終夜
「此の世には、汝以外何れも歩む事の出来ぬ唯一の道がある。其の道は何処行き着くのか、と問うてはならない。只管に進め」
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
「どこにいかれるのですか、おとうさま?」
私は既に私ではない。
「まだお前には教えていなかったなあ、ここが私の研究室だよ?」
私の姿で私の声で、私の娘に嘯く私は何者なのか。
地下へと続く、奈落が開く。
石の擦れる音とともに、ごりごりと開いていく。
「すごい、かべがひらくなんてはじめてみました!」
無邪気にはしゃぐ娘に私は心からの笑みを浮かべた。この微笑みがあるからこそ、私は生きていける。嗚呼、素晴らしき哉……やはり私は間違ってなどいないのだ。
私の内心が快哉を上げているのがわかる。私ではない私の内心は既に興奮を抑えきれぬ程に高鳴り、荒ぶり、それを全く己の表層に出すことがない。
それが私には、限りなく悍ましい。私は、私に恐怖している。何よりも娘と話す私ではない私の内心は、私の内心でもあったのだから。この思考すら借り物によって漸く保っているに過ぎないのだ。
行くな、と叫びたかった。信じるな、と慟哭したかった。だが私には何も出来ない、既に私は私になっている。同じ人間が同じ人間のやることを止められる筈もない。行っているのは紛れも無く己であるのだから。私の本心は私の理性を裏切り、私自身をアレに捧げたのだ。そして考えることの出来る私をも、私の本心は同化し、喰らっていく。もう止める手立てはない、私は消える、このまま消えていく。願わくばアルフォンス、お前に謝りたかった。そして、アルフレッドに感謝を。
「いくよ、エヴァ」
「はい、おとうさま」
私の目の前で私と娘があの呪われた地下室へ入っていく。最後に振り返った私が、いい加減に意思を失いつつある私に目を合わせて微かに嘲笑を浮かべる。閉まっていく隠し扉の音とともに私の意識が消えていく。最後に意識に残っていたのは、嘲笑を浮かべた私の眼に映っていた光景。亡き妻の肖像があった場所であり、今ではそれが外され、其の背後の壁に埋め込まれていた眼球と神経の束で繋がっていた私の意識を一時的に残していた乳白色の脳の塊だった。
「ア、アルフォンス様?一体そのような格好でどうなさって……?」
「話は後だ、父は何処に?」
「御館様で御座いますか?昨夜お戻りになってから、今日はまだお見かけしてませんが……」
「糞っ!!」
馬を飛ばして館に舞い戻ったアルフォンスは、門前の警備兵に止められる事になった。今のアルフォンスはどう見ても貴種の者の格好ではない、焦りから纏う空気も殺伐としており遠目から見れば無頼の者と間違えられてもある意味ではおかしくない。しかも背後に騎馬を更に引き連れているのだから余計に勘違いもする。只でさえ戦時、そしてスコットランドというイングランド内の敵地なのだ、突発的な襲撃など当たり前という程ではないが予想されない程でもない。泡を食った門番が押し留めてよくよく見れば、己の仕える主君である。彼らが動転するのも無理は無いのだが、今のアルフォンスにはそこまで頓着している余裕が無かった。尋ねた問いに対する答えも、余り良いとは言えない。常のヴァレンタインであれば、この時間は朝の散策と称して軽く近隣を馬で駆けるのが習慣である。それが無いという事は、常の習慣以上に優先される何かを行っていると言うことだ。どう考えても良い想像にはならない。一言悪態を吐いて、アルフォンスは馬を置いて駆け出した。其の後をエイブラムが追走する。
「アルフォンス様、もう既に……?」
「まだだ、まだ判らぬ、まだ……!」
其の短いやり取りに頷いたエイブラムは部下に手信号で何かを指示すると、それに応じて部下が散開していく。エヴァ様はこちらで探し出します、そう言ったエイブラムの言葉に頷きを返して、アルフォンスは邸内に駆け込んでいった。向かう先は只一つ、あの地下室である。念のために抜剣したまま邸内を駆けるアルフォンスの姿はどう見ても異様であり、目撃した侍女達から叫び声が洩れるが構ってなどいられない。幾度かの悲鳴を黙殺したアルフォンスは、その悲鳴の主がエヴァ付きの侍女である事に気付いた。
「メイリ、エヴァは何処だ。何処に行った!」
「エ、エヴァンジェリン様ですか?私もお探ししてまして……その、御館様と早朝にお話なさっていたのは知っていたのですが、其の後から」
「貴様、何故眼を離した……!」
「ヒ……ッ、お許しを!!」
何の役にも立たぬ侍女など、この場で叩き切ってくれようかと激昂で刃先が揺れたが、其の時間すら惜しい。この役立たずには何らかの罰を与えてくれる、と己でも驚く程の冷酷な意識が感情を冷やした。精々エヴァが無事である事を祈っていろ、そう言い残してアルフォンスは踵を返した。エヴァ付きの侍女が居場所を知らず、早朝にヴァレンタインと話していたというのであるならば既に連れられて行った可能性が濃厚である。いよいよ猶予は無い。
「ア、アルフォンス様、その一体何が起こっているのですか……?朝からエヴァンジェリン様も御館様もアンジェリカ様も、誰もいなくて」
「誰も、だと?そうだ、アルフレッドは何処だ?」
「早朝、御館様を起こしに行かれて叫び声が聞こえてから、姿が……」
恐る恐る此方を伺っていた別の侍女がアルフォンスに問いを投げかけた。其の問いに看過できぬものを感じたアルフォンスは足を止めた。ガーフィールドの忠臣、アルフレッドが何処にもいない。考えてみればヴァレンタインを最も早く諌める男であり、このような異様な姿で戻ってきたアルフォンスを最も早く出迎える男である。その男の姿が見えない時点で、事態は更に思わぬ方向に悪化したと見て間違いない。そして、アンジェリカすらも姿が見えないと言い出した。エヴァだけではないのか、アンジェまでも毒牙に掛かっているというのか。そして、己以上にヴァレンタインの変節の兆候を感じ取っていたであろうアルフレッドですら、それを止める事が出来なかったと言うのか。
「アルフォンス様……!」
「──お前たちは仕事に戻れ、今日はエヴァの記念すべき日だ。手落ちがあったら許されんぞ?」
「は、はい……!」
何か言いたげであったが、それ以上は何も言わずに使用人達は足早に去っていく。それを見届けるまでも無くアルフォンスはすぐ先の目的地に飛び込んだ。鍵は開いたままである事に訝しさを覚えたが、中にエイブラムがいた事で納得した。其のエイブラムは、此方に気付かずに壁の一点を睨んでいる。あれだけ部屋を探した後で、今更何を見つけたというのだろうか。
「エイブラム、エヴァは……?」
「――アルフォンス様、こいつは何だと思います?」
「こいつ?一体何を……っ?!」
険しい顔のエイブラムの視線を追って、アルフォンスは絶句した。壁にあるべきものが無かった、そしてある意味のわからぬものがそこにあった。あれだけ大切にしていた母の肖像が無くなっており、背後の壁が露になっていた。そこには地下で見た奇妙な文字と似た印象の陣が直接刻まれており――
「――なんだこれは、眼球と……脳、なのか?」
アルフォンスの言葉にエイブラムは無言で頷いた。どうやったのか壁には脳と眼球が繋がったまま埋め込んであったのだ。其の生々しさは、やはり地下にあった肉片と同じような濡れた様な質感を供えてその異常さを主張していた。まるで死体からそのまま抜き出して。壁に飾ったかのような印象をアルフォンスに与えた。
「恐らく、ですが……アルフレッド様です」
「これがだと!?冗談も大概にしろ!」
「部屋の隅に落ちてました、こいつが」
「アルフレッドの……剣」
エイブラムがここに飛び込んだ時、執務机の後ろに転がっていたという。アルフレッドが常に帯びていた宝剣である、愛着も並々ならぬ物があったとアルフォンスは知っていた。少なくとも、抜き身のまま床に放置されるような物では断じてあり得ぬ話である。状況はわからない、どうなったかも判らない。それでも其の宝剣を見てアルフォンスは悟った、アルフレッドの末路を。彼は、ガーフィールドを守ろうとして、散ったのだ。それを悟って、アルフォンスは静かにそこで十字を切った。誰にも知らずに忠義に散っていった男に、せめてそれだけしか出来ない己が歯がゆかった。
「……行きましょう、エヴァンジェリン様はこの下です」
「アンジェもかもしれぬ、あの娘も行方が知れぬと侍女共が騒いでいた」
無言で壁の隠し扉に鍵を差込み、回す。口を空けた悪意の実験場への階段には恐らくヴァレンタインが付けたのであろう松明による灯りが壁に点っていた。松明を固定する金具などなかったと思っていたが、階段の幻覚で足踏みしていた身である。気が付かなかったか、幻覚でも見せられていたのだろう。既にあの階下で見たものが何処までが真実で何処までが幻覚かなのかすらはっきりとはしないのだ。何にせよ再び異界へと足を踏み入れようとして、同時に闇の底から響いた異音に顔を見合わせる。悲鳴、それも男の悲鳴である。この底にいる男など、当のヴァレンタイン一人しかいない。一体何があったというのか。もはや躊躇はない、アルフォンスは階段を駆け下りていった。
「エヴァ、父上……?」
前回と違い、さして時間もかけずに駆け下りた先には思いもよらぬ景色が待っていた。二人の視界に入ったのは倒れ付す男の姿と、其の少し先で何かに覆いかぶさっている白い小柄な姿。倒れ付した男からは全く動く気配を感じず、小柄な体躯の白い影だけが動いている。其の影が動くたびに、くちゃりくちゃり、と何か湿った音が聞こえる。アルフォンスは祭壇の先の隠し扉は開け放たれているのを見て直感的に、手遅れだった事を悟った。もう此処には何も無い、彼が助けたかった妹も止めたかった父も、何もかもが。
「エ……エヴァ?」
「にいさま?」
アルフォンスが白い影に話しかけると、白い影はそう答えを返した。聞き間違う事なきエヴァの声だった。それに安堵を感じると共に、諦念と疑念もまた同時に感じる。こんな異様な場所でこんなにも平静に答えを返す事の出来る妹ではないという疑念と、ああそうか、ではやはり、と言う諦念の双方である。背後でいつでも飛び出せるように警戒しているエイブラムと共に恐る恐る近付くと、足元に倒れ付した男の体があった。誰かと考えるまでも無い、格好を改める必要も無くそれはヴァレンタイン。ガーフィールド辺境伯であった。アルフォンスが予想した結末とはかけ離れた結末ではあるが、これも一つの結末なのだろうと存外に覚めた思考でそう考えた。ヴァレンタインも戦いの場に出れば『冷血』などと評される程に、冷酷かつ残酷であったと聞く。息子であるアルフォンスにも其の素養が継がれ、この極限状態で芽を出したのだろう。元父親であるソレを踏み越えようとして、足が思った感触を得なかった事に違和感を感じた。
「……っ、何なんだコイツぁ!?」
背後のエイブラムが掠れた悲鳴を上げたお陰でアルフォンスは辛うじて恐慌を抑える事が出来た。アルフォンスが踏んだ部分は塵となって崩れ落ちていた。そのまま其の部分から、崩壊していく。ぞれはまるで、崩れた事で人の形をしていたものが己の本来の姿を思い出したかのように崩れていくような錯覚をアルフォンスに覚えさせた。
「おとうさまはね、けいやくをはたしたからたべられてしまいました……」
エヴァの声が悲しそうに響く、切々と地下に鈴の音が鳴り響く。その最中でもくちゃりくちゃりと生々しい音は収まらない。清冽な鈴の音の声と、生理的に嫌悪感を抱く生々しい擬音が同時に響く。既にアルフォンスの感覚は麻痺していた。只、エヴァの声に聞こえるソレを黙って聞く。エイブラムは限界に近いらしく、落ち付かなげに周囲に眼を這わせている。
「でも、おとうさまにはけいやくをぶじおわらせるちからがたりなかったの」
「……彼とは、誰なんだ。契約とは、何だ」
「かれは、カ=カ。塵の悪魔、時間の魔物。時間と知識を食らって、時間と知識を与える魔物。その契約は、ガーフィールドにずっと受け継がれている。祖がかの地からカ=かをこの地に齎してからずっと」
「お前……エヴァか?」
「この戦争で贄は漸く揃った、だから今代は願いを叶えられた。契約はカ=カの贄を十分な数揃える事、対価は贄が揃った代の当主の願いを叶える事。だから今代は願った――永遠が欲しい、と」
流暢に喋りだしたエヴァの声は違和感が強かった。同じ声なのに途中で人間が入れ替わったかのような違和感、それは何度か経験している違和感でもあった。まさに父であるヴァレンタインの変貌が、ソレに近い。つまり父は乗っ取られていた、目の前の妹の様に──そこに至り、アルフォンスの思考が繋がった。
「まさか、この戦争を起こす為に我が一族は存在したというのか?カ=カの――貴様の食い物を集めるためだけに存在していたというのか?」
「……」
其の言葉に、エヴァの姿をしたソレは何も言わなかった。そして側に置いてあった生皮で装丁されたかの様な光沢を放つ本を手に取ると口を開いた。
「カ=カの写本こそが重要、神像は紛い物……結局誰も気付かなかった。漸くカ=カの分霊がコレをヴァレンタインに手渡して、契約が更新された。おかあさまには、かんしゃしないと」
しんでくれてありがとう、って。
くつくつと肩を振るわせるその姿は、嗤っているのか泣いているのか、アルフォンスには判別が付かなかった。だが、何にせよ放置出来ぬ邪悪である事は間違いないと感覚が告げていた。その内心を知ってか知らずか、影はゆっくりと振り返る。
「お前は……誰だ」
「エヴァンジェリン、エヴァンジェリン・ガーフィールド」
「嘘だ、貴様は父を乗っ取り、殺した挙句妹まで!」
「ちがうのよ、にいさま」
顔は影になって見えなかった。だが根拠も無しにその顔はきっと悍ましい何かだと、アルフォンスは確信した。エヴァの姿をした塵の魔物とやらが何を言うか──何を言った処で取り得る選択肢など一つしか無いが。
「アレはほんとうにヴァレンタイン・ガーフィールドであり、おとうさまだったの。カ=カはおとうさまのほんとうののぞみにすがたをかえたのよ」
「本当の、望み」
「おとうさまは、おかあさまをうしなった。だからもううしないたくなかったの、どんなことをしても」
私を失いたくなかったの、エヴァの形をした何かはゆっくりとそう言った。ヴァレンタインがエヴァに執着しているのは知っていた、だから失わない為にカ=カとやらと契約をしたというのだろうか。何が、どう繋がると言うのか。幼い口調から一変して、再び流暢な発声でソレは続けた。
「私を不変にする──それが契約。そうすれば兄様も私も皆幸せに暮らせる、そう思ったのよ。だけど理性がその欲望に比べて固かったから、カ=カは御父様の欲望になったのよ」
「……人の欲望に変異した、とでも言うのか」
「そう、その通りなの。そして私は不変になった。だけど途中にアルフレッドの邪魔が入ったりして、理性が抵抗してね。おとうさまったら、面倒だからアルフレッドの脳味噌と目だけ残して、そこに自分の邪魔な部分を押し込めちゃった。そのせいで、残りを全て使い果たして欲望に食べられちゃった」
「そして今は、お前か……!」
「エヴァンジェリンは家族を愛していた、食べてしまいたい程に」
その言葉で、目の前の影は正真正銘のエヴァンジェリン・ガーフィールドであり、もうアルフォンスの知るエヴァでは無い事を彼は知った。幼い精神をカ=カが増幅した欲望に食い尽くされてしまったのだ、と。
ねえ、にいさま、影は少女のように囁いた。
「ねえさまはおいしかったわ」
「この腐れ悪魔がああああああ!!!」
覆いかぶさっていたものが何か見えた、喉が食い荒らされ、下半身は既に塵と化したアンジェの無残な姿。それを目視したのか、裂迫の気合と共に切りかかるエイブラムは、エヴァがいつの間にか広げる様に掲げた本、その中身を目にした瞬間に糸の切れた人形のように崩れ、着地した場所から風化していく。
「ねえ、おなか、へったな。おにいさま?」
アルフォンスの最後に記憶にあったのは端正なエヴァの顔にあるのは瞳孔の無い、血みどろの眼球だった。
――ガーフィールド家の怪事は、百年戦争と言うビックイベントの中で忘れ去られ、または封印されていき、今では資料などほとんど残っていない。辛うじて見つけ出せる資料によれば、一族は次期当主のアルフォンス・ガーフィールドを除き行方不明となっており、他に家令が行方不明になっているという資料もある。何にせよ、当時勢いのあった伯爵家を襲った怪事が何であれ、士気に関係するという点からイングランドは封殺を決めたのであろうと考察される。更にはヴァチカンからの干渉を防ぐという目的もあったに違いない、ジョン失地王の失敗がまだ現実的に残っている当時の情勢では、怪死というヴァチカンが異端審問の名目で嘴を突っ込めそうな荷物など抱えていられなかったと思われる。
結果ガーフィールド家は、新大陸の開拓と言う事実上の流刑扱いとなり、そこでアルフォンス・ガーフィールドは生涯を終えている。ただ、これにも一つ面白い逸話がある。
老境に入りアルフォンスは口癖のように迎えに来る、と言う言葉を発していたらしい。視の死に様は衰弱死であったらしいが、棺にいれて墓にまで運ぶまでに遺体が塵になっていたという伝説がある。また、死ぬ直前に白い小柄な影を見たと言う話もあがっている。真実はわからないが、これもまたガーフィールド伝説が如何に当時の人間に深い影響を与えたのかがわかる一例であろう――
「中世期イングランド王国の習俗から見るガーフィールド伝説」(2002、弥栄正秀著)