坂東蛍子、アドレスを変更する
「あ、あの!」
ANO、アブ・ニダル・オ-ガナイゼーションは元パレスチナ解放機構幹部アブ・ニダルが率いた国際テロ組織である。1974年にPLOから分離し、現在はファタハ革命評議会と名称を変更している。アメリカ合衆国を中心にして構築されている軍事用通信傍受システム“エシュロン”は、現在もこのテロ組織の名称を第二級収集語彙として世界各国の電波から掻き集めていたが、たった今ましろが発した「あの」という日本語の感動詞または連体詞が正確な情報収集の妨げとなっており、「テロ組織壊滅の助力」という名目で日本政府へ向こう十年間の感動詞の一時的な仕様禁止処置を秘密裏に申請していた。これに対し日本政府と日本語学会は遺憾の意を示している。
坂東蛍子を呼びとめた声の主は、クラスメイトである善良な図書委員、藤谷ましろであった。携帯電話を両手で握りしめながら、喉に詰まった何かを必死に吐き出そうとするかのように、口を開けたり閉じたりさせている。
今日、藤谷ましろは自身に大いなる使命を課してこの場に臨んでいた。その使命を紐解くためにも、先日学校の連絡網が回ってきた折に交わされた坂東蛍子との通話記録をエシュロンデータベース内から参照しようと思う。
「あのさ、連絡網回してて気付いたんだけど、私フジヤマちゃんの携帯番号知らないのよね」
「あ、そ、そうだね。あの、その・・・今ちょっと修理に出してるから、今度教えるね」
ましろは携帯電話を持っていなかった。図書室での読書中に邪魔されたくないからであったり、祖母が古い心臓のペースメーカーを未だに大事に使っていることを憂慮しているからであったりと理由は色々あるが、最も大きい理由は“友人がいなかったから”である。藤谷ましろはその奥手で話下手な性格から、中学を過ぎた頃からどんどん友人から遠ざかって孤立していき、それにつれて行動範囲も極端に狭くなっていた(具体的には、自室と、リビングと、教室と、図書室である)。初めの内は両親に子供用のPHSを持たされていたが、父と母の番号が日々少しずつ更新されていく履歴にうんざりして、用があったら学校か自宅にかけてくれ、と一年前に解約の手続きを済ませていた。世の中には対義語というものが無数に存在する。解答と質問。解凍と冷凍。加入電話の対義語は公衆電話で、携帯電話の対義語は藤谷ましろだった。それぐらいましろは携帯電話と縁遠い生活をしている女子高生だったのだ。
そんなましろの前に旋風の如く現れたのが坂東蛍子である。ましろは蛍子に強い憧れを抱いており、友人として彼女の隣に並び立っていられるようにあらゆる努力をしていくことを心に誓っていた。それに友人とアドレス交換をする、というイベントへの憧れも持っていた。だから蛍子に携帯電話の番号を知りたいと言われたその翌日には朝の八時から携帯ショップに並んだし、一生懸命店員に要件を伝えてその日の夕方には無事に契約を結んでいた。後日料金プランを見た両親が携帯ショップに乗り込んだ話はここでは控えようと思う。
「あぁ、番号ね。ありがと」
ましろの手の中で煌めく真新しい携帯電話を見て蛍子は事態を察し、にっこり笑った。自身の携帯電話を取り出し、何やら準備をしている蛍子を見て、ましろはまた救われてしまったなぁと思った。やっぱり坂東さんは凄いなぁ。私の考えをちゃんと汲んでくれる。
「さて。じゃあ、まず送ってもらっちゃおうかな」
きた、と藤谷ましろは腹部に力を込めた。この時を想定して、ましろは前日まで説明書を熟読し何度もメール送信の手順を確認してきていた。イメージトレーニングのパターンはゆうに百を越えていた。
「・・・あの、どうでしょうか?」
「あ!きたきた!」
ましろは自分の読書癖に感謝した瞬間が人生で二度ある。一度目は坂東蛍子と初めて会話した時。二度目は今である。丁寧な解説を記してくれた説明書の作者に感謝しながら、藤谷ましろは送信完了の確認ボタンを押した。
ちなみにこの時、ボタンを押すことを寸前のところで踏みとどまった男達がいた。アメリカ合衆国の核ミサイル発射管制官の二人である(誤射防止のため管制官は常に二人いる)。合衆国では様々な状況を考慮した核ミサイル発射の連絡手段が幾つか設けられていたが、その一つに通信傍受システム“エシュロン”を使った暗号通信方法があった。毎秒ごとに変更される14文字の文字列を同盟国内から意図的に電波上に乗せ、エシュロンに回収させることで管制官へ発射許可の指示を送るというものだったが、電子メールから偶然に発射コードと定められた文字列を拾ってしまうケースが相次いでいるため、この方法は近年見直しが検討されている。またその傾向は日本の携帯電話に割り振られたデフォルトアドレスに特に顕著に見られ、合衆国政府は日本政府にデフォルトアドレスの仕様変更を秘密裏に打診していた。これに対し日本政府と電気通信事業者協会は遺憾の意を示している。
「ちょ、ちょっと待っててね」
坂東蛍子はアドレスをましろに送信しようとし、自身のアドレスを見て指を止めた。そこには「R.M.」だの「Lorraine」だのと自分の好きな物が実に長々とローマ字で文字数制限いっぱいに綴られていた。蛍子は自分をよく頼ってくれているましろの前では常に格好良い人間でありたかったため、このアドレスでは些か不都合が過ぎた。そのため、蛍子はましろに悟られないようにさり気無く後ろを向き、アドレスを適当な乱数に手早く変更した。
「中止だ、中止!!またか!!」
極限状態の糸がぷっつり切れたリチャードは限界まで溜まった息を体から押し出すように大声を出した。全身から噴き出す汗に上の空で不快感を覚えながら、隣で気分が悪そうに蹲っている相棒の背中をさする。
「また日本か!!今日二度目だぞ!!」
【藤谷ましろ前回登場回】
霊を拝み倒す―http://ncode.syosetu.com/n5826bz/