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「アンネリーゼ様、それは……」
肌を晒せと言われ戸惑わない乙女が居るのだろうか。
混乱の最中に首をもたげた問いは喉の奥で溶けて消え、代わりに吐き出されたのは否定になり損ねた言葉だった。
男女の区別が曖昧な状態ならばまだ、アンネリーゼの願いを叶えられたかも知れない。
女性なのだと思いこめば、証明のため肌を晒すのをここまで躊躇わなかっただろう。
けれどコーデリアは既に彼の性別を目の当たりにしている。
それどころか、未だ晒されたままのしなやかながら男性的な体つきをまじまじと見つめてしまい、コーデリアは慌てて視線をそらした。
「あの……貴方の性別は理解しました。ですからどうか、胸元を整えてください」
「そうね。さすがに、この状況を他人に見られては困ってしまうものね」
おっとりとした仕草で胸元を整え始めたアンネリーゼが、ふとその手を止める。
そしてその瞳が悪戯を思いついた子どものように煌めいたのを、コーデリアはみた。
嫌な予感がする。
けれど、姫君の言葉を遮れるほどの権限がコーデリアには与えられていない。
「――ねえ、直して下さる?」
示されたのは、半分ほど開いたままのボタンだった。
甘えた言葉に動揺するコーデリアとの距離を詰め、アンネリーゼは微笑んでみせる。
「上手に直して下さったら、貴方のこと認めても良いわ。追求も止めて差し上げる」
語られた取引は確かに、肌を晒すより易しいものだろう。
急に軟化した態度への疑問は拭えないが、限られた選択肢の中では一番魅力的な案に思えた。
気恥ずかしさに目をそらしながら伸ばしたその手が突如引かれ、暖かな、けれど柔らかさのない壁にぶつかる。
ふわりと甘い香りがした。
その壁の正体がアンネリーゼだと気付いたのは、耳元で軽やかな笑い声が響いたからだ。
慌てて距離を取ろうともがくコーデリアだったが、腕を絡め取られた上に腰元を抱き寄せられてしまえばたいした抵抗は出来ない。
「アンネリーゼ様、なにを」
困惑の表情を浮かべた獲物を楽しげに見下ろすその瞳は、真冬の空の様に冷えた気配をたたえていた。
「可愛らしく染まったお顔は、異性に肌を晒す恥ずかしさなのかしら。それとも――女性を装っているのがばれてしまうから?」
「ですから、私はっ……!」
「ええ。女性だというのでしょう?ハウネル家長女のコーデリア・ハウネル。わたくしより一つ年上だったかしら?」
言い募ろうとした言葉は遮られた。
淡々と吐き出されたコーデリアの素性は、赤の他人の素性のような響きをもって耳を滑って行く。
「けれど、口だけなら何とでも言えるわ。兄妹なのだもの。装うのは難しく無いでしょう?」
微笑む姿は美しかった。
貴婦人は時折花にたとえられるが、アンネリーゼはまさに薔薇の花と謳われるに相応しい。
けれど実際は、氷細工のようだとコーデリアは思う。
触れたら溶けてしまいそうな危うさがアンネリーゼの纏う美しさなのだ。だって、触れてしまえば彼を女性だなどと誰が言えるだろう。
嫋やかな外見からは想像もつかない力でコーデリアの動きを遮る人に、瞬きも忘れて見入ってしまう。
「ねえ、ご自分で脱げないのなら、わたくしが手伝って差し上げる」
胸元に触れる、長い指。
つかの間惚けていたコーデリアは、その言葉で自分のおかれた状況を思い出した。
「そんな事っ……っ!」
「如何しても恥ずかしいのなら抵抗して下さって良いのよ」
羞恥に染まるコーデリアの顔を見つめながら、アンネリーゼは微笑んだ。
「ふふ。非力なわたくしなど、簡単に制止できるでしょう?――殿方ならば」
耳に吹き込まれた言葉は、コーデリアにとって絶望に等しかった。
たとえ姿形を真似てみても、コーデリアは男ではない。
己を捕らえる腕から逃れられるほどの腕力があるはずも無かった。
触れただけで、男女の違いが分かったのはコーデリアだけなのだろうか。
混乱の合間にもネクタイがほどかれ、しゅるりと音を立てて床に落ちた。
ボタンが外される感覚に無意識に身体を捻るも、ささやかな抵抗はアンネリーゼの腕で絡め取られてしまう。
「アンネリーゼ様」
「アーネストよ。わたくしはちゃんと証明したもの」
アーネスト。
それが本来の名前なのだろう。
長女には男名を与えるという風習などでは無く、彼が男として生まれ落ちた唯一の確証。
「アーネスト様……」
震えた唇がうわごとのように呟いた名前を、アーネストは微笑んで受け入れた。
女として生きる事を諦めたコーデリアとは違い、彼は男であることを諦めていないのだろう。
だからこそ、このままでは疑念を払えず、婚約自体を破棄したがるかもしれない。
そうなればエセルバートが秘密を黙っている理由も無くなってしまう。それだけは避けなければいけなかった。
「……わかりました。それで、あなたの気が晴れるのであれば」
浅く息をつきながら抵抗を止めたコーデリアに、探るような視線が突き刺さる。
「どうぞ、お好きなように」
動きを封じていた腕が解かれる。
コーデリアは動かなかった。
伸びてくる指に逃げ出しそうになる心を、何を今更と叱咤する。
父と兄を亡くした夜、何があっても家族を守らねばと誓ったのではなかったか。
未婚の娘が異性に肌を晒すなど醜聞も良いところだ。
けれど――
「――困ったわ。泣かせるつもりは無かったのだけれど」
家のためなのだから。
そんな思考を遮ったのは、困惑の滲む声だった。
顔を上げれば、アーネストの指がコーデリアの顔に伸びてくる。
その時初めて頬がぬれていることに気付いた。
呆れられただろうか。
それとも、これもまた演技だと一蹴されてしまうだろうか。
失態に身体が震える。
「申し訳、ありません」
自分から了承したくせ、最後の最後で怖じ気づくなんて。
唇を噛みしめるコーデリアの視界に、小さく息をつくアーネストの姿が映る。
「良いわ。わたくしと違う事は分かったもの」
「え?」
放たれた言葉は、混乱するコーデリアが考えていたどれとも違っていた。
困惑するコーデリアのはだけた胸元を元に戻しながら、アーネストは自嘲気味に微笑んでみせる。
「ひどいことをしてごめんなさい、コーデリア」
コーデリア。
そう呼ばれたことで、アーネストを納得させられた事を理解する。
「わたくしたち、お揃いね。そして、今からは共犯者になるの」
アーネストが微笑みながら差し出した手を、コーデリアは不思議な気持ちで見つめる。
「同士は握手をする物でしょう?」
首をかしげられて、そんな物かと出しかけた手は、不意に響いた心なし荒いノックによって動きを止めた。
『アンネリーゼ様?アンネリーゼ様いらっしゃいますか?』
ドアの向こうから焦ったような声が聞こえる。
くぐもっては居るが、それは中庭に居たメイドの声らしかった。
「……残念。もう見つけられてしまったみたい」
肩をすくめたアーネストは、すっと居住まいを正し息を吸い込んだ。
「ええ。此処よ」
澄んだ声が響くと同時、バタンと荒く開かれたドアに、メイドの気苦労がうかがえる。
「失礼いたします。アンネリーゼ様っ。エセルバート様が見繕って下さった婚約者候補の……っ。あ、あら、ダリウス様。ご一緒でしたの?」
隣に立つコーデリアの姿を見留め、メイドは慌てて口を押さえた。
主に対しての言葉使いとしては些か横暴だと思ったのだろう。気まずげに口をつぐむ彼女に、アーネストが微笑んだ。
「わたくしがお誘いしたのよ。今日は天気が良いでしょう?外に出たら焼けてしまうと思って」
「まあ、そうでしたの・・・・・。先に言ってくだされば、客室をご用意いたしましたのに」
「良いじゃないの。わたくし、この方が気に入ったわ。ねぇ?ダリウス様」
「――え?」
突然話を振られ、ぼんやりと成り行きを見守っていたコーデリアは、言葉に詰まる。
何が「ねぇ?」なのだろう。
コーデリアの疑問は、続けざまに投げかけられた問いによって解決した。
「わたくしの婚約者になってくださる?」
首をかしげたアーネストの差し出す右手を今度こそ握り返し、コーデリアは静かに頷いた。
「……はい。勿論です」
その言葉に浮かんだアーネストの微笑みは、それまで見たどれよりも屈託の無い微笑みだった。