第二夜――1
「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物に変ずる事の無い様に注意せねばならない。汝深淵を覗き込む時、深淵もまた汝を覗き込む」
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ「善悪の彼岸」
何時からこうなっただろうか。初めは確か、そう進軍先で見知らぬ若者が私に献上してきた書物だったような気がする。目深にフードを被ったその青年、いや少女?わからない、わからないが──兎に角、その若者が献上してきた書物は如何にも異教の徒が持ちそうな禍々しさに満ちていた。直感的に、正直触れることすら憚られるような、痛ましくもおぞましい何かを私に感じさせたのだ。その書物の表紙は革張りの重厚なものだが、何の革で出来ているのかが全く判らない。だが、少なくとも羊や牛と言った獣の革ではないだろう。黒で染め上げられたそれは艶やかで、それ以上に生々しい何かを感じさせた。
まるで本当の人の皮膚のようにしっとりと汗ばんでいそうな、そんな革だった。
手に持つとまるで己の皮膚のように馴染むその皮張りの書は、少しでも長く持っていると自分の手と書の境界線が判らなくなるほどの一体感と同一感を持ち、知らず心が震える。厚い本には本の中身を傷ませない為に、表表紙と裏表紙を繋ぐように作られた留め金が付いている物だ。無論、この書もその例に洩れず留め金が付いていたが、それも他の書には見られない特徴がある。何かの牙か爪をなのだろうが、緩く湾曲し、先端に近付くにつれて鋭さを増すその留め具は面表紙に二つ、裏表紙に一つつけられており、その三つの牙若しくは爪状の留め具を噛み合わせる事で留め金と成すのだ。その留め金自身にも何をモチーフにしたのかわからない細やかな異国の細工と意匠が凝らされている。まず間違いなく芸術品としても工芸品としても一級品には違いなかろうが、それ以上に所持しているだけで異端扱いされてもおかしくは無いだろう。
私はそれに触れるべきではなかった。いや、触れるべきだった。今でも二人の私が私の思考の中で、既に終わった論争を無意味にいつまでも続けている。私が触れるべきではなかったと言う理由は只一つ、私がそれを求めるには私の望みはあらゆる意味で既に遅かった。そして起こり得た結果は不変で、二度と変えることが出来ないと言う事実のみ。私が触れるべきだったと言う理由は只一つ、それでも私の朽ち果てて閉じ掛けた瞳に望みの光が眩く眼を灼くのならば、私は再び私だけの永遠を作らなければならない。そしてその色褪せる事の無い永遠を完成させる為に、因果を以てして定められた私の義務が故。
嗚呼、あの時のあの若者はなんといっただろうか。もう思い出せない、その言動どころか外見すらも思い出せない。まるで何か認識を阻害されているような、不可解な感覚だ。私の記憶に存在するその姿は常に刻一刻と変化しており、既に性別すら定かではない程に元となった最初の姿を私は記憶しておくことが出来なかった。彼は名乗っただろうか、彼女は名乗った筈だ、その者は名乗っているのだが思い出せない。煩い、私の中で二人の私が未だがなり立てているお陰で、今にも頭がおかしくなりそうだ。
片方の私が、今ならまだ引き返せると叫んでいる。今ならまだ戻れる、引き返せる、外道の所業を行っているが自らの手を下したわけではない。だからこそこの先、手を一度でも染めたならもう戻る道は無くなるぞと叫んでいる。嗚呼全く以て同意する。私も何故こんな事をしているのか判らないのだから。
だが、もう片方の私が即座に私の耳にこう吹き込む。永遠が欲しくはないのか、私だけの永遠が欲しくはないのかと。私は一度永遠を得る機会を失っている、二度目が有る事自体が奇跡の所業であり、これを逃せば永遠は私に振り向くことは無いと。そうだ、永遠を──永遠を私は望んでいる。朽ちず果てず無くならない私の永遠を。
時間が無い、永遠を得るにはもう時間が無いぞ。私の声は今は一つしか聞こえない。その声が囁く。ここが最期の機会だ、これを逃せば私の手から永遠はするり、と抜けて、私は失意のうちに人生を終えると。
それはいやだ、それはだめだ、私は二度と私の永遠を失って堪る物か。此処で失うのならば最初からそんな事を知らずに居たかったのに、知らずにいればこんな事を願わなかったのに。だが、私は知ってしまった。だから願う、望む、希求する私の永遠を。
嗚呼、エヴァ。私の永遠、もう少しで、もう少しでこの手に届く私の光。
あの男、あの男の名前──そうだ、あの男。
あの男はこんな事を言っていた気がする、私の欲が呼び覚ますと。
確か──
1──
翌日、予定通りに視察に出かけたヴァレンタインを見届けて、アルフォンスは予てからの予定通りに行動を即座に開始した。今日一日は帰宅しないであろうとは思うが、それでも時間は貴重だ。一つの行動の立ち遅れは時間に傷を負わせ、一つの迷いが時間に無駄な出血を強いて血を止め処なく流させるものだ。
今回の目的である地下室改め研究室へ向かう扉は、知る人間は限られているが実は二つ存在していた。一つは邸内から少し離れた木立の中にある大きめの扉で、昨日の様に『戦利品』とやらを格納する為の部屋へ行く扉。もう一つは、ガーフィールドの一族のみが知る辺境伯の私室から直通で行く扉である。邸が建てられた当初からあった貯蔵庫と思われるその地下室はそれなりの広さを持っており、今では別に貯蔵庫が作られた為に本来の目的で使用しなくなったものの、それ以外でも様々な用途で使用可能なスペースであった。それなりの長さのあるガーフィールドの歴史の中では武器の臨時倉庫であったこともあったし、非常用食料の備蓄庫だった時代もあった──そして現在は『研究室』として使われている次第である。この辺境伯私室から抜ける扉は本来は有事の際の逃走経路としての用途で設置されていたものらしく、館を包囲されてもそこから地下室へ逃れた後は離れた木立の中にあるもう一つの地下室への扉から出ることが出来ると言う仕組みになっていた。
同じ地下室へ繋がる扉だが、今回はこの辺境伯の私室からの扉で地下室へ向かう事がまず一つの目的であった。正直な話、地下室からの扉には何度も入ったことがあり、勿論だが内見も済んでいる。その内容を簡単に説明すると、単純に辺境伯の『戦利品』と言う名の有象無象を収納しておく倉庫と言った態のガラクタ部屋だったが……辺境伯側の扉から同じ場所に出るのか否かは判らない。何を言わんとしているのかと言うと、搬入用の扉の先は『研究室』と呼称されている割に、何もその痕跡が見当たらない文字通りの倉庫でしかない部屋なのである。とするならば、そこを『研究室』と言わしめている場所が他に別に存在するのではと言う思考へは直ぐに到るだろう。そこへ到達出来るであろう経路を現状の情報から考えるとするならば、彼とて安易な発想であるとは思っているのが辺境伯の私室の扉こそが矢張り最も怪しいのである。
自室を出た扉の前にはエイブラムが既に控えていた。それを横目で確認し、そのまま無言で廊下を歩く。それに同じく無言でエイブラムが付き従う。暫く二人は無言で歩いていたが、やがてアルフォンスが口を開く。
「──部屋の鍵は」
「ええ、昨夜の内にウチの部下が、この間の複製と摩り替えてありますよ」
そう言ってエイブラムが差し出した手の上には、簡素ながら凝った細工が施された鍵が乗っていた。辺境伯の自室を調査すると言う計画自体は、実は今に始まったことではなかった。何度か彼らの間で語られ、その度に計画が練りこまれて行ったのだ──具体的には辺境伯が『戦利品』を持って『研究室』に閉じ篭ったり、おかしな物を買い込んだりと奇行を繰り広げる度に、と言う事だが。そう言った話し合いの一環で、予てから辺境伯の私室の鍵の複製は作ってあったのだ。辺境伯が戦争で留守の間にアルフォンスが作らせたその鍵は、嘗て盗賊をやっていたと言う触れ込みの男によって寸分違わず複製されたもので、細工も何もかもを全て再現してある。実際にその鍵が使用可能と確認された後、約束された多大な褒美と共に男は何処ぞへと消えていった。複製を作って消えたその男の現在の所在をアルフォンスは知らないが、エイブラムに任せた以上は特に気にしてはいない。その後をお任せてくださいとエイブラムが引き取る旨を発したと言う事は、所詮はその手の事に不慣れなアルフォンスよりも余程納得の行く形で決着が付くだろうと判断したからでもあった。数日後に近くの川から水死体が揚がったと言う話を聞いて、それに成程そういう顛末か、と一つ頷いたくらいのものである。
そうして様々に来るべき日の用意をしてはいたものの、父親のプライバシーをこのような形で暴く為に使用する事などしたくもなかったと言うのが本音ではあった。だが、この鍵も含めて使用する羽目になったのはその父親の所為でもあるのだと、そう自分を納得させて部下の手から鍵を受け取る。何度も言うが、迷っている暇など無いのだ。そして再び無言のまま、忠実な部下を連れて主不在の私室へと向かう。
「不思議なものだな」
「──何がですか?」
歩きながら、呟くように主が口にした言葉にエイブラムが尋ねた。アルフォンスの顔は無表情、先程鍵を受け取る間際の逡巡の際に見せた凝縮されたような苦悩の色はいつの間にか全く見受けられない。アルフォンスの何の感情も見受けられないその表情に、今から行う所業に対する心境と相俟ってエイブラムは少し寒気を覚えた。何しろ一介の雇われ兵士が、仮にも伯爵の部屋を家捜しするのだ。次期伯爵である主の許しがあるとは言え……事が露見すれば只では済まない、まず間違いなく牢行きは確定だろう。だが、それも何も問題が無ければの話だ。逆にそこで何か見てしまったならば極端に命の危険が跳ね上がる、恐らくは牢送りが楽園に見える程度には。今更ながらにその事が頭にちらつくが、エイブラムは軽く頭を振ってその想像を追い出した。彼ら自身の手で賽は振られてしまったのだ、今更四の五の言った処でどうしようもない。
「先程鍵を受け取るまで、正直な話だが私の思考は乱れに乱れていた。怪しげとは言え、母が亡くなった傷の癒えない父上の密やかな趣味を暴くなど、子として人として正しいのかと。伯爵と言う地位に付き、現在の風評はともあれ領土を安堵する辺境伯を確たる証拠も無しに疑い、挙句家探しまですると言う己は他人から見れば屍食鬼にも劣る畜生なのだろうな、などと。」
そう呟くように語るアルフォンスの表情は揺るがない、一様に無表情だった。少しの間両者の間に沈黙が訪れ、床を二人分の靴が規則正しく叩く音だけが廊下に響いた。
「だがな、鍵を受け取った瞬間それが何もかも吹き飛んだ。何と言えば良いのか判らぬが、この鍵の存在で千路に乱れた思考が一つに纏まったというべきなのか。私が今やらなければいけない事は、この鍵を使って扉を開く事であり、真実を開陳することだと。何かが己の中で据わった様な、腑に落ちた様なそんな気分だ」
「……旦那のその気持ちを簡単に言い表す便利な言葉がありますぜ」
思いも寄らぬ言葉に思わずアルフォンスは足を止めた。そして部下を振り返ると、当の部下は更に思いも寄らぬ表情を浮かべていた。エイブラムはこの状況下で、微かに笑っていたのである。
「何が、おかしい?」
「いえね、おかしいわけじゃあ無いんですよ。旦那、実際旦那のその心境は一言で済ませられる事なんです。ただ、こんな状況で誰にでも出来るってわけじゃあない。だから、思わず笑っちまったんですよ。旦那より歳だけ喰ってる癖に其処まで踏ん切りきれなかった挙句、先を越された俺に」
「この心持ちが何だと言うんだ」
「簡単な話です、それは『心根が据わった』って事ですよ。もう旦那は、旦那の判断を辺境伯にも俺にも委ねる事無く、他人ではなく自らに拠って立つ心が出来上がったって事ですよ」
「この心境が、か」
そんなに大層なものなのか、とアルフォンスはポツリと呟いた。確かに、今までの自分は重大な判断に対して父ならばどうするかと言う思考で判断を下していたと思う。だが、今はどうだろうか。辺境伯の私室を許可無しに検分し、暴く──これは今まで無かったほどの重大な決断だが、考えてみると己の才覚で判断したように思う。
そう、辺境伯である父の思考の追従ではなく、次代の辺境伯としての自らの思考で行動したのだ。その最後の決断が、鍵を受け取ったことだろう。少なくとも父であれば、その決断をしたかどうかわからないのだから。
「そうか、そうかもしれないな」
「もう一つ言わせて貰えばですね。おめでとうございます、『次期辺境伯閣下』。これで旦那は旦那だけの決意と旦那だけの決断を下しました。つまりは、独り立ちできたって事ですよ。これでいつ辺境伯の地位が廻ってきても、堂々と対処できるでしょうよ」
「そうか?自分ではそこほどまでに変わったとも思わないが」
「そんなもんですよ、だがそれが大事なんです」
部下の思いも寄らぬ祝福に一つ頷いて、再びアルフォンスは歩を進め始める。少し早足なのはご愛嬌だろう、そこまで面と向かって本心から褒められたことがないのだから。エイブラムも少し言葉が過ぎたかと反省する、彼も正直この先に待ち受けるかもしれない未来に中てられて冷静さを失っていたのだ。だが、己の雇い主の心根が据わった事で、これで彼の腹も据わった。もう動じることはあっても、揺らぐことは無いだろう。
「……着いたな」
そんな遣り取りも束の間、再び重苦しい空気が周囲を覆っていた。理由は言うまでも無い、目の前の扉である。上質のオーク材で作られ、簡素ながら品の良い彫刻が彫られたその辺境伯の私室への扉は、常はその品の良さを控えめに主張するだけであったが、今は何者も此処を潜る事なかれとでも言うかのように重厚な拒否の気配を漂わせていた。彼の精神が飛躍的成長を遂げたところで、それ以上に父は偉大だった証左だろう。寧ろ、成長したが為に逆に父親の偉大さを再確認したと言うべきかもしれない。
「どうします?」
「──聞くまでも無かろう」
部下の言葉に、硬直した手足が辛うじて動き始める。それは彼の見栄であり、そして責任感が原動力だった。上に立つ者は下の者に他人に屈服する素振りを見せる訳にはいかない。父の影を抜け出し、父の所業を調査すると言うこの時に及んでそれを今ほど実感した事は無かった。同時に、実感させられたことは無かった。
まるで何者かに試されているようだ、とアルフォンスは皮肉げに考える。聖書に於いて、神が己の指を現して王に権力の終わりを告げたと言うが、まさにその神の手によって動かされているようなそんな気分。そしてその神によって絶え間なく試練を与えられているような錯覚を覚える。
「尤も、私如きに試練を与えるほど神は暇ではないと思うがな」
「神、ですか?」
「いや、何でもない──開けるぞ」
心中の呟きがついつい口から洩れたらしい。怪訝な顔をした部下の表情でまるで凍り付いていたような自分の動きが、全く自由になっている事に密かに安堵の息を漏らし、ゆっくりと鍵穴に鍵を差し込み、廻す。
カチャリと微かな音が聞こえ、錠前が外れたことを確認したアルフォンスはエイブラムを振り返る。その視線に無言で頷きを返した部下を確認すると、音を立てないようにゆっくりと扉を開いた。そのまま中に滑り込み扉を閉める。
「……別段、普通の部屋ですな」
エイブラムの少し拍子抜けしたような声が部屋に響く。彼の言うように、部屋は全く普通の部屋であった。違いと言えば、アルフォンスの部屋と比べると少しばかり調度が豪華な位だろうか。それでも一般の貴族と比べれば充分質素と言える部屋である。
「それは当たり前だろう、此処には私もアンもエヴァも来るし、メイドが掃除しに来るんだ。早々おかしな部屋になっている訳もあるまいよ」
事実、彼は何度かこの執務室へと来た事があるが、部屋の内装も何もかもその時と変わらないものだ。執務机、ベッド、紅い絨毯に長椅子、本の詰まった本棚。そして『戦利品』の一つであるらしいアラブ風の甲冑と円月刀が飾られている場所を中心に、壁に様々な刀剣が飾られている。反対側の壁には、まだ母の──つまりは辺境伯の愛した亡き妻の肖像画が掛けられている。
「随分と、大事にしているようですな」
その肖像画をしみじみと見ていたエイブラムが呟いた。肖像画には傷一つ無く、まめに手入れをしているのが良く判る綺麗さだった。
「ああ、その肖像画は父上が自ら手入れをしている。いない間は誰一人として触ることが許されていない。執務で何かの失敗をしてもそうお怒りにならないが、この肖像画に僅かでも何かがあると──」
アルフォンスはそこで言葉を切った。溜息をついて頭を振るアルフォンスの様子と肖像画を見比べ、まさに額に触れようとしていたエイブラムの手が少しずつ下がり、そのまま垂れた。この一件が穏便に済んだという前提の話ではあるが、その肖像画の話を自分で体験するのは勘弁であった。
「ああ……やめときますわ」
「それが良いだろう」
どちらとも無しに溜息が洩れた、重い空気なのは間違いないのだが今の遣り取りで少しだけ空気が緩和されたと言おうか。その僅かながらの緊張感の抜けが、溜息と言う形で表に出たのだった。
「こいつは……貴族様にしては珍しいですな、天蓋無しのベッドとは」
エイブラムが見ているのは部屋の隅のほうに置かれているベッドだった、足や側面に細やかな彫刻が施してあるが、天蓋は無い。元々天蓋とは見栄えも去ることながら、元々は高すぎる天井から落ちる埃を避ける為の物だ。この部屋は天井が高い訳ではないので、天蓋を作らせなかったとアルフォンスは聞いていた。
「必要の無い天蓋など無意味だと父上は仰っていたが」
「ふむ……怪しいですな、下を調べてみましょうか」
「下を、か?」
「まあ可能性としてはかなり低いとは思いますがね、もしかすると何かが見つかるかもしれませんぜ」
そう言われてみると一概には否定できないものがある。どうせ、本命は地下である──上を探しても余り意味は無いと思うが、何らかの痕跡があるかもしれない。そう考え、アルフォンスはエイブラムの言葉を請ける事にした。それを受けてエイブラムが、ベッドの下を探る。
「どうだ、何かあったか?」
「俺の勘もそう鋭くは無かったようで……特に何も無かったですね」
「そうか……」
あっては困るからこその探索なのだが、無ければ無いで何となく気を殺がれるのは致し方ないことだろうか。見付かると覚悟しての行動の結果、まるで何も見付からぬ現状に毒気を抜かれたとも言える。しかし、本命を調べていない現状では気を抜くのはまだ早い。
「因みに本棚には何かあったか?」
「いえ、別段おかしな本はありませんでしたね。先程旦那が言ってました通り、何かがあったとしても眼に触れる場所には……無いでしょうね」
「確かにその通りか……執務机を調べて、何も無ければ研究室へ移動しよう」
「判りました」
そんな遣り取りを交わして、アルフォンスは執務机に近付いた。その執務机は辺境伯が使うにはふさわしい重厚さな存在感を放っており、一瞬触れるのに躊躇するがそれを押し殺す。色々と探したが特に不審な点は見当たらなかった。引き出しに鍵が掛かっている位だろうか。エイブラムに交代すると、流石は手馴れているらしくアルフォンスの半分以下の時間で調査を終えた。
「引き出しくらいですかね、見ていないのは」
「矢張り、そこか」
「そうですな、鍵は?」
「試したが開かなかった、別の鍵のようだな」
「……俺なら開ける事は出来ますが、どうしますか?」
アルフォンスはエイブラムの言葉の意味を正確に推察した。開ける事は出来る──つまり開ける事は出来ても鍵を掛けなおすことは出来ないと言うことだろう。それは即ち、この探索が露見することを示していた。だからこそのどうしますかと言う一言なのだろう。
「掛け直す事は出来ないのだな?」
「ええ……と言うより最悪鍵自体がイカれるかもしれませんからね」
そのままエイブラムが無言の内に眼で問い掛ける──開けてもいいのかと。それにアルフォンスは一瞬何かを考えるようにきつく眼を閉じ、そのまま頷いた。それを見届けて、エイブラムは鍵を開ける作業に移る。本当にいいのか、などと野暮なことは問わなかった事にアルフォンスは安堵を覚えた。正直もう一度そう聞かれて、同じ答えを出せる自信は無かった。
「──開きましたぜ」
数分だったろうか、それとも数秒だったのか。極度の緊張の為か、まるで時間が捩れている様な奇妙な感覚を覚えていたアルフォンスは、エイブラムの言葉で我に返った。
無言で場所を譲る部下を視線で労いながら、微かに開いている引き出しを見やる。別段おかしな所は無いはずなのだが陰に隠れた部分が、まるで底の無い闇のような錯覚を覚える。それに対抗するかのように、鋭く微かに呼気を吐き出し、その引き出しに手を差し入れる。そうすると、奥のほうに何か硬いものが触れた様な気がして期せずして体が震えた。刹那の間逡巡した後、無意識に眼を閉じてそれを掴み、手を引き抜く。
「本……ですかね?」
「みたいだな」
アルフォンスの手に握られていたのは一冊の本であった。厚手の本で、御大層にも鍵が掛かっている──どうやら日記帳のようだ。内容を封印する鍵を確認してアルフォンスはエイブラムに手渡した。此処まで来てしまえばもう後戻りは出来ない、エイブラムも今度は確認を取ることも無く開錠を試み始める。そして、今度は大した時間も掛けずに開いたらしくその本を手渡される。手渡された勢いのままにそのまま中身を捲って行く、が。
「なんだ、中身が無いぞ」
どの頁も白いままである、わざわざ鍵まで付けたは良いが、まだ使用していなかったと言うことなのだろうか。もしくはこれから付ける予定であったのかもしれない。
最大限警戒していた割には余りと言えば余りの結果に、思わず拍子抜けした彼はエイブラムへ無造作にその本を手渡す。この分だと、地下室を見ても大した問題を見つけることも無く終わりそうだがそれはそれで良い事だ、寧ろそうあって然るべきなのだから。
「ほう、見事に真っ白ですな……うん?」
エイブラムのペラペラと興味なさげに頁を繰る手が、訝しげな声と共にぴたりと止まった。そのまま吸い寄せられるかのようにそこを凝視している。アルフォンスも只ならぬ部下の様子に、緩んでいた気持ちを引き締め直した。エイブラムは何かを探し出そうとするかのように眼を見開き、真剣に頁のある一点を凝視している。
「どうした、何か見つけたか」
そう言いながら彼もそこを覗き込んだが、矢張り只の何も書かれていない頁にしか見えない。一体己の部下はその白い頁に何を見ているのだろうか。もう一度、エイブラムの視線を辿るようにして頁を見てみると、彼が凝視している部位を特定できた。そこを重点的に見てみるが、矢張り何があるわけではない。強いて言えばインクに汚れたのか、微かな紙魚が付いているくらいのものだろうか。
「……旦那、落ち着いて聞いてください」
「ああ、私は別段何も興奮している事は無いが──お前こそ、その有様はどうしたのだ」
人前では冷静沈着、アルフォンスと二人だけの時には皮肉げな何処か道化た男であるエイブラムがこれ程までに取り乱すことは見たことが無かった。そんな心境がそのまま口に出たのだが、エイブラムはそれに全く取り合わず──或いは気付いていないように言葉を続けた。
「旦那、これは紙魚ですな?」
「ああ、紙魚……だと思ったが」
「いいですか、落ち着いて聞いてください。恐らくこの頁を開いた上から何かを書いたのでしょうが──そのインクが下敷きにされていたこの頁に写っているんですわ」
「あ、ああ、それで?」
エイブラムの異様な態度に気圧されつつも、アルフォンスは頷いた。何か、嫌な予感がする。例えばそれは、躓く瞬間に覚えた何かの予感のようでもあり、父親の不可解な行動に対する漠然とした不安のようでもあった。そんな時に限って、この予感と言うのはそれなりの的中率を以て彼を救ってきたのだが──まさにそれと同等かそれ以上の何かを感じる。当たらずにいてくれ、と心底で彼は願う。その願いが叶えられないであろう事は薄々確信していたが。
「何かの予定を書いているようなのですがね……日付と、一言の備忘録のような記載が読み取れます」
文字の形も含めて全くその通りに転写しましょう、とエイブラムは傍らにあった羊皮紙に出来得る限り、自分の見たそのままの文字を書き連ねた。これです、と羊皮紙を見せられた瞬間、アルフォンスの全身に悪寒が走った。
「なんだ、これは……」
日付は明日、彼の可愛い妹の一人であり、父の溺愛するエヴァンジェリンの誕生日だ。そしてその下に辛うじて父であるヴァレンタイン卿の文字だとわかるレベルにまで崩された、と言うべきかまるで幼児退行を起こしたような文字が一言だけ書いてあった。
「えいえんの、ひ……?」
思わずその言葉を口に出してしまった彼は、頭の中で何かが繋がったような気がした。多大な戦利品と証する物体、末妹に異常な溺愛を注ぐヴァレンタイン卿、そしてそのエヴァの誕生日の日付けに書かれた『えいえんのひ』と言う言葉──とてつもなく手遅れな何かを感じ取った気がしたのだ。
「──旦那」
「ああ、覚悟しておけ……この分だと地下室には何があるか判らんぞ」
二人の目は期せずして同じ一点に注がれていた、つまりはこの部屋にあるもう一つの扉──地下への扉である。ゴクリと唾液を飲む音が聞こえたが、それがどちらから発されたのか互いに理解できない。それほどまでに彼らは動揺していた。
「行きます……かい?」
「行かざる……を得んだろう」
互いに顔を見合わせる、互いの眼に映る自分の顔は珍妙な表情であり、目の前の相手の顔も似たような表情だった。それは、恐怖。彼らの認識を、想像を超える理解できない何かに対する人の原初の感情の一つだった。
この部屋の扉を開いた鍵を出す。地下室の鍵とこの部屋の鍵は共用である事は、既に彼自身が父がその鍵を使って地下へ入っていく所を目撃している事で判っていた。暫く二人とも立ち尽くしていたが、先に動いたのは意外にもアルフォンスだった。一見壁の割れ目にしか見えぬ鍵穴に鍵を差込み、そこで逡巡してからゆっくりと廻し──部屋の扉より余程滑らかに鍵が廻ることに彼は驚いた。壁に偽装してある扉も同様にまるで滑る様に滑らかに開く、それが示す事はこの扉が使われる頻度が高いという証拠でもある。
開いた先は直ぐ地下へ続く階段だった。壁に照明器具があるわけでもなく、一、二段先はまるで闇に隠れて見えない。何もいるわけが無いことは重々判っているはずなのに、闇から何かに覗かれているような気がして二人の背筋が粟立った。
「……降りるぞ」
「……肝が据わってますね、先程までとは別人だ──お供しますよ」
エイブラムが用意していた簡易燭台に火を入れて地下へと足を踏み入れる。先頭にはエイブラム、いつの間にか片手には刃渡りの短い短剣を装備し、周囲を警戒しながら一歩一歩降りていく。燭台を持つのはアルフォンスだが、彼も背後を最大限に警戒しながら後ろに続いた。何しろ、いつ辺境伯が帰ってくるか判らないのだから。
二人とも階段を少し下りた処で、アルフォンスが中から扉を閉めるとガシャリという音と共に扉が閉錠された。どういう仕組みかは知らないが扉が閉まると同時に錠がかかるようになっているらしい。
「開け方わかりますか、旦那」
「いや、此方から見る限りでは暗い所為か鍵穴が見えん。まあ、最悪搬入口の方から抜ければ良い。そちらの鍵は持ってきているからな」
色々な状況を考えて念の為に向こうの鍵を持ってきたのが功を奏したらしい。用意と言う物はどこで役に立つかわからない、とこのような状況だがアルフォンスは見識を改めた。まさかとは思うが、これも必要になるようなことがなければいいが、と己の腰にある短剣を見る。アルフォンス自身はそれなりの剣の腕があるが、実践でそう役に立つかと言われれば疑問が残る。歴戦の兵からしてみれば、所詮は御座敷剣術と馬鹿にされても仕方の無いことだとは理解している。だからこそ自分の持つ兵は、育ちの良い騎士では無く野にいる者を積極的に取り入れているのだ。幾ら強力を誇り、剣術の冴えを自慢する騎士だろうと、野で常に戦の空気を感じて育っている戦士相手であれば赤子同然である。あまり理解はされないが、それがアルフォンス・マクダウェルの常の考えであった。
「どの道、降りて調べないと帰る事も出来ないわけですな。こりゃ気合入れますかね」
「そうだな、ある意味では我々の未練を断ち切るには丁度良かったかも知れんな」
互いに軽口を叩きあい精神状態を保ちながら、階段を下りていく。その様はまるで長年の戦友同士のようであった。
2──
「何処だ、大将たちは……!」
アルフォンス達が地下へと降りている頃に、邸内を慌しく走る影があった。短躯に革鎧を着けたままのその小男は、侍女達の奇異の視線にも気付かず必死の形相で駆け回る。彼こそは、エイブラムの部下でありスカウト技能を持った連絡役の一人だった。
「糞っ、こんなに早く戻ってくるなんて聞いてねぇぞ、向こうの連中は何してやがった!!」
小声で毒づきながら探し回る。彼らは今回狼煙を上げる事で連絡を取り合う方法を取っていた。第一区間から上がった狼煙を確認して第二区間が上げる──と言うのを繰り返すリレー方式だ。だが、この方法にも限度がある。情報がどうしても遅くなるのだ。伝令が走るよりは確かに早いのだが、急を要する内容にはどうしても早さが付いて行かない。通常この方式は、軍同士の伝令に適していた。軍とは集団行動の為、大きければ大きいほど錬度がどれだけ高くともある程度動きが鈍る。その遅さであれば、ある程度の速度を持つ狼煙による伝令は重宝されるのだ。
だが、今回はそれが仇となった、何しろ狼煙は雨に弱いのも然る事ながら湿気にも弱い。雨こそ降っていないものの、曇りがちな天候は湿気を含んでおり、狼煙が中々あがらなかったのだ。そうして連絡が遅れをとっている内に、遂に狼煙の色が変わったのだ。その色は赤、緊急の意味を持つ。そこで事態の深刻さを理解した彼の分隊は、部隊内で最も体重の軽い彼を伝令として直接飛ばすことに決めたのだった。体重の軽い乗り手であればあるほど馬の消耗が少なくなると言う観点からの抜擢は、果たして結果として正解だった。彼はまだ幾分か余裕がある状態で邸に辿り着く事が出来たのである。
「もう戻ってきちまうぜ……辺境伯が!」
辺境伯の帰還──その足音は、目前にまで迫っている。彼は焦っていた、己が間に合うか否かで二人の危機が回避されるか否かと言う状況なのである。彼は元々、スコットランドの農家の五男坊であった。折しも戦争によって男手が足りなくなった時、小柄な彼はこの冬を生き抜けない、生き抜けたとしてもその体格では大した役に立たない、と口減らしとして売られたのだった。売られた先は傭兵部隊、そこで彼はスカウトとしてのスキルを磨くこととなった。傭兵と言えど、戦争が無ければ野盗と名を変えて略奪により生きる様なごろつきに毛の生えたような場所だったが、腕を磨く事自体は比較的簡単だった。何しろ常にある程度の腕を保ちそれ以上の発展が無い者は、失敗や粛清で死んで行く。生き抜く為には、自然と腕を磨かざるを得なかったのである。
そうして数年を過ごした或る日、独りでも生きていける腕になったと考えた彼は、それを自らの腕で以て証明して部隊を逃げ出した。原因としては、彼は同期が死に絶えている中で未だに生き残る程に腕は立ったが、組織内での生存競争自体は上手くなかったと言う事に尽きた。組織に埋れて行く者は早晩消えるのは自明の理だが、組織と言う物の中で目立つ存在もまた消えていくと言う真理を彼は理解していなかった。よって、出る杭は叩かれると言う現象に気付いた時には既に人間関係も何もかもを包囲されており、何一つ身動きが取れないと言うどうしようもない状態であったのだった。だからこそ、彼は目を付けられていた幹部を暗殺して逃亡したのである。そうして色々な組織を転々としている最中に見つけたのが、エイブラムが率いる傭兵団だったのだ。今までで所属した団の中で最も長居をしているここは何しろ居心地が良かったと言うことに尽きる。大まかな枠さえはみ出さなければ、何も文句は言われないし、実力が高い者はそれ相応の待遇を貰える。最初の団は酷かった、何しろ基本的に団内の人間の区別が団長と側近とその他の駒、と言う扱いだった。それに比べて、此処は何にせよ初めて好きに生きていける集団であったのだ。
彼が入団し程無くして、団は辺境伯代理であるアルフォンスに丸ごと召抱えられた。辺境伯が戦争で度々不在になりがちな為だろうか、アルフォンスと言う男は使える者は何でも使い、そして重宝した。彼もまたその技能により重宝されることとなる事で、初めて権力者と言うものに己の力を最大限に使える場所を与えられ、その力の発揮を求められたのだった。それ以来、彼は柄にも無く感動しエイブラムとアルフォンスにだけはと忠誠を誓った。であるからこそ、彼は己の雇用主では無い辺境伯と言う存在を元から信用しておらず、単に雇用主であるアルフォンスの父親であると言うだけの存在として見ていた。そしてその視点のお陰で、幾つか見えたものもある。
「あの野郎、目がおかしいぜ……特に旦那の妹さんを見るときのあの眼は」
思い出しても怖気が走る、彼は辺境伯が帰還してきたときに実はその場に居たのだった。そして見た、アルフォンスの妹であるエヴァンジェリンを抱きしめたあの男の眼に宿った熱情を。あれは彼が何度も見てきた熱だった。戦場で、略奪の現場で、岩屋で、木陰で──つまり、ヴァレンタインにの眼に映った熱情とは。
「己の娘に懸想するってか、流石良い御身分じゃねぇか辺境伯サマはよ」
あの光景を思い出してそう呟く、彼は今までの経験上略奪に際して強姦に走る連中を見たことがあるし、無論の事だが自分も加わったこともある。あの眼の色はその連中と同じ色をした眼だった。正直あの場に他に誰も居ないのならば、そのまま欲情をぶちまけてもおかしくは無い様に見えたのだ。逆に他の存在を見る眼は驚いた事に平等だった。侍女も部下も己の息子も一様に同じ視線を以て視界に収め、誰に対しても立場による変化がなかった。最初は腐っても名君と言われているだけはある己の主君の父親かとも思ったが、直ぐに根本的に違うことを理解した。かの辺境伯にとって、全ては一様の価値なのだ。エイブラムも侍女も執事頭も兵士も、己の息子ですら。もしかしたら、麗しの双美姫の片割れであるエヴァンジェリンの姉のアンジェリカですらも同じなのかもしれない。詰まる所、辺境伯には既にエヴァンジェリンしか見えていないと言う結論を彼は戦慄を以って独自に叩き出したのだった。翌日、探索へ行く前のエイブラムに己の推測を話した際、エイブラムはいつも仲間内で見せる緩い表情とは一転して鋼のような表情で一言だけ、知っている、と呟いただけでだった。それが今更ながら言い様の無い不安を覚えさせていた。
邸内を走り回って彼は結論を出した、未だ二人は地下から帰還していないと。辺境伯の私室も覗いたがもぬけの殻だった、見つけたのは僅かにベッドを移動した跡と、鍵の壊れた執務机の引き出し、地下室の扉へ向かう彼のスキルを以てして判別できる程度に微かな二人分の足跡だった。何故か地下室の鍵は掛かった状態になっていたが、恐らく二人は地下にいると言う選択肢以外は存在しない──そう判断して彼はどうするべきか考える。事前に聞いていた話では恐らく帰りはこの部屋ではなく、森の中の所謂搬入口から戻ると言う話を聞いていた。他の痕跡はどうあれ、執務机の壊れた鍵はどうしようにもない、事が明るみになるのはそう遅くは無かろう。ならばそこで合流し、対策を練るのが最も現実的だろうか。そう考えて彼は外を見やる。外は日が陰り、既に光源が無ければ道の判別が難しい状態になっているが、幸い彼は夜目が利く。瞬く間に邸内から飛び出した彼は、そのまま宵闇の中を駆け出した。
3――
「お帰りなさいませ、ヴァレンタイン様」
「うむ……」
スカウトの男が宵闇を駆け出した数十分後、邸内は本来の主の帰還を迎えていた。老齢を思わせないピシリとした家令の出迎えに、重々しく頷いたヴァレンタインは何かを探すように視線を彷徨わせた。いつもであれば長男であるアルフォンスが共に出迎えるのだが、今日は姿が見えない事に少しいぶかしむ。
「アルフォンスはどうした?」
「アルフォンス様ですか?何でも今日は前々から予定していた会合があると言う事で、ヴァレンタイン様がお出になられた少々後にお出かけになられたようです」
「会合、な」
ヴァレンタインはそういった話を己が聞いていない事に、若干不審を覚えた。確かに息子は当主代行と言っても過言ではない権限を持ち、尚且つそれに見合う能力を示してきたが、その反面自らの出を必要以上に弁えている節があった。現在、この辺境領に関する全権はヴァレンタインが帰還した時点で彼の元に戻っている、であるならばそう言った会合の存在も彼が把握して然るべき内容である。そして、その手の報告を息子が欠かした事は無い。その事が疑問に残った。
「アルフォンス様も最近はとみに逞しくなられたご様子……次期の辺境伯としての貫禄も身に着いて来ている様であります」
そんな彼の心中を知って知らずか、まるで我がことのように褒めちぎる家令に、彼はやがて苦笑を漏らした。アルフォンスに次期の辺境伯としてその跡を継いで貰いたい、最もそう考えているのは他ならぬヴァレンタイン自身であるのだ。仔細はどうあれ息子は役目を果しているというのに、些細な事で疑惑の念に囚われるのは愚の骨頂と言えよう。そして、彼がいない間の領主代行はアルフォンスである。ヴァレンタインのいない間に決まった会合に代行であるアルフォンスが出席するのは筋としても真っ当なものであり、元来報告にしても事後で充分なものではある。
「私には特に報告も無かったが──」
「……恐れながら申し上げれば、昨晩は御二方共に冷静さを若干欠いていたと思われますので。伝わるべきことが伝わらず、伝えるべきことが伝えられない──そう言った事もあったのかと」
「……私に皮肉を言うのは過去を見てもいつもお前だけだな」
「恐縮の極み」
辺境伯へ掛ける言葉としてはこれ以上は無いほどに、ギリギリの歯に衣着せぬ物言いをサラリと吐く家令のすまし顔を見て彼は苦笑した。この年配の家令は彼と彼の父の二代に渡り仕えている譜代の者だ、他の者が言えぬ事もこの老人ならば言えると言うことも多々ある。ヴァレンタインとしても痛い腹を突かれた為、せめてもの反撃として言葉を返したが、それすらも深い礼とともに受け流すこの老人には敵わないと複雑な心境だった。
成程、確かに帰還して早々に互いに少し険悪に為り過ぎた様にも思う。あの状況で執務の話など行った所で互いに身になど入らないだろう。だが、彼にも譲れないものがあった。それを打ち明けられる者が誰もいないのは心苦しいが。
「愚考とは存じますが、この拙い身の経験から申し上げますれば、関係の修復は早ければ早い方が互いに利を生みますぞ」
「皮肉も過ぎれば不敬となるぞ?」
「皮肉などとんでも御座いませぬ。これは只の歳だけ無駄に喰った老い耄れの忠告で御座います。このような非才の身で辺境伯閣下に物申すなど……と言うものが本来の皮肉と言うもの御座いますかと」
「──全くお前には敵わんよ、アルフレッド」
そう言葉を返すのが辺境伯、ヴァレンタイン・マクダウェル卿の精一杯だった。それでも彼にとっては久方振り──本当に久方振りの心の休まる時だった。その安らいだ顔を見た家令のアルフレッドは、少しだけ微笑んだ。今でこそ何処かいつも苦悩を背負った表情が常態になってしまったが、エヴァと会話する時と今だけは、戦争が始まる前の彼の顔を見せていたからである。
アイルランド出身の貴族でありながらイングランドに仕えると言う一風変わった経歴を持ち、代々イングランド王国の中では外様の扱いであったガーフィールド家だが、その為し上げた功績は他のイングランドに連なる名だたる貴族に負けるとも劣らない。ヴァレンタイン卿が辺境伯として封じられて直ぐにこの戦争が始まり、最前線にて戦ったヴァレンタインは更にその武勲によって家名を上げた。
事ある毎にヴァレンタイン卿が次代の辺境伯となろうアルフォンスに言い聞かせた『命を惜しまず名を惜しめ、誉あっての真の貴族なり』と言う言葉は、過去の先人達と同じく己の手腕でのみその地位を築き上げた強烈な自負あっての発言であろう。それはヴァレンタインも先代から同じ事を、それこそ耳にタコが出来るレベルで言い聞かされていたのをその時からの家令であるアルフレッドは知っていた。
アイルランドと言うイングランドへの反抗勢力が犇く土地を時には寛容時には冷徹な血を以て統治し、国外では戦に明け暮れた己の主にとって病弱だが当代随一と謳われる美貌を持つ美しい夫人と、その子供達こそが何よりの宝であり文字通り心の支えであったと言うのは、彼でなくともこの家に仕えているものの中では周知の事実である。そしてヴァレンタインにとって何よりもそれらを失うことが恐ろしかった事も。だからこそ珍しいものを見る機会もまた多い戦地にて、時が時であれば異端と言われるであろう民間の伝承や、商人が持ち込む如何にも胡散臭い物にも大枚を叩いて購入し、持ち帰ったのだろう。そのヴァレンタインの当時の心持ちを偲ぶだけでも、幼い頃から彼を知るアルフレッドは痛ましい気持ちになる。
万病を癒すと言う薬草を進軍先で流行り病で壊滅しかかっていた村の薬師と名乗る物から譲り受けた──万病に効くならば何故その者の村は滅んだのだ?
ある遺跡で発見された、長命と繁栄を約束する像をこれ見よがしに持ち込んできた商人から大枚を叩いて購入した──繁栄を約束された神像を持っていたその遺跡は、何故遺跡と化した?
一つ一つ考えていけば全くの紛い物であることは直ぐに知れるものばかりだったが、辺境伯は妻の体調が回復する可能性が露程でもあるならばと金に糸目をつけず、時には膝すら折って手に入れてきたのだ。その甲斐あったのか何とか無事に跡目を継ぐ長男と、更なる栄達への足がかりとなるであろう娘と言う二人の子供を出産した辺境伯夫人は、更に三人目の子供をも孕む事となる。あの時は夫婦共にこれぞ神の加護であると大喜びしていたのをアルフレッドは覚えている。あの頃がこのマクダウェルの邸が彼の知る中で最も活気に溢れ、輝いていた時であった。だが、得てして喜びとは長くは続かないものである。
ヴァレンタインがアジャンクールへ遠征出兵している間に辺境伯夫人は産気立ち、無事に女児を出産したが産後の経過が悪く、衰弱したまま三日後に息を引き取った。その報告を戦地で受けた辺境伯はその日一日何も言葉を発さず、何も飲み食いしなかったと供に付いていた配下は暗い顔でそう語っていたと言う。
そして、帰還してからの辺境伯の狂乱振りは見るに耐えなかった。何しろ、自身の持てる限りを尽くした筈の全てが無駄だったからである。そしてそれに納得できるほど辺境伯は達観の極みには至っていなかった。アルフレッドも何度か辺境伯を諌めたが、彼の言葉を以てしても辺境伯には届かなかったのだ。
稀に帰還しても研究室と称した地下に閉じこもり、自らの家族にすら教えない研究を繰り返す日々。だが、日々が進むにつれて少しだけその傾向が薄まった、それがエヴァンジェリンである。元々妻の命と引き換えに生まれたエヴァンジェリンを、まるで亡き妻の生まれ変わりの如く特別視する傾向にはあったが、エヴァンジェリンが成長し類稀な美しさを年々発揮するにつれて辺境伯の偏愛振りも激しくなった。それと引き換えするかのように奇行が収まり、研究室に閉じこもることも少なくなっていったのだ。その事に他の者はそれに安易に安堵の息を吐いていたが、アルフレッドだけは逆に危機感を覚えていた──愛妻を失うかもしれない焦燥感による形振り構わない行動は、愛妻を失ったことで狂気へと変じて奇行へと走っていった。その狂気のよる奇行が鳴りを潜めたのはエヴァンジェリンと言う愛娘のお陰であると、辺境伯臣下は思っているが彼はこう思っていた。狂気による奇行が、狂気による偏愛に移っただけなのではないか、と。
ならば、何時その偏愛が狂愛へと変じてもおかしくは無いと。
だからこそ、エヴァンジェリンの存在を抜きにして安息の表情を見せる辺境伯の姿に、彼は心から安堵したのだ。このままその狂気が癒されていくのであれば、何時自分の役割を終えてもいいと。だから彼は、次の言葉に不用意に返事をしてしまったのだ。
「ところでアルフレッド、私のエヴァは明日で十歳となるのだったか」
「ええ、そうですな。益々お美しくなっておられます、アンジェリカ様もよく亡き奥方様の面影を継いでおられますが、エヴァンジェリン様はまさに生き写しと言っても良いでしょうな」
「そうだな……そうか、明日か明日が──」
「……ヴァレンタイン様?」
瞬時に彼は、自らの言葉に心の底から後悔する。最もその狂気を理解し警戒していた筈の自らの手で、ヴァレンタインの狂気の引鉄を引いてしまった事に。
ヴァレンタインの眼は、狂気に彩られていた。廊下を歩む彼のその後姿は、アルフレッドをして魔王と言わしめそうな鬼気を放っている。そして、彼はこの場に最も居て欲しくなかった人物を発見してしまったのだ。
「なんと……拍子の悪い」
思わずアルフレッドが口中で呟いたのも無理はないだろう。彼らの行く手にある庭園には、マクダウェル家の双美姫の片割れ、エヴァンジェリンが遊んでいたのだから。
「あ、おとうさま!」
エヴァは背後に薄らと寒気を感じて振り返った、その寒気は先日からと同じもの──敬愛する兄とその部下が言っていた父の纏う戦場の覇気なる物だ。だから後ろに居るのが彼女の大好きな父親であると言う確信を持ったのだ。そしてその予想は当たっていた。
「おお、エヴァ。今日も体の調子が良いのかね?」
「はい、なんだかきのうからずっとちょうしがいいのです」
きっとおとうさまがかえってきてくださったので、からだがよろこんでいるのです!と息巻くエヴァにヴァレンタインは一層表情を崩した。その後ろには家令のアルフレッドが控えている、その眼が何かを訴えているような気がしたがエヴァには理解できなかった。
「ははは、そうお前に言われるだけでも生きて返ってきた甲斐があると言うものだ。」
心底愉快そうなヴァレンタインにエヴァも釣られて笑みが洩れる。控えめに言っても美しいその姿にヴァレンタインの笑いは留まる所を知らない。エヴァは気付いていないのかもしれないが、アルフレッドの耳にはその笑いが常軌を逸しているように聞こえた。
「本当にお前は可愛らしいな、エヴァよ──それが」
永久に続けば良いのにな?そう続けたヴァレンタインの声にエヴァが身体を震わせた。何か一瞬いつも以上の寒気を感じた気がしたのだ。だが、ほんの一瞬だった所為で只の勘違いだったのかと思ってしまう。目の前の父は未だに愉快そうな顔をしているのだし、何も心配は要らないのだろう。だって兄も心配要らないと言っていたのだ。辺境伯である父とその後継者である兄、優しい姉に逞しい兄の部下のエイブラムとその気さくな部下達、そして規律正しいアルフレッドを筆頭とする家臣達に父と戦場を共にする騎士団──それらがいれば確かに悪霊如き退治してしまいそうな気がするのだから。対してアルフレッドは身体を強張らせた、己の主人を包む狂気の度合いが一気に濃くなったような錯覚に囚われたのだから。
「どうした、エヴァ。寒いのか?」
エヴァが震えたのを見て取ったのだろうヴァレンタインが気遣う声を掛ける。だが、エヴァはそれに首を振って応えた。
「だいじょうぶです、おとうさま。エヴァはげんきですのよ」
「そうか良かった……お前は母親に似て体が弱い、無理をしてはいけんぞ」
「はい、おとうさま!」
身体を心配するヴァレンタインの表情を見たアルフレッドは安堵した、何故ならば、先程の狂気は何処へやら、辺境伯の表情は正しく親の顔だったのだから。そうして立ち去ろうとしたヴァレンタインに、アルフレッドは心底安堵した。彼は亡き奥方に頼まれていた──子供達を宜しく頼むと。奥方が主人である辺境伯に託せなかった末期の想いを代わりに託された者として、彼は何が子供達に何があろうとも万難を排する心算でいた。それが例え自らの主人であったとしてもだ。だが、運命は悲劇を望んでいたのだろう。
「おとうさま……その、きょうも『けんきゅうしつ』においきになるのですか?」
その、エヴァの言葉によって三者が三様の反応を示した。ヴァレンタインは足を止めた──その姿に言いようの無い不安を覚えたアルフレッドは思わずエヴァを振り返る。エヴァはその視線を受けて、自分が何か悪い事をしたのかと体を強張らせた。ただエヴァは、殆ど帰ってこない父親に少しでも相手をして欲しかったのだ。明日で十歳になるプレゼントなんていらないから、ただ相手をして欲しかったのだ。
「……『研究室』か。そうだな研究が大詰めなのだが、今日は研究室に行くのは止めておこうか」
「ほんとうですか、おとうさま?」
「ああ、最近お前の相手をしてやれていなかったからな。誕生日の前祝だ、何か欲しいものはあるか?」
こうしてみる分には辺境伯は、立派に父親としての役割を果しているように思えるのだが、先程とはまるで雰囲気が異なっていた。彼は、ことエヴァに関してのみ、主である辺境伯の行動を素直に受け取ることを止めるべきかと考えた。
でなければ、父と娘の交流と言う微笑ましい筈のこの光景がどうして彼の背筋に悪寒を注ぎ込むなどということになるだろうか。そんな素振りなど全く無いが、己の主人の人皮を被った得体の知れない何かが舌なめずりをしながら己の主人の娘と戯れていると言う強迫観念にも似た妄想が頭から振り払えなかった。
「ほしい……もの、ですか?」
「そうだ、お前が欲しいものだよ、エヴァ」
「おとうさまがいてくれるなら、とくにはありません!」
その言葉に眼を一瞬見開いた辺境伯は、ついでゆっくりと眼を細めた。あれは喜悦の色だ、辺境伯の細めた眼の奥にぼんやりと宿った光をアルフレッドはそう判断した。それを確認して、彼はもう手遅れだと漠然と感じた。何が手遅れなのかはわからないが、今のエヴァンジェリンの言葉が押してはいけないスイッチを入れてしまった事──それだけは理解できたのだ。
「ヴァレンタイン様、そろそろ夜も更けます。エヴァンジェリン様のお体の為にも──」
無駄と知りつつも、彼は足掻いた。先程までの己の主との会話を信じて、あのときに見せた安らぎの表情に賭けて。その言葉に一瞬動きを止めたヴァレンタインは、わかっていると短く告げた後、エヴァの耳元で何かを囁いた。その囁きにエヴァの顔が輝いていく。
「ほんとうですか、おとうさま?」
「ああ、嘘は吐かないよ、私のエヴァ。だからそろそろお戻り、心配性のアルフレッドから私が怒られてしまう」
「わかりました、おとうさま!」
何を囁かれたのか、見違えるように元気になったエヴァは、彼女の家庭教師が見たならば驚愕するであろう位の優雅なお辞儀をして部屋へと戻っていった。まるで跳ねる様なステップで。それを見やって再び彼は己の自室へと歩みを再開した。
「ヴァレンタイン様、エヴァンジェリン様に一体何をお話になられたので?」
「大したことではない」
「そうですか、しかし随分なはしゃぎ様ですな……この老体、益々知りたくなってまいりました」
廊下を歩みながら感情を逆撫でしないように聞き出そうと、アルフレッドが食い下がる。あの状況下から出てきた言葉なのだ、一体何を囁いたのか把握しておくことに越したことは無い。それに何故かは判らないが、今此処が分水嶺だと彼は理解していた。此処で適切な行動を彼が取れるか取れないかで、直に訪れるであろう結末が大きく変わると。
「随分と気にかかるようだな、私の言葉が」
「──ええ、それは。あのエヴァンジェリン様が一言で素直になられる言葉ですからな。今後の参考に出来ればと」
少し露骨過ぎたか、と彼は警戒した。焦りの余りに踏み入りすぎたのかと。それがほんの少しの沈黙に繋がったのだ。だが、彼とてマクダウェル家に二代に渡って仕えた存在、表情になど全く出さずに話を繋げる。実際にエヴァは病弱と言えど我儘の盛りな年頃だ、我儘と言ってもそう酷い物でもないが、寒空の外に出て中々部屋に入ろうとしないなどの良くある小さい我儘はある。そういう時に効く一言は重要ではあると言う建前は実際に存在するのだ。
「アルフレッド、お前は確かに私の父の代から仕える忠義の者だ。だが、あくまで私の家臣であることを忘れるでないぞ」
ヴァレンタインの口から出た言葉は、口調こそ柔らかいが明確な拒否と警告だった。簡潔に言えば、出過ぎるなと勧告されたの等しい。限りなく直接的に近いその言葉に、それ以上は何も言えずアルフレッドは無言で頭を下げる。そんな彼にヴァレンタインは控えろと手を振ることで己の意思を表した。それを受けてアルフレッドは去らざるを得なかった。
「ふん、アルフレッドめ……何を企んでおる」
去って行く老家令を見やりながら、ヴァレンタインは独りごちた。ついぞ信用できる者がいなくなったかと考えて、そんな思考に至った己を哂う。信用など彼の目的には必要なものではない、あれば便利な程度のものである。彼の目的さえ果すことが出来ればこの世の全ては彼にとって用のないものとなるのだから。
良心──などと言う者があるとすればの話だが、その呵責からなのだろうか、以前は頻繁に彼を咎めるような幻聴が己の声で聞こえていたのだが今ではそれもすっかりと収まった。幻聴が聞こえると頭の中がまるで二つに分裂したかのような苦痛とそれ以上の苛立ちを感じるのだ。その幻聴は最近では戦場ですら彼を苦しめ、その発散は全て敵のフランス兵へと向かうこととなった。幾つもの死骸を踏み越えて憎きフランスの尖兵共を斬り倒す度に心は晴れやかに、血潮を浴びる程に頭の中がすっきりとする様な感覚を得ていた。そうして気付けばいつの間にか、幻聴が遠退いて行ったのだ。それがどう言う事かはヴァレンタインには解らない、だがあの拭い難い苦しみが遠退く事で精神の平静は得られたのだから素晴らしい事に違いない。この境地に至って漸く、あの雲霞の如きフランス兵共の存在にも一つの意味があったと素直に理解出来るようになった。
「……よくよく考えてみれば、少々平静を欠いていたな」
部屋の鍵を開けながらヴァレンタインは、ふと呟いた。思えばアルフレッドとは長きに渡る付き合いである。先代からの直臣である彼の発する言葉は金言とすら言える程の貴重な男だ、己の大人気無さで失うには惜しい存在でもある。冷静な眼で見るにつけ、矢張り己の浅慮さが浮き出してくるのは否めない。
「年の所為、なのかもな」
思えば、生き急いで来た。伝来の地を護り、誇りを護り、領民を護って来た。その結果、愛しても愛し足りぬ程の女と出会い、まだ甘いが珠になる事は確実であろう後継者に、手中の宝珠足る二人の愛娘もいる。愛した女は儚くなってしまったが、それを生き写したかの様な娘がいたお陰で辛うじて体裁を保って生きる事も出来た。アルフォンスには己の研究の所為で迷惑を掛けてしまっている自覚はあるが、明日の祝うべき祝祭の日にはきっと分かってくれる筈だ。
その時には、きっと真に親子は、親娘は、分かり合える。
そして永遠不滅の一家として、このガーフィールドを、誇るべきガーフィールドを支えて行くのだ。
その通りだと、脳内で囁く声が聞こえた気がする。今まで意見を違えた己の内心すら、どうやら賛同を表す様で有る。きっと何もかも上手く行く、何もかも。
「明日よ、善い日であれ」
そう呟いて、そうして日も落ちて暗い部屋へと入って行く──いつの間にか手に持っていた濡れた光沢を持つ装丁の一冊の本を手に、闇の顎の如き暗い昏い部屋の中へ。
その様はまるで、何かの腹に収まる餌の様にも見えた。
そして、深夜、悲鳴と共に幕が上がる。