序章-1 前日前夜。-Prologue-
朝、とりあえず朝食に生ハムを載せたパンを頬張る。
理由は簡単で、他に食べられそうなものがなかったからだ。
冷蔵庫に入っているのは、バターやマヨネーズなどの調味的な物と牛乳に、瓶に入ったクリオネだけだった。
・・・クリオネは別に食べるつもりで入れているわけじゃない。
友達がネット販売にてノリで購入したのを、そのまま置いていったせいだ。
要冷の観賞生物が瓶5本分入っているせいで、ミニ冷蔵庫はかなりスペースを取られている。
涼しげに海水を舞うあやつらがウラメシイ。
そもそもえさが特殊すぎて維持するのにもかなりお金のかかる生き物なのだ。
牛乳をコップに注いで一気に飲み干すと、パンクズの散った皿と一緒にすぐさま洗った。
一人暮らし、なんでもすぐにやってしまわないと後の方がしんどいものなのだ。
洗面所で髪を直して歯を磨く。時間は登校時刻の7分前。
僕はリズムよく事を済ましてアパートを出た。
――――場所は特別研究都市神戸、入学時の緊張感を少し解かした4月の中旬。
織神葉月は超能力者になるべく、通う中学校へと歩を進めた。
超能力が科学者達の研究材料として特に注目を浴びたのは50年ほど前のこと。
アメリカのソフィ女史が発表した論文と1つの薬の成分表がその始まりだった。
超能力を発現するために必要な脳の使用パタンを取得させるために有用な錠剤の原型が作られたことによって、この手の研究は急速に発展していった。
今では世界各地に多数の研究所が存在するほどである。
ソフィP・S 記念研究所はまさにそのシンボルだが、ロシアや中国、日本にもあり、ヨーロッパでも知られる研究所がある。
日本の場合、国の指定した市の地域丸ごとを超能力研究の特殊機関として運営するという方式で、国内に9箇所の特別都市がある。
実用化された薬『SPS』は国際機構によって認可された機関でなければ扱うことはできず、また誰でも効果が得られるわけではない。
認可機関での特殊訓練を受けた最低9歳、最高25歳までに限って薬の服用が許可されているのだ。
発達しきった脳では効果が薄く、いきなりの服用は脳に与える影響が大きすぎるために、少しずつ脳波を同調させることで慣らしていくためである。
故に大掛かりな能力開発をするためには、専門設備の整った子供を養育できる機関が少なからず必要であり、だからこそ市を丸ごと利用したこの体制が執られている。
日本ではSPSの服用は13歳からで、指定学校で教育を受けてきた生徒は中学校入学からオリエンテーション等を行った後に服用を許可される。
それが、今日。多くの認定学校がこの日服用行事を行う。
学校までは私鉄で3駅行った所から徒歩10分。
この時間、通勤する大人たちと通学する子供たちが入り混じり、不快度が急上昇する。
人混みが苦手な僕としては、アパートから徒歩で通える中学校が良かったのだけど、SPS使用認定学校は近くになかったのだ。
もっとも、特別研究都市といっても普通の学校がないわけではないし、本来それを選ぶのは自由意志だ。
ただし僕の場合は両親がいないので奨学金を得て学校に通っていて、小・中学校一貫のその奨学金制度が、超能力者育成を推進するプロジェクトの1つであるため、学校の選択がSPS使用認定学校に限定されている。
融通が利かないものの、さっきだってオプションとして付いてきた権利で改札をパスして乗車したし、今や金銭的な不便を感じることはない。
隣の高校生が大音量で聴いている音楽を聴き流しながら、今日のことに思い巡らしているうちに下車駅に着いた。
『学園都市』。みもふたもない名称の駅だ。
もう少し、凝るとか限定するとかあっただろうと思う。いったいこの市だけで幾つ学園都市があるんだか。
ここで多くの学生が降りるものの、乗り込む学生も多い。彼らは"違う"学園都市に行くのだろう。
"この"学園都市には特に研究施設や認定学校が多いのだ。そういったものとは無縁の学生は逆に普通の学校のある方に散らばるという、シュールな光景がこの駅では広がっている。
駅を出るとかなり開けた広場がある。朝かなりの人数の学生が行き来することを考慮して作ったものらしい。
僕の今着ているワインレッドカラーのブレザーは祠堂学園第一中学、同じデザインで色が青っぽいのが第二中学で黄色っぽいのが第三、緑が第四と色違いの制服がちらほらあって、デザインで学園の、色でその中での区分けが分かるようになっている。
多数の学園が乱立しているため、見分けやすさを考えた結果らしい。
僕はもちろんワインレッド色の塊と同じ方向へ歩を進める。
と、その中で見慣れた顔を見つけた。
金の短髪をした不良な少年、四十万隆だ。
身長は170cmほどの高めで、控えめに筋肉質の体つきをしている体育会系な友人である。
よっと背伸びして後ろからその背中を叩く。
「やほーい、タカ。珍しく、早いじゃない」
軽く、挨拶。
「!あぁ、葉月か」
振り向いて、それだけ。せめて手を上げるとか「おはよう」と言うとか何らかの形で挨拶をして欲しかったな。
いや、「やほーい」が挨拶かと言われると自信はないけどさ。
「早いじゃない」
とりあえず重ねて問うてみる。
少なくても彼は今までの少ない登校日の内7回は遅刻するという怠惰な性格をしている。その他だってギリギリに来るのが常で、これほど早く登校というのはちょっとした驚きだった。
「そりゃあお前、今日は誰もが待ち望んでいた日だろうが。俺だってワクワクはするさ」
君ほどそんな言葉が似合わない人もそういないよという言葉を心中で口にしつつ、クスクスと笑ってみる。
「そうかもしれないね。つまり、そんな特別な日にも関わらずいつも通りに登校してきた僕の方がおかしいわけだ」
するとタカは口を半開きにした状態で、何か、その、ものすごく何か言いたそうな目をした。
「・・・お前が普通じゃねぇってのは、前から知ってたぞ?」
立ち止まった上、間をおいて失礼なことを言い出す。真顔だから余計に失礼さが引き立っている。
「えー、嘘だぁ。というか、僕は普通なつもりなんですけど?」
「なぁ、入学して二週目の事、覚えてるよな?」
別段記憶に古くはないし、この数週間で目立ったことなどあまりない。
指していることはすぐに分かった。
「タカがキレてカッターナイフ振り回したやつね。
それを僕が止めて今に至ると。ベタで美しい話じゃないか」
あ、また微妙な顔をした。
「色々とはしょっただろ、それ。俺は鮮明に覚えてるぞ?
カッター持ってアホンダラを追い掛け回してた俺を――――」
「僕が止めたわけだね」
「机を投げつけてきてな。まるで躊躇がなかったぞ。それで、俺が『なにしやがる、てめぇ!先に殺されてぇか、この女男!!』つってお前の方に向かっていった俺を――――」
「僕が静止させたわけだね」
「ダガーナイフ取り出してな。どこのどいつがブレザーの裏ポケットにそんなもの入れるんだ?」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
無言で顔を合わせる。少しの間笑いを堪えて、しかし笑った。
本当に他愛ない、朝のじゃれ合いだ。
「でよ」
と笑いを含んでタカが訊く。
「なんで持ってたんだ?あんなもの」
ふむ。アレはただの趣味なんだけどね。
「護身用だよ、護身用。・・・世の中、物騒だからね」
なんて、答えてみる。
あー、全然信じてないな、その顔は。
土足で上がれる我が祠堂第一の狭い昇降口を通り、自分たちのクラスである1‐Bに入る。
少数を小分けする集中指導方式を取り入れているこの学校では一クラス15人ほどしかなく、教室も少し小さめだ。
クラスメートが少ないのは人を覚えるのが苦手な僕にはうれしい限りなんだけど、女子の比率が高くて男子は肩身が狭い思いをしている。女子9人男子6人。3人だけでもその差は大きい。
「おはよー、今日はアレだね?みんな早いね?」
そう言いながら、自分の席に着く。
「おはよう、葉月。なに、一週間もすればクラスの半数はだらけて駆け込み登校に戻るだろうさ」
駆け込み登校。意味は分からなくはないけど、たぶんそんな言葉はないと思う。
「はよー、今日だけさー、今日げんてーい。明日からはいつも通りギリギリに・・・・・・あぇ?明日もなんだかんだいって早く登校かなぁ?」
「みんな自分の能力自慢したいし、他人の能力知りたいしで、明日はそうなるでしょうね。というより、美樹、そのだらけたのやめてよ。
・・・おはようね、葉月君」
「おはよう様〜」
皆、思い思いに声をかけてくれる。クラスで仲がいいのはいいことだと思う。まあ、この教室は女性中心社会だけどね。
唯一問題があったタカもあの件以来静かなものだし、その彼だって元々そこまでコミュニケーション能力がなかったわけではないし。
「いいんちょー、今日の予定はさー、どんなのだっけぇ?早く帰れるぅ?」
さっきからのこの間延びした声は細川美樹さん。艶やかな黒髪を重たげに流した半目な少女だ。ほとんどいつも机などに顔をべたっとつけて過ごしている変り種。あのままだと、背筋が悪くなると思うんだけどな。
「だーかーら、そのしゃべり方やめなさいって。
今日は一時間目に身体検査やって、二時間目に最終確認の集会して、最後にSPSを服用したら下校でしょう」
こっちは委員長。朝風椎という名前で、どこぞの会社の令嬢だとか。一度会社の名前を聞いたのだけど、忘れてしまった。なんか独特な感じのところだった記憶がある。
ちなみに副委員長も女子で、その役を任されているのは長谷川亜子さん。委員長共々しっかりした性格をしているので、男子の権力は弱いというわけだ。
「じゃあ、はやく帰れるよねー、やったぁ」
頭を机につけたまま、ぶらんと両手を上げて喜ぶ美樹さん。ちょっと動作が怖い。
「でも、服用後は安静にしてろって言われてる。五時間後には寝ろって前のオリエンテーションで言ってたろう?」
と朽網釧。小学校の頃からの親友で、一緒に色々怒られることをよくやった仲だ。ちなみにクリオネを押し付けてきた張本人でもある。
野暮ったく後ろで長髪を括っているこの引き篭もり気味の社会不適合者は、ネットを利用した小遣い稼ぎが得意でデイトレードまでこなしてしまうため、経済力だけが異常に高いから始末が悪い。家も相当裕福だ。
「別にいいのよー、どうせ寝るんだからー」
どうでもいいけど、横になってる状態って一番体が衰退するらしいよ、美樹さん。今の体勢も含めて何とかした方がいいと思う。既に手遅れな感じもするけどさ。
ま、思うだけで言わないんだけどね。
人を観察することは楽しめる性質だけれど、そこに入っていく気力はあまりないのが僕の欠点のひとつだろう。
口調はなるべく軽く、何も考えていない風に。自身の事を他人の意識に入れられるのを嫌い、必要以上に他人のことも気にかけない。
クシロ曰く、僕はそんな人間らしい。
他人に興味がないため、人の情報を覚えるのが苦手なんだろう。自分から観察趣味で能動的に仕入れた情報は別として。
そうこうしている内に、チャイムの3分前。この学校、3分前着席推奨なのだ。
今年から始まった指導なので2、3年はやっていないため、あくまで"推奨"。強制はできない。
クラスメート共々、素直に自分に与えられた席に着いた。
こういうのを、治安がいいと言うのだろうか。
3分はあっという間に経った。
これから、ある意味儀式的な緊張を持って、変化がやってくる。
時が区切られ、新鮮味を得るような感覚は恍惚。
もちろん、僕にとっても。
中学校に付属している小型の体育館に、1年のAからNまでの14クラス全ての生徒が集まっている。
前方にある一段高い舞台で医学的な方面の主任らしい白衣の男性が何かを喋っているけど、この中でいったい何人が聞いているのやら。
命に関わる危険性はほとんどないとは言え、薬物の使用であるからには、ある程度の慎重さを必要とする。
幾度となく行ったオリエンテーションに今やっている最終確認。必要性は誰だって理解しているものの、やっぱり同じ事を繰り返し言われるのは退屈だ。
僕は完全に聞き流している。
今、この怠惰な脳みそはくだらない想像しか巡っていない。
羽の生えた子豚3匹が槍やら銛やらをそれぞれ片手に、どこぞの海底都市に住まう狼たちを狩っている、そんな感じ。
海中だから羽の意味がヒレと同等分しかないし、最年少の子豚が魚群探知機と魚雷を搭載した船体に『煉瓦造』と明朝体で書かれた戦艦に乗ってるし、狼はトカゲの如く体をくねらして泳いで逃げてる。
退屈は人をおかしくするに違いない。それにどうにも眠くて敵わない。意識が天使な子豚に連れ去られかけている。
頭がこくんと揺れる。こくん、こくん、こくん。・・・こくん。
別に話は聞かなくても、大丈夫。委員長がちゃんと聞いてくれているだろうから、最悪、訊けばいい。それに彼女だったら、特別伝言する必要があるのなら言ってくれるだろうしね。
とりあえず、あの凶暴な子豚達に狼がどう反撃するのかを楽しみにしたい。
「・・です。2時間毎に・・温を測って・・・・さい。熱が・・・・・・・たり、下が・・・・・・・は学校に・・・・れく・・・・・・」
・・・・・・。・・・・・・。・・・・ん・・。ぁ。
意識が、完全に飛んでいた。
自分から手放した感があるけど、まあ、とにかく。
どうやら狼は長い間停戦状態だった山羊の一家と手を組み、サディスティックな殺し屋 赤帽子を雇うことで何とか暴君子豚を退けることに成功したらしい。
・・・いやいやいや。そうじゃないだろう、僕?まだ寝ぼけているっぽい。
どうやら僕が寝ている間に主任の話は終わったらしい。
保健主任は退場し、学年主任の方が性格どおりの手短い指示を与えているところだった。
「では皆さん。4・4・3・3に分かれて行きます。AからDクラス、EからH、IからK、LからNのそれぞれのグループが10分毎に医務室に向かってくださいね。
まずは、1グループ目!」
この先生、余計なことを一切言わないから好きだ。散々「注意してください」云々を聞かされてきた身にとってはありがたい。
僕のクラスはBなので、今からもう移動を開始することになる。
眠気でだるさが残る体を立ち上がると同時に伸ばして、暑い体育館とおさらばだ。
春のまだ涼しさの残る風を楽しみながら、ぞろぞろと歩く。
60人ほどだからそんなに数が多いわけではないけれど、やっぱり皆興奮したり、緊張したりしているみたいだ。
僕も、一応、そんな中の1人なんだろうけど、どうもそういったことを表に出すことは苦手。
既に見慣れた校舎や中庭を視界に入れて気を紛れさせながら、そんなクラスメート達についていった。
医務室、というか保健室は本校舎の入り口近くにある。学校自体がこういう施設だから、通常のものと比べてかなり大きいと思う。
といっても、僕は"普通の"学校なんて行ったこともないんだけど、教務室より大きいということはないだろうから。
出入り口が計3箇所あって、僕らは一番校舎の入り口に近い方から入った。
目に飛び込んでくるのは白い壁と銀の器具と機具。応急用のガーゼや傷薬、包帯なんかをしまっている棚や、保健医の机、待合のベンチに、簡易ベッドが仕切り付きで7つもある。
それでも余る室内空間は壁に仕切られてまるで見えないけれど、学校では使いそうもない高価な器具があるだろうことは何となく想像がつく。
前列の方で、A組の生徒が保険医からSPSを受け取っているらしい。
皆乗り出すからよく見えない。
まあ、すぐに回ってくるだろう。薬を渡すだけなんだし、そもそも1クラス平均15人しかいないんだ。
後ろを見ると、クシロが欠伸をしていた。
僕が振り向いていることに気づいて、手をひらひら振る。
僕はくくっと笑って前を向きなおす。
彼が手を振ったのにも、僕が笑ったのにも意味はない。まあ、行動全てに意味があるわけでもないだろうし。
うん。相変わらず、無駄なことを楽しんでいる。
と、僕の番が回ってきた。
保健医のヘビースモーカーな隈目気味の彼女がほれ、と軽く渡してくれる。
チャック式の小さいビニール袋に一粒のカプセルが入っている。
緑と白の色彩のチョイスは他の薬と区別するためだろうか。
それを持って先に進む。いつもはない簡易の長机あって、その上に水の入った紙コップが並べてある。
SPSを手にとって、よっと口に放り込んでから、水を一杯飲み干した。
さっさと真ん中の出入り口から廊下に出る。待つまでもなく、靴を履いている間にクシロも出てきた。
各自解散なので、2人して教室へ鞄を取りに戻る。
1年生の教室は1階。当然3年は3階で、4階には図書館や音楽室なんてものが詰めてある。
屋上部分は普通に開放されていて、基本昼食休みに憩いの場。ときどき外側から鍵を閉めて秘密の会合にも利用されるらしいけど。
これはコンピューター部の先輩から聞いた話。もっとも僕は帰宅部だし、この時期に既に部活に入っている生徒は少ない方だ。クシロがコン部で、そこに僕が頻繁に顔を出すだけ。だから正しくはコンピューター部にいる先輩、かな。
さて、そんなことはさておき。
「君は、いったいどんな能力をお望みなのかな?」
こんな状況にあれば誰だってするであろう、質問をしてみる。
皆朝のうちに、あるいはそれ以上前にやってしまっていることにも関わらず、僕らはこの話題をするのは初めてだ。
理由は簡単で、僕がそういった話を進んでしたがらないから。子供染みた姿を露見することを、恥ずかしいと感じてしまうのだ。残念ながらこういうところに老けがきている。
「うぅん?」
相槌。こっちから振ったことに対する確認だろうか。
「そうだな。電磁的な・・・・パソコンとかに応用できそうなのか、株の変動が分かる能力、ぶっちゃけ未来視かな。そのどっちか」
「魔人にする3つの願い事みたいなノリだね・・・・・・『未来見えれば競馬で稼ぎ放題だぜ!』みたいな感じですか。
今でも十分稼いでるでしょ。そしてあんまり使わない」
んー、と彼は髪を掻いた。
「いや、そうでもない。1ヶ月に500万も使えば消費癖がついて然るべきだろうよ」
確かに、普通に考えればそうなのかもしれない。でも、それは少なくとも年収が1千万以下の家庭なんかで言われる"普通"だ。
彼の場合、一人暮らしで年収は億を超えている。実際、彼が何で儲けているかはよく知らない。ネット関連で結構稼いでいる様ではあるけど、それだけで億単位を稼げるとは考えにくい。案外、どこぞの会社の社長なのかもしれない。
「で、その1ヶ月に何千万稼ぐの?貯金、増える一方でしょ」
「1つ何千何百なんてものそう買わないしな。電化製品は一度買えば何年か持つし、消費物はそもそもそんなに高くない。食べるものにも着るものにもこだわらないし・・・・・・」
「お金なんて、使う以上はいらないよ・・・貯金が1兆を超えても働く必要がある、とは思えない。というか5億でも一生分足りるでしょ」
何時だったか、一生に何円あれば遊んで暮らせるかなんてことを、幼稚ながら計算したことがあるけど、確か3億ぐらいだった。控えめに言っても10億あれば十分なはずだ。
「あー、俺の住んでるところさ、あれ20億以上したんだけど?」
「へぇ・・・いやいや、というかあそこ賃貸じゃないの!?」
てっきり超高収入者向けの賃貸マンションだとばかり・・・・・・
「言わなかったっけ。衝動買い?一括で買ったんだけどさ。地上から遥か37階の大展望、高いセキュリティーに好立地。買わなきゃ損」
一括で、中学・・・いや、小学生がそんなもの買うというのは、どんな光景なんだろう。たぶん、クシロの親父さんが色々面倒な書類とかはやってくれたんじゃないかとは思うけど。
「そりゃ随分な冒険したね、その年で」
「まあ、それ以外はあんまりでかい買い物はしてないよ。興味引いたもの片っ端から買ってはいるけどさ」
「それでも収入と支出が合ってないね。稼ぐことに執着しすぎだと思わないでもない」
「その分は、お前が持ってくだろう?なら、別に無駄にだってなってない」
・・・・・・テイク・アンド・テイク。『取って、取って』だ。いや、奪う、か。
そういった行為は楽だけど、苦しい。少量でも良心とかいうモノを持っている人間には。
僕がどうなのかっていうと、難しい話。とはいえ、少なくとも、嫌がる程度には・・・・。
クシロは横を歩く僕の方をちろっと見て、ふぅと息を吐く。
「使わない金があるからと言って、俺は募金だの寄付だのする気はない。意味のない気まぐれでも起こさない限りね。
少なくとも、『お金がない』からと悲劇ぶる人間はこの国にはそういない。状況を打開できないほどの不幸が、この国内にあるとは思えない。
そして海外の話は遠すぎる。彼らを俺達よりも不幸だと決め付けるのは侮辱で、彼らにある困難は彼らが克服すべきだ。まあ、確かに富国でぬるぬると生きている俺らみたいな人間が、何らかの援助は出来るだろうさ。可能性の話では。
でも、それは彼らの全てを踏み潰すのと同時にしかできない。『善意の募金』だとか、『あなたの気持ちで救える命がある』だとか、それこそ胸のむかむかする言葉だよな。
そんな行為に善意なんてあってたまるか。くだらない。何も考えずに好意なんて行為ですることじゃないし、それで人の人格が値踏みされるわけがない。されると考えている奴こそが、薄っぺらい。
募金箱に小銭を入れることが、善意だなんておかしな話だ。いい事をした、なんて傲慢を得るために彼らを踏みにじっているんだから。それなら、それこそお釣りを財布にしまうのが面倒だから、なんて理由で入れた方がマシだよ。善意もなければ悪意もない。
募金、寄付、救助だなんて言葉が、善意なんかだけでは成り立たないって、知っている人は何人いるんだろうな。知っていて尚もその泥道を素足で歩く覚悟を持って行為する人は何人いるんだろうな。
世界には確かに、そんな覚悟を持った人間が、いるにはいるさ。でも、そんな人間は、のうのうと、この国に安住はしていない。それこそ、自分の足で、手で彼らを支えることだろう。
善意が偽善に見えてならない俺は、絶対にそういった行為は出来ない。引き篭もりの俺には、精神的にも遠すぎる。となると、あまりに余ったお金は溜まる一方というわけだ。
それは困るよな、お金が回らなければ、景気が悪くなる。景気が悪いと、文化もあまり発達しない。それじゃあ、俺はつまらないだろう?
だから、俺はお前にお金を配ってもらうわけだ。親友に単なる好意で小遣いを与えるだけ。俺の気まぐれ。
お前はさ、偽善を抱いて胸を張れる人間だから。お前がそれこそ募金でも寄付でも援助でもしてくれればいい、偽善でもってさ。
果たして俺の稼いだお金は無駄なく、意味あり、使われるだろう。
そうやって俺の代わりに俺のお金を方々に回すのが、ある意味お前の仕事なの。ギブ・アンド・テイク。だから、そのお礼としてお小遣いも含んでいるわけだ。
まあ、いったい渡したお金のどこまでが小遣い分かは不明だな。たぶん、全部なんだろうが」
なんて、最後はおどけた風に言葉を紡いだ。少し言い過ぎな感じがあるけど。
いつもより饒舌で、言葉遣いが雑になった、クシロ。・・・・・・優しい、僕の親友だ。
まあ、それだけじゃあないんだろう。
彼は善意という言葉を毛嫌いしている。小学生時代から、家庭が既に金銭的に恵まれていた彼はその類を理由に苛められていたから。
それに僕も関わっていたのだけど、あまりこの話は気が進まない。
ただ言えるのは、苛めを行っていた彼らが幼稚であったように、当時の僕も相当幼かったということ。もとよりクシロと知友の仲だった僕は、その事実を知って激怒した。感情に任せて、彼らを叩き潰してしまった。
結果として、いきなり転校することになった生徒が多数出たし、彼らはトラウマに悩まされることになっただろう。
もっとも、だからと言って彼らに同情などはしないけれど。
ともかく、その件があるから彼は『善意』とか『募金』といった言葉に特に敏感だ。
そんな話を持ち出してまで、回りくどい慰め染みたことをしてくれる彼の好意に感謝して、おどけて返してやることにしよう。
「でもさ、クシロ。結局の話、使う分だけ稼げば問題ないよね」
なんて。
/
「でもさ、クシロ。結局の話、使う分だけ稼げば問題ないよね」
葉月はそんなことを言っておどけてみせた。
頭1つ分ほど低い位置にある葉月の表情を見るが、さっきまでの翳りはない。
全くの失言だった。
葉月には両親がいない。幼い頃に彼は捨てられ、現在に至る。
織神の姓は引き取った養育機関の誰かがつけたものだが、名前の方は放置された揺り篭の中に一緒にメモが入っていたらしい。
そのくせ、誕生日は記載されておらず、葉月から8月、拾われた日から17日で8月17日をその日としている。
奨学金やらなんやらで、何とか軽減させてはいるものの、それらが十分だとはいえない。
小・中学校は義務教育であるし、当然身寄りのない子供も不自由なく通えるのが本来なのだろうが、現実はそう綺麗にいってはいない。
なにより彼の受けている奨学制度はある種の強制性をもってSPS服用を促す傾向が強い。
『通常の学校に通学できない程度』に制度内容が縛られているし、そもそもそれ以外の制度が紹介されたかも怪しい。
だいたいこの学校にでだって、本来は入れなかったのだ。
葉月がやり繰りできる金銭では、もう少し遠くにある『双芥中学』しかなかった。
ただ、この中学校は仄暗い噂が多すぎるのだ。
『校舎の数倍大きい地下施設が存在して、能力者の複写体を製造している』とか、『SPSの大量服用による人体の変化を実際実験で研究している』とか、『生徒を生きたまま解剖して、瓶詰めにして保存してある倉庫がある』とか。それらに派生してヤバめの話が後を立たない。
そんなところに親友を行かすわけにもいかないので、強引に不足分やそれにともなって定期的に必要になってくる費用を俺が払っているのだ。
俺の師匠であるところの深香クルナさんがゲラゲラ笑いながら「火種がなければ煙も噂もたたないんだぜ、くっしー。後悔後に立たず、てな」なんて不気味なこと言ってくれたのも強く押した一因なのだが、ともかく葉月の生活は、能動受動は別として、純粋に他人のお金の上に成り立っている。
当然、そこのところを気にしていないわけがない。だから、さっきのは失言だった。
俺の境遇は別として、あの年でバイトもしているし、今は俺のやってるような小遣い稼ぎにも手を出している。
・・・・・・話題を戻そう。
「で、そういう葉月はどうなんだ?発火能力とか座標転移とか?」
「ん、発火系はいいかもしれないね。凍結系でもいいけど。転移系はごめんだよ。転移した先で、自分の体が変なところに突き刺さってたら嫌だし。
・・・・・・物はいいけど、人は動いているからね。気づいたら手が誰かさんの胸に刺さってるなんてオチは避けたい」
変なところで想像力がいいよな。確かに座標転移なんてものは、考える以上に不便極まりないらしいが。
「強影念力は?あれも応用度が高いから、使い勝手はいいだろうけど・・・・・・」
「形に見えにくいのがね。派手なのがいいなー、分かりやすいし」
強影念力だって、派手だとおもうんだけどな。葉月はたぶん能力自体が透明なのを言っているんだろう。
それに葉月は軽い物言いで言っているように見えて、これで結構妙なところに考えをめぐらせているに違いない。
例えば、見えやすい方が威嚇に使いやすいとか、脅しに使いやすいとか、そんな類のものを。
まあ、必要になるような場面事態がなければ、それに越したことはないんだけれども。
「あー、珍しいのもいいよね。滑空自在、反響氾濫、言霊・・・・・・」
「聞いたことないのが混じってる。滑空自在?」
「マイナーだから。イメージとしてはスノボーかな、空気上を滑るんだけど」
・・・マイナー以前に利用価値の良く分からない能力だ。
移動術としてもテレポートに比べて遥かに劣る。密室に置かれたら利用価値ゼロだ。そもそも目立つだけじゃないのだろうか。
「使えなさすぎる」
「そう?高層ビルから飛び降りたら気持ちよさそうだけど?」
無邪気な表情で聞いてくるが、俺はバンジージャンプなど一生やりたくない人間だ。37階に居を構えていておいてなんだけど。
あと飛び降り自殺は、あまり高所から行うと落ちる途中で気絶すると聞いたことがある。能力を使う前に意識を手放して、そのまま墜落死などというバッドエンドが浮かんだ。
こいつがその能力を得たら、絶対にそんなことはやらせないようにしないと。
割と本気でそんなことを考えつつ歩いていると、教室に着いた。
1‐Bのプレートが高所に掲げてある、そっけない引き戸式の外観。同じくして中も質素で味気ないものだったが、細川が常時ぼうっとしながら作った縫い物の類により妙なデコレーションが施されている。
『いなっちー』とかなんとか呼ばれる正体不明のモンスターがまばらに描かれたカーテン。見れば見るたび、謎が謎を呼ぶ彼女オリジナルの『いなっちー』なのだが、この下手としか言いようのないデザインはどうもわざとやってるらしい。カーテンに異常発生しているそのどれもが、同じように歪んだ線で描かれている。
教台にかけられた簡単な暗号の書かれたテーブルクロス。ちなみに解読すると『早く帰りたい』だの『眠たい』だの『永眠希望、人生夢の中』だのと書かれていた。解読した自分が馬鹿らしい。
その他、受け狙いとしか思えない奇怪な縫い物が色んな所にある。
教室にはいると、そんなモノ達とともに委員長が視界に入った。
どうやら待っていたようだ。鞄を肩にかけている。
「連絡。服用後は2時間毎に体温測って記録しろだって。葉月君、寝てたでしょう」
本当に生真面目なことだ。俺も半分寝ていたけどさ。それ、前にも一応は言っていたし、わざわざ待ってまで言うものだろうか。
まあ、彼女らしいといえばそうだろう。有り難いことこの上ない。
「ありがとー、委員長」
寝ていたら、彼女が放っておかないことを知っていながら、笑顔で礼を言っている葉月。こういうところに微妙な腹黒さが出ている。
そんな葉月を横目で見てから、前に視線を戻す。
ん、なにか委員長がなんとも言えない顔をしている。
「・・・・・・ねえ、その『委員長』っていうのやめない?」
彼女はそう切り出した。
「んん?」
と、葉月。
「ものすごく距離を感じるのよね。一人だけ肩書きで呼ばれるの」
ああ、そういえば俺も葉月も副委員長は苗字か名前で呼んでるかもしれない。
女子は愛称か名前だし、他の男子だって苗字だ。仲はいい。細川は『いいんちょー』と呼んでいるが、あれは親しんでのことだということは誰でもわかる。
「分かった。じゃあ名前で呼ぶよ、椎さん」
最後に音符記号を入れられるようなアクセントで言って、微笑む葉月。
委員長も微笑み返す。なんというか出来の良い息子を誇るような顔だ。
同じ笑みでも随分違う。委員長のものと比べて葉月のは無邪気すぎる。
もっともここで重要なのは、無邪気には善意も悪意もないということだが。
そこで、委員長の顔が葉月からこっちにぐるんと向いた。
「釧君もよ?」
いきなり話をこっちにもふってくる。何か声のトーンが低い気がする。・・・気のせいか?
さっきから心の中で委員長と連呼していたのがバレたのかもしれない。
ちょっと冷や汗が出た。
「了解ー。朝風、でいい?」
肯定の代わりに笑顔で答えるいいん・・・朝風。
男なら何かしらの感情を覚えるような微笑みだ。委員長は委員長でも、清純では決してないタイプの魔性の少女。
葉月もそういった所があるが、朝風よりも色が濃い。
朝風がそれを身にまとっているとするならば、葉月はそれそのものの原石だろう。
不純物を含みながらも、その量は絶大。そんな感じである。
ああいや、別に悪口を言っているわけではなくて、そういうところがスパイスになって面白い人間だということを――――
/
僕は用事を済ませたとばかりに去ろうとしているいい・・椎さんに手を振った。
横で何か考えているクシロ。何やら頭の中で失礼なことを言われている気がひしひしとするのだけど、後で問い詰めよう。
顔に出ていることを彼は気づいていないのだろうか?本当に分かりやすい人だ。
僕達が話している間もそうだったけど、皆続々と服用を終えて帰ってきている。
タカもその一人で、鞄を持った状態で待っていた。
「じゃあ、帰ろうか」
タカに声をかけて、教室を出る。
いつもこの3人でつるんでいることの多い僕達だけど、周りから見てどう映っているのだろうか。
タカが言うところの女男の華奢なこの僕、不良ライフを往っている長身金髪のタカ、長髪色白引き篭もりなクシロ。
アンバランスを通り越して、接点が思いつかない組み合わせだ。
まあ、原因は朝タカが話したあの件なのだけど。
タカとクシロも気が合うようで、何よりだ。
「そういえば、明日の予定ってどうだったか?」
「検査とか・・・・・・なんか毎年個人個人でやることが違うから、あんまり予定も日程も定まってないって言ってたよね」
「人によって能力は違うし、程度も違うしな。それを測定して、区分けして、別個のカリキュラム用意しなきゃならないらしい」
「せめて葉月に脅されない程度の能力が欲しいぜ」
「ははっ、何無理なこと言ってるんだ」
「脅かすも何も、そんなことした覚えがないけど?それとも何、2人して僕は悪人だとも?」
「あ、そういえばさぁ、検査が長引けばその分学校って平常授業ないよな?得じゃねぇか」
「残念だな、隆。定期考査の日程は変わらないから、授業がない分は自主学習だぞ?」
「げっ、いや、でも、できなかった分考査の範囲減るもんじゃないのか?」
「学校の授業スピードってある程度決められてるから。僕達の通っているような学校って、通常の授業に加えて特別カリキュラムがある分、キツキツだよ?」
「無理やり進めないと、普通の中学校分の履修ができないだろ」
「まじかよ・・・・・・というか、お前ら文句とかないのかよ」
「残念ながらね、俺の家はそういうのに厳しいんだ。引き篭もるのは構わないけど、ある程度勉強は出来ときなさいってな。だから予習は欠かしてないの。
それに、葉月は小5の時点で高校までの知識は詰み込め終えてる」
「・・・・・・お前らおかしいぞ。俺が悪いみたいじゃねーか」
そんな話をしながら、駅まで歩く。
何でも、笑いの絶えないのはとても良いことだと思う。
体が心地よさを感じるし、何よりいらないことを考える暇がなくなるから。
駅に着くと、僕とタカはクシロと分かれて、それぞれ反対方向へ行くプラットホームに行く。僕達2人はどちらかというと田舎方向に、クシロは賑わっている方向に。
元々僕はクシロと同じ駅が最寄の施設にいたのだけど、中学生になる際にこっちに越してきている。だから、クシロと電車に同乗しないこの状況にまだ慣れていない。
電車内でタカとさっきクシロとしたような能力談義をして、タカは2駅目に、僕は終点で降りる。
ちなみに話の内容は滑空自在について。タカはこの能力に興味を持ってくれたようだった。
空を自由に徐行しながら昇り降りできる能力は魅力的だと思う。
さて、駅を出ると僕はまずここら辺で一番大きい本屋に向かった。
本当は安静にしておくべきなのだろうけど、本当に動かない方がいい服用後6時間以降までにその時の暇つぶしアイテムを買っておきたい。
この街には僕が知っているだけでも4つの本屋がある。しかも同じ店舗の支店が2つ。意味があるのかどうか知らないけど、品揃えがどこも同じようなもので、欲しい本がなければ電車で遠出しなければならない。
店に入って漫画やライトノベルのコーナーに行く。それなりにスペースを取ってくれていることが嬉しい。
『ATOGAKI』という題名のもはや意味の分からない執念すら感じられるものと、『魔法少女と無理心中』というダークユーモアなものをほとんど何も考えずに購入。
クシロが渡してくれているお金なのだが、『お金を回す』ということで。
それを買ってから、ふと気づいた。冷蔵庫に食料がない。朝確認した時には、クリオネと調味料ぐらいしか入っていなかった。
どうせSPS服用後は食の量と時間を制限されているから、あまり食べれない。
おにぎりなんかでもいいだろう。
仕方なくコンビニで間食的なものを購入してアパートに帰った。
僕のアパートは7階建ての少し古ぼけた建物だ。
この建物、恐ろしいことにエレベーターがついていない。そして僕の部屋は701号室、毎日毎日アップアップしてる。
何でこんな不便な所を借りているかといえば、当然賃金が安いからで、部屋自体は綺麗な改装されているし、広い間取りになっているのも気に入っている。
激しい運動を避けるように言われているので、今日に限ってはものすごくゆっくりと上がっていく。
うん。改めて不便さをかみ締める羽目になった。
ただいまー、と誰もいないのに部屋の中に声をかける。
裂けるチーズ・スモークと飲むヨーグルト・ミルク味を冷蔵庫にさっさと入れて、制服を脱いだ。
上着とズボンをハンガーにかけて、シャツは洗濯籠へ。短袖短裾のラフで薄い服をタンスから出して、着衣する。
パイプ式の硬い簡易ベッドにボフンと体を思いっきり沈める。
あー、何もしていないけど疲れた。
「・・・・・・」
しばらく俯けの状態で顔を埋めて、ふぅっと息を吐く。
よし、買ってきた小説を読もう。
この後の数時間のことは別に何にもなかった。
小説読んで、チーズを食べながらテレビを見て、また小説読んでといった繰り返しだ。
1人では何のアクションもない。
言うならば、毎日の日常を繰り返しただけ。
違うといえば、2時間おきの体温測定ぐらい。
6時間はあっという間に過ぎた。既に9時間が経過している。
今日何回目かの体温測定のために体温計を耳に当てる。数秒でピピッと電子音がした。36.4度。前のときは36.3度だったから、あまり変わりもない。
この体温計は学校から事前に支給されたものだ。他にも色々とセットで貰ったのだけど、まあ、使う機会がそうある物は少ないと思う。
検査があるわけでもないのに入っているスティック式の検尿セットとか、超冷え冷えシート(体感0℃♪)とか。他にもどこかの試作品じゃないかと思われるものが数種類ある。
そのセットの入ったボックスをクローゼットの奥に入れて、僕は洗面所に向かった。
歯を磨くためだ。少し早いけど、そろそろ寝てしまおう。
安静がどうこう以前に、小説にしたってもう読んでしまったし、暇つぶしがなくなってしまった。
それに、すごく眠たかったし。
5分ほど歯ブラシを当てて、その後に歯間ブラシを使う。その後に洗浄液でうがい、最後に水で口を濯いで終わり。
手際よく日常の作業をやるのは、1つのコツ。あまり何か考えたり、面倒くさいと体を止めてしまうと、余計に動けなくなってしまう。何も考えずにパッパと終わらす方が楽だ。
寝る前にメールのチェックだけして、僕は眠りに付いた。
・・・、・・・・。・・。・・・・・・・・・・、・、・・・・・・・・・・。
仰向けになって、海底から上を見上げるイメージ。陽が射し、波に歪められた光が注ぐ。
静寂。それは一瞬で、いきなり爆音が響いた。
「畜生、山羊の野郎寝返りやがって!」
遠きに沈んだ大国の跡、その司令室で貫禄顔の狼が叫ぶ。
机を叩いた拍子に、定規やマーカーなどが跳ねた。
そこに1匹の若狼が慌てて入ってきた。乱暴に扉を開けて肩で息をしている。
「報告します!第3、第5倉庫に保管してある武器が底をつきましたっ!
残っている第7、第9もそれぞれ20、35%しかありません!」
誰も驚きはしなかった。先の豚との戦闘で疲弊しきった所をさらに彼らと山羊の連合軍に追い討ちをかけられているのだ。
「兵士の疲労も酷い・・・せめて、せめて彼らの士気を高めてやれれば・・・・・・」
彼ら狼の間には既に敗戦の空気が充満していた。それでも尚、残した家族や友人のために戦う兵士を労えるだけの策が欲しかった。決して犬死だなんて言わせたくない。
赤帽子は既にこの地を去っている。戦争に次ぐ戦争に彼らの資金や資源は底をつきかけている。彼女を雇うだけの余裕はなかった。
それを含めて、もう狼達に策はなくなっていた。どれだけ請おうと欲するものはやってはこない。
「軍曹・・・っ!」
貫禄顔の彼が机の向こうにいる軍曹と呼ばれた狼に答えを求めた。
軍曹は苦渋に顔を歪め、搾り出すように言う。
「・・・・・・全軍に伝えろ。我が国は、負けた」
貫禄狼は震える腕をもう片手で必死に押さえながら拳を握り締めた。眼鏡をかけた参謀はその眼鏡を外し、手で顔を覆い遥か天を仰いだ。年老いたご意見番の老狼は唸ってしゃがみ込んだ。そして、先ほど入ってきた若狼は、
「そんなっ!将軍、参謀、軍曹も!そんなこと言わないでくださいっ!」
叫んだ。開きっぱなしの扉にもたれ掛かるように手を置いて、必死に叫んだ。
「悔しい気持ちは分かる。だが、これ以上尊い兵士を失うわけにもいかないのだ。解ってくれ」
参謀が彼の肩に手を置いた。
しかし、彼はそれを手で弾いた。
「今までに死んでしまった彼らはっ、どうなるんですかっ!
アーガンは、スズトラはっ、・・・ウラスベルは!どうなるんですかぁ!
皆、国のために、家族のために戦って、死んだんです!」
彼は涙を零しながら訴えた。ただ、若い感情だけが暴走している。
「シガエル・・・」
将軍は彼の方に真っ直ぐ視線を向けた。向けて、何も言えなかった。
「・・・頼みますから、そんな情けないこと言わないでくださいよぅ・・・・・・」
誰も何も言えなかった。
はた、と目が覚めた。何かすごい夢を見た気がする。
どうにも寝心地が悪い。汗が吹き出て、服が湿っている。額に手を当ててみると、結構熱い。熱があるのかもしれない。
体温計、体温計。耳に当てて、数秒後。・・・うん、37.3度。確かに熱がある。
どうしようか。学校に連絡を入れた方が良いかもしれない。
・・・・・・、・・・・・・。・・・・・・。よし、やめよう。眠たいし、眠たいし。眠たいし。
冷え冷えシートを貼って、それでも酷かったら連絡するということで。
胡散臭いから使えないとかちょっと前に宣言したくせに、もう使うことになるというのは少し嫌な気分だけど。
包装を破って、中からシートを一枚取り出す。どうやら10枚入っているらしい。お徳用みたいな数だ。
フィルムを剥がして、おでこに狙いを定め、貼る。
「〜〜〜〜〜〜っ!」
途端ものすごい頭痛がきた。あれあれ、アイスクリーム頭痛とか言う・・・。本当に冷たすぎる。体感0℃♪は伊達じゃない。
絶対不良品だ、これ。熱が冷めるとかいう問題じゃない。研究員が何かに自棄になって作ったんじゃないのだろうか?
『みろ!俺は限界に挑むぜ。次は体感絶対零度☆だ!』とか言っている誰かさんが一瞬脳裏を過ぎる。
頭を掛け布団にぐりぐりと押し付けて数分。やっとなんとか慣れてきた。それでも冷たすぎるけど。
うん、汗はかきそうにない。これだけ冷たいと眠気も覚めると思いきや、いまだ眠たくてたまらない。
ベッドにバタンと倒れて、そのまま意識は底に堕ちていった。
・、・・。・・・・・、・・・・・、・・・・・。・・、・・・・・。・・・・・。
水面は揺れに揺れていた。
飛沫が上がり、ひんやりとした霧が辺りに立ち込めては、再び飛沫と爆風にかき消されていく。
戦艦『煉瓦造』が数多ある軍船の中で一際大きく聳えていた。
海中から飛び出す幾つかの空海両用の戦闘飛行機。鋭角なボディを震わせて、数多の戦艦に銃弾やミサイルを撃ち込んでいく。
だが相手も黙ってはいなかった。隊形を維持しながら、多方に散らばっている船から光弾が無数発射される。その数は狼軍の比ではなく、何より多角的なその豪雨たる砲撃は避けることすらままならない。
多くの飛行機が墜落してゆく。
「狼をなめんなぁっ!」
血の気の多い狼が叫ぶ。
照準もろくに合わせず、大戦艦に向かって銃弾を飛ばす。そのどれもが当たるが、しかし船の強度には勝てはしなかった。
『煉瓦造』。その名に恥ぬ、鉄壁である。
『全軍に告ぐ、撤退せよ!撤退せよっ!!』
ごついイヤホンから流れる命令を彼は無視した。彼だけではない、多くの兵士がそれを無視している。
凶弾の豪雨を休むまもなく避け続け、弾がなくなるまで打ち続ける。そう決めた。搭載していたミサイルは既に使ってしまっている。
『グルスラ!撤退しろ!我々はもう負けたんだ!これ以上犠牲を出したくない!!』
「うるせいですぜ、ファスカ将軍。俺は、俺達はあの野郎どもに一泡吹かせるまでは、負けを認めるわけにゃあいきやせん。
じゃねぇと、アル中のジギガナのヤツに合わせる顔がないんですわ」
『グルスラ!!』
両手で操縦桿を握りしめ、撃ち込む。
ダダダッという短くも重量を持った轟音がその度に響き、時には爆音が轟く。
その時、1つの光弾が彼の戦闘機に向かって飛んできた。
「チィッ!」
ガコンッと操縦桿を無理やり横にずらす。ガガッと機体が大きく揺れ、体に負荷がかかった。
キュィン。体勢を変えた機体のすぐ横を弾が通る。
同時に機体も激しく動いた。
「掠りやがったなっ!」
彼はすぐに戦闘機の体勢を整え、一瞬外を覗いた。
目立った外傷はないが、機体の下辺りから煙が少量出ていた。
どの道、もう時間は少ないらしい。
(全弾出し切るまではっ!)
彼は操縦桿についている発射ボタンを押した。
ガン、ガガッ――
何かが引っかかったような音がした。
眼前のディスプレイを見る。そこに表示されているのは『発射装置故障』の文字。
「畜生がぁっ!!」
叫んで、それから声が枯れるまでありとあらゆる悪態をついた。
大きく、息を吸う。
「ファスカ将軍」
実はさっきからずっと呼びかけていた彼に向かってグルスラは呼びかけた。
『何だっ、どうした!』
その問いには答えず、彼は言う。
「故郷の息子に、よろしく言っといてくだせぇ・・・・・・」
『っ!おい、待て!待つんだ!!』
その言葉に察した上官は彼を引きとめようと声をさらに荒げる。
彼は今までのようにその言葉を無視した。
狙うはあの憎たらしい大戦艦。『煉瓦造』と称された傲慢な怪物の鼻を折ってやる。
それを阻止するように立ちはだかる無数の光達をするすると避け、彼の戦闘機は戦艦に突撃した。
美しく滑らかに、差し込むように戦闘機『息吹』は大戦艦に特攻した。
難攻不落と称された豚軍の柱が砕かれた瞬間だった。
『グルスラァアアアアァ!!!』
絶叫が響きわたる。
まだ残っていた他の戦闘気乗り達もそれを聞いていた。
彼らのほとんどが銃弾はとうに尽きていた。しかしこの弾の嵐の中引き下がることもできず、ただ舞っていた。
彼らは見ていた。自分らの上官が命を賭して行った最後の猛攻が、大戦艦に爪跡を遺したことを。
黒い煙を上げるその戦艦。彼らは意を決して最後の攻撃に出る。
機体を傾け、力を抜き、直進。
さながら、フリーフォール――――
ガタンッ、そんな音がした。少し鈍痛がきた。
その前にはビルから落ちるような体の心がぞくっとする感覚も。
どうやらベッドから転げ落ちたらしい。
何か眠気や痛み以外で涙が出ている気がするけど、気のせいだろうか。
どうやら熱は下がったのか、上昇はしなくなったのか、楽にはなっている。
この額のシート、慣れれば案外いけるかもしれない。
目を擦って、ベッドの上に戻る。
今度はちゃんと掛け布団をかけて仰向けになって横になる。
ぐっすりと寝れますように。おやすみなさい。