序章-2 無恥軽快。-Lightheartedness-
自己を確信する基準とは、何だろうか?
例えば容姿、鏡に映る自らの形。あるいは精神、内にあると信ずる魂。
形が変われば、人は自己を見失うか?心が変われば、人は自らを損傷するか?
答えは肯で、答えは否。
片方が崩れようと、片方が存立するなら人は自らを失いはしない。
けれど、同じくして、
片方が壊れてしまえば、やはりそれは元の自己とは変わってしまう。
致命的ではないだけに、気づかない内は意味もない崩壊。
そして、気づいてしまった以上には、もはや対処不可能な致命傷。
だから、人はその変化に困惑するし、混乱する。
自らが変わってしまった錯覚を覚え、自己が不定した実感を得る。
――――もしも、もしもまるで驚きもしない人間がいたとしたならば。
それは、確たる自己を持ち合わせたと信ずる傲慢か、あるいは――――
▼
基本的な日常作業、つまりは食事に洗顔、歯磨きやシャワーに時間をかけることをしないのが僕の主義だ。
それは起床と就寝にも言えることで、生理作業として事務的にそれをこなす以上は、当然寝坊なんてことはもってのほかだろう。
夜明けとともに起きるという小説でしかありそうにないことを体現している僕としては、そんなことは体の不調以外にありえない。
ああ、もちろん冬になれば自然と起床時間が遅くなるのだけど、そんなこと今はどうでもいい。
現在時刻8時37分。寝坊どころか、完全に遅刻だった。
いっそのこと欠席しようかとも考えたものの、今日という日に限っては無理というものだ。
今、僕は目が覚めた状態のまま、体を乱して仰向けになっているのだけど、その状態から体を起こす気にもなれなかった。
ものすごい疲労感がある。汗が酷い。シーツも掛け布団も薄手の服も湿った上に張り付いて気持ちが悪い。髪も乱れに乱れて、視界を半分覆い、口の中に異物感を与えている。
しかし全体でみれば、悪くない心地だった。
昼寝をして嫌に汗をかいているのに、気持ちがいい時のような恍惚感。
珍しくこの僕が、このまま寝過ごしたいだなんて怠惰な気持ちになっている。
仰向けになっている状態なので、目には天井が映る。剥き出しの蛍光灯という無骨な照明が霞んでしまってちゃんと視認できていない。
胸に今まで感じたことのない圧迫感を感じるし、腰下にスペースがある。
口の中に入っていた髪束を出して、人差し指と中指の間に挟んですすっと伸ばしていく。
指は随分先にまでいった。腕を伸ばし切ると髪は途切れて音もなく落ちる。
目を下にやると、髪は緩急のある上半身に散らばっていた。
髪を除けて額に手を当てる。なにやらものすごく冷たい。
・・・・そういえば昨日冷え冷えシートを貼ったんだっけ。これ、この冷却効果で持続時間どのくらいあるのだろうか?
だけど、たぶん熱はあるのだろう。頬が熱い。心臓の鼓動も少し乱れている。
どうしようか?早いところ、学校へ連絡した方がいいかもしれない。そのうち向こうからかかってくるだろうし。
ただ、ただねぇ・・・・・・ものすごく面倒くさい。
今の自分の状況を説明するのは骨が折れるだろう。物事を矢継ぎ早に質問されるのは好きじゃない。
あー、だからと言って遅刻してまで学校に行くとものすごく目立つだろうな。・・ただでさえ目立つのに。
「どっちにしろ、面倒事は避けられない、と」
声の方はまるで変わっていなかった。
まぁ、当たり前だろう。短いこれまでの人生の半分以上もまともな生活をしていなかった僕は、まだ二次成長期を迎えていない。
ホルモンバランスが崩れているだろうし、それ故に身長も低いまま。最悪迎えないこともあり得るだろうと思っていた。
声変わりも然り、顔立ちにしろ身長にしろ、髪質や髭にしろ、まるで幼子の頃から目立った変化が見られないこの体は、元のままの中性的だ。
実のところ性欲もかなり乏しい。クシロやタカとの会話で得た情報にあるような男子の生理作用が起こったこともない。
だから今の状況は、ある意味吉兆なのかもしれない。
上半身にかかるほどの長髪、違和感を感じられるほどの胸、下半身の構造変化。
・・・・・・。
うん。たぶん、吉兆だ。
・・・・・・ちゃんと二次成長は迎えたんだから。
――――性別的に裏切られる方向で。
「はぁぁ・・・」
本当に、このまま寝過ごしたい。
#
自分の体に異変を感じた時点で、胸を触らなくても自分の体が女体化していることぐらい判るだろう。
髪が伸びていることは口に入った髪の束から理解できたし、視線を変えるだけで今までなかった乳房が視界に入る。重さがあるのだから、ある程度の圧迫感も感じる。内腿をすり合せれば、性器の形状変化も想像がつくのだ。
かくして、僕は目が覚めてから一度も起き上がることなく、自分の身に起きたことを理解してしまった。
そして、そのために起きる気すら起きない。
ただでさえ変に疲労感があるのに、これからしなければいけないことを考えると気が病んでしまう。
電話で学校への連絡、事情説明、登校、この姿でクラスに突入。面倒くさいことこの上ない。
ある程度の覚悟がいる気はする。
とりあえず、体を起こそう。
掛け布団を剥がして、上半身を立てる。
胸が揺れる感触や重みの違和感を得て、居心地が悪い感じがした。
試しにTシャツを首元から指で引っ張って、そのまま下を見てみる。
白に近い肌色の胸が、突起物を含めて見ることができた。
・・・結論、年の割りに発展しすぎている。
考えてみれば、仰向けになるだけで違和感がわかるほど胸に重みがあるというのは、この年では珍しいのかもしれない。
決していないことはないだろうけど、まだ発展途上の少女の方が圧倒的に多いはずだ。
女性ホルモンとか、色々、分泌系が妙に発展してしまっているのかもしれない。ああ、乳房の発展にホルモンはそれほど関係なかったっけ?要するに脂肪のあるなしだし。
ん、いや、そうだとすると、性転換以外の考え方も可能かな。
SPSの影響かはさておき、何らかの原因で女性ホルモンが異常に分泌してしまい、なおかつその影響が一晩のうちに体を変化させたとしよう。
とすれば、胸の肥大はともかく、下半身は極小化しているだけだという可能性も考えられる。
なくはないし、その場合は身体が極端に女体化しているとはいえ、性別上は男性となるだろう。
さすがに、そこまではさっきの方法では確認できない。
「ふむ」
視認、した方がいいかな。
教師に対しても生徒に対しても、説明することは避けられない。積極的に説明をする気がないとはいえ、自分の置かれた状況をしっかり把握しておくことはどうせ必要だ。
汗を大分かいているし、洗い流す意味でもシャワーを浴びることにした。
本来、すぐさま学校に行くべきなのだろうけど、既に時間が時間だし、身なりを整えたい。
風呂場は洗面台の横に区切られて存在する。スモークガラス風の半透過プラスチックの折りたたみドア、肌色に近いベージュのタイルに随分ゆったりした風呂桶。
古いアパートだけど、内装は改築したらしく、小奇麗にされている。当然、温度設定などはデジタル式だ。
服と下着を脱いで、籠に入れた。裸体になって、タイルの床に足を下ろす。冷たい。湿気を気にして小窓を開けっ放しにしたせいだ。
風呂場の入り口から正面に備え付けられた大き目の鏡に、自分の体が写る。
たっぷり10秒ほど見回してみた。
今まで大してくびれてもいなかった腰辺りはきゅるりとしまっている。肩も丸みを帯びたせいか肩幅が狭く見える。
それで、問題の下半身なんだけれども、女性ホルモン説は破綻したようだった。
見る限りちゃんと女性器が付いている。二次発達の傾向も見られる。
「ふうん・・・」
鏡に写った自分の姿はなかなかに魅力的だ。
別に変な意味ではない。今までの僕の体は二次発達がどうのという以前に、不健康で貧相な肉付きだった。
子供の発達途上の時期に与えられた悪影響はかなり跡を引く。
自分の体を見るたびに、病的だの、細すぎるだの、長生きできそうにないだのという印象を受けていた僕にしてみれば、今の体は少なくても健康的だ。肉つきもよい。
それを考えると、少し嬉しい思いもする。
それに僕の場合、別段、自分の性に対する思い入れはない。
男だろうが女だろうが僕は僕で、それぐらいで崩壊するような薄いアイデンティティは持ち合わせてはいない。
記憶がそっくり消えない限り、自分の身に何があっても大丈夫だという自信もある。
基本、見た目が麗しければ、自分の体になんら文句はない。こだわることはそれぐらい。
その点でいえば、今の姿は今まで以上に合格点をあげられる。
見えない体の部位も生き生きとしているのだから。
確かに色々と周りへの対応が面倒ではあるけれど、決して不利益ばかりではない。
いつまでも自分の姿を見ていても仕方ないので、蛇口をひねってお湯を出す。適温になるまでそれを手で確かめる。
汗を流すだけだから、そんなに時間はかからない。
顔、髪、胸、お腹、背中。体中にお湯をかけるようにしてから、僕はすぐに風呂場を出た。
タオルで体を入念に拭いて、そこで気づく。
そういえば、下着はどうしよう。
普段着や外着は男子用でもなんら問題ないだろうとは思うけど、下着はそうもいかない。特に今は、買いにもいけない。買い方もいまいちわからないし・・・。
裸のまま、部屋に戻ってタンスを探る。
マシな下着はないだろうか。僕は基本トランクスを履いているのだけど・・・ああ、これなんていいかもしれない。
僕が手にしたのは黒いスパッツだった。
男子用だけれど、履けないことはない。トランクスよりはいいだろうし。
いっそのことこれからはスパッツでいいかな。幾つか買っておこう。
それを履いて、思考の対象を上に上げる。さすがにブラジャーに代わる下着はない。
まぁ、中学生なら普通にシャツでも大丈夫だろう。ブレザーがあるので、変に目立つこともない。
適当に白いシャツを取り出して首と腕を通す。
よっ、と胴の部分を下に引いて下ろした。
――ザッ
途端、
「ひゃっ・・う・・・っ!」
なんて僕らしくもない声を上げて、いきなりの感覚に床をのた打ち回る羽目になった。
・・・・・・。擦れた。思いっきり、擦れた。
痛いのやら何やら、とにかく深く考えもせずにやった行為に、ものすごいダメージを受ける羽目になった。
粗めのシャツを選んだのがまずかったのかもしれない。
前言撤回、やっぱりブラジャーがいる。それも早急に。というより、今すぐほしい。
目尻に溜まった涙を拭いて、ベッドに座った。それからシャツを上にずらす。・・・今度は慎重に。
動き回らなければ大丈夫だとは思うものの、もしものことを考えると、代用物になるものが欲しい。今のまま学校に行ける自信はなかった。
「さらし、かな」
クローゼットの奥から例の支給ボックスを持ってくる。巻いてしまってある包帯を取り出した。
代用には形状も酷似しているし、これでいけるだろう。包帯なので、伸縮性を重視して目も粗くは作ってあるものの、素材自体は柔らかい。
この包帯は僕が後で購入して入れた物で、元から入っていたわけではない。こういった治療具の一切はこのセットにはなかった。
だからこそ『役に立たないセット』なんだけど。
とにかく包帯を巻いてみよう。こんな事、さっさっと終わらせたい。
巻き始めの端を右脇辺りに当てて、反時計回りにしっかりと巻いていく。さっき擦れた所を重点的に、きゅっと締めていく。
自分でもうまくいったと思えるほど、綺麗に巻けた。
のに、次の瞬間、包帯が胸の弾力に、無様に負けた。
つるんと包帯は肌を滑って、輪を作ったまま下に落ちてしまった。
「・・・・・・」
なんだろう、この虚しさは。初めて経験するタイプのものだ。
きっときつく巻きすぎたせいなんだろうけど、考えてみれば学校に着くまでに、あるいは着いた後でもずれてしまったら終わりじゃないか。
そう頻繁に巻き直せる機会があるとは思えない。他のものを探す必要があるようだ。
仕方なしにこの家の医療箱、つまりは『支給セット・カスタマイズ』を漁ってみる。
目薬、頭痛薬、胃腸薬、総合風邪薬、便秘薬などの薬。ビタミンC、Bやカルシウム、鉄分に葉酸、ブルーベリーなどのサプリメント。どれも後から足したものだ。前から体の調子が狂ってたからなぁ。
それから応急の治療具。当然として包帯、市販消毒薬、アルコールウェットティッシュ、くすねてきた医療用の針と糸に麻酔薬のいわゆる『裁縫セット』、そして・・・・・・。
・・・うん。これならいけるかもしれない。
僕が目につけたのは、1つの医療具。何でだったか忘れたけれど、これを使う場面を読んだことがある。たぶん漫画か何かなんだけど。
さらしより時間を取らないし、外れる心配も少ない。それを利用して、僕はさっさとシャツを下ろした。
一件落着。正直、女体化したことより焦ってしまった。冷や汗が出てる。
ただでさえ、体が疲労感に負けているのに、これ以上厄介事が増えたら本当に不貞寝しまいそうだ。
再びベッドに仰向けに倒れこむ形で横になり、天井を見上げた。
今度ははっきり照明が見える。目は完全に覚めた。
やっぱり無骨すぎるかな。今度カバーを買ってくるとしよう。
「に、しても」
一息ついて、考えるべきことを考えてみる。
女体化、いや性別変換の能力など、あっただろうか?
頭の中の知識情報に検索をかける。
・・・。・。・・・、・・。・・・・・・、・・・・・・・・・・。
ない。まるで該当する能力が思いつかない。
そもそも、そんな限定された能力があるのかどうか。
超能力というのは、各々区切られたものではなく、幾つにも繋がりを持って派生していくものだ。
テレパス系の能力者は、思達念話の他に、未来視や過去視、千里眼などの第六感を利用するような能力も持ち合わせていることの方が多い。
だから、能力者の能力名などは実のところ本人の一番得意とするものを冠するのだけど、とすれば性別変換などはいったいどういった派生にはいるのか。
基本系も発展系も思いつかない。単体で1つの能力として成り立ってしまっている気がする。そういう能力がないこともないんだけども。
・・・考え方が違うのだろうか。
検索法を変えて、『今この状況を創りだせる能力』を探した方がいいかもしれない。
と、なると――――
そこで、携帯が鳴った。
着歌ではなく着メロで、『包帯少女の鎮魂歌』。ネット上で見つけた痛々しい物語のBGMだ。
そういえば、結局学校へ連絡を入れていなかった。
昨日ベッドの脇の方に置いたままだった、携帯を取って通話ボタンを押す。
案の定、相手は学校関係者だった。喫煙隈目な保険医。ちなみに、名前は宮沢荷稲という。この数週間で何度も保健室に入り浸りに行っているので、結構親しい。
学校に来ていないが体に異常があるのか、学校に来れるのか、そんなことを訊いてくる。
それに今から行きますと回答して、僕は携帯を畳んだ。
/
この日、学校は異常な賑わいを見せていた。規模で言えば、昨日の3倍ほどはある。
昨日とは違って2、3年生も加わっているからだ。昨日登校していたのは1年だけだった。
この日から数日間、彼らはある程度自分と同系統だと思われる1年生に目星をつけて、グループに誘うために躍起になるのだ。
SPS服用認定の学校の多くはクラブとグループの2つの特殊活動がある。
クラブはどこの学校にもある単なる部活動だが、グループは能力の系統別に分かれたある種の集まりだ。
能力向上や応用、知識の共有などを建前にしているのだが、このグループというのは、同系統でも複数の会が存在する。
最低人数5人が唯一の発足規定なのだから仕方ないのだが、そもそも能力というものはきっちり区切りのつけられるものではないのだから、元より重複する。
グループ単位のイベントなども多く、より勢力のあるグループに居る方が何かと得をするものだ。
自分の所属するグループを大きくするために、あるいは維持するために必死である。
本来は、1年生達の能力が明確に判別されるまでにまだそれなりに期間がある。
特殊な機器を使って1人ずつ測っていくものなので、時間がかかるものなのだ。
それでも、見てみればある程度の推測は成り立つもので、グループの系統に合うと思うやいなや声をかけてくるものらしい。
音を鳴らす要領で親指と中指を擦ると、火花が散った。
俺の場合は発火系か発破系、あるいは発光系だろう。
「隆、ほら。これでいいか?」
そう言って、釧がこっちに向かって紙パックのジュースを放り投げてきた。書かれた文字は『朝からフルーツミックス』。
飲み物を買いに行くというから、ついでに俺のも買ってきてくれと頼んでおいたのだ。
「おお、ありがとさん。お前は何にしたんだ?」
「飲むヨーグルトの苺ミルク味」
ふうん、と相槌をうつ。
付属ストローを袋から突き出させた。伸ばして、銀丸に指す。
「にしても、葉月、遅いなぁ・・・」
クシロはあからさまに葉月のことを気にしている。よく知らないが、こいつらは本当に仲がいい。時々心配になるぐらい仲がいい。
「んぁ、そうそう。お前が出てってる時に保健の女医が来て、もうすぐ来るってよ」
「えっ、本当か?他には?どうして遅れているのかとか」
それについても眠そうな顔で彼女が言っていた。
「寝過ごした、だと」
ストローから甘酸っぱい液体を吸い上げながら答えてやる。
「寝過ご・・・珍しいな、それは」
「そうなのか?」
このクラスの半数ほどがそんなことを日常茶飯事でやってると思うんだが。
しっかりしているようで、委員長ですら結構なのんびり屋だ。
「ああ、あいつの朝は夜明けから始まる」
「・・・・・・」
いったいどんな神経をしているのだろうか。
現代人の生活に絶対あっていない習慣だ。生まれる時代を間違えたに違いない。
朝、そんなに早く起きて何をする気だ。
「寝るのは日暮れか?」
かなり真剣に訊いてみる。
「いや、さすがにそこまではないけど。大体次起きる7、8時間前には寝てる。余裕がある日は昼寝付き」
「・・・ある意味羨ましい生活だな」
「だな。ちなみに俺の基本睡眠時間は3時間だ」
「俺は5時間だ」
なるほど、いつもならあいつが寝坊することはないのか。
確かに気にはなるな。まぁ、何があっても大丈夫なやつだけども。
思うにあれは、両手両足、胴に首、さらに目隠しをされて拘束されても平気で相手を罵倒できるタイプの人間だ。
葉月が弱気な顔をして泣き崩れる姿など想像すらできない。
それを釧に言うと、
「俺もだ。いつか葉月の困り切った顔を見てみたいな」
見てみたいな。もっとも、あいつが困るような状況下に俺たちも巻き添えを喰らったりしたら、困るどころじゃないんだろうが。
「あー、皆。遅くなってすまなかったな。準備ができた」
振り向くと、教台にこのB組の担任が立っていた。いつの間にか入ってきていたらしい。
名前は確か、藤本恵太だったか。歳は若い。そんなに詳しくは覚えていないが、そろそろ結婚かどうかといった感じの年齢だったと思う。
彼が言った準備とは、能力測定の準備のことだ。
普段は保健室の倉庫にしまわれている大型機器を付属体育館に運んで、そこで1次測定を行う。
これは簡易測定で、脳に一定の刺激を与えることで能力を強制発現させる。
自分の能力の方向性も知らない人間に、いきなり能力が使えるかといえばそうではなく、扱い方もまるでわからない生徒の方が多い。
そういう意味では俺は特殊な方に入るのだが、釧に訊いてみても『わからない』と答えるように、初めは実感すらないものなのだ。
だからこそ、1次測定で強制的に、自動的に発動させて確認する。
目で見て判る能力も多いし、なにより生徒自身に自覚させるという目的がある。
その次が2次測定で、どの生徒もこの測定までは必ず受けるのだが、1日開ける形で生徒が自分の能力に慣れた後に、脳波などのパターンを分析して解析するものらしい。
50年間ほどで集まった能力者の研究情報にある脳波パタンなどと照合したりするとか。
こういった施設は国際規模で繋がりを持っているから、その情報量も半端ないと担任は言っていた、気がする。覚えてない。
それでも判らないようなものは3次、4次と段階を分けて測定を受けていくシステムだ。
とにかく、その測定の用意に時間がかかるらしい。
器具の電気確保やらなんやら、機械の設定もなのだろうが、大掛かりな作業が必要になる。
教師達は昨日からその作業をやっていくのだが、毎年同じように早朝に持ち越すそうだ。
「うちの組は2番目なんで、少し時間がかかるが早いぞー」
投げやり気味に言って、藤本は教台に設置された椅子に座った。そして、スーツのうちポケットから文庫本を取り出して読み始める。カバーをかけてあるから題名は判らない。
ちなみにその椅子には細川作の妙なクッションが取り付けてある。ああ、取り憑く、が正しいか。どこかで見たことのあるマークがついているのだが、思い出せない。
席に着けとも言われなかったので、俺たちは談話を再開することにした。
/
アパートを出る前に気づいたのだけど、男子用の制服を着て登校する女子生徒というのはどうなのだろうか?
私服についてはズボンだろうがなんだろうが、女性が着てもさほど目立ちはしないと深く考えもしなかった。
だけれど、制服のズボンはそうはいかない。それは間違いなく男子用だ。
といっても他に着れるものがあるわけでもない。私服だと、警備員に止められることも考えられる。
当然ながら、僕はその制服を着て登校することになった。
朝食を抜いてしまっているので、昨日も利用したコンビニでカツサンドと葡萄ミルクを購入する。
今すぐ食べたいのを我慢して駅へ。スムーズに学園都市方面の電車に乗り込めた。
さすがにラッシュのピークは過ぎていたようで、余裕をもって乗れたのはうれしい。座れなかったものの、スペースの空いた車内は格別だ。
「・・・・・・」
ただ、いくらすいてはいるとは言えども、人目はある。
さっきからちらちらとこちらを見る乗客が数人いる。まぁ、あからさまにおかしいのだから当たり前か。
面倒くさい。観察するのは好きな僕だけど、人から観察されても嬉しくない。
何より、不純な視線は気持ち悪い。
あー、そこのおっさん。胸を見るな、胸を。
・・・そっちの兄さんは、お尻か。
男の時より肉がついているから、ズボンだと張るんだよ。もう成長しないと思ってギリギリのサイズにしたのがいけなかった。
さて、好奇の目を無視しながら、僕はこれからのことを考えてみる。
今日一日のことは先に考えたとして、当面この姿で生活するにあたっての予定だ。
まずブラジャーの確保、これは絶対。スパッツもそうだけど、別に女性用の下着を用意してもいい。
他にも女の子らしい外服があった方が色々と便利そうだ。
それぐらい、かな。
あと何かすぐに必要なものがあるだろうか・・・・・・。なければいいんだけど。
学園都市に着いたので電車を降りる。改札を出て、駅から開けた広場に。
んん、背伸びすると気持ちいい。
少し休んでいこうかな。どうせ遅れているんだし。
ついでに学校での対応の仕方についても考えてみよう。
「ふむ・・・」
パターンその一。心を入れ替えて女の子に。
『はぁーい、皆様こんにちわ。私、織神葉月、12歳でーす。只今彼氏募集中♪』
何かノリが女子高生だ。12歳には無理がある。あれ?というか12歳だっけ。13歳?どっちだろ?
年齢数えてないからわからない。去年、クシロがくれたケーキ、蝋燭何本立ってたかな。
・・・・・・。あぁ、ショートケーキだったから1本か。思い出した意味ないや。
駄目だ、今度クシロに訊こう。『僕って何歳だっけ?』。またタカに変な目で見られるな。
『あ、あの・・っ、わたし、はづきって言いますっ!よ、よろしかったら、メルアド交換してくださいっ、お姉さまっ!』
引っ込みがちな少女風。容姿的に合わないか。どっちかって言うと、この姿はシャープな雰囲気を纏っているし。冷淡というかなんというか。
とういうか、お姉さま?百合?
このパターンは却下。
パターンその二。今までどおり男の子で。
「・・・・・・」
今度は台詞が思いつかない。男らしいって何だろう?結構ジェンダーフリーな人生を送ってきたからわからないのかな。
そんなの考えたこともなかった。別に今までだって男の子って感じではなかったし。中性、中性ね。個性がないように見えて、これほど特徴的なもののないけど。
男、男、男・・・。言葉遣い。俺、僕、私・・これは女性だって使えるし、服装も同じく。相撲?あれだって女性力士はいるしね。大体そういうことでもないし。
あんまり特出した性格鋳型が思い浮かばない。
いやいや、そもそもこの体で男を極める必要性がないね。というより、無理がある。
これも却下か。
パターンその三・・・、はないなぁ。
あるといえばあるけど、わざわざパタンで分けるものでもないし。この流れでいうと、最後にあるとすれば、これぐらいだし。
つまり――――
まぁいいや、とにかく学校へ急ごう。ゆっくり、まったり、のんびりと。
/
「い、碇」
「り、り、り。りー、ねぇ。あっ、竜」
「う、兎」
今俺たちはしりとりをしている。暇を持て余しているからだ。話のネタはもう尽きた。葉月がいれば突拍子もない話題をふってくれるのだが。
ちなみに、ひらがなで3文字、漢字で1文字という縛りで、パスは3回までというルール。これが結構面白い。
「隆、なんでそんな早いのさ・・・」
俺はこういう言語ゲームは得意だ。そして釧は弱すぎる。ほとんど勝敗は付いているようなものだった。
「ほら、『ぎ』だぞ。パスはもう無しだ」
手をひらひら振って、急かしてみる。別段、急ぐこともないが。
「『き』でもいいんだよな。樵」
「『り』か。結構出たからなぁ」
と言いつつまだ十分ある。『寮』『漁』『猟』『量』・・・。
ただ、どれか1つでも言ってしまうと、釧に気づかれてしまう。どうするかな。
意味が違えば同じ発音でもいいのが俺らの間でのルールだ。縛ってしまっているから、そうしないとかなりきつい。
うーん、仕方ないか。
「漁。魚狩りのな」
ちょびちょびとジュースを吸う。紙パックのものはすぐになくなるのだ。できるだけもたせいたいものだろう?
「うー、うー、うー・・・」
ほれ、とっとと降参してしまえ。
ジェスチャーでそう伝えつつ、ちらりと扉を見てみる。まだ葉月はやってきそうにない。
「うか、うき・・・うみ・・うり・、ウールは?訳して鉄。ちゃんと一文字」
「駄目に決まってるだろうが」
「うだぁ、・・うぎー」
諦めろ。なんだ、『うぎー』って。
と、そこで、扉の開く音がした。
「先生、A組もうすぐ終わりまーす」
反射的に音源の方へと振り向く。
視界に前の扉が映った時には、もう既に扉が閉まるところだったが、A組の誰かが伝言していったようだ。
ゲームはここで打ち切りらしい。移動しなければならない。
「お、そうか。じゃあ、ほれ皆、出るぞー」
担任がそう言って、立ち上がった。読んでいた本を閉じて内ポケットにしまっている。
「あー、終わりだな。引き分けってことで」
あからさまにラッキーと顔に書いて、釧が立ち上がった。
そんなわけないだろ。次は続きからだ。
「逃がさねぇぞ。このジュースは奢ってもらう」
そうなのだ。このしりとり、今飲んでいるジュース代を賭けている。
残念ながら、そう簡単にナシにはできない。校則では当然禁止されているが、あれは基本破るためにあるのだ。
ただ携帯はかけられない様に妨害措置までされているため、破ることもできない。どこもかしこも圏外表示だ。
そうでなければ、さっさと葉月に連絡を取っている。
「えー、諦めろよ。100円だぞ?」
「そうだな、100円だな。お前が諦めろ」
ほとんど遊びの賭け勝負なのだが、だからこそきっちりやっとかないといけない。
しりとりは釧の苦手分野だが、ゲーム内容はサイクルで順々に変わっていく仕組みになっているし、そこには俺の嫌いな暗記系ゲームが幾つか入っている。ちゃんとフェアな遊びだ。
さて、と。名残惜しいが、残ったジュースを一気に飲んでしまおう。
持って行くわけには行かないし、ぬるくなるのも嫌だ。
ずずっと残った分吸って、口に含む。
――――ガラッ
また、扉が開いた。
今度は後ろの方だったため、後ろを向いていた俺は振り返る必要もなかった。釧は振り向いたし、他のクラスメートも振り向いた。
順番を知らせにくる伝言役はついさっき来た。他に何かの伝達があるとも考えにくい。そして、クラスメートは1人を除いて全員揃っている。つまり、そこにいるのはあいつ以外にありえないはずなのだ。
誰もが心配を持って、そちらに目をやった。
そこにいたのは、スレンダーに男子制服を着こなした、ロングヘアーの少女。
もちろんこのクラスの生徒であるはずがないのだが、顔の面立ちもさることながら、上着の右ポケットに付けられた名刺バッチに見覚えがある。
「ブッ、――カハッ・・・ゴホ、ゴホッ・・・・」
吹いた。酸味の強い液体が気管支に入って、酷いことになる。せきは出るし、涙はにじむし、息が苦しい。
「やほーい、遅れましたぁ。おはよー、おぉっ、全体行動には間に合った?」
そいつはいつもの声で、いつもの口調でそんなことを言った。
織神葉月は今日も今日とて無恥軽快だ。
/
パタン三として、いつも通りを選んだ僕は、それこそいつも通り教室に入った。
どう見ても遅刻なので、完全に"いつも"ではないことには不服があるけど、まぁ、いいだろう。
「うわぁ、タカ。人の顔見て噴出すって、何事だよ」
いまだ霧のように散布された細かいジュースの粒が舞っている。虹とかできないかな。
周りを見渡すと、先生とクラスメート数人は固まっている。椎さんは何か腕を組んで天井を見上げている。それから、クシロ、思いっきり笑っている。
「げほっ、こほ・・・おま・・ぁおえ・・・・・・」
吐き気を催したらしい、タカ。無理に喋ろうとするからだ。
「あは、はははっ!ちょ、く、くくっ・・そうきたか!」
そうきたかって何さ。というか、笑い過ぎたせいか腹筋を押さえてうずくまっている。
「クシロ、何、腹筋が痛いの?何なら物理的に止めてアゲルヨ?」
足で蹴っ飛ばしたら、たぶん止まるだろうし。
脅しが効いたらしい、彼は慌てて机に手をかけて立ち上がった。体がまだ震えているけど。
この手の脅迫を僕が冗談無しに実行することをクシロはよく知っている。
具体的な例を挙げれば、いつぞやダガーナイフを使った時に、『切れるモンならやってみろやぁ!!』と威勢よく言った誰かさんに本当に切りかかったこととか。
ちなみに、その時は彼が必死で止めましたとさ。羽交い絞めで。『お願い、お願いだから挑発しないでくれぇ!葉月はマジでやるんだよ、それを!!』
「あー、なんだろう?面倒だから、最初に言っちゃうけど、朝起きたらこうなっていたんで、何の能力かだとかなんて判ってないんだよ。
・・・何か質問とか、ある?」
面倒事を一気に終わらせたくて、僕はそう切り出した。
だけど、皆固まってしまって動かない。あぁ、例外がいた。クシロの腹痛は再開したらしい。
予告した通り、うずくまった体を蹴り上げてやる。一応は手加減はしているけどね。
ひゅっ、と空気が抜ける変な音が聞こえた。
「ないんならいいんだけど・・・」
今度は鈍痛からうずくまっているクシロを無視して、周りを見渡す。
すると、一人の男子が手を挙げた。矢崎聡一、漫画やアニメを愛する社交的な変人だ。
あぁ、別にオタクっていうわけじゃない。彼はどちらかというとストーリーに興味があるらしくて、放っておくと延々と日本と海外との物語構成の違いについて、その理由を文化的背景を含めて語ってくれる。
もちろん、萌えだとかそういうのも好きなんだけどね。変に社交的だから周りの受けはいいので手におえないところもある。
「何?」
あまりいい予感がしないのだけど、聞くだけ聞こう。
彼は重たげに口を開いた。
「どうして、織神はいつも通りなんだ?」
それに肯くクラスメートが数人。椎さんまでその中に入っている。
どうやら僕の反応というのが間違ってるらしい。
「いや・・・どうしてって言われても・・・・・・」
「普通は動揺とか困惑とかもっとあると思うぞ?」
他の皆も同意見らしく、
「教室に入って来るのにも全然躊躇がなかったしね・・」
「こっちが置いてきぼりにされてる感じさえしたな・・」
「戸惑った顔を見てみたかったのに・・・」
「あー、何かそれ、すごく難しい気がしてきたな・・」
なんて口々に漏らす。ちなみに最後の2つはクシロとタカだ。
変な空気が流れている。劇の演技中にありえない間違いをしたような・・・。
何かすごくぐだぐだな感じがしてならない。
「・・・物語だとして考えてみろ、最悪だぞ?」
変に熱い思いを抑えきれずにいるようで、体が震えてる。
僕も物事をお話に置き換えることは好きなんだけどね。そんなにまずい状態だろうか?
と、何かが弾けたらしい。
「このシチュエーションは酷すぎる!
『朝起きたら女の子に。別にいいかと適当にスルーして、学校へ。おはー』って可笑しいだろうがぁぁぁあぁ!!」
とりあえず、叫ばないでほしい。おーい、椎さん、納得顔しないでほしいんだけどなぁ・・・。
「いいか?性転換ネタの始まりはこうでなくてはならないんだ!
まず、朝起きたら、胸がでかくなっていることに気づく!」
「それはやったけどなぁ・・・」
「はん、どうせ、『中学生にしては薹が立っている』とか何とか考えただけなんだろ」
人の思考をトレースするなと言いたい。
「自分が女の体になった事を信じられずに、部屋の鏡で何度も確認。可愛らしく悲鳴を上げたり、困惑したりしているうちに、母親がやってくる!」
「いや、一人暮らしだし」
「自分が女の子になってしまったことに困惑してしているのにも関わらず、家族は『娘が欲しかったのよ〜』と言ってはしゃいで受け入れる!」
「だーかーらー、一人暮らしなんだってばっ」
「おずおずとしながら、学校に行くとクラスメートが『可愛い〜』とか叫んで、やっぱり受け入れるんだ!」
「いやいやいや、固まったの自分達じゃないのさ・・・」
「可愛い感じじゃなかったもん!おずおずがなかったもん!上目遣いがほしいんだよ!
ああ、お前は綺麗さ、美人だよ!でもよー、かっこいいじゃねぇか!ちくしょー!!」
駄目だ、うるさ過ぎる。というか、可愛い系じゃないと駄目なのか。
聡一はさらに続ける。
「そして、学校から帰ってくると自分の部屋のクローゼットには可愛らしい女物がいつの間にか揃っている!」
「服は勝手に涌かないよ。それに男物でも大丈夫だし。一応買いには行くけどさ」
「お前は性転換ネタに必要な要素を尽く無視してるんだよ!シチュエーションに潤いがねぇ!!」
肩ではぁはぁと呼吸をする彼。息が切れたらしい。
僕は息をふぅっと吐いて、吸いなおす。
仕方ないので現実を突きつけよう。
「それを僕に望むのが間違ってるね」
「・・・・・・」
沈黙が降りた。皆して、あぁそうだろうなって顔をしている。
「ちっくしょぉぉぉおおぉおおおっ!!!」
この人、本当に駄目だ。何か叫んでる。本気で悔しがってる。
「年頃の男子として自分の体が女体化したことに葛藤する!性的興味があるものの、見ていいのだろうか?自分の体に欲情するなんてまずいのではないか?
周りでは自分を置いて勝手にはしゃいでしまっているという状況で、このままでいいのかと不安になったり、慣れない女としての生活に戸惑ったりするんだよ!
性転換ネタの醍醐味はなぁ!そんな主人公の心情描写と女の生活へとの変化の過程なんだよ!そこをよりリアルに書いていくかによって全体の完成度が変わるんだ!!」
まだ語っている彼に、僕はたぶん優しい瞳を向けていることだろう。保護者が子供を見守るような感じで。・・・心は冷え切っているけどね。
ここまで熱弁すれば心残りもないだろうと思う。
僕は担任の方へと向き直った。口を半開きにしてみっともない顔でいまだ固まっている彼に言う。
「センセー、ちょっと矢崎君をお借りしますね?」
笑顔が怖いといわれる今日この頃である。
「・あ・・ああ、どうぞ思う存分・・・」
言葉の意味を理解したらしい彼は、躊躇なく自分の生徒を差し出した。物分りがいいことは良いことだと思う。
僕は口を閉ざすことなく喋り続けている聡一の襟首を掴んで、教室の外へと引っ張っていった。
/
矢崎が連行されて、僅かな間の後、壁を挟んだ向こうから鈍い打撃音が聞こえてくる。
時折、口から空気が吐かれるような音が混じるのは、葉月が肺や腹を強打しているからだろう。
ああいう時の葉月はまるで遠慮がない。笑顔で容赦なく攻撃を加える。
あんな風に俺を苛めていた生徒も慈悲なくやってしまったものだから、あの後彼らがどうなったのか全く見当が付かない。
ちなみに、あれでも手加減はしている、ただ容赦はしていないのだ。力加減は調節しつつ、自分の気が晴れるまでやり続けるのが、葉月流である。
教室内では、妙な沈黙が続いている。
変な方向へ走ってしまったとはいえ、矢崎はこのクラスの皆の心を代弁してくれたわけで・・・・・・。
残念ながら、困った顔は期待したかったのが本音だ。
あの状況で、通常通り振舞える辺り、さすが葉月だといったところなのだが、こっちの対応の仕方が皆目付かない。
あぁ、後あの葉月の振る舞いが演技である可能性は、付き合いはそれなりにあるこの俺が見てみても、まるでない。
と、そこでいきなり出て行った葉月が扉を開けて入ってきた。
俺ら以下クラスメートと担任は、びくっと肩を震わせる。
「どうした・・・?」
代表して聞いてみる。すごく勇気のいる作業だった。
「・・・何か」
そこで、葉月は顔を崩した。今までが今までだったために、驚きが大きい。
いつもの笑顔ではなく、本当に薄っすらなのだが困惑の色が見て取れる。眉尻が微妙に下がっているのがポイントだ。
男子の頃よりか細げではあったものの、女子となった今では加えてか弱げな雰囲気が出ている。
正直に言うと、可愛らしい。自然に出たといった感じがいい。
心の中でガッツポーズを取る。これは隣にいる隆も同じ気持ちだろう。
葉月のあの表情は珍しすぎる。
葉月は続けた。
「何か、僕が蹴ると喜ぶんだけど・・・・」
「・・・・・・」
視線を葉月の後ろの扉の向こう側に向ける。そこには駄目な人間がいるはずだ。
「隆・・・」
「ああ」
アイコンタクトで隆と意思疎通し、向こうの処理を頼む。
その後、隆は無言で廊下へと消えていった。
さっきよりも惨い感じにレベルアップして打撃音が再開される。
汚いものは見せない方がいい。葉月はあれで変なところに純粋だ。
・・・・・・しばらく粛清は続いた。
その後、静かに外の効果音を見ていた俺達だったのだが、再びさっきの伝言少女がやってきて、膨れっ面で早くしてくださいと叫んだため、すぐさま教室を出ることになった。
どうやら、一向に来る気配のないB組のせいで彼女があらぬ疑いをかけられたらしい。
無能状態になってしまった担任を強制復帰させて、なんとか体育館に向かうことになった。
のだが、途中でだるだるな保険医と遭遇した。
葉月は一応教室に行く前に保健室に行ったらしい。この学校、遅刻等をした場合はまず保健室に行くという決まりがあるのだ。
で、葉月の様子を見て、俺達と同じような振る舞いをしたらしい。固まっているうちに、いつの間にか葉月が消えてたそうだ。
教員連中と相談した結果、葉月は別行動で、1次測定を飛ばして2次測定に入るとのことだった。
測定器にかけて、体が変に変化されても困るため、既にこういう風に見えた兆候があるものは、飛ばして2次測定に回されることがらしい。
何もしていないのに能力が幾らか発動してしまっている人間は、間違えれば制御できずに暴走してしまう可能性があるからだとか。
まぁ、葉月の場合は能力が今までに見たことのないタイプだ、と言うのも慎重な対応の一因だろうが。
葉月は非常に面倒くさそうな顔をして、保険医に連れられていった。
/
保健室、昨日来たけど。簡易長机はもうなくなっている
「だはー、しっかしまぁ・・・よくできてるなぁ」
カイナがそんなことを言う。両手で頬を挟んで、顔を固定される。モノ扱いされた気もする。
「やめてほしいんですけどね。人に弄られるのは苦手です」
「他人は弄り回すくせに。いいじゃない、弄らせろ」
もにゅ、と頬を引っ張る彼女。見る限り本当に楽しそうだ。
「2次しょくてぇい、しにゃくていいんでしか」
色んな方向にぐにぐにとされるせいで、変な声になってしまった。
「ぅうん?本来測定は明日から、お前のために特別に用意してるところだかんな。それまで私のお楽しみタイムだ」
彼女は頬から手を離して、ボスンと自分の丸椅子に座った。
「あ、そういえば結局朝ごはん食べてないんです。ここで食べて大丈夫ですかね?」
と言いつつ、返事を聞かず鞄を漁る。呼び止められた時、一応のことを考えて一度教室に戻ったのだ。皆と別行動するわけだし、教室がしまってしまう可能性もある。
3つ入りのカツサンドの封を切って、早速1つに口をつけた。
「やー、だけどさぁ・・・」
まじまじと僕の顔を見つめてくる。そんなに珍しいものだろうか・・・・・・まぁ、珍しいか。
けれど、
「私好みなんだよなぁ、いいなぁ〜」
なんてカイナは実にステキナ発言をしてくださいました。
「・・・・・・」
そうきたか。
さっきクシロが言ったのと同じ台詞が自然に浮かんだ。なるほど、こういうなんとも言えない気持ちになるのか。
「いきなりレズ宣言ですか。いくら親しかろうと、言葉は選んでください・・・さすがの僕でも引きますよ?」
「嘘付け、それぐらいでお前はまともに驚きもしないだろうが。基本受け流すタイプだかんな。真正面から後ろに。
つか、レズじゃねぇぞ?私の守備範囲は女の子と未発達な男子だ」
真顔での意見。というか、まじめにそんな応答をしないでほしい。
サンドを食べ終えてもう1つ目に。少しペースアップ。
「あー、何かここにいるの危険な気がするんですが・・・」
「何言ってんの?そんなこと言ったら、お前は初めてここに来た時から危ないね」
嫌な告白だ。未発達な男子、ね。そういう言い方もあるか。
当然のように結構すごいことを言っている気がする。僕も大概だけど、彼女も羞恥心をあまり持ち合わせていないのかもしれない。
早口で2つ目をお腹に収めて、3つ目。これはほとんど噛まずに飲み込む。食道に詰まりそうだ。
ビニル袋から葡萄ミルクの紙パックを取り出す。牛乳パックのミニバージョン見たいな外見の方で、ストローは付いているのだけど、これって結構飲みにくい。
「おいおい、飲み下すなよ。体に悪いぞ?」
「さっさと食べて体勢を整えたいんです。・・・非常事態に備えて体力を」
一応ナイフは内ポケットに入っている。
「冷静に焦るなっての。大丈夫だって、いきなり押し倒したりしないから」
隈目でだるーいというオーラを纏った人間はあまり信用に足りない気がする。
煙草を吸えないからって、苛々してないといいんだけど。あれって性欲に何か影響するとか聞いたことがなくもない。
「ついさっきクシロに『変な男に付いていくな』って言われたんで。タイミング的にまずいかな、と」
冗談混じりに、時間稼ぎ的なことをやってみる。
あぁ、クシロの発言については真実だ。聡一の一件の後、かなり真剣にクシロに言われた。
「へぇ・・・やっぱりあいつはお前の保護者的なとこ、あんな。
お前って変に悟ってるくせに、全体的に幼すぎるし」
なるほど、僕は彼女にそういう風に見られていたわけか。幼い?
「幼い、ですか?悟ってる、というか聡いっていうのは言われますけど・・・」
「幼すぎんの。中学1年っていう年齢を考えても、だ。もちろん精神年齢の方だぞ?
大人に成れない子供って言うけどさ、そういうのじゃないんだよな・・・。
子供っていうか、自己が生まれれてこの方そのままで、成長しないまま今を迎えたって感じ?」
「酷いなぁ・・・まあいいけど」
色々と図星な感じだし。確かに成長した感触を覚えたことはない。
「だから、あれだ、くっしぃの言うことは聞いとけよ?大切な身内なんだし」
「忠告どうも。まぁ、僕の態度なんてこれからだって変わりはしないでしょうし」
葡萄ミルクを飲み干して、ベンチの横に置いてあるゴミ箱に捨てる。ついでにビニル袋とカツサンドのラップも。
カイナは自分の机にあったペットボトルのお茶を飲んで、腕時計を見た。あの様子だとまだ時間はあるようだ。
「そういえばさ。お前、下着どうしてんの?」
「スパッツを履いてます、男性用ですけど」
「あぁん?何でそんなもん持ってんのさ」
怪訝そうな顔をする彼女。
「ちょっと前に、色々と外服内服と合わせて買い漁ったんです。
ほら、僕施設にいたでしょ?服とか買ったことなかったんで、一人暮らしを機に」
「ふうん。まぁ、さすがに履いてこないってのはないか。で、上は?」
ああ、それは。
「怪我をしているわけでもないのに使うのは抵抗があったんですけど――――」
「・・・・・・おい、まさか・・・」
「――――絆創膏を貼ってます」
間があった。こういう時、大体僕の近くにいる人間は形容しがたい顔をする。
「・・・なぁ、お前さぁ、わざと話を面白い方向にもっていってねぇ?」
呆れ声でそんなことを言われた。心外だなぁ、真剣なのに。
体に変なネタを仕組むなんてことは、それこそ雨が降るか降らないかぐらいにしかやってない。
・・・・・・まぁ、日々暇を持て余してるから。真剣に色々暇つぶしを考えてるのデス。
「仕方ないじゃないですか、さらしは無理だったし」
「無理?」
「出るところが出すぎて、うまくいかなかったんです」
「さらりと豊胸宣言しやがって・・・あ、そうだ。時間余ってるし、サイズ測ってやるよ。どうせいるだろ」
何気なく言った言葉に、僕は身を引いた。胸に手を当ててみせる。
やや沈黙があって、彼女は口を開いた。
「なぁ・・・」
何ですかね。
「そういうのは、もっとびくっ、て感じでやってくんない?」
いや、そんな要求されてもね。そんなにリアクションが薄かったのだろうか?
「・・・・・・。
そ、そんなこと言って・・・どうせ私の胸見るのが目的なんでしょっ、この変態っ!」
大げさに身を引いて、体をきゅうっと抱きしめる。目を潤ませて、頭をふるふると振る。
カイナは背にしている窓側にわざわざ振り返って、遠くを眺め始めた。
「・・・・・・・・・・・・。なんだかなぁ・・・・」
自分で言ったくせに、その反応はないと思う。
なんて失礼な人なんだろうか。