枚では寒いだろうし、俺の目にも毒だし。
飲むだけ飲んで返却された空き缶を捨ててから、葉月が女になってからあまり入らなくなった部屋に入った。
中はなんだかんだで女の子していて、そのアイテムのほとんどがクラスメートの詰め込んだモノとはいえ、それでもちゃんと使っているようで安心した。
布団を畳んで、ついでに廊下をあの姿で徘徊されるよりはと、服の方ももっていくことにする。もちろん着せるつもりはさらさらない。
上下の服は簡単に取り出せたが、問題は引き出し3段目に入っているという・・・下着。
意図せず停止してしまった腕を伸ばして取っ手を引けば、中には丸く畳まれた布が几帳面に並んでいた。
気恥ずかしさにロクに目も向けずにその内の1つを素早く引っつかんで閉める。
一息吐いて、それを着替えのシャツとズボンの間に挟んだところで、今自分が手に持っていたモノが上下の下だけだったことに気づいた。
「うっ・・・」
仕方なくもう一度開いて、今度はちゃんと目的の物を探し出して手にする。
それだけの作業でかなり疲れがきた。
それも着替えにサンドして、さらに畳んだ布団に乗せてから布団ごと持ち上げる。
厚みのある布団を抱えると自然と顔に当たった。
鼻腔をくすぐる香りに、葉月が女の子なのだと改めて意識させられる。
その気恥ずかしさったら・・・!
これで、ちゃんと本人もその自覚を持ってくれればなぁ。
いや、それともやっぱり羞恥心の問題なのだろうか?
考えてみれば、男同士でも半裸を晒したり、着せ替えを頼んだりなんて普通はないし、実際男の頃の葉月とそんなやり取りがあった覚えもない。
体育祭の時にからかわれたことがあったし、女であることに自覚はある?
うーん、でも絵ロ梨がけしかけたことを意味も分からずやってるだけの可能性が高い。
そうでなかったら、葉月が俺に・・・・・・ということになるけれど、それは自意識過剰にもほどがある。
リビングに戻って、布団をとりあえずテーブルに置く。
まずはソファーの背もたれを倒して簡易ベッドにしてやろう。
そう思って、背もたれに手をかけたところで、さっきとは体勢が変わっている葉月の姿に慌てて顔を逸らした。
うつ伏せから仰向けに、巻いていた布は外れて身体の下。
それでも癖なのか両手は行儀よく前で組んでいるものだから、完全に胸がさらけ出されている。
勘弁してくれ・・・。
だから、俺も男なんだって・・・・・・。
簡易ベッド作成をとりあえず諦め、布団をかぶせて、そのままその場に座り込んだ。
動悸が激しい。顔が尋常じゃなく熱くなっているのを感じるし、ムズかゆさも。
後ろでもぞもぞ布団のすれる音が聞こえてきて、さらに心臓が痛くなった。
「あぁもう・・・、本当にっ」
ああいうところ、どうにかしてほしい。
・・・・・・そう思いつつも、頭を巡るのはつい先ほど見た葉月の全裸姿なのだから、我ながら情けない。
背中越しの規則正しい寝息に、呼吸と共に上下していた乳房を思い起こされて、体育座りで両足に挟んだ両腕をきつく締め付ける。
座り心地の悪さを感じて、腰の位置を何度も替えた。
うぅ・・・辛い。
今、自分が煩悩を起こしているのは、自分が保護者的立場を含んで接してる相手なのだと言い聞かせるために葉月の方へ振り返る。
と、
「ん?」
よく見れば、彼女の髪はショートになっていた。
首筋にかかる程度の長さを残して、ばっさりと切り揃えられていて、目を凝らして観察すると、いつもより艶もなく髪先のハネが多い。
そんな分かりやすい変化に気がつかなかったほど視線が他のところに釘付けになっていたのだと思い知らされて、情けなさが増した。
髪の違いに気づけば、次に目がいくのはうなじで、乱れた髪の隙間から見える生え際が妙に色っぽい。
寝返りにうなじが隠れ、代わりにこっちへ向いた顔にドキッとする。
閉じられた瞳の作る三日月型のまつげ、薄く色づいた木の葉型の小さな唇。
その唇に思わず手が伸びて――――すんでで、はっとして引っ込め、もう片方の手で締めあげた。
危なぁ!何をやってるんだ俺は!
無意識の行動に言い表せない恐怖を感じた。
今、俺は何をしようとした?葉月の唇に指を当てて?・・・その後は?
続きの想像に飛び起きて、跳ねながら距離を取り、1mほど離れたところで足の力が抜けてストンとへたり込んだ。
その際、腕に固く熱い感触を得て深く息を吐く。
・・・・・・。
・・・・・・もう言い逃れはできまい。俺は完全に葉月に欲情してる。
他人の入り込めない部屋の中2人きりで、葉月は無防備に寝入っている。
かけた布団さえ剥がせば、女の子の裸体があるという状況。
深く眠り込んでいる彼女は、今更布団の有無に気づきもしないのだろうし、俺が劣情のまま行為に走っても責めもしなければ、態度も変えないんだろう。
襲われないと信頼しているわけではなく、それの意味するところをちゃんと理解しないまま、別段構わないと許すんだろう。
そう考えると何故か身体の熱がいくらか冷めた気がした。
落ち着きと言うよりは萎えたような感覚に、今自分の思考の中に気に入らない何かがあったのだと知るも、それが何なのか霧がかかったように霞んで分からない。
俺は葉月に何を求めているんだろう?
最初は危なっかしい、目の離せない友達を保護するような、感覚だったはずなのに。
それが変わったのは何時からだ?
女になってすぐじゃない。見方は少しずつ変わっていったのだろうけれど、親友をそういう対象で見るようになった決定的な要因が何かあったんだ。
一番に思い出すのは暑い夏の日。少し遠出して入った水族館。
その時、だろうか?
水槽に釘付けになって、ジンベイザメやチンアナゴを目を輝かせて眺める姿に普段とのギャップを・・・女の子らしさを感じたのかもしれない。
それとも夕方の観覧車?感嘆の息を漏らす彼女の横顔に見ほれたあの時?
ワインセラーのボトルを片っ端から開けていったお茶目なところか、あるいはほろ酔いの彼女にされた『舌下投与』でなのか。
その時の感触と共に、さっきしようとしたことまで思い出して、首筋辺りまで熱くなった。
学園祭の時にはもう、間違いなく女の子として見ていた。
仮想現実(1.5)が創り出した『不思議の国』の世界で、俺は葉月と・・・・・・する夢を見たぐらいなのだから。
思春期まっただ中、そういう想像や夢を見ること事態はどうしようもない話だけど、その相手が葉月だというのが問題で、しかもそれが本人にバレてたみたいで、あの時のことを考えても、俺が間違いを起こしても葉月の振る舞いはそう易々と変わらないだろう。
それが嫌だというこの感情は、葉月が女子として迫られたらという考えに対して自分が思ったモノとよく似ている。
人間味を持ってほしいという想いは女の子であってほしいという想いに変わり、でも取られたくないという独占欲が心のどこかにあって・・・「可愛い」、俺はそう思えるほど、「彼氏」と言われて内心喜びが沸き上がるほど・・・・・・。
火照った頬を両手で覆う。息が熱くなるほどのぼせた頭を冷まそうと首元を仰いでも、動悸ばかりが激しくなっていく。
目が潤んでしまって葉月を直視できない。
あぁ、俺、葉月に恋してるんだ・・・。
だから、例え行為に及んでも、葉月が今のままでは、彼女がその意味を理解しないままでは、きっと俺達の仲は変わらないと分かっているから――――、
それでは満足できないから、受け入れて、そして応えてほしいから。
俺は。
♯
どこまでも暗く、終わりの見えない夜の空が白んできた。
早朝を知らせる小鳥の鳴き声が聞こえる。
ずっと、ずっと座り込んで物思いに耽っていた俺は、「ん・・・」と葉月の立てた微かな声に凝り固まった身体を跳ねさせた。
意識の方も覚醒したようで、布団の中から出した手で目を擦った彼女は、ゆっくりと身体を起こした。
その際に、かけてやった布団がズレ落ちて、上半身が露わになったが、やはり葉月はそれを気にも留めない。
「葉月、胸隠してくれ」
「あー、まぁ、うん・・・」
言葉ではそうは言うものの、実際行動に移そうとはしない彼女の様子に溜息が出た。
・・・一晩、ずっと考えていたことを実行しよう。
逡巡後、決心がぐらつきそうになる前に、躊躇いごと振り切るように立ち上がった。
大丈夫。台詞は何度も繰り返し練習したし、大したことをするわけじゃない。
これはただの意思表示、今まであやふやだった事柄をはっきりさせるだけだ。
そう言い聞かせて近づいて、呆っと虚空に目をやってしばしばと瞬きする彼女の両肩に手をおいた。
「そぉい!」
力を込めて、上半身を倒させる。小さく軽い彼女の身体は簡単に仰向けになった。
肩を掴んだまま、その上にまたがって目線を落とせば、少し驚いたような表情をした彼女と目が合う。
そのまま、しばしの沈黙を挟んで、口を開いた。
「葉月・・・俺達の友人関係、解消しよう」
その言葉に、微かに息を呑む音がした。
いつも表情が薄い葉月の瞳に不安と動揺が混じってのを見て取って、安心してしまう自分に少し罪悪感。
ここまで言ってはもう引き返せない、胸の鼓動が乱れ乱れているのを感じながら続きの言葉を紡いでいく。
「俺さ、たぶん、葉月のこと女の子として見てる。
だから今のままじゃ駄目だと思う・・・・・・このままだときっと今の関係すら保たない。
別にさ、だからどうってわけじゃないけど、ん、その・・・男の時のように接するのはやめてくれ。
俺がどう見てるかってことだけは覚えてて・・・・・・いや、欲を言えば女の子らしく・・・自覚を持ってくれると嬉しい、です」
最後、微妙に弱気になって口調がおかしくなったが、これで言いたいことは言った。
もう内心は一杯一杯で、これ以上見つめ合うことなどできるはずもなく、脱力しかけの身体を何とか葉月から離して、ヘロヘロとリビングのドアへ向かう。
去り際、
「服、テーブルに置いてあるから」
振り返って、押し倒された格好のまま動きが止まっている彼女にそう言ってから、精神的に参った頭を休めるために自室のベッドへ倒れ込んだ。
♯
目を閉じて、再び開いたら一瞬の間に3時間が消し飛んでいた。
全く夢見のなかった就寝に満足感は薄く、二度寝の誘惑に負けそうだ。
しかし考えてみれば、昼夜が逆転していたのだから今ここで寝たらほぼ1日を惰眠で過ごすことになる。
シャワー浴びよう・・・。
その後、ネットで学園の動画チャンネルでも回って時間を潰して、昼からは念力の訓練所に行こう。
ベッドから抜け出して、パソコンの電源を押したところで、ドアがノックされた。
きぃ・・・と躊躇いがちに開いた隙間から、顔を出す葉月。
つい数時間前までショートだった髪はいつものロングに戻っている。
「それじゃ、私帰るから・・・」
「あ、あぁ」
閉まる扉、遠ざかる気配、そわそわと落ち着かない自分。
ドアに背中を預けて、玄関の鍵が閉まる音を確認してから廊下に出た。
まずはリビングへ行って、結局あまり飲めなかった炭酸を今度こそ一缶煽った。
1人でいる時の寂しい癖でテレビの電源を入れてから浴室へ。
どうせ同じモノを着るつもりで服を洗濯籠に引っかけて、タイルの床に足をつける。
熱湯を顔に浴びせて、次は髪を濡らそうと頭を垂れたその時、赤い何かが目に入ってきた。
頭から流れ落ちるお湯が床を流れていく中、流れることなく留まり続けている少し黒ずんだ赤色のソレは、外縁が波打った円を象っていて――――、まるで、血のように見えた。
遠く、リビングから番組の音が聞こえる。
緊急ニュースと何度も告げるアナウンス、現場にいるというレポーターの声。
「昨日神戸を襲った大災害は近接する特別指定学園都市との関連が噂され、実際超能力者らしき人影を複数目撃したという声もあり――――」
「・・・最も被害の大きかった駅を中心とした数キロは地盤も緩み、繁華街は壊滅的な被害を受けた模様です」