第二夜――2
「人間とは神の失敗作に過ぎないのか、それとも神こそ人間の失敗作にすぎぬのか」
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
──六百年近く経つ今も謎に包まれている、このガーフィールド伝説の大本とも言えるガーフィールド辺境伯邸の怪事が起こる前夜、邸内に於いてガーフィールド辺境伯の私室から唸り声とも付かぬ魂切るかのような奇怪な叫び声が聞こえた、と言う使用人の証言が記録として残っている。またこの怪事と関係しているのかは判らないが、一人の使用人の行方がわからなくなっていると言う記述もあるが、これは市井の噂話の域を出ない事から信憑性に関しては疑わしいと思われる。
近年の研究ではヴァレンタイン・ガーフィールド辺境伯が、長年に渡る戦乱によって所謂戦争後遺症に似た病状を起こしていた可能性があると言う観点が浮かび上がってきた。殺戮に明け暮れる日々を送ることで神経を極度のストレスによって圧迫し、幻覚や性格豹変などの数々の精神異常を引き起こしたのではないかと言う論である。
確かに数少ない当時の記録では、明らかに幻覚等の症状や解離性精神障害と思われる節のある行動などの表現が散見しているように見受けられる。それらは悪魔憑きなどと言ったオカルトと言う形の中世期の習俗に沿った事象へと置き換えられており、この研究が進むことによって、例えば少女の血を好んで浴びたと言うかの有名なエリザベート・バートリー等の研究にも拍車がかかるのではないかと思われる。
過去の真実を知ることが出来るのは、其の時代の当人達のみの云わば特権であり、我々研究者はその足跡を辿りつつ過去を妄想する妄想集団でしかない。だが、近年になって勢いを増したニューエイジ思想に似た内容が散見される様な都市伝説の流行とその波及効果を見るにつけ、その当時如何にこの一夜が脚色され大衆へと浸透して行ったのかという計り知れない影響力の一端を──
「中世期イングランド王国の習俗から見るガーフィールド伝説」(2002、弥栄正秀著)
1──
「……ヴァレンタイン様、そのお姿は一体?」
朝、主を出迎えたアルフレッドは仰天した。何しろ己の主がたった一晩で変わり果てた姿と形容すべき様相になっていたからである。身形がおかしいわけでもない、一見異常な挙動が無い所が異常さを更に深く際立たせていると言おうか。全てはその眼にある、強烈といっても良い眼光を放っているのだが、その視線は目の前の存在を捉えているかのようで捉えていない。まるで何かを超えた存在であるかのような、一種超然とした視線を向けられて、彼は己に走った得体の知れぬ動揺と理由の定かではない怖気に思わず心中を声に出してしまったのだ。
「何か問題があったか」
「い、いえ。その」
「問題が無いのならば下がっておれ。昨夜と言い今と言い、己の領分を越える心算か?」
「……決してそのようなことは。差し出がましい真似を致しました」
そう言って平伏する彼を見下ろしてヴァレンタインはフン、と微かに鼻白んだ。その様子は昨晩彼と共に話していた嘗ての主の姿ではなく、邸の物が畏怖するヴァレンタイン・ガーフィールドと言う異端の存在であった。縋るべき寄る辺であった夫人が亡くなった後、度々こう言った人格が変わったような変貌をしているのを彼も知ってはいるが、今回もその一例なのだとは到底思えない程の違和感にアルフレッドは冷や汗を拭えない。
全ては昨夜、辺境伯の私室から奇妙奇怪な叫び声が上がったのを耳にしてアルフレッドが飛び起きた事が切欠だった。この世のものとも思えぬ、まるで獣か何かの呻きにも似たその声はどうやら何故か彼にしか聞こえてはおらず、他の就寝中であろう使用人も戦時中と言うことで不寝番に立っている騎士や番兵に至るまで誰も何も聞いては居ないと言う。それを聞いて何が警備任務だ、とアルフレッドは全員を叱り飛ばしたい衝動に駆られたが、今はともあれ一目散に己の主君の様子を見に行く事が最重要である。騎士長とアルフレッドを先頭におっとり刀で駆けつけた彼らは、開かぬ扉の前で他ならぬ辺境伯ヴァレンタインによる拒絶を喰らい、面食らうこととなる。
「何事だ、貴様等。この夜更けに大勢で」
「──畏れながら申し上げます、家令アルフレッド殿より閣下の私室から不審な物音を聞いたとの報を受け、取り急ぎ急行した次第であります」
「大異無し、通常の任務に戻れ」
「──ハッ」
深夜という時間にも関わらず、まるで彼らがやってくることを予期していたかのように、扉の前で今まさにノックをしようとした彼らにヴァレンタインから声が掛けられる。確かに彼らの靴音や鎧の音と言うのは騒がしい物である、それに気付いたのだろうかと己等を納得させて気を取り直した騎士長である彼の言葉に、扉の向こうのヴァレンタインは木で括ったような返答を返した。その言い様に若干違和感を感じたように騎士長は軽く顔を顰めた。如何に深夜で何らかの理由で機嫌が悪いとは言え、危機を察知した部下を邪険にするような主君ではなかった筈だと思ったのである。だが、誰にでもそういう時はあろうかと気を取り直し、大層機嫌の悪いであろう主君を煩わせることの無いように短く返答を返す。そして、ある意味元凶とも言える背後のアルフレッドと部下に向き直る。
「……アルフレッド殿、閣下はそう仰せであるが」
「……ええ、無事が確認できれば問題はありません。お呼び立てして申し訳ありませんでした」
「いえ、そのようなことは。貴様等、警戒任務に戻るぞ!」
千路に去っていく騎士達を確認し自らも足早に戻っていく騎士長を見つつ、釈然としないままではあるがどうやら気のせいであろうか、とアルフレッドも踵を返し部屋へ戻ろうとした時にそれを聞いた──いや、聞いてしまった。
「……近付いたのは誰だ、これを見たものは誰だ。カ=カの祭祀を覗く者は誰だ、誰だダレダダレダダレだ誰だダダダダダダダダダダ──」
それは、既に人の声ではなかった。
その声を聞いてからの記憶が恥ずかしながらアルフレッドには無かったが、どうやら無我夢中で己の部屋に戻ってきたようである。体中のあらゆる汗腺から冷や汗が噴き出し、少し蒸す程の気温である室内なのに全身の震えが止まらない。一体何を自分は聞いたのだろう、と彼は乱れがちになる思考で必死に考えた。まるで温度を、生物らしさを感じない声はまるで石木が口を利いているかのような乾燥した声であった。これ以上あの声を聞いてはいけない、本能が瞬時にそう判断してアルフレッドを運んだとしか思えない。酷く忌まわしい響きを思わせるカ=カの祭祀とは何なのだ、己の主はその様な異端に染まっていたのか。そんな思考も微かに覚えるが、それらは何故か些事としか思えなかった。大きな異常があると、その他小さな異常はそれに飲み込まれるようにして同化してしまうと言う。正しくそれと同じ状態に陥っていたのかもしれない。
そして、翌朝彼の目の前に現れた己の主人のその言葉とその姿である。現世を見ず、彼岸を見ているかのような空ろな視線は一体何を捉え、彼の目の前にいる自分は一体どのような姿で捉えられているのだろうかと、彼は益体も無い疑問に駆られた。昨夜はまるで石木が口を利いたようなと感じた己が、逆に今度はそれこそ石か木としか認識されていない様な気がしてならないのだ。
「処で、アルフォンスは何処だ」
「アルフォンス……様ですか?昨日はまだ帰っていておらぬようでしたが」
「貴様の言では、確か会合と聞いていたが。そんなに時間のかかるものか?」
「一体、何をお疑いに?」
そう言いながら、アルフレッドは直感していた。恐らく、アルフォンスの行き先は会合などではないと。そして恐らく、辺境伯自身もほぼそれに気付いている──恐らく確証が無いだけで。一体、昨夜辺境伯の私室で何があったというのか。本当は見当が付いている。嗚呼、アルフォンスはきっと深淵を覗いてしまったのだと。そして
、同時に例えようも無い違和感を感じてもいた。違和感などこの数日で腐るほど感じてはいたが、今回は特級とも言える程に印象の食い違いが酷い。
何かが違う。何が、違う?
「……ヴァレンタイン様、一体昨晩何があったのですか」
此処が分水嶺だ。根拠も無くアルフレッドは確信し、同時にこの一言に己の生死を賭けた。今こそ此処が、亡き奥方との約定の果すところだと不意に気付いたのだ。此処で命に賭けて、この辺境伯の姿をした何かを止めなければなるまいと。そうしなければ、『全てが終わる』と。そう、辺境伯は理由や状況はともあれ己の身を案じた部下を決して無下に扱ったりはしない。そして、二代に渡り仕えてきた老臣であるアルフレッドを決して『貴様』呼ばわりなどしない。本能に遅れて思考が其処まで到達したときには、既に気付かない内に気付かれ無い様に彼の手は腰に下げていた長剣の柄頭に掛かっていた。彼とて、全盛期には前領主と共に戦場を駆けた一人の戦人である。腰に履くは、その頃からの愛剣であり己の命を支えるに足ると信頼できる剣だった。そして互いのこの距離こそは、老いては教育係、そして家令として前線から退いたとは言え何者とて一太刀で刈り取ることが出来よう──必殺の間合いだった。
「何も、無かった」
「そんなわけはありますまい……!」
昨夜彼にしか聞こえなかった、謎の絶叫。アルフレッドにしか聞こえなかったのか、それとも彼にのみ届いたのか──それは判らないが、全ての事物には意味がある。唯の勘違いや空耳で通すには余りにもそれらは異常であり、更には何故かアルフレッドにとってはあの絶叫が哀切に満ち満ちていたように感じたのだった。何に対する哀切なのかは判らずとも、それを哀切と判じた己の直感に此処に至って彼は従うことに決めたのだ。
「随分と絡むな、アルフレッド。お前の立場を思い出せ」
「──為ればこそ」
大きく、しかし細心の注意を払って呼気を吸い込む。その呼気と共に形容し難い何かが身の内に広がっていくような、そんな幻想さえ覚えた。呼気の量に呼応するかのように己の内に膨らむそれ──誇りとも呼ばれる類の目視できない、そしてそれを持つ物にしか理解し得ない時として生死の狭間をすら飛び越える程の感情を胸の内から全身に行き渡らせる。老齢と、そしていつしか持っていた怯えにより綯えていたアルフレッドの四肢は、その劇物にも似た感情を流し込まれ凄まじい反応を起こしていた。滾るようなその感情を四肢に流し込むことにより、逆に頭は冷えていく。そして対比する様に四肢には過剰なほどの熱が、そして力が流れ込んでいた。その熱を直接吐き出すかのようにアルフレッドは口を開いた。
「私の立場を思い出させていただきましょう」
静かに、しかし炎を吐くが如く裂帛の気合を帯びたその言葉を彼が吐いた瞬間、眼前の主の表情は先程とは全く別の彼の知る主の表情を見せた。それは瞬間だけで、しかも無表情ではあったが、何故か何処か微笑んでいるようなそんな気がした。それを見てアルフレッドはそこに主がいることを、今先程までいたことを理解した。証明など不要、何よりも先程まで貴様と呼んでいた己の呼び方を、あの一言だけは嘗ての主のように、お前と言う呼び方をしたのだ、以前からアルフレッドの知る主が彼を呼ぶその通りの呼び方に。そして今こそ理解した──目の前の存在が、何であるのかと。
"お前の立場を思い出せ"──其の言葉こそが鍵だった。そう、アルフレッドの立場は最初から決まっていたのだ。それはガーフィールド家に悪行を為す者から、ガーフィールドを守り通す防人。例えそれが己の主君であろうとも──ましてや得体の知れぬ何かがガーフィールドに、あの剛毅な主人に亡き美しくたおやかな夫人、その忘れ形見である逞しく成長した彼の未来の主人、面影を継いで双美姫とまで呼ばれるようになった二人の姫、それらを害そうなどとする者になぞ慈悲の欠片も有りはしない。細切れにしても飽き足らぬ。
我、境地に至ったり──そう呟き、一息に長剣を抜き放った。思い出すのはナヘラの戦い、黒太子エドワード公の指揮の元で厚顔無恥なグラナダのイスラム共を切り倒し、アラゴンの連中を蹂躙したあのイングランド王国史上指折りであろう大勝を果した血沸き肉踊る戦い。その際の戦功で公自ら直々に賜った宝剣が、それに応えるかのようにアルフレッドの手の中で陽光を反射して光った。
「姿を現すべし、悪しき者めが!ヴァレンタイン様を何処へやった!!」
「何処へとは何とも不自然な言葉だな、今貴様の前にいる私は何だ?」
「まだ言うか、我が敬愛せし主の似姿を真似た悪魔が……!」
我は鬼也、ガーフィールドを守護せし鬼也──彼は誇らしげに猛々しく名乗り上げ、大上段に宝剣を構える。今此処で一太刀に切り倒せねばどんな災厄が起こるかわからない。そして普通の剣技であれば昔はともあれ衰えた今の彼では、中身がどうあれ今こそが戦場人として油の乗った時期である眼前の肉体を一刀で切り伏せられるかは疑問が残る。だからこその大上段、全身のバネを全て眼前の敵を切り倒すだけに使用する基本にして最強の一刀を彼は選んだのだ。
「今まで貴様に惑わされていた己の不甲斐なさ、今こそ雪ぐ時!!」
「鬼、とは随分と大きく出たな。しかし、惑わすなどとは人聞きの悪いことを言う。勝手に惑わされていたのは貴様等だろう。それにな、私は正真ヴァレンタイン・ガーフィールドそのものだ、不敬だぞ、ん?」
いかにも笑えるとばかりに身体を震わせて哂う、主の姿をした何か。それを見て、その言葉の真意はどうあれ、アルフレッドは時既に仕えていた主は其処にはいないと言う確信と深い悔恨に襲われた。異常には気付いていたのだ、何故もっと早く行動に移せなかったのか、何故もっと早く止める事が出来なかったのか。主の傍におり、最も早く気付いて然るべきであった過去の己と対面できるのであれば、いま叩き切っているだろう。己が何らかの対策を取れていれば、彼の主は救われたかもしれないのだ。
「──本当に惜しい処だったな。成程、貴様は良い家臣だったようだ。ならば最期に面白いことを教えてやろう、アルフレッド。いや、ガーフィールドの護鬼よ」
「悪魔の佞言など聞く耳持たぬ。王より直々に賜りし、この宝剣の露と散れい!!」
彼の張り裂けんばかりの種々の想いが乗り移ったかのように、いよいよ不可視の威厳すら放つ様に思われるその剣は正しく宝剣と呼ぶにふさわしい威容だった。見るものが見れば、剣自体がまるで巨大化したような錯覚に囚われたであろう。
だが、振り上げた彼の一刀をちらりと見る眼前の悪魔にはまるで動揺が見られず、挙句蔑みの笑みの形に歪んだその裂け目のような口から彼の死を予期させるかのような言葉まで発されるにつれ、その言い知れぬ何かに彼は己の心胆を若干寒くした。全くアルフレッドが知らぬ内にいつの間にか手に持つ異様な装丁の古書を手慰みながら、口元を三日月の如く歪めて哂う悪魔の声を振り払うかのように声を上げる。心胆を寒くすることが起きようが何があろうが、彼が取る行動に何ら変わりは無い。そして可能不可能に関わらず、眼前の敵を打ち倒す事は既に彼の中では約束された確定事項であったのだ。
「それはな──」
「父よ子よ聖霊よ!我に魔を討つ御導き在れ!!」
ヴァレンタインの姿をした何者かの声は、裂帛の気合を迸らせた家令──いや戦人の長剣が奏でる風切り音の前に巻き込まれ、そこに余人がいたとしてもその言葉は聞き取れなかっただろう。かの男が何を言ったのか、それは当人達にしか知りえぬ、永遠の謎として残るのだろう。まるで、静謐な神殿での神事を終えたかのような、不可思議な雰囲気の辺境伯の私室内、立っている影は一つ。
横たわる人影は、無かった。
2―
「あ、おとうさま!」
「嗚呼、私のエヴァ……今日も元気そうで何よりだ」
早朝、何か胸騒ぎを感じたエヴァンジェリンは、ひっそりと寝室の鍵を開け、外に出た。そこで覚えのある気配が、己に向かってくるのを感じ取った。この数日で父親感知器と化したエヴァの悪寒は、今日も正確に父の雰囲気を捉えていたのである。何かいつもと違う雰囲気だという気もしたのだが、そこは十歳になったばかりの少女、理解する事が叶わないのは仕方の無いことだろうか。それ以上にそんな些事よりも気になる事が彼女にはある。
「おはようございます、おとうさま。きのうのおやくそくをおぼえていますか?」
「ああ、無論だとも」
そう言って己の父が微笑む顔を見て、やはり何か何処かが違う気がしたがそれでもエヴァは気にしなかった。それよりも父が自分とした約束を覚えていてくれたことが純粋に嬉しかったのだから。弾むような声で、エヴァは続ける。
「じゃあ、わたしがおとうさまのてつだいをしてもよいのですか?」
「ああ、そうだ。大体にして私からエヴァに頼んだことなのだからな」
その言葉にエヴァの歓喜は有頂天に達していた。誰にも敬愛し、憧れる兄ですら手伝うことが許されていない父の研究を己が手伝えるのだ、しかも他ならぬ父の頼みでなのだ。特別と言う言葉、立場に憧れる心と言うのは誰しもどんな年齢でも持つ物だが、事、思春期に入り掛けた年頃の子供にとっては勲章を貰った程の嬉しさがあるだろう。何よりも大人として扱われる事がたまらなく嬉しい年頃である。父の研究を手伝うと言う事は、暗にそれを認められたと言う子供ながらの誇りを充足させるに余りある出来事だったのだ。
「──お前ももう十歳、立派なレディの年頃だ。だから、お前に私の研究の手伝いをしてもらいたい。良いかな、レディ・エヴァンジェリン?」
「ええ、よろしくてよ……ええと、サー・ヴァレンタイン」
父の言葉に胸を張って応えるエヴァ、その遣り取り自体が既に幼い彼女の自尊心を擽る充分な物だったのだ──少し言い淀んでしまったのが玉に瑕だが。幼いながらに、エヴァは家庭教師の授業を受けておいて本当に良かったと感じていた。来るべき宮廷生活の為の一環としての作法授業は、今まで必要性や実感が湧かずにどうしても今一つやる気にならなかったが、此処に来て初めて役に立ったと感じ取ったのである。
「では、今から研究室にご案内しようか。付いておいで、エヴァンジェリン」
「はい、おとうさま!」
そうして父娘の二人は連れ立って歩いていく、地下へ、地獄の釜底のような地下へ。それを止められる者はそこに存在しなかった。連れ立って歩きながらエヴァは考えた、何がいつもと違うのかと。そして直ぐに思い当たる。
──そうだ、アルフレッドがいないのだわ。
いつも父の、もしくは兄の背後に控えている忠勤な老家令アルフレッドの姿が見えないのだ。そこに疑問を持ったが、その疑問もこの先に待ち受けるであろう父の手伝いと言う名誉に陽光の前の朝靄の様に消えてしまった。彼女は既に招かれてしまった、運命は廻り続ける──それはもう転がる石の如く。
3──
「くそ、やっと開いた……ご無事ですか、旦那、隊長!!」
「あ、ああ、なんとかな」
「人心地が付くって言葉を此処まで実感したことはねえな、お前らよくやった」
半壊した扉の奥からまるで幽鬼と言った態で現れたのは上着の無いアルフォンスとエイブラムの二人だった、その周囲にむくつけき仲間達が疲労困憊といった状態で転がっている。手を差し出している男もよく見ればフラフラしているようにも見える。無理も無い、夜通しで建築作業をしたようなものだ。その激戦の痕は日光の中、周囲の雑然とした状態を見れば一目瞭然と言えようか。このような状況に陥った理由は無論存在する。辺境伯帰還の報を知らせるべく己の主達を探していた、エイブラムの部下であるスカウトの男が地下室への搬入口へ辿り着いたのは夜も更けた深夜の時間帯だった。本来ならばそんな時間がかかることは有り得ないのだが、更に有り得ない物を目撃した衝撃でそのような疑問など彼方へ飛んでいってしまっていた。
「な、なんだ……コイツは」
木々に隠れるようにして丘の斜面を穿つ様に作られた筈の扉が存在しないのだ。いや厳密に言えば存在した筈の扉を調度隠すようにして岩が置いてあったというべきか。無論こんなものが存在していたはずが無い、何しろ二日前には彼の同僚が悪戦苦闘しながら、この扉からあの醜悪な肉片の山を運び込んだのだから。誰が運んだのか、と考えてみるも思いつかない。有り得るのは何らかの洞察により今回の調査に気付いた辺境伯くらいのものだろうが、部隊総勢で監視をしていた状況下で、どうやってこんなものを転がすような余裕があったのか。寧ろ、唐突に帰宅すると言い出して予想以上の速さに困惑したくらいのものだというのに。それに、これだけの大きさの岩を動かすにはそれなりの人手が必要だろう。間違っても一人で動かせるようなものではない。それに闇の中良く良く見れば、岩を引いてきたような跡が見受けられないのだ。まるで、万古の昔から此処に鎮座していたとでも言いたげな様子なのだ。だからと言って諦めるなど言語道断、慌てて彼は通常哨戒任務中だった近くの兵や仲間を呼び集めて、必死に岩を除去すること深夜一杯。ようやっと岩を退けて扉を開けることができたのだった。
「朝……もう朝になっていると言うのか」
アルフォンスが眩しそうに目を細めて呟く隣で、エイブラムも似たような仕草をしている。松明があったものの、地下の暗闇から日光の当たる場所に急に出てきた為か、目が慣れないようだ。
「そんなに時間が経っているとは思わなかったんですがね……これだと」
「ああ、恐らくは気付かれているだろうな」
互いに状況を確認しあう。既に夜が明けているというのならば、今この時こそが辺境伯の私室で発見したあの記述の『えいえんのひ』当日であるのだ。正直、地下での出来事も含め様々なことがありすぎた所為か、緊張と疲労で碌に体が動かない。だが、そう言っていられる状況でもあるまい。
「エイブラム、動けるか」
「まだまだ、10年前のアジャンクールに比べりゃ屁でもないですわ」
「……そうか」
思いもよらぬ処で思いもよらぬ名前が出たことにより、アルフォンスは少しだけ言葉に詰まった。アジャンクール、それこそが云わばこの劇の幕開けとなったのだ。地下で見た光景を思い出し彼は胸が悪く、それ以上に心が酷く痛んだ。それを見て取ったエイブラムは話の出し方を間違えた、と少しだけ表情を曇らせた。
「旦那、隊長、一体何があったんですかい」
「何が、だと?」
「いや、旦那達の顔がまるで死に掛けの半死体みたいな有様でさ」
遠慮がちにそういうエイブラムの部下の言葉で、己たちが其処まで酷い形相をしているのかと二人は一様に溜息を吐く。それは、地下から生還した安堵の息であった。たった数時間前の事だというのに既に遠い過去のような気すらする程の異常に満ち満ちた、闇と血と臓物のイメージがこびり付いたあの場所での出来事が彼の脳内にありありと蘇った──
「──エイブラム、どうだ」
「嫌に長い階段だって位ですかね、取り敢えずは何も。ただ、この背筋にくる嫌な感覚だけは慣れませんな」
数時間前、エイブラムの松明だけが灯りと言う些か頼りない光源の元、二人は只管地下へと降りていた。灯りはこの松明一本のみ。この通路を辺境伯が使用していることは明らかだった為、何らかの照明器具が用意されていると踏んでのこの一本だったのだが、今の所その推測は裏切られたとしか言い様が無い。
「しかし、辺境伯はどうやってこの階段を降りたんでしょうな。壁際に松明でも用意してあると思ってたんですがね」
そう言いながら、壁際を照らすエイブラム。壁には確かに何の形跡も無い、通常であればこう言った足元の見えない危険度の高い場所は壁際に松明を用意し、そこに火を灯しながら進むものだ。でなければ、自らの邸の中で何時切れるとも知れない松明を一人で掲げて進む、という何とも滑稽な光景を演出する羽目となる。しかも地下へ続くこの階段は結構な急角度で作られており、濡れておらずとも足を滑らせてしまう可能性がある。
「判らぬ、そればかりは父上に尋ねてみないとな」
アルフォンスの表情は陰に隠れて見えなかったが、口調からして恐らくは己と似た様な表情をしているのだろうと推測したエイブラムは溜息を押し殺した。細々とした謎はあれど、兎角今彼らの精神を少しずつ蝕んでいるのはこの階段──正確に言えばこの階段の闇である。まるで凝ったような粘性のある闇が階下に広がっているこの光景は、何とも精神に悪いものがある。
「まるで、暗い色の液体が溜まっている中を進むような錯覚が止まらんな」
「俺としては、何か現実を食い荒らしている闇色の液体に見えますな」
「だとすると、わざわざ降りていく我々は捕食死希望の自殺志願者か」
「捕食死云々はさておいて、自殺志願者って辺りは現状否定しませんがね」
精神の平衡を保つ為の軽口の応酬も、この異常な空間に引き摺られるようにして意図せず重たいものになっている。それほどまでにこの闇は、重い。少しずつ階下へと進む彼らは、既に時間の概念は曖昧となっていた。人間は、時間の感覚と言うものを五感を通して把握している。その五感の内の大半がこの重圧的な闇によって撹乱されることで、時間の感覚はこれ以上無いほどに狂っていた。己は何分この中に居た、いや何時間、それとも──何日?無論、彼らの生理欲求的にも現実的な地下への距離から考えても、日数のレベルで時間が経過していることは無いだろうが。
「なんでしょうね……地下室ってのはこんなに深いものなんですかい?」
「いや、少なくともとうの昔に着いてもいいはずだが……」
地下室へ初めて入るエイブラムが疑問を呈した頃には、アルフォンスも何かがおかしいと感じていた。幾ら時間間隔が麻痺しているとは言え、既に地下に到着していてもおかしくない時間は経過している。上を仰ぎ見ても闇、下を覗いて見ても闇、まるで己の居る場所のみが現実であるかのような孤立感が否応無しに際立つ。
「これだけ光景が変わらないと、此処で足踏みしてても気付かなさそうですな」
「はは、確かに……真逆、もしかして」
エイブラムの何気ない言葉に最初は同意したアルフォンスだったが、何かを感じたらしい。懐にあった小刀を取り出し、石壁を傷つけ始めた。唐突に奇行をはじめた主にエイブラムが怪訝な顔をする。
「何をしているんで?」
「ちょっとした実験だ、さてもう少し進むか」
「はあ……?」
そこからまた暫く無言での地下への階段と言う黄泉路を歩む。景色は相変わらず変化せず、眼前も背後も濃厚な闇のままである。エイブラムは時折背後の主を窺うが、特に変化は無い。先程の行動は一体何だったのだろうか、真逆此処に来て錯乱したわけでもあるまいが、もしそうであるなら──。心中でエイブラムはその想像に溜息を吐くしかなかった。
「よし、そろそろ良いか。エイブラム止まるんだ」
「え、はあ……?」
そんな事を己の部下が考えているとも知らず、アルフォンスは足を止めて先程と同じく壁を観察している。エイブラムから松明を受け取り、つぶさに壁を観察するアルフォンスの行動は控えめに見ても奇行にしか見えない。
「矢張り……真逆とは思ったが」
「その壁に、何かあったんで?」
唐突に声を上げたアルフォンスの顔は心なしか喜色に溢れているように見える。だが、そんな石壁に何があるというのか。少なくともか細い光源で確認する限り、只の周囲と変わらぬ石壁にしか見えない。もしかしてそんなところに隠し扉か何かでも発見したというのだろうか。だが、本職である彼に発見できず、アルフォンスに発見できる隠し扉というのもおかしな話だろう。
「此処を見てみろ」
「石壁にしか見えませんが……ん、壁に傷がありますな。こいつは、刃物傷だ」
「ああ、私が刻んだものだからな」
「ん?そりゃ、どういうことで?」
目の前の己の主人が何を言いたいのかが今一つ理解できない。唐突に壁に彫刻でもしたくなったとでも言うのだろうか。それをわざわざ彼に見せて何の意味があるというのだろう。
「流石のお前でも、思考能力が低下しているようだな。これは、私が彫った傷だ。但し、先程足を止めたときにな」
「とすると……真逆、もしかして」
其処まで聞いてようやっと彼にもアルフォンスが言いたいことが判った。先程足を止めたときに壁に彫り込んだ傷が、少なくとも数フィート以上階段を降りた筈の壁にも同じものがあると言う。これが意味することは、即ち。
「理解したか。つまり、我々はあれから全く進んでいないということだ」
「なんとまあ。足踏みしてるだなんて冗談の心算だったってのに、本当に足踏みして立ってたって訳ですかい?」
「ああ、そうとしか考えられんな。この闇と、何時まで立っても変化の無い同じ光景と言う環境を利用した錯覚なのだろう。私とてそんな説明では納得は出来ないが」
「錯視を利用したトラップですか……我々が森の中の乱戦でよく使いますが、まさかこんな石壁で使われるとは思いませんでしたな」
頭を振りながらエイブラムが呟いた。本来ならば、役割的にはエイブラムが気付くべき事だった。森林での罠、と言う常識が判断を邪魔したのである。人工物の中であるという先入観に囚われた挙句がこの有様である。このお陰で無為にした時間で、地上の状況が万一にも進展していれば──愉快とはとても言えぬ想像に、エイブラムは顔を顰めた。
「森林でならば大方解除出来るんですが……石壁となると、まずどうやって我々に作用しているのか。その方法が判りませんな」
「森林なら、どうやって解除するのだ?」
「簡単です、その辺の木を切り倒すんですよ。何処までも鬱蒼と茂る木々を使った錯覚を利用する罠ですからね、代わり映えしない光景に一つだけ異常とも思える光景を作り出せば良いんですよ。そうすればその対比で我に返ります」
周囲が木々ばかりであると言うことは、視界が常にある程度遮られている事と同意である。人とは通常、殆どの場合は視界を元に周囲の状態を判断する。その視界が常に同じような光景を認識することで、感覚が麻痺してくるのだ。森林や山岳での遭難者とは、まさにこの状態になる事で己の位置を把握できなくなる為、悪戯に動き回り無駄な体力を消費する。そうして疲れ切り、動けなくなった遭難者は野垂れて死ぬか、消耗したところを獣に襲われて畜生共の腹を満たす事となるのだ。
「成程。と言うことは、此処にも同じような仕組みを生み出す何かがあるはずだな」
「恐らくは。しかし確かに同じ光景で感覚が麻痺はするでしょうが、森林とは訳が違います。この罠は獲物が麻痺した感覚であらぬ場所へ動き回るからこそ効果を発揮するもので、こんな下り一本道の場所で効果を発揮するわけが無いんですよ。こいつはまるで──」
──魔法の仕業だ、顔を顰めたままエイブラムはそう呟いた。その魔法という言葉は、日の当たるであろう地上では夢想か、悪魔の所業と言う印象が先立つが、事この陰惨な空気を保つ地下への階段では何とも違和感無く溶け込んだ。
「魔法、か。ローマが聞けば、まさに異端の所業と声高に罵るだろうな」
「魔法と言うほど大層なもんじゃありませんが、薬草師の婆様が使う秘術とやらは結構使い出があるんですがね」
「聞かなかった事にしよう。此処でだから許される発言だな、それは」
ローマは己の信ずる神の御業をのみ尊重し、敬愛し、そして畏怖する。同時にその系統に組しない異国の業は、飲み込まれるか、根絶されるかしかない。後々の結果を見れば後者の割合が激烈に高いのだが、このスコットランドはドルイド信仰が過去も現在も息づく精霊の地である故か、この国の人間は基本的に基督教というものを快く思っていない。己の信ずる愛と言う綺麗事の下で他の平穏を蹂躙する宗教を、自然と共に生きてきた彼らの誰が快く思おうか。エイブラムの言う薬草師の老婆の秘術とは、そう言ったスコットランドで綿々と受け継がれてきた知識の集大成から得た経験であり知識の結晶である。そして、己の管理下に置けぬ知識を危険視し、瞬時に異端認定するローマの耳がある場所では口に出せない言葉でもあろう。
「まあ、そうですがね。ただそう言えば、婆様が昔言ってたことを今更思い出したんですが──幻覚の魔法とか言う話なんですがね?」
「……ほう?」
「そいつは古い屋敷とか、城とかに設置されててですね、気付かれないようにそういう効果のある模様とかを織り込むらしいですよ。話じゃあ、かのアルトリウス公の居城にも似たものがあったとか」
「其処までいくと御伽噺にしか聞こえんが……嘗ていまし、やがて来たるべき王の元には大魔術師マーリン卿が居たと聞く。此処でそれが適応されるかは疑問だが、試してみる価値はあるか」
「何を試すんで?」
簡単な事さ、とエイブラムの言葉に簡潔に答えて上着を脱ぎ捨てる。貴族階級の人間にしては簡素な、一般階級の人間にしてはかなり質の良いシャツが床に落ちる。白を貴重としたシャツは、松明の光でも見分けられる程度には光を反射して位置を特定出来る。
「これで足踏みはしないだろう?時折振り返る必要がありそうだがな」
「成程、意外に良い手かもしれませんな」
懸念材料としてはこの先に似た様な罠が仕掛けられている可能性だが、そうそうこんな凝った罠が仕掛けられているとは思えないし、有れば仕掛けた当の本人がまず迷いかねないだろう。それにそう心配する程でも無く、程無くして先程までの一幕が何だったのかと言わんばかりに直ぐ階段を降り切る事が出来た。気付いてみれば呆気無かったが、気付かなければ死ぬまで足踏みをしていた可能性もあった。
「そう考えると、恐ろしい罠だな……」
「まあ、抜けられたからこその感想ですな。しかし──これは、異端審問されても文句は言えないですな」
「ああ……ここ程までとは、不覚ながら思っていなかった」
エイブラムがそう言ってもおかしくは無い光景が、地下には広がっていた。天然の洞窟を利用して作った地下室は石壁の前にあの形容し難い中身の壺が並べられ、中心には石造りのテーブルがある。その上に一見無造作に置かれているのは、壺の中身である赤黒い肉である。松明の光に滑る様な光沢を見せるそれは、暗い地下室と相俟って実に不気味な光景だった。何をしていたのか解らぬが、だからと言って解りたくは無いと言う矛盾した感想がしっくりくる光景でもある。昨日の夜も来ていたのだろうか、よく見ればテーブルには実物大の人体の印が描かれており、その人体図の各所に光沢を放つ肉が置かれ、肉の周りを囲む様に見慣れぬ文字がそれをうねる様な書体で描かれている。肉片の置かれている場所は、手首、足首、首、心臓──人体にとって重要な各所に置かれたそれ等は実に冒涜的な何かを彼等に抱かせた。
「何と言うか……気味が悪い、ですね」
「想像していた通り……いや、それ以上だな。見てみろ、この像を。由来も解らぬ物だが、只管に禍々しさが伝わってくる」
しきりに二の腕を擦るエイブラムの言葉に、アルフォンスも同意する。彼の視線の先、悍ましいテーブルの先の壁際には、朽ちた祭壇と恐らくは木製の神像らしき異様な形の小さな像があった。朽ちかけた木製の祭壇の上に置かれたその像の外観は、控え目に言っても不気味であった 。形は人の形をしているが、頭の部分には人を示す物は何もない。捻れと風化によるであろう皺で形作られた人型である。何処を取っても人の手で鑿を入れた様には見えぬ様な余りに自然な造形で、全体的に捻くれた複数の枝が組み合った様な造形をしながら人の形を取っている。それらの枝の組み合わせで作ったのか、指すらあるがその数は右が七本で左が九本であった。人為的な形跡はこの暗さでの確認ではあるが見られない。掘り抜いたであろう鑿の跡も、それ以前に幾本もの枝が絡み合った様に見える枝すら枝を辿ると絡み合ったのでは無く、胴体の木から生えているのが判る。詰まりはあり得ぬ事だが、元々この様な形の流木があったかの様な佇まいであり、それなり以上の歴史を経た物が持つ独特の風格すらあった。顔が無いのにも関わらず苦悶の表情を浮かべている様な、これ以上無い嘲笑を浮かべている様な、喩えようも無く冒涜的な像を長く見ていると、意識を吸い込まれそうになる感覚をアルフォンスは覚えて思わず頭を振った。
「悍ましい、ですね」
「ああ、酷く悍ましい」
期せずして二人の意見は一致した、余り見ない方が良いと人間の奥底にある本能が警鐘を鳴らしたのかもしれない。邪神像の周りには塵の様な物が散らばっているのが、父にしては珍しい不手際であるとアルフォンスは感じた。妻の肖像画でも解る通り、己の手を掛ける物には徹底的に手を入れるのがヴァレンタイン・ガーフィールドである。幾ら埃の出やすい地下室とは言え、信仰の証の周りを塵に積もらせるとは思えない。昨夜も来ていたとあれば尚更だろう。祭壇が朽ちかけた木材という部分も何か引っかかる。わざわざ朽ちた木で祭壇を作る物好きはいない、とするならば昔からこの様な物体があったとでも言うのか。しかし幾らなんでも──
「古過ぎないか、木とはこんなに簡単に腐食するものなのか?」
「湿気が多いとそうもなりますがね、例えばこんな地下室なんかは。だけど、こうなる前に新調しそうな気はしますね。周りを矢鱈と整頓しておいて、これだけはこのままってのは、ねえ」
床に置かれた肉片からは実に綺麗に血が拭かれており、まるで床に擬態した何かが血液だけを吸い取ったかの様である。壺の中では確実に血液が付着していたそれを覚えているアルフォンスは、その様を思わず幻視して己の想像力を呪った。恐怖と嫌悪を煽り立てるには十分過ぎるお膳立てがあると言うのに、己でこれ以上着色してどうすると言うのか。エイブラムも似たり寄ったりの事を考えたのか、若干顔色が悪い。何にせよ、この祭壇からは違和感を感じる──それが二人の共通意見だった。
「何か、ありそうだな」
「……祭壇、退けちまいますかい?」
「これ以上無い程に気は進まんな……」
如何にも嫌そうに、しかし正確にアルフォンスの言葉の裏を読んでエイブラムが問い掛ける。これだけ古い祭壇を、新造もせずにそのままにする理由は余り無いだろう。まず一つはこの古い祭壇そのものが儀式に必要である事だが、祭壇上に塵が積もっているなどから見て使用されているとは思えない。ならば答えはもう一つ、何らかの撤去出来ない理由が此処にはあると言う事になる。
何度目かの交換で残り少ない松明のか細い光の中、祭壇とその周囲を虱潰しに探す。異端の証拠はこれだけでも十分だろう、しかし此処にはもっと根源的な何かがある。アルフォンスの本能は理由も無く、そう確信していた。どう考えてもあの悍ましい空気を放つには、今此処にあるだけの物では到底足りぬ。もっとどうしようもなく途方も無い何かがあるはずなのだ。
「どうやら、こいつは後ろが開きそうですぜ……多分隠し部屋があるんでしょう。周りの様子から見るに、今日昨日で作ったものじゃあない──恐らくはこの地下室が出来た時からあるんじゃないですかね」
「それを隠すための、この祭壇だと?」
「見る限りでは、ですがね」
「先祖代々からの屋敷だぞ、そこにこんな物を使った隠し部屋があるというのか」
余り詳しくは言いたくは無い、と言う雰囲気を隠さぬ己の部下の言葉にアルフォンスは愕然とした。この邪教の祭壇で隠された部屋がこの屋敷を作った時からの物であるならば、その部屋に隠された物次第では先祖自体が代々邪教を崇拝していたと言う事実が明らかになるのだ。彼自身は敬虔な基督教徒である、その様な血が体内に流れているなどと判れば狂い死にしてしまいかねない。開けてしまえば事実がわかる、開けなくとも己の親の邪神の信仰自体は確実な物だ。ならば、開けなくともいいのではないだろうか?
塵が舞う、風も無い地下室に塵が舞う。
「何でしょうかね、やたら塵が増えてきてますな……辺境伯が帰還した辺りから特に屋敷内が酷いみたいで。まるでと塵の悪魔の話を思い出ちまいますね」
「それは母上が話していた作り話だが……誰から聞いたのだ?」
「ん、母上様も知ってらっしゃったんで?この辺じゃそれなりに有名な伝説ですよ。昔何処からか誰かが他の所から連れてきた悪魔で、そいつは塵に混じって何もかもを塵にしちまうそうです。誰も悪魔の名前は知らないけれど、それを知ってる奴には一つだけそいつの願い事を聞いてくれるらしいとか」
そのまま代償として乗っ取られちまうみたいですけどね、とエイブラムは話を結び、祭壇の背後をあれこれと弄りだす。アルフォンスは耐え切れぬ悪寒のような物を感じていた。符合がある、符合すべきではない符合が。
塵に埋まった隠し扉、邪教の祭壇、邪神の像。
変貌する父、何時までも変わらぬ美しさを誇った母、変わらぬ美しさを持つ妹。
塵とは末路、物の末路であるならば、その末路で形作られる悪魔とは?
「さて、こいつを開けちまいますか」
何らかの仕掛けを開錠したのか、エイブラムが祭壇に手をかける。ごり、と音を立てて微かに動く祭壇の先には液体の様な闇が見える。
開けてしまえば、少なくとも己は正気ではいられぬ。
「──開けるな、エイブラム!」
「いいん……ですかい?」
「……証拠は十分だ、もう時間もない。既に発覚している可能性すらある。其処の部屋の鍵は壊せないか?」
「開けるんじゃなくてですかい?壊すだけならすぐにでも出来ますけどね」
「ならばやってくれ。それと済まぬが、肩を貸してくれないか。気分が優れない」
「大丈夫ですかい?――兎も角、判りました戻りましょうぜ。こっちの扉から出られそうです」
何時しか痛み出した頭を抱えながら、アルフォンスはエイブラムの肩を借りながら其処を後にする。背後には壊れて開かぬ隠し扉を残して、無言で邪教の祭祀場を離れることにしたのだった。エイブラムが見つけた扉の先が見慣れた貯蓄所であったことに、l二人は心の底からの安堵を覚えた。異界の邪窟から己の見知った世界に戻ってきた様な心地だったのだ。あの狂気の間へ通じる扉は貯蓄所の側からは見えず、更には開かぬような細工が施してあるらしく少し離れただけで場所がわからなくなってしまっていた。
見覚えのある地上への扉の前で鍵を開けた瞬間、狙ったかのように扉が開いて思わず身構えたがエイブラムの部下であることに気付いてアルフォンスは思わず脱力した。エイブラムに至っては抜剣していたのだから、あの異常な場所でそれだけ互いに精神が高ぶっていたと言うことが理解できる証左でもあった。状況は決して良いとは言えなかった。ヴァレンタインの予想以上の早い帰還、何者がどうやって置いたのか全く判らぬ大岩に塞がれていた扉、明け方に不自然に騒がしくなった館内。ヴァレンタインがエヴァを使って何をするのかは判らぬ、そもそもヴァレンタインは本当にヴァレンタインであるのだろうかもまた、判らない。だが、まだ手は尽くせる筈である。時間は限りなく乏しいが、無いわけではないのだ。一日で数十年もの苦役を科されていたかのような倦怠感と精神的苦痛を感じながらも、アルフォンスは立ち上がって声を上げる。
「全員、館に早急に戻るぞ。時間が、無い……!」
用意されていた馬に飛び乗り、アルフォンスは脇目も振らずに一目散に駆け出した。その後ろをエイブラムと部下が慌しく続く。日はまだ明けきらぬ群青色の空の下、戦時下の様に駆け走る騎馬は一路辺境伯邸へと向かっていった。