兄の後悔
『 リチャード
母様とサディアスは元気にしているでしょうか。』
書き出しの句点を書き終え、コーデリアはゆっくりと顔を上げた。
知らせねばならないことを頭の中で並べてみる。
シーズン中は家へ帰れないこと。
女であることがバレたこと。
姫君との婚約が決まったこと。
ほとんどが手紙で書くには重大すぎる秘密だった。
取り敢えずはシーズン中の留守を頼もうと再びペンを握ったその時、ノックが響き渡った。
『エセルバート様の使いの者です』
ドア越しに告げられたその一言で午後の予定が瞬く間に塗り替えられたのを悟り、コーデリアは書きかけの手紙をデスクにしまって息をついたのだった。
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「やあ、聞いたよ。昨日は無事にアーネストと会えたのだって?」
折角王城に滞在しているのだから、直々に領地の話をして欲しい。
そういう名目で呼び出したくせ、お茶の準備を整えたメイドが退室して早々、エセルバートは楽しげに身を乗り出した。
「二人っきりで過ごしたそうじゃないか。どんな風にあの子を口説き落としたのか、是非教えて欲しいね」
どちらかと言えば、口説き落とされたのは自分のほうなのでは、と昨日の失態を思い出し気が遠くなる。
コーデリアは何をするでも無く、ただ始終振り回されて終わっただけだ。
みっともなく泣いている内に、何時の間にか婚約者という肩書きを与えられたに過ぎない。
「アーネスト様にお聞きになったのでは?」
「まさか。私とアーネストに積極的な交流はないからね」
「けれど、詳細はご存じでしょう?」
エセルバートは『聞いた』と話を切り出した。
恐らくばあやと呼ばれていた初老のメイドから大まかな話は聞いているのだろう。
鎌をかけたコーデリアの思惑もお見通しと言わんばかりの鷹揚さで頷きながら、エセルバートはいたずらに笑った。
「勿論、君が無事あの子に受け入れられたのは知っているよ」
「ならば私からは何も言うことはありませんよ。アーネスト様は、ご自分で納得して婚約を受け入れたようでした」
言いながらも、本当にそうだろうかという疑問が頭の片隅に存在しているのは事実だ。
あれだけ疑ってかかっていたアーネストが、何故肌を晒せなかった自分を共犯者として認めたのだろう。
――涙が同情を誘ったのだろうか、それとも、安易に涙を見せる男が居るはずが無いと思った?
色々な憶測が頭をめぐるが、残念ながらその内心を知る術は無い。
無意識に眉を寄せたコーデリアを見下ろしながら、エセルバートは面白そうに笑みを深めた。
「そうか。……君を異性と認めている風だったかい?」
コーデリアはしばし考える。
素直に告げても良い物だろうか。それに、何処に人の目があるか知れない。
「大丈夫。人払いはしてあるよ」
視線の先でゆったりとティーカップを傾けた彼は、そう付け加えた。
「……どうなのでしょう。初めは疑っていらっしゃる様でしたが」
「ふうん?彼は何だって?」
更に問われ、口ごもる。
アーネストはエセルバートを信用してない風だった。
それをはっきりと口に出して良いものかと、コーデリアは目の前の青年に視線を向けた。
金の髪に明るい緑の瞳。
同じ父を持つにしては似ていない容貌の異母兄弟が、自分の告げた言葉で仲違いするのは心苦しいと思う。
「コーデリア。私がアーネストに良く思われていない事は知っているよ。だから貴女が気に病むことは無い」
そんな逡巡さえお見通しという風にエセルバートが笑うのを見て、コーデリアは胸が苦しくなった。
兄弟仲の良い家庭で過してきたコーデリアには、その感覚がよく分からない。
――仲が悪いことは、悲しい事では無いのかしら。
そう思いながらも、それを口にするほど無知ではない。
代わりにぼそぼそと、アーネストが兄を信用していないこと、子孫を絶やすべく男と結婚させようとしているのではと疑っていたことなどを思いつく限り報告すると、エセルバートはゆったりと頷いた。
その顔に傷ついた様子は見られない。
「まあ、そんな所だろうね。実際、アーネストの秘密を知る人間の中には、そうだと思っている輩も多い」
「けれど、事実では無いでしょう」
アーネストがアンネリーゼとして死ぬ事を避けるために動いているのだ。
コーデリアは、エセルバートが弟への愛情のため人目を欺いて今回の計画を進めているのだと信じたかった。
どうせ利用されるのなら、人の幸福のための企みである方が良い。
そんな気持ちが表情に出ていたのか、エセルバートは困った様な面持ちで肩をすくめる。
「困ったな……。貴女は思いの外純粋な女性らしい。私はね、きっと君が思うような崇高な理由で彼を救おうとしている訳では無いよ」
それではやはり、何か悪い理由で……?
そんな疑心を見透かしたように、エセルバートは降参のポーズを取った。
「本当は、こんな恥ずかしいことは秘密にしておくつもりだったのだけれどね」
本当に困っているようだった。
けれど、口をつぐむつもりはないらしい。面白い話では無いと前置きをし、エセルバートは口を開いた。
「私が9才の時に出来た義母弟は、陛下の大層お気に入りでね。澄んだ水色の目が美しいと、事あるごとにリリザ=ノヴァ妃の宮へ足を運んで居たのを覚えている。――まあ、後で知ったのだけれど、水色はティリラの叔母上、つまりは陛下の初恋の君と同じ瞳の色だそうでね。たったそれだけの理由だけれど、それでも私は焦ったよ。当時は、そのまま王位を譲りかねない程の溺愛っぷりだったから」
現国王陛下が恋多き王として知られるのは、多くの側室を持ったからだ。
容姿も身分も問わず、それこそ手当たり次第に後宮へ侍らせる希代の女好きと思われていたが、それが、実らなかった初恋の君の面影を追っての行動だと知れたのは、ティリラを娘にと望んだ一風変わった王位継承事件だった。
ティリラが選べば道ばたの物乞いでさえも王になれるのではないかと言わしめる程の溺愛っぷりを思い浮かべれば、幼いエセルバートが生まれたばかりの弟を危惧する気持ちも分からなくはない。
「王になるべくして育てられてきた私は恐ろしかった。万一にも王になれなかった時、果たして私に存在価値はあるのだろうかとね。早くに母を亡くし、父も別の息子を溺愛している。私は拠り所を失うのが怖かった。だから、私に侍る貴族達の悪さも見て見ぬフリをした。子どもの私では何も出来ないとね」
昨日アーネストから聞かされた、嫌がらせにしては過激な仕打ちの数々を思い出す。
父の寵愛とは、それほどに得難いものだろうか。父からの愛情を惜しみなく与えられたコーデリアには分からず、口をつぐんだ。
愛を得られない苦しみを知らない自分に、良心に任せて昔の事を責め立てる権利があるとは思えない。
過去の少年達の葛藤に胸を痛めながら、コーデリアは息をついた。
「弟だったアーネストが妹だと紹介された時、安心すると同時にとんでもない事をしたと思ったよ。これから得られたはずの全てのものを、幼い弟から取り上げてしまったのだとやっと気付いた。けれど、公式に王女として紹介されてしまった後ではどうすることも出来なかった」
ぼんやりと懺悔を聞きながら、紅茶で喉を潤す。
喉が渇いていた。
エセルバートも同じらしく、一旦言葉を切って紅茶に手を伸ばした。
「その後も見て見ぬ振りを続けてきた訳だけれど、例の王選定の王命でティリラが私を選んでくれただろう?そこでやっと、本来弟に向けるはずの愛情を思い出したんだよ。……今更だけれどね」
せめてこれからは男として生きて行けるようにと、今回の婚約者話を計画したのだとエセルバートは苦笑で締めくくった。
そして、その表情を元の油断ならない笑みに切り替えると、内緒話でもするような仕草でコーデリアに顔を寄せてくる。
「実はね、貴女たち兄妹のことはずっと調べていたんだよ、コーデリア。むしろ、貴女たち兄妹を知ったからこそ今回の計画を思いついたと言って良い。だから貴女には、初めからこうなる運命だったと婚約を受け入れて欲しい」
「……はい?」
いきなりの暴露に目を点にするコーデリアを面白そうに眺めながら、エセルバートが立ち上がる。
「実はティリラにお茶会の誘いを受けていてね。行こうかダリウス」
爽やかに微笑むその顔に、先ほどまでのシリアスな感情は微塵も伺えなかった。