序章-4 彼方に。-Over there-
剥き出しの蛍光灯は現在消えている。白い遮光カーテンは閉まっているが、外からの光は端々から漏れてきていた。
部屋の中はそれなりに暗いものの、周りが見えないほどではない。それに部屋の空気は陽の光に焦がされて熱くなっている。
腿や背中に汗をかいているし、視界はぼうっとどこかに行ってしまった。
基本的に僕は寝る前にカーテンを閉めない。閉めたら夜明けが分からないのだから、当然だ。
だけど今は閉まってる。理由は簡単。夜明けに1度起きた僕が、閉めた後に2度寝したから。
1日ぐっすり眠ったのにも関わらず疲労感が抜けなかったために、仕方がないから大人しく疲れを癒している。
昨日の朝からの疲労感はおそらく能力使用の結果なのだけど、それを使った覚えがない僕としては損をしている気分だ。
さて、今日から3日間ほど、僕だけ特別に休日に入ることになっている。
これも簡単な理由で、僕の測定はあの1回で終わってしまったからである。
空き教室に設置されたあの測定機、超高性能の最新型だ。その上、採血に口内の粘液細胞も綿棒で摂られた。
徹底的に調べつくす所存だったことは間違いないし、あからさま過ぎると思うのだけど、正直助かった。
あんな鬱陶しいことあと2回も3回もやってられない。正体不明の僕の能力では通常なら2次測定で終わらないことは火を見るより明らかだった。
施設の方も何度も何度も、関係者を送ることを危険と見なしたのか面倒くさかったのか。まぁ、どうでもいいけど。
とにかく、そのために本来あるべき、次の測定を尽く消化してしまった僕は、忙しい教師の手に余るため、自宅待機と相成ったわけである。
測定結果が出るまでには少しかかるらしい。何せ数回の測定を1度にやってしまおうというのだから当然だろう。というか、DNA鑑定までやるつもりなのか、彼らは。
とにかく、そういうわけで今僕は暇を持て余している。
随分前に購入した携帯ゲームは視界がぐるぐる回るために酔ってしまうし、テレビはこの時間何をやっているのかまるでわからない、ラジオも同じく、能力を使い慣らすにも能力自体よく分かってないので発現方法がいまいち分からない。
体の疲労感はまだ大分残っているので、あまり体は動かしたくない。と言っても、さすがに眠り疲れてしまった。睡魔はそれほどない。
「・・・・・・」
仕方なく起き上がり、キッチンに向かった。緩慢に歩いて、冷蔵庫までたどり着く。
開けると、そこに居るのは瓶入りクリオネ。その1つを手にとって閉め直した。それから冷蔵庫を背にしてもたれかかる。
冷たいガラス瓶を片手で上から持ち上げて、中身を乏しい陽に透かしてみる。
透明な体を浮かす流氷の天使がゆるゆると舞っていた。
妖精とも称されようこのれっきとした海洋生物ハダカカメガイは、捕食時恐ろしいまでに変形する。
触手を伸ばし獲物を絡め取るその姿は悪魔の如く。
・・・お前はクリオネに似てると、クシロが言っていた。
それが透過性を言うのか外面性を言うのか内面性を言うのか、その性質全てを言うのか。
定かではないものの、怒る気にもなれなかったので、結局叩いても殴っても刺してもいない。
こいつらは育てる場所も、えさもこだわるわがままさんである。
もっともそんな面倒な世話も、鳴れて日常生活に組み込めばただの作業だけど。
熱帯魚のように常時部屋に設置しておけないし、小鳥のようにさえずってはくれないし、猫のように擦り寄ってはくれないし、犬のようにかまってもくれない観賞価値のみの存在。
ただ、ぼうっと眺めるにはもってこいの標的。混線する思考を遮断するにはちょうどいい気紛れ。
まだ2日以上ある暇の幾らかは、こうやって過ぎていくのだろう。
/
私は朝焼けや夕焼けが大好きで、日没の時間には高いところや見晴らしのいい空間に顔を出す癖がある。
朝にしても同じで、時々そのためだけに早起きして、終われば2度寝するという可笑しな行動を起こしたりもする。
その日も同じで、面倒くさい教師達の説明ややたらとある集団移動を終えての下校時、ふと屋上に出たくなったのだ。
ただでさえ遅い時間帯、誰もいないだろう屋上で日暮れを楽しむのも乙だな、と鼻歌交じりに階段を駆け上り、錆びて音の鳴る扉を開ける私。
その奥には先客が居た。
落下防止用の柵に座って体の縦半分ほどを5階分の高さを誇る空間に放り投げるという常識外れの行動をしでかし、ソプラノで歌を歌っている人物。
男子用の制服に身を包みながらも、男女の区別のつけ辛い風貌をした少年。
そう、私こと布衣菜誉はここで織神葉月君に出会った。
クラスメートということはその人と知り合っているという条件にはならない。
顔を合わせたところで、所詮他人は他人。
言葉を交わさない限り、人を知ることなどできないと思う。
私はその先客に声をかけた。
それが始まり。
それ以後、私と彼は時々夕暮れ時の屋上で顔を合わすようになった。
それは約束だとかそういうものではなくて単なる鉢合わせ。
私が気が向い時、屋上に時々彼が居たというだけの話。
もちろん、向こうも同じ事を思っているに違いないのだけど、まあ、そんな感じだった。
そんな中で、お互い上を向いたままでまともに視線を合わせずに会話もした。
こんな幻想的な空間で、くだらない世話話なんてもちろんしない。
話題はもっぱら非現実的な戯言。
「"自然"の反対?"人工"でしょ」
「んー、そう?
例えば、小鳥のカップルがいたとしようよ。
彼らは小枝を拾うか折ってきたりして木の上に自分達の巣を作る。そしてタマゴを産んで子育てもする。
もちろん虫なんかを捕食するし、子供のためにそれらを狩るだろうね。
彼らは当然、自然に生きているわけだけど――――」
「あー、わかった。『それを人間に置き換えてみれば』ってことね」
「結局やってることは人間も変わらない。
自然を破壊する?摂取する?そんなことどんな動植物でも同じことだ。"自然"とはそれをも含んだ大きな様態だよ」
「マクロだなぁ・・・。
自然をうまく扱おうなんてただの人間の傲慢って?」
「人の活動の規模は確かに大きいけど、"自然"と並ぶほどじゃないねっていうのが僕の意見。
というか、対象に自分達が含まれちゃってるから並びようもないんだけど」
「まあ、私も西洋的な考え方いまいちわかんないけどね。何でどうにかして自然と対抗しようとするんだろ?」
「さぁー?わかんないね、僕東洋人だし」
「だねー」
あるいは
「命に価値はあるか・・・ね。ん、あるんじゃない?」
「あれー?意外と普通の意見・・・。
何か悪いものでも食べたの?」
「・・・・・・」
「で、その心は?」
「マーケットが成り立ってるから」
「・・・・・・。どうぞ、続きを」
「需要がなければ商売は成り立ちません。対価がなければ供給は行われません」
「ざっくりといったなー。もうちょっと、何かないの?」
「んー、僕は全く博愛主義じゃないから、『人間皆平等』とか『人は尊い』とかそんなのは思ってない」
「私もそうだけど?」
「そんな僕でも、あぁ、命は大切なんだなぁって思う瞬間はあるんだよ」
「うん」
「例えばさ、クシロが誘拐されて、僕に『100人殺せ』って脅迫電話がかかってきたとしよう。
さて、どうするか?
僕はためらいなく殺すね。千でも万でも」
「わぁあ・・・・・・愛されてるなぁ、朽網君・・・」
「いやいやいや、愛じゃないし」
「自覚がないだけじゃない?」
「えー、実感としてないんだけどなぁ・・・。あったとしても保護愛だね」
「たぶん、彼も同じこと考えてると思うよ、それ・・・」
「・・・・・・」
「それはともかく・・・・・・まるで意味がわかんないんだけど?」
「需要はそもそも何故生まれるのか?簡単。それが欲しいから。欲しがる人にとって価値があるから。
この場合は命だけど、つまり多くの人間は自分の命は大切だと思ってる。
もちろんそう思ってない人はいるけど、とにかく。
僕が思うに価値っていうのは思い入れなんだと思う。
自分と親しい人の死は悲しくとも、興味のない著名人の死なんてどうでもいいでしょ」
「命に価値があるのは、その人自体に何かしら感情を抱いているから?
ふーん。何か子供頃から持ってるぬいぐるみをどうしても捨てられないのと同じ感じよね」
「おー、そう言えばよかったんだ」
「・・・・・・。それって人とモノを混同視してない?」
「生物と無生物って実のところ境界線があやふやなんだよ?」
「あー、専門っぽいのはパスパス。
・・・ところでさあ」
「何?」
「さっきの例えなんだけど、朽網君じゃなくて私だったらどうするの?」
「うん?殺すよ、たぶん」
「・・・うーん。やっぱり違うかぁ。嘘じゃなさそうだしなぁ・・・・・・」
「?」
「両想いだと思ったんだけ・・・痛い痛い!叩かないで!」
そんな中にも、どうしても心に残ってしまうこともあって・・・・・・
「織神君は将来の夢とか、ある?」
「ないよ」
「目標と願望とかそういうのも?」
「うん、全くないね」
「断言ですか・・・ふーん、でも実際そういうのがないと生きてけないんじゃない?人間って」
「未来に何の希望もなく、不定過ぎて不安過ぎるから自殺?」
「現在にも未来にも何もなかったらそうなるのかもね」
「んー、原動力とかそんなものがないってこと?小さくても楽しみがあれば人は生きていける気がするけどなぁ・・・・・・。
よし、明日は焼きプリンを食べよう。だから死ぬなら明日以降ってことで、みたいな」
「死の延期が焼きプリンで決まるのもすごく嫌な気がするけど・・・・・・。
でも、そんなものが毎日続けば死なないで生きていけるのかなぁ」
「少なくても僕はそう生きてるつもりなんだけどね。
何もないということは死ぬ理由にはならないと思うよ。それに自殺には理由が要るでしょ」
「でも自殺って、それこそ自分の人生に満足した上で、これ以上必要ないと悟った上で、自ら終えるためにやる人がいるとか言うよ?」
「そういうのは例外じゃないかなぁ。僕は区別して"自死"って言ってるけど。
本人が納得した逃避以外の死の選択って、彼らの中で完結しちゃってて文句付けられないんだよね」
「確かに別に命を粗末にしてるって言い切れないところがあるけど・・・」
「逆に生きていることが命を尊重しているってことにもならないしね。
でも別にわざわざ自分で死ぬ必要もないと思うんだけどね、僕は。
せっかくだからもう少しこの世界を見ていけばいいのにって。"自死"って別にお先真っ暗で死ぬわけじゃないんだから」
「だから織神君は生きてるんだ?」
「うん、勝手に死ぬのを待ってるよ。日々楽しいことが溢れているわけだし、作れるわけだし」
「例えば?」
「明日はクシロを弄ろうとか、明後日はタカをからかおうとか――――」
「・・・・・・」
「それから今日は君で遊んでるね」
「・・・・・・ちょっと待ちやがってください?」
「何?僕、何か変なこといった?」
「変なことしか言ってないけど?」
「それは変な話だねー」
「・・・もういいや。
でも、そういうのって願望にならないの?これがずっと続けばいいのにって」
「んー、どうかなぁ?
もし僕がここで間違えて重心を前に傾けすぎて、転落死したとしよう。たぶん僕は何の未練もないと思うよ。
その瞬間まで幸せだったんだからそれでいいんだって」
「・・・・・・。・・・、・・・・・・」
「あの・・・なんで肩を掴んでるんですかね?」
「とりあえずそこから降りなさい」
「ちょっ!いたっ、いやそのまま後ろに引いたら頭からコンクリートに・・・、やめっ」
「・・・やりきったっていうか、走りきったていうか。
テストなんかで早く終わっちゃった時の気持ちに似てるのかな。もう全てやってしまってやることがないのにまたされてる感じ。
あるいは、マラソン。とうにゴールしちゃったのに、まだ競技が終わらないまま・・・・・・それが僕なんだよ」
「・・・・・・うん」
そんな会話の断片。
私は彼を哀しい人だと思うようになった。
命を絶つほどの理由がなく、もう人生は終わりきっているのに、生き続けているから、ただ待ち続けている。
列車の終点で1人ぽつんと待っている連想。
まるで死んだ生人。
何も強く求められない、何に執着も持てない、あっさりと自分の全てを終えてしまえる人。
もうあなたは止まってしまっているんだ。
どうしようもなく、救いようのないような印象を私は受けた。
だから、私はあなたを見ていれません。
どうしようもなく他人事なのに、どうしようもなく傲慢な気持ちだけど、あなたが活きてる姿を私は見たいんです。
/
何もしないというのは、何よりの睡眠効果をもたらすもので、それ故僕はあれほど寝たのにも関わらず、うとうととしていた。
掛け布団の上に、仰向けになってうつらと現と夢の間を行ったり来たり。そんなだれた暗闇に、チャイムの音が響いたのは3時17分。電波時計で確認したのでたぶん間違いない。
例えばここで、寝起きのだらしない姿を見せたくないと思うのが、年頃の少女など思考ではないかと考えても見るのだけど、残念ながらそんな常識を僕は持ち合わせていない。
はぁい・・・、と声を返して、身だしなみを整えることもなく玄関に立った。
扉を開けた先に居たのは、委員長な椎さんと異次元な美樹さん、それから普通の誉さんだった。
別にこれにおいて"普通の"と肩書きをつけることは侮辱しているわけでもなく、単に彼女が今のところそう見える、という指標である。
大体"普通"であるという事は異常であることより難しい世の中だ。僕みたいの異常者がもっともやりやすいに違いないのだし。
「今日きたのはー、はづちゃんの下着を買うてつだーいなんですぜーぃ」
せめて語尾ぐらい統一してほしい美樹さんの台詞。
というか、
「あー、そういえば・・・」
すっかりそのことを忘れていた。衣類、早く用意しないといけないんだった。
「忘れてたんだ・・・まぁ、うん。とにかく早く買いに行こう?」
確かに、いくら僕でもいきなりそんな物を1人で買いに行くのは抵抗がある。勝手の分からないということが実は苦手なのだ。
こうして気をかけてもらっているのだし、お言葉に甘えさせてもらおう。
ちょっと待ってて、そう言って、僕は外に出て当たり障りのない服装に着替えるのと買い物の準備をするために部屋に戻った。
腰をきつく縛れてお尻辺りに余裕がありそうな緩めの黒い長ズボンと無地の長袖の白シャツ、その上にスプリングコートを羽織る。
机の引き出しに入った分厚い茶封筒から10万ほど引き抜くと、本革製の無骨な黒い財布の中にそれを差し込んで、コートのポケットに放り込む。
「お待たせ」
そう言って僕達は、アパートを出た。
「朽網君とか四十万君とか、あと矢崎君とかがね、頼むって」
彼女達がいきなり尋ねてきた理由を訊いてみたら、なんてことはない、友人の気遣いだった。
ただ、矢崎君、という言葉が気になるのだけど。
「他にも来たがってた子いたんだけど、向こうは向こうで違うこと頼んでるし・・・」
何だか知らないけれど、織神葉月を全面サポート・・・もといおもちゃにしよう的な活動を行っているらしい。
いや、いいけどね。害がない内は。・・・・・・あくまで害のない内は。
クシロの能力が騒乱念力であって、測定会場をめちゃくちゃにしかけたとか、校長が保健室のベッドで昼寝をしていて教頭に怒られたとか、そんな話をしている内に、僕がまるで知らない店に着いた。
当然なんだけどね。知ってたら・・・・・いや、別にどうでもいいか。変な気まぐれを起こして用途はともかく必要に駆られることもあるかもしれないし。
目の前にあるのは当然ランジェリーショップ。店頭に上半身だけのマネキンが下着を着けて並んでいるのだから間違えない。
商店街を通れば、数件見つけることもできなくないタイプの店だ。看板より分かりやすいのはいいことなのか。
躊躇なく入っていく彼女達に手を引かれて、僕も周りを見回しながら店内に侵入した。
店内には様々な下着類が陳列されている。そりゃあ当然なんだけれども、うん、ある意味圧巻だ。
さすがにここからモノを限定する行為を1人でできた気はしない。彼女達について来てもらって正解だった。
正直、シンプルに白い何の変哲もなさそうなものか本当にスパッツでもいいかと考えていたのだけど、こんな所には逆にないのではないかと思える。
「やーっぱり、そんな事考えていたのね。そうだろうからって、頼まれたのよ」
椎さんが溜息混じりに言ってくれた。
まぁ、気持ちは分からなくもないけれど、僕に色恋ものを望んでどうするっていうんだか。
誰かを誘惑するために下着を選ぶなんてことは、天と地が合一してもありえないね。
女の子らしくなんて言われても、1度固まった性格や性質はそうそう変わるものではないのに。
僕はそんな事を思いながら、保健室でやたら疲れた結果得たメモを財布から取り出した。
うん。全くもって意味不明だ。
これでよく最悪1人でも大丈夫なんて少しでも考えたな、僕。
事態は思ったより深刻だったようだ。
仕方なく、それを美樹さんに渡して、具体的な選択サイズを仰ぐ。
少々引きつった感じで美樹さんは教えてくれた。いまいち実感が掴めないものの、体形がいいのは先日のカイナからも聞いている。だけど、やっぱり分からないものは分からないというのが感想だ。
教わった記号的なアルファベットや数字を追いつつ、同サイズが並んでいると思われる区間を見つけた僕は、ちょうど取りやすい位置にあった1つを手に取ってみた。
黒いシンプルなデザインの1品。フリルが付いていないのがいいといえばいい。ただ、紐を両側で括るタイプなので履きにくそうだ。
そうか。履き方にも色々種類があるのか。男子のものに比べてバリエーションが多いんだ。
どれが1番履きやすいかとか、試した方がいいのかもしれない。前もやったように何種類か適当に買って置いた方がいいだろう。
試着だとかそういったことも出来るのだろうけど、僕はそういったことがどうも苦手なのでやろうとは思わない。
自分のモノでもない物を身に着けるなんて事は考えただけでぞっとする。
手に取った1つを脇に抱えて、他のタイプを探してみる。
白い普通の"履く"もの、ブラジャーのフックの前後で2種類・・・今後の品定めに役立ちそうなものをサクサクと選んでいく。
ハズレだったとしても、いつか使う時が来るかもしれない。今履いているスパッツがいい例だ。
「はづちゃーん、これなんてどう?」
声が聞こえた方へ振り向くと、美樹さんが両手でそれを広げている。
大体こういうシチュエーションで渡されるようなモノは、異常な露出度を誇っていたりするのだけど、彼女が見せてくれたものはその間逆だった。
・・・どの道、嫌だ。
それは、かぼちゃパンツとか言われるものですかね、美樹さん?
「違うよー、ドロワーズだよん。かぼちゃパンツはズボンなのさー」
知らないよ、そんなこと。
とにかく、それを試してみる気は起こらないんですが。
「大丈夫ー、クシろんから軍資金は得てるんだよん。嫌がっても購入けってーぇい」
あのヤロウはなんて余計なことを・・・・・・。
・・・よし、今度の機会に自分で履いてもらおう。似合うだろうし。
店内を探してみると、椎さんや誉さんまで何やら熱心に選んでいる。
頭が痛い。ものすごく、痛い。あんまり変なのは選ばないでほしいんだけどなぁ・・・。
そこで、誉さんが僕の視線に気づいたらしく、にぃっと笑って手に持っている1品を掲げて見せた。
何、その布切れ。情欲扇情以外の目的が感じられないんだけど。
椎さんの方は日常的に履ける可愛らしい下着をひたすら選んでいる。
毎日欠かすことなく、そんなものを履かせる気ですか?
お願いだからやめてください。本当に。
あぁ、止めても無駄なんだろうなぁ・・・・・・。
上機嫌に次に獲物を探しに彷徨い行く美樹さん。
ちゃっかり、さっきのドロワーズとやらを僕の腕の中に収めている。その方が探しやすいという、明白な理由からなんだろう。
これをいちいち戻したところで、どうせ最後には全部買うことになるに決まっている。
「あー、うん・・・」
諦めてしまおう。それが1番いいに違いない。
僕の方は、もう選び終わったようなものだし、後は彼女達が自然に止まるのを待つしかない。
当初の目的どおりの専門店じゃなくても売っていそうな白地の安っぽいシロモノでも探して時間を潰そう。
少なくても日常的にあんなものを履くのはごめんだ。
幾らなんでも2時間も見回るのに大きくもないこの店内を、散々歩きまわされる羽目になった。
まさかそこまで時間がかかるとは思ってみなかった僕にとっては異常に疲労の溜まる行為である。
明日も、寝て過ごすことになりそうだ。
時間が余っているのが救いと言えば救いである。
異常な数を候補に挙げた割には、金銭的なことと現実性を考えてか大分数の抑えられたそれらの品々をレジに持っていき清算し、やっとのことで帰宅と相成った。
女性下着の着衣に関して完全に素人な僕を置いてそのまま解散というわけにも行かず、家が遠い椎さんと美樹さんには帰ってもらい、誉さんに教えてもらうことになる。
数を減らしたとはいえ、やはり量のあるそれらの包装を丸めてゴミ箱に放り込み、1種類ずつジェスチャー交じりに装着方法を教えてもらい、実際自分でやってみるという繰り返し。
時々、似合ってるねぇなどといった冷やかしを受けつつ、彼女の帰りが遅くなってもまずいので、できるだけ手短に済ましてもらった。
というわけで、着慣れない下着をしっかりと着た上で、彼女を送り出したのは6時を少し回った辺りだった。
ふう。本当に疲れる話だ。何で下着だけでこんな苦労をしなくてはならないんだか。
/
まだ明るさの残る夕焼けな空の下、私は家に向かっている。
私の家は織神君・・・もといはづちゃんのアパートから先に行った住宅街にあるのだ。
『はづちゃん』といのは今日学校での会議で決定した織神君の愛称だ。
彼女からのアプローチは難しいという考えから、こちらから仕掛けるという方針を打ち出したのである。
親しみを込めて、蟻地獄のように周囲を包囲しつつ、引きずり落とすつもりらしい。
その方がいいと私も思うけど。
んんー。背伸びが気持ちいい。
それにしても、さっきのはづちゃんは可愛かったなぁ。
ショップ内では妙にそわそわした様子だったし、ブラジャーの付け方を教える時は、当然上半身裸だったわけだけど、手が肌に触れる度に声をあげていたしで、うん、ものすごく面白かった。
さりげなく、故意に触れていたというのは秘密。
どうやら、あんまり人に触れなれてないようだ。これは美味しい情報だと思う。
何でもいいから"意識"させるというのはいいことだと思う。
というわけで、朽網君にメール報告。
織神葉月愛護会(仮)。情報網を確立させるとかで、クラスメートのメルアドを教え合ったのだ。
まぁ、皆ほとんど知ってたんだけど、全員で連絡を取れるようにとのこと。
入手した情報はまず、朽網君に送られて、問題がなければそこから皆に総送信されるルールになっている。
まぁ、一応個人情報なので、保護者を通そうという一応の心遣い。
で、その役には、出会ってここ数週間で織神葉月の保護者という認識がクラス全体で成されている朽網君に決定したわけだ。
矢崎君曰く『あいつの葉月を見る目は優し過ぎる』だそうで、自分から愛護会を提案した割りに、そういったところはきっちり適任に任していた。
あっさりしているというか、さっぱりしているというか・・・性根は悪くないのに、自分から誤解されるような行為をする根っからの変人なのだろう。
ともかく、予感は悪くない方向に向かっているようで、私は嬉しくなった。
/
問題は山積みである。
例えば、今後この豊富すぎる下着の数々から毎日自ら選んで履かなければならない事とか、どうも自分が悪意のない接触に免疫がなさ過ぎる事とか、クシロにどう報復するかとか・・・。
・・・人に触れられる事にこれほど弱いとはまるで気づかなかった。
施設にいた頃は、頻繁にあった定期検査などでむやみに体を触られていたはずなのに、それとはまた違った感覚がある。
女体化したのがそのきっかけであったとは思わない。
考えてみれば、そもそも親しい人物に触れられるような機会があったわけもないのだ。
女性になってからそういう機会があっただけだろう。
あんまり他人に知られるとよろしくない話だ。
既にカイナに知られてしまっているだけでも、胃が痛い。聡一に知られたらアウトだ。知られた場合はどうやって口を塞ぐべきか・・・・。
お風呂に入るために、服と履いたばかりの下着を脱いでいく。
考えてみれば、今日一日羽毛布団に包まっていたせいでかなり汗をかいているはずなのだ。
下着は横に除けておいてシャツだけ洗濯籠へ投げ入れる。大分使用した服が溜まっていた。そろそろ洗濯しておかないといけない。
風呂場に入ると、冷たい空気が充満していた。窓はずっと開きっぱなし。閉めよう閉めようと思ってはいるものの、シャワーでお湯が出てくる辺りでいつも忘れてしまっている。
今まで数10回の反省を生かして、先に閉めておく。意外と僕には学習能力がないのかもしれない。ゴカイでも10回も痛い目を見れば学習するのになぁ。
湯気でガラスが曇る前にもう一度自分の姿を確認してみる。
腐っても元男として女子の裸体を直視して何か感じるものがないのかと思わないでもないのだけど、あんまりない。
素直に綺麗だと思うのだが、だからと言ってどうこうするものでもない気がする。
今後どうなっていくかは分からないけど、性欲がない今正直に何も感じていない。
まぁ、いろんな意味で武器にはなるだろうけど、それを常用するような人生を送る気はない。
蛇口をひねって、ぬるま湯を出す。それで体を1度流してから、僕は湯船に浸かった。
僕には毎日湯船にお湯を張る習慣はない。大体2、3日に1回のペースで風呂に入る。いちいち掃除するのが面倒なんだよね。
でもやっぱり日本人として、この時間は至福です。
#
携帯電話が鳴った。『包帯少女の鎮魂歌』。
至福の時からいやいや離脱して体を拭いていた僕は、そのまま部屋に出る。
無造作にベッドの上に置いてあった携帯をまだ濡れた手で取り、通話ボタンを押した。
「おーぅ、葉月ぃ」
相手はカイナだった。今の時間学校に居るとは考えにくいので、自宅か帰宅途中かといったところだと思う。
「何ですか?」
とは言っても、何となく分からなくもない。
予想より早かったというのはあるのだけど、
「お前の能力が判明したって連絡あったから、伝えようと思ってよ」
そのこと以外あるわけもない。
少しの沈黙。電波で繋がれた空間同士に空気だけが行き交う一時。
それは前触れとしてのお膳立て。
息を吸うかすかな音の後、
「お前の能力は、形骸変容だ」
彼女はそう断言した。
――――この時、僕は何を思っていたのだろう?
多くの知識と多くの予感と多くの思考の後に、導き出される確たる答えにたどり着いた、僕は。
喜び?悲しみ?あるいは面倒?
近しくは最後の1つ。けれどそれは近いだけで、正しくはなく。
実のところその正否なんてまるっきり意味がなかったに違いない。
・・・そう、だって答えなんて分かりきっている。
『何も感じていなかった』
それ以外、あるわけもないじゃないか。
▲
だから、人はその変化に困惑するし、混乱する。
自らが変わってしまった錯覚を覚え、自己が不定した実感を得る。
――――もしも、もしもまるで驚きもしない人間がいたとしたならば。
それは、確たる自己を持ち合わせたと信ずる傲慢か、あるいは
――――元より何もなく、変化すら意味を持たない虚無か。