プロローグ
「さあ皆の者!我々が待ちわびた時が、ようやく訪れた」
石造りの荘厳な神殿。月食の闇夜の中、微かな松明に照らされ、何百人という神官たちが物も言わず静かに佇む。
そしてその中心で、声を響かせる者がいる。神官長グレゴリー。周りの神官たちとは一線を画す煌びやかな装飾が施されている。それだけではなく、初老にさしかかろうかという肉体は未だ衰えず、深き信仰心により育まれた荘厳さが滲み出ており、この場での支配者として君臨している。
「全てはこの時のために。我々は、魔王、並びに魔王に連なる眷属たちにより追いやられ滅びの道を歩んでいた」
世界は魔王に支配され、魔物とそれを統べる魔族たちに人々は怯え、徐々に侵略されていく土地を巡り人々の間でも争いが絶えず、大地は疲弊し、空は曇り、水は澱んだ。
しかし、世界には希望が残されていた。勇猛なる意思と魔法力により魔王に挑む者たち。人は彼らを勇者と呼んだ。
「そして遂に。魔王軍の目を掻い潜り、魔王を討ち果たす勇者がいた」
人々は歓喜に沸き立ち、希望を胸に魔王軍との戦いに明け暮れた。
「しかし、人々は思い知る」
それは、永き戦いの始まりに過ぎなかったのだと。
「そう…魔王が再び蘇ったのだ」
魔王の魂は転生する。勇者たちはそれでも果敢に戦い、再び魔王を討ち果たし、仮初めの勝利を味わいつつも、再び蘇る魔王の再来に、怯え、絶望に打ち震えるしかなかった。
「だが、その運命もようやく終焉を迎えるのだ。ここにいる魔王の魂を受け継ぐ者。今こそ、その魂を葬り去る」
一同が目線を向けた先。そこには、拘束された一人の少年が、静かに佇んでいた。
「我々はそのために、あらゆる準備をしてきた。神の預言を聞き逃さず、道具、環境…そして魔王の魂を持つ者を探し出すこと。全てはこの時のため。そう、世界を取り戻すのだ」
おぉ…!と会場が沸き立った。興奮を隠しきれず、空気は振動し、熱気に包まれる。
「…」
その陰で、少年に対してゆっくりと近づいてくる少女がいた。神子としての衣装に身を包み、剣を携えた少女は、じっと少年を見据える。
「何か…言い残すことはある?」
興奮した神官たちはこちらに目をくれず、注意を払わない。だからこそ、何を言おうと構わないのだと、そう思い、尋ねる。
「今日は元気がないね。どうかした?」
しかし、少年は何事も無いように、いつものように尋ねる。何に怯えることも無く、何を恨むこともない。
「…何もない」
「そっか…ならよかった」
少女の声は、どこか震え、しかし少年の声はどこまでも澄んでいた。
「さあ勇者ヘリエル。偉大なる我らが神リースロンデより授かりし聖剣エクサレイズにより魔王を貫くのだ」
少女…否、勇者ヘリエルは、少年の前に立ち、剣を抜く。漏れ出た神気に神官たちは恍惚となる。ヘリエルは何万回と訓練された儀式の所作を淡々とこなし、剣を、少年の心臓の上に置く。
(やっぱり元気がないな…)
自らの絶命を目の当たりにしようと、少年は何も感じはしなかった。いや、感じることが出来なかった。
(どうにかしてあげられればよかったんだけど…僕が死ぬことでどうにか出来ればな…)
ただ、心残りは、ようやく最期に出来た。
「皆の者、明日に備えるのだ。ようやく終わりを迎える勇者と魔王の物語を…」
――ああつまらない。そいつはなんてつまらない物語の終着なのだろうね―――
声が、響いた。
「誰だ!?」
唯の声ではなく、魔法によりわざわざ心に呼びかけた干渉。
ざわざわと騒ぎ出す中、グレゴリーは天を見上げ睨む。
「っ!」
瞬間、ヘリエルの剣目がけ、何かが鋭い勢いで投擲される。その勢いで弾け飛んだエクサレイズを再び構えた時には、ヘリエルと少年の間に、一人の人影が立っていた。
「全く無粋なことだねぇ…ちょいやぁ!」
気の抜けるような掛け声とともに繰り出された手刀で、いとも簡単に少年を縛る戒めを解いた。
「君は…一体…」
「やあこんばんは。…やっと会えたね」
立ち上がる。そこに立っていたのは、少年より少しばかり年上の少女だった。少年に向ける彼女の微笑は、とても安らいでいて、そして、この上ない歓びに満ちていた。
「そっか…うん。君がヨシュアだね」
「何で僕の名前を…」
少年は、じっと少女の顔を見た。知らない筈なのに、その少女に…心の奥底の何かを揺さぶられるような、そんな感覚を、確かに覚えた。
少女は、ゆっくりと振り返り、その場の全てに目を向けた。
「貴様は…!」
その姿を見て、神官長グレゴリーは驚愕する。
「おや?どうかしたのかな?」
「勇者エルレイア…だと」
勇者エルレイア。世界にその名を轟かす勇者である。剣術、魔法双方に類まれな才能を持ち、齢二十にも満たずに現代…いや、歴代最強という呼び声も高い。
それだけではなく、彼女は間違いなく世界に希望をもたらす存在なのである。その金色の瞳は、闇夜においてなお輝き、人々を魅了する。それは、魔王を倒した勇者たち、その転生たる証である。
魔王を最初に倒した勇者ダオクレスは生まれた瞬間、太陽が一段と光輝き光線がダオクレスの前に降り注ぎ、それを浴びたダオクレスの瞳はそれ以来、金色に輝いたと言われる。
それから数世紀、また同じように金色の瞳を持つ勇者が生まれ、同じように魔王を倒し、伝説となった。そして、金色の瞳を持つ者が、魔王を倒す勇者の生まれ変わりだと人々に確信させるに至った。
「エルレイア…念のために聞いておこう。何をしに来た」
グレゴリーは問うた。
「もちろん、彼を助けにだよ」
「!?」
グレゴリーも少なからず驚いた。自らの手で魔王を倒す…という使命感。それならばわからぬこともないと思っていた。もっとも、それでも全ての人類の悲願を為さんとするこの儀式の意義にとってみれば愚かとしか言いようのない理屈だ。
だがそうではなかった。魔王を倒す…それは、全ての勇者にとっての悲願である。それを覆すのだと、いとも簡単に答えたのだ。
「何故だ?今まで積極的に魔族討伐に参加せず、放浪の旅に出ていた貴殿が何故…今になってそのような凶行に走る」
「えぇ?何故と言われても…言わせるのかい恥ずかしいなぁ」
何を…と言う間もなく、エルレイアはヨシュアの胸にひっそりと寄り添った。
「すりすりと…ふふ。ふふふふ」
指でヨシュアの胸元をなぞり、身を委ねるようにその豊満な肉体を押し付ける。
「え…と…」
「む…おかしいな。ここでちょっとドギマギしてそれを私がからかうつもりだったのだけれど…」
どう反応したらいいのか、と心底困ったように、しかし照れているわけではないヨシュアの様子に、エルレイアはどうにも調子を崩されて、顔を赤らめる。
「…その…ごめん」
「はは…謝んなくたっていいさ」
やれやれ…と照れ隠しにぴん、と指でヨシュアのおでこを叩いて、
「こういうことだよ」
と誇らしげに振り返った。その様に、ヘリエルは人知れず肩をぴくりと震わせた。
「バカな…そんなことのために我らを邪魔しようというのか」
だが、それをかき消すようにグレゴリーは怒りを爆発させる。
「その為に、世界に絶望を撒き散らしてもいいというのか」
「んー…?やだなぁこれからは世界を救ってやるともさ」
「自惚れるのも大概にするのだな。貴殿がいくら力を振るおうと、この時を逃した魔王の宿命は世代を渡り繰り返されるのだ。貴殿は勇者を何だと思っている!」
一時の感情などに流されず、世界を守り、救う者。それこそがあるべき姿である。
「世界の主だよ」
しかし、それがどうしたのだと、あっさりと勇者エルレイアは述べる。
「世界の主…だと」
「そうとも。行く末を決め、人々を導き、そして突き進む者だ。人が望みを諦めようとしているのであれば、そんなものどうということはないのだと笑いながら、切り拓く。その使命を背負ったものだ」
エルレイアは剣を掲げ、宣言する。
「えーっと…勇者と魔王の宿命とやらだったかな…うん。ならば私はそれすらも変えてみせよう。それが私の望みだからだ」
「…よく分かった…」
グレゴリーは静かに祈りをささげる。そして、一瞬でエルレイアに詰め寄って杖を振るい、エルレイアは剣で以てそれを受ける。
「どうやら我らは分かり合えぬ、ということだな」
「…っ…おっと…これはちょっと見くびり過ぎたね」
グレゴリーは神の祈りにより身体能力を向上させ、またあらゆる奇跡で、相手をした者を封じ込める。
エルレイアを囲むように結界が構築され、その中で指一本動かすことが出来ず、魔力を放出させようとも囲まれた神気で容易く浄化される。
「ヘリエル!今の内だ。早く魔王の魂を」
「…はい。分かりました」
「やらせない!」
しかし、エルレイアはすぐさま打ち破り、迎撃に向かう。
「聖剣フィオニール。なるほど噂に違わぬようだな」
あらゆるものを切り裂くと言われる、エルレイアの持つ聖剣。それを知らなかったわけではない。
「だが邪魔はさせん!」
時間は稼いだ。そして、隙だらけのエルレイアに向けて、思いきり杖を振り回す。
「ぐ…!」
「エル、レイア…!」
鈍痛が襲う腹部をさすることも無く、エルレイアはヨシュアを守ろうとする。しかし、ヘリエルの剣は、ヨシュアの姿を捉えている。
「させ…な…」
(どうして…)
ヨシュアは思う。何故ここまで自分を助けようとしているのかは分からない。けれど、それを前にして、自分は何かできないのかと。
『ほう…お前しては随分と珍しい感情の発露だ』
(…?)
『力が欲しいというのであれば貸してやる…どうだ?』
(…僕、は…)
「ふ…はははは!ようやくだ!ようやくこの時が…」
「悪いが…それは叶わぬ願いだ」
勝利を確信したグレゴリー。しかし、それは叶わなかった。聖剣エクサレイズを素手で掴み、防ぐ者がいた。
「まさか…」
それは、ヨシュア自身だ。しかし、分かる。戦慄をもって、そこにあるのがヨシュアではないものであることを、その場にいる全員が感じ取った。
「そして、世界に伝えるのだな…我は地獄より帰還した、と」
月の輝きが戻る。そこに照らされたのは、紛れもなく魔王だった。
「礼を言っておこう勇者の小娘よ。お前のお陰で、こいつを死なさずに済んだ」
「いやいや君に礼を言われる筋合いはないね。ヨシュアに助けてもらったお礼として優しいキスをしてもらってプロローグを終えようという私の計画を邪魔してもらっては困るのダヨ」
「そうか…ふむ…だが、あいにくとそれは叶わぬ願いのようだ。だから素直にこの礼は受け取るといい」
「?どういう…」
「ヨシュアを…ヨシュアをどうしたの!?」
叫び声が響く。その主は、ヘリエルであった。グレゴリー、エルレイアはその少女然とした姿に驚くと同時に、どこか納得する心地だった。
「…ヘリエル、という娘か…ふむ。安心しろ。ヨシュアは確かに生きているとも。ただ…このままではヨシュアが死ぬところであったからな。だから、生かすために我が出て来たに過ぎぬ」
「君はヨシュアにとっての一体何なのさ。全然ときめかないんだけど全くの他人ってわけじゃあないんだろう」
「ただの前世における残留思念としてこのくらいの年ごろになれば自然とこの身体の魂と一体化するはずだったのだが…どうやらこのヨシュアという者は、生贄となるために様々な感情、記憶などを削ぎ落されたようでな。それを本当に取りこぼさぬようにしていただけだ。くく…相変わらずリースロンデの趣味はよろしいようだな」
手をかざし、思いきり振りあげる。それは怒りだった。吹き荒れる魔力は暴力となり、床を抉り、近くにいた神官たちは倒れ、気絶する者もいる。
「く…勇者エルレイアに続いて魔王までとは、な」
「もはや儀式を執り行うことは叶わぬ。このまま見逃してやってもいいぞ」
「ふ…確かに消滅させることはもはや不可能だ。それは認めよう。だが、魔王を倒す、その意思に一片の揺るぎもありはしない」
「ほぉ…なるほど。神の預言を御大層に抱えて溺死する類の木偶かと思えば中々見上げたものだ」
心よりの称賛を込めて、にやりと魔王は笑う。そして、一斉にかかってきた神官たちの相手を始める。
「あー念のために言っておくけど殺しちゃあだめだよ魔王」
「は!命を懸けて襲う相手に対して随分と上から目線でものを言うな」
「勇者だからね」
軽口を叩きながら、二人は余裕をもって立ち向かう。
向かって来る槍を掴み引き寄せ、頭を掴み無理矢理魔力を注ぎ込み気絶させる。刃を躱すことなく装備を硬質化させ防ぎ、気絶させた神官を投げつける。
「まあ殺さぬというのであれば離脱を考える方が得策だな。勇者よ、お前、空を飛ぶことは出来るか」
「む?…まあどうにかこうにか出来ないこともないって程度でしかないね」
「そうか。ならば…」
魔王は目を閉じる。隙が出来たと勘違いして魔王に飛びかかってくる神官たちを投げ飛ばしながら何をする気なのか、とエルレイアはその様子を見守っていた。
「ふむ…なるほど…マリアンヌもヴェートリッヒも健在か…不甲斐ないものだ。となると…こいつか。…まあちょうどいいのかもしれぬな」
目を見開き、床に手をついた。そこから魔方陣が浮かび上がり、どくどくと鼓動を刻む。
「やっはお!まおーさま!」
そして、そんな底抜けに明るい声が聞こえた。そこにいたのは幼い少女の姿をした異形であった。小さいその体をすっぽり隠すほどの翼…見間違いではないことは、ばさばさとはためき飛んでくる羽毛により、認知する。
「召喚…いやこれは…」
「おいお前…とりあえず我とそこの娘を連れて空へと離脱しろ」
「がってんしょーち!」
がしりと、少女とは思えぬ腕力でもって抱え上げ、風を巻き上げ、飛ぶ。牽制も込めた暴風になすすべなく倒れ伏し、魔王たちは素早く離脱した。
「ねえねえまおーさまー…もっとおっぱいおっきくしてぇ…」
「何故だ空を飛ぶのに邪魔にしかならぬだろう」
「おいおい少しは彼女の気持ちを汲んでやりたまえよ」
「どっちにしろ不可能だ。お前はそう生まれ、既に僅かながらに自我を以て生きた。後は…そうだな。お前が強く望むのであれば変化することもあるやもな」
二里ほど離れた山の奥深く。そこで魔王とエルレイアは降り立つことにした。
「お前の名は後でこの身体の持ち主に付けてもらうといい…とりあえず、お前は魔族たちに事の次第を伝えにいけ。ただし忘れるな…お前はこの身体の持ち主、ヨシュアのものである、ということを」
「うん!わかったぁ!」
ばさばさと、名前もまだ無い魔族の少女はどこかへと帰っていった。
「まあ…明日の昼までには帰ってくることだろう…さて、それでは、後はヨシュアに替わるとしよう。我を頼りにするなよ今回は特別だ…ヨシュアの奴は覚えてはおらぬだろうが、奴はお前を助けようと我に手を伸ばした。それだけでも奇跡に近いことなのだ」
「それで…君は乗っ取ろうとしたりしないの?随分とヨシュアのことを尊重しているんだね」
「くく…そんなことをしようとすれば我の魂を消そうとするであろう女がよく言ったものだ。だが忠告しておこう。我がいようといまいと、この者は魔王として立ち上がり得る…宿命というよりも、そういった運命を背負っているのだ。あまり運命を舐めるなよ」
そう言い終えた瞬間に、ふっと気を失い、倒れそうなところを支える。
「ん…きみ、は…えっと…ここ、は…」
「ヨシュア…君は助かったんだよ。君はこれから自由に喜んだり怒ったり楽しんだりしていいんだ」
「…」
ヨシュアは、ただ戸惑っていた。
(そうか…君は…)
そこに、何を見出せばいいのかすら分からない。生きていること。束縛から解放されたこと。そう言ったことに喜ぶ価値観そのものが無い。
『そうか…ふむ…だが、あいにくとそれは叶わぬ願いのようだ。だから素直にこの礼は受け取るといい』
(こういうこと…だったのか)
全く、次から次へと上手くいかないな…と、顔を俯かせる。ぽたぽたと、地面を濡らす滴が、悟られないように。
「…」
その時、ぎゅっと、ヨシュアはエルレイアを抱き締めた。
「何、を…」
「落ち込んでるときはこうすればいいって…教えてくれた子がいたんだけど…間違ってた、かな」
「…そうだね…その件についてじっくりと話を聞かなくてはならないとも思うけど」
けれど、こんなもので喜びで一杯になってしまうのだから、まあ…いいかな、なんて思う。
「よーし!」
どたっと、エルレイアはヨシュアを押し倒し、のしかかる。
「えっと…エルレイア?」
「ふふ…今日はこうして寝るだけで満足してあげるとしよう」
月夜が照らす。穏やかな顔立ちながらもどこか悪戯で強い意思を秘めた黄金色の瞳。ふわりとした、少し癖のついた柔らかな髪が、ヨシュアの頬を撫でる。
「これでも抱き心地はよくなるようにと、色々と努力しているからきっと気に入ってもらえると思うよ…あ、太っているという意味ではないからね」
しなやかな体の感触が伝わる。けれど、その温かさが、
「おやすみ…ヨシュア」
「ああ…おやすみエルレイア」
呼びかける声と、確かな存在が…それは、とても愛おしいのだと。そう噛み締めながら、目を閉じた。
思ってたより重い…




