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初夜


「善悪において一個の創造者になろうとするものは、まず破壊者でなければならない。そして、一切の価値を粉砕せねばならない」 

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ







1──


「おとうさま!」


「おお、元気にしてたかね。私のエヴァや?」


「はい、エヴァはいい子にしてました!」


「そうかそうか……」


イングランド貴族として長き軍務から数ヶ月ぶりに解き放たれ邸宅へ帰ることが出来たヴァレンタインを出迎えたのは、彼の次女であるエヴァンジェリンだった。久々の再会の喜びを抑え切れない、といった態で彼を出迎える今年十歳となる愛娘の輝かんばかりの笑顔に、ヴァレンタインは己の目尻が緩んでいくのを止められなかった。


美しく……本当に美しくなった──彼は幼い娘を見やってつくづくそう思った。長い白金を束ねたような色合いの髪は陽光を反射して控えめに輝き、その人形にも似た端正な顔立ちは早く夭折した彼の妻に似た面影も然ることながら、見る度にそれに増して何かが彼の胸を掻き立てる。長女のアンジェリカも妻に似た面立ちの美少女であるが、此処までの狂おしいほどの気持ちを抱いたことは無かったように思う。いや、無かったと断言できる。


その美貌をして将来を嘱望されているエヴァは、国内貴族からの婚礼の話も多々ある中で、内々でだが王宮へ参内することが既に決まっていた。その歳をして貴族の子女としてはそれなり以上の栄華を約束されていた少女は、そのあどけない年頃が故に美しさと可憐さを同居させた顔をヴァレンタインの目の前で綻ばせている。


「父上、お帰りですか」


「ああ、アルフォンスか」


愛娘の相手をしていたヴァレンタインは、掛けられた言葉に背後を見やった。足早にこちらに向かってくるのはエヴァと同じく白金の髪をした美丈夫であり、次期ガーフィールド辺境伯である嫡男のアルフォンスである。察するにヴァレンタインの帰還を聞き付け、執務を一時中断して駆けつけたという事であろう。この全く以て終わる様子の見えない戦争で伸し上った身の上としては、戦乱に対して党首自らが戦地へと向かう事で王陛下に忠誠を見せ付ける必要があった。戦時により身を立てた武功貴族においては致し方の無い選択であり、当然の流れであるがその間の辺境伯代理としての仕事は殆ど息子に預ける羽目と成っていた。本来ならばヴァレンタイン・ガーフィールドが行うはずの執務を、その若さで見事に切り回す息子であるアルフォンス・ガーフィールドは中々に家臣からの評判もいいようである。これで重要な案件を己で処理できるようになりさえすれば、己の居る間の通常の執務も全て任せてしまって隠居してもいいかも知れない、とも心中でヴァレンタインは考えていた。


何よりもそうすれば、己の研究にも没頭できるだろう。だが、それもこれもまずはこの戦争に勝ち抜いてからの話になるのだが。


ちらりとヴァレンタインの脳裏にそんな思考が掠める。


「まずは、無事の御帰還おめでとうございます」


「無事な帰還の代わりに、戦功も碌に無いがな」


「戦局は未だ混乱の極みですか」


「……もう少し早くヘンリー様が生まれていてくれれば、な」


後の世に於いて百年戦争と呼ばれたこの戦いの火種は、ヴァレンタインの時代から実に百年以上前に遡る。始まりは、十人が十人皆認めるであろうイングランドに於ける最低にして最悪の愚王、プランジネッタ朝三代ジョン失地王による度重なる失策を発端とした。元々、ジョン失地王の父であるヘンリー二世はイングランド王にしてフランスの封建領主アンジュー公を兼ね、フランス王をも上回る広大な領土の持ち主であった。しかしそれにも拘らず、失地王は度重なる愚策とフィリップ尊厳王の煽動と策略により時には教皇すら敵に回して大陸を暴れまわり挙句に彼は諸侯にも民衆にすらも見捨てられる。


ようやく和解した教皇の権力を使って復権を図ったジョンを諸侯は当の昔に見放しており、当時のフランス王太子ルイ──後のフランス王ルイ八世を王に推挙する有様である。失地王が病死しなければ、確実にイングランドと言う国は今頃存在しなかったであろうことは間違いなく、大陸に残った最後の領地はキュイエンヌ領のみ。しかもそれもフランス王ルイ九世──聖王ルイにヘンリー三世が、フランスの封建領主として臣従した結果安堵された領地と言う情けない話であった。その為、イングランド王国は長い間常にフランスからの介入を受け続け、それに反抗すると言う云わば臥薪嘗胆の日々を続けていたのだった。


その五十年ほど後、長きに渡り続いてきたフランス王朝の血統がシャルル四世の死去により途絶え、フランスは王位継承者を失うと言う事態となった。それに乗じた当時のイングランド王エドワード三世は、エドワードの母親がシャルル四世の妹と言う事を前面に押し出して王位継承権を主張したが、当たり前ではあるがフランス諸侯の同意を得ることが出来ずに失敗する。最後には渋々とエドワード三世は臣従を認めたが、間違いなくこれで両者の間にこれまで以上の亀裂が走ったことは想像に難くない。


それと同時期に、フランスは度重なるフランドル都市同盟による反乱と金羊毛の戦いに敗戦したことで、元々親イングランドであったフランドルを独立せざるを得なくなる。この出来事はフランス内で元々悪かった対イングランド感情を更に悪化させた。イングランドもイングランドで王朝設立時の問題を引き摺ってスコットランドと長年争い続けていた。


そこに事態の打開者として登場したのがガーフィールド家である。当時スコットランドの一貴族であったガーフィールド家当主アドルファス・ガーフィールドは、故国スコットランドに先が無いことを見通し、イングランドへ内通して内部瓦解工作へと励んだのだ。その際の出来事は今でも口伝として、代々当主に語り継がれている。


結果、スコットランドは獅子身中の虫と外部からの攻勢に破れ、イングランドは傀儡の王を立てることに成功する。だが、スコットランド前王は隙を見てフランスへと逃げ込む事態へと発展。無論フランスはイングランドの引渡し要求を端から拒否し、イングランドはその意趣返しにと謀反人としてフランスから逃亡していたロベール四世をリッチモンド伯として庇護した。この出来事を以てして、長年軋轢を生んできた両国は遂にに緊張の最頂点を迎える。そうしてこの終わりの見えない泥沼の戦いの火蓋が切って落とされたのだった。


初めに行動したのはイングランド、独立都市と言えどフランスの影響下にあるフランドルに対して羊毛の輸出を一切取りやめたことだった。それにより毛織物に頼っていたフランドルの経済は大打撃を受け、元々只のフランスの傀儡だったフランドル伯は親イングランドの民衆によってあっさりと追放され、フランドルはイングランドへと忠誠を誓うこととなる。これによりイングランドはまずは緒戦の勝利を収める事となる。だがそこから先は、海でイングランドが勝てば陸でフランスが勝つと言う見事な一進一退の泥仕合になり、両者共に疲弊した国力の回復する為に二年間の休戦を挟むことになる。そして、そこからまたイングランドが本領を発揮する事となる。


休戦中にブルターニュ公の継承問題が勃発しフランスが平定に時間を掛けている間に、休戦期間が終わったイングランドはまんまと上陸を成功。フランスはイングランド王の上陸を許す事となる。この時に新参のイングランド貴族としての真価を問われたガーフィールド家は、見事イングランド王上陸の露払いを務め上げ己の真価を存分に見せつけた、と当時の当主の日記に書かれている。結局ローマ教皇による仲裁により継承問題は何とか解決に向かったが、イングランドはフランスに対する前線と言う足がかりを得た、事実上の勝利だった。


ここからノルマンディに上陸したイングランド王軍は凄まじい勢いで勝ち戦に邁進することとなる。フランス王軍を撃退し続け一時はフランス王を慮兵にまでするなどしたが、その後は結局互いに睨み合いとなった。そんな中、戦費を計上する為の人頭税に対するワット・タイラーの反乱がイングランド国内で勃発、国王と議会派諸侯が対立すると言う戦争にかまける余裕がない状態へとなり、イングランドは休戦をはさまざるを得ないこととなる。流行り病による当主交代で当時まだ家を継いだばかりであった若きガーフィールド家当主であるヴァレンタインは、この内紛を己の足掛かりとするべく家系に脈々と継がれていた機を見る眼により議会派の主流に入り込み、国王の逮捕に一役買ったことで辺境伯として地位を独力で奪い取ることとなる。これがイングランド王国貴族ガーフィールド男爵家が、イングランド王国貴族ガーフィールド辺境伯家へと生まれ変わった瞬間だった。


一方、フランスもフランスで見事に内乱で荒れていた。何しろ幼少時のフランス国王シャルル六世の後見人集団が、主にブルゴーニュ公を中心として専横を続け、圧政を敷いた結果、国力が急下降していたのだ。それを見かねた当のシャルル六世が親政を宣言し、オルレアン公などの支持を得て専横の輩の排除に乗りだす。だが、なんとその最中に当のシャルル六世が突然精神錯乱により発狂。淫乱王妃との異名を持つ、王妃イザボーの愛人であったオルレアン公が一時権力を握ることとなるのだ。だが、オルレアン公ルイは、ブルゴーニュ公により暗殺されオルレアン派は衰退する。だが、オルレアン公を継いだシャルルが今度はアルマニャック公と結び、今度はアルマニャック派としてブルゴーニュ派と対抗すると言う此方も泥仕合の態を見せ始める。


その機に乗じてアルマニャック派と結んだ、彼の敬愛するイングランドは瞬く間にノルマンディから再び上陸、その間に王が代変わりした際に今度はブルゴーニュ派と結んで更に進軍した。アルマニャック派のシャルルは兵力差四倍以上の兵で立ち向かったが見事に完敗し、虜囚となる。そうしてイングランドは遂にノルマンディ一帯を征服することとなったのだ。


そんな中、ブルゴーニュ公で親イングランドであったブルゴーニュ公は、かの淫乱王妃イザボーと結託して王太子シャルルを追い出すと言うお家騒動を仕掛けたことでイングランドの勢いに拍車を掛けた。流石にブルゴーニュ公のお膝元であるポントワーズが略奪される節となってシャルルと和解を試みたらしいが、怒りに燃えるシャルルにそんな声は一切届かず、文字通り一刀の元に斬って捨てられたと聞く。そのお陰で、次代のブルターニュ公はイングランドと結託し、アングロ・ブルキーニョン同盟を結ぶこととなる。


そして止めがトロワ条約だった。シャルルの廃嫡を認めるこの条約は、ブルゴーニュ公がシャルル六世の王位をその終生まで認めることとし、シャルル六世の娘カトリーヌとヘンリー六世の婚姻によって、ヘンリー五世をフランス王の継承者とするものである。早い話が事実上、イングランド・フランス連合王国を実現するイングランドの悲願が実現するものだったのだ。


だが、この栄華絶頂も長く続かなかった。イングランド国王ヘンリー五世の死がその引き金となったかのように、発狂して既に形だけの王であったシャルル六世も死去。条約を施行しようにも施行する前提条件の人間が死去してしまったのだ。王太子シャルルはシャルル七世を名乗りアルマニャック派と共に徹底抗戦を続け、イングランド王の跡を継いだヘンリー六世は生まれたばかりの赤子であるという有様の現在、また何が起こってもおかしくはない。どのように天秤が触れてもおかしくない、まるで先行きの見えない混沌とした情勢なのだ。


「アンジェリカはどうした」


「ええ、珍しいことに軽くですが熱を出しまして、伏せっております。今は寝ている処でして」


「ならば起こさぬほうが良かろうな。エヴァもアンジェほどに元気な娘であれば……病弱な部分までアレに似ずとも良かろうに」


その言葉にアルフォンスは何も言わなかった。一瞬だが、ヴァレンタインの表情が自らの言葉で翳ったの事に気付いたからなのかもしれない。長女アンジェリカもまた、次女であり末妹であるエヴァンジェリンと同様に母親によく似た面影を持つ。普段は至って元気な娘だが、今日に限って熱で伏せっていると言うのは遠征から帰った彼にとっては気の晴れる話ではないことは確かだ。だが、アンジェリカとは逆にエヴァンジェリンは母親の病弱な部分すらも受け継いでしまっているが、今日に限って元気だと言う。これは余り邸にいられない彼にとって、かなり幸運の内に入る話であった。


「──処で父上、あれは何でしょうか」


「あれ、とはなんのことだ?」


「父上とは別で戻ってきた品々です、検閲に対して父上の名前を出したと聞いております」


「……戦利品のようなものだ」


「あの『塩漬け肉』とやらがでしょうか?」


息子の的確な指摘に、彼の極力無表情を貫いていた表情が微かに揺らいだ。確かに塩漬け肉が戦利品と言うのは、常識的に考えて如何にもおかしな話である。息子の疑問も全くおかしなものではない。だが、アルフォンスが言いたいことはそういうことではないだろう。言わば、これは後に続く言葉に対する前振りの様な物だ。それを理解しているからこそのヴァレンタインの鉄の表情の揺らぎだった。


戦場から帰った筈が、息子の不穏な感情の含まれた言葉にある意味ではもっと面倒な会話の戦争が始まることを予期してヴァレンタインは内心を硬化させる。先にこの結末を予想していれば現地調達した糧秣などと幾らでも言い換えもできようが、事此処に至って言い繕う事は難しいだろう。息子は己の研究に対して理解を示していないのは元からの話であり、行い自体が確かに正道の物ではない事など当に承知している。だからといって余計な手間と確執を深めたい訳など在る筈も無く、偏に先行させた部下に知恵をつけておかなかったことが悔やんだ。しかし、現状どの道後の祭りではある。ヴァレンタインの内心の思考を読み取ったかの如く、アルフォンスの表情が見る見るうちに暗くなっていき、遂には暗いと表現できる色になった辺りで鉛の様な声と共に口が開かれた。


「父上……またですか」


「……」


「父上のご趣味に口を挟む謂れはありませんが、家臣達からもおかしな噂が立ちかねませぬ。少しご自重を──」


「アルフォンス、そのような妄言を触れ回るものが私の家臣にいると申すか。ならばその佞言吐き出す奸臣など、直接斬って捨てようではないか」


「父上!」


半分本気、半分演技で激昂するしたかの如くヴァレンタインが剣の柄に手を伸ばすのを、アルフォンスが必死に押し留める。それを見て如何にもしぶしぶとと言った風情で鼻を鳴らし、ヴァレンタインは剣から手を離した。どうやら息子はまだ腹芸を見抜く程には眼が鍛えられていないらしい事に感謝すべきか、それとも修練が足りないと嘆くべきか、と内心で苦笑いをするヴァレンタインはやはり人の親だった。何にせよ憤懣致し方ない様子で周りを見やるとエヴァや御付の侍女が怯えているのが見え、彼は多少眉を顰めた。侍女の感情などどうでもいいが、愛娘に怯えられるのは彼の本意では断じて有り得ないのだ。


「おとうさま……?」


「エヴァや、ここは冷える。ほら中に入っておいで?」


「あ、はい」


未だ顔が青い気が利かない侍女に軽く睨みをくれてやると、侍女はエヴァを少し過剰なほど急き立てるようにして邸内へ戻っていく。あの侍女の今後を考えなければ成らないな、と彼は思った。只でさえ体の弱い彼の娘を、こうも長い間寒空の中に立たせておく時点で御付としては失格であろう、これが原因で体調を崩そうものなら首でも刎ねてくれようか──などと考えつつ、彼は己の息子にこう告げた。


「アルフォンスよ、私は誰だ?」


「……ヴァレンタイン・ガーフィールド辺境伯閣下です」


「そうだ、それが私の名であり、私の立場だ。それが判らん連中には、今一度私の名前を良く思い出すように伝えておけ……無い事を祈るがな。後、『塩漬け肉』は私の研究室に運んでおけ──判ったな」


「……はい、父上」


髪に隠れて目が見えない為表情が判らないが、了解したの意を表したと言う事はその通りするだろうと判断したヴァレンタイン・マクダウェル辺境伯は、礼を取った体勢で俯いたままの息子をそのままに若干足音荒く邸内へと入っていった。前髪の下から何かを言いたげな、息子の視線を敢えて無視するようにして。









2──


「兄上……お顔が怒っているわ、どうしたのですか?」


「大丈夫だよアンジェ、もうお眠り。ほら、エヴァが待っているよ」


「でも……」


夕方には熱も下がり、久々の父の帰還に間に合わなかったと嘆いていた上の妹アンジェリカだったが、今はもじもじと此方の様子を伺っている。兄妹三人揃って母親譲りである肩口までの長さの白金色の髪でも、若干ブロンドに近い色合いをした髪が彼女の心境を表すかのように揺れている。普段は強気な少女だが、いつもは優しい兄の思いがけない表情を見て困惑しているのか大人しい。


そんな妹にアルフォンスが殊更微笑み掛ける段になり、兄上がそう仰るのであれば、とアンが侍女を伴ってそのまま自らの部屋へ向かっていく。それを確認すると、彼は深い──実に深い溜息を吐いた。己は幼い妹にすら心配されるほど暗い感情を表に出していたのか、とアルフォンスは自嘲する。無論理由は今朝の父との出来事である。事にこの一件に関して言えば彼の声は既に届かなくなって久しいのだが、久々の再会で碌に話もせぬままにそれを再確認するのは流石に精神的には辛いものがあった。


執務机の上の燭台の光の中、彼は机に両肘を付いた状態で己の顔を手で覆った。正直どうすればいいのか──彼には今を以てしても判断が付かなかったのだ。


自らが敬愛する父がああも変容していったのは何時からだろうか、とアルフォンスは回想する。16年に及ぶ休戦が終わり、再び戦争が始まる頃には幼かった彼の目にはそんな素振りは一切見掛けなかったと言うのに、ある時を境に戦利品だのと称しておかしな置物や、ラテン語やアラブ語で書かれたおかしな古書などを持ってくるようになった。矢張り、あの辺りが兆候だったのだろうかと彼は推察していた。その結論に行き着く度に、あの時気付いていれば、と悔やんでも悔やみ切れない悔恨の情に囚われる。だが、正直それは仕方の無いこととも言えよう。まだあの時点では、貴族としてはありがちの一風変わったコレクションの一つであるとしか見えなかったであろうし、周囲もまさにそうであると思っていた。そして肝心の彼は、その時点ではまだ10代の前半の未だ少年の頃だったのだから。


だが十年前、アジャンクールへと向かっていた父のいない間に母はエヴァを産み──そのまま産後の肥立ちが悪く夭折した。美しい人だった、と当時幼かった彼すらもそう思うほどに繊細でたおやかな女性であったが、それは意味を転じて病弱だったとも言える。父は母を大変愛していたのは間違いない事実であろう、もしかしたらその体調を復調させる術を探して行き着いた結果があれらの収集品だったのかもしれない──そう最近では思う様になっている。実際母が亡くなった頃からヴァレンタインの内に抑圧され、篭っていた狂気が、行き場を失ったまま解放されたかのように他人が聞けば眉を顰める奇行が多くなっていった。そしてそれらは、使用人の間や家臣の中に風聞と言う形で尾鰭や背鰭が付いて囁かれるようになる。


思えば、こんなことがあった。数年前のことだが、トロワ条約が結ばれた際に一時帰還してきた父が唐突に鳥の肝を買い占めて来いとの命令を家臣に出し、財政を傾けてまで鳥の肝を買い占めて例の地下室へと運ばせた。その後その肝がどうなったのかは誰も見ていない、彼でさえも。調度品のいくつかを売り払ってまで鳥の肝を買い占めると言う暴挙に、讒言しようとした家臣がお役御免となったのを覚えている。


それは事実が余りにも奇妙だった所為か大して誇張されず流布しているようだが、ついぞ最近の事だが神を冒涜する研究をしているのではと口さがない連中が噂をしているのを聞くに至って、アルフォンスは本当に危機感を覚えた。このままでは辺境領全体の治安に関わる、何よりもガーフィールド家と言う貴族の存亡に関わるということをまざまざと認識させられたのである。当初は急激な出世を妬む他貴族の風聞工作の一環かとも思った。そうであればどんなに良かったことかと思ったが、現実は至極残酷であった。どう調べてもそのような形跡は見受けられず、完全に彼の父である辺境伯自身の身から出た錆による結果に他ならなかったのである。


「何とかしなければ」


思考がそのまま呟きとなって洩れた。彼は辺境領を、他ならぬ父である辺境伯自身から預かる者であると言う自負がある。そしてガーフィールド家が代々延々と受け継ぎ、彼もまた父から継いだ言葉がある。『命を惜しまず名を惜しめ、誉ありての貴族なり』──その通り、領地と名をこそ惜しむべきであり、決して肉親の情を惜しむべきではないのだ。それを忠実に守ろうとする彼は、何処までも理想的な貴族であったと言えよう。


矢張り一度、あの地下室を検めた方が良いかもしれないと彼は思った。様々な噂が飛び交うのも、偏に領主の行動が理解できないからと言う一点に尽きる。逆にそれさえ理解できるものであるならば、流言飛語など自然に落ち着く物だ。幸いガーフィールド辺境伯の辺境統治自体は、このような流言が飛び交っても崩壊しない程度には悪いものではない。今でこそ愛妻を忘れられない悲劇の伯爵としての印象が先行していることもあり、大事になる気配は無いが……だからこそ今の内に火種を消し止めておく必要がある。


タイミングの良いことに、明日は領地の視察をするとして統治実務を行った家臣と共に辺境伯は邸を留守にする。この際、明後日の次女であるエヴァの十歳の誕生日までには蹴りを付けて素直に妹の誕生日を祝いたいところだ。彼は思い出す、検問にて立ち合った荷物の検分を。父の前ではそ知らぬ顔をしてはいたが、正直アレが何なのかを衝動的に問い詰めたくなるのを必死に堪えるのに精一杯だった。


あの時の検分、荷物は馬車の荷台に3壷程の量だった。壷は恐らく此処から保存食として持っていった干し肉などが入っていた壷を流用したのだろう、見覚えのあるものだった──あくまでも壷だけは、だが。


その壷を見た瞬間、何とも嫌な予感がした。


いつも見ているものと同じ壷で周囲も明るいというのに、何というのだろうか──あの壷の周りだけは何処か不自然に暗いような気がしたのだ。無論、気がするだけなので壷の周囲の光量は全く他と変化が無いのだが、それでも視界に瞬間にその周りだけが暗いような印象を受けてしまう。


明らかに光量が違う訳でも無いのに、一目で感じる違和感──誰もがそれを感じ、そしてそれを明言する事を避けているのが有り有りと分かった。何しろ既に検分役が、もう良いでしょうかとでも言いたげな縋る様な眼で此方を見ているのだ。それをアルフォンスは努めて無視した。正直己自身も中身を見たら碌な事にならない予感がひしひしとしてはいたのだが、わざわざ責任者として足を運んでいるにも拘らず、仕事に対して中途半端な真似は出来ない。恐らく検分役もアルフォンスのその性格を知っているからこそ口に出さないだけで、不審物であるとわざわざ呼び出したことを今頃後悔しているに違いない。大体にして、呼び出されてそのままやってきたアルフォンス自身が後悔していたのだ。


これは何だ、とアルフォンスは再び尋ねた。再びと言うのは、既に彼が此処に来た一番最初に同じ事を相手に聞いたからだった。それに対して父の部下である兵士から帰ってきた返答は、予想通りに初めの問いに返ってきた言葉と同じものだった。


即ち、これは『塩漬け肉』である、辺境伯閣下からそう聞いている、命令により中身は確認していない、と言うものだ。


ならば、と彼は言わざるを得なかった。ならば如何に辺境伯からの命とは言え、この辺境領の留守を預かる者として安全の確認を出来ないものを領内に入れるわけには行かない、よって検分する──立場的にもそう言わざるを得ない何者かが仕立てた予定調和の様な会話だった。選択肢は無かったとは言え、激しく自分の言葉に後悔しながら嫌々壷の封印を剥いだ彼が見た物は。


そこまで思い出して慌ててアルフォンスは回想を止めた。出来ることならば二度と思い出したくない。彼はあくまであの『塩漬け肉』が何の肉なのかは知らないし、また判らない。だが、間違いなく確実に食用に適する部位では無い事は確かだろう。開けた壷の中には何処とも知れぬ赤黒い肉の部位、それは肉と言うよりは内臓のような態をしていた用に見えた。このイングランドにも内臓料理はある。ハギスなどの羊の内臓を使った料理などがそれであるが、それらに入っている物を思い出しても、あのような部位は少なくとも見たことが無い。ならば、あれは何なのだろうか?それに例え食用だったとしても、その肉を『研究室』と呼称している地下室に持っていく理由は一体何なのだ?彼が開けたのは一壷だけだが、他の壷には何が入っていたのだ?


正直、それ以上を考えるのが怖い、大体にして辺境伯の私室といっても過言ではない地下室を検めるのも遠慮したい話ではあるのだ。だからこそ今まで躊躇していたのだが、今日の一連の出来事を見るに於いて、決意は固まった。やるしかあるまい──辺境伯の留守の間に探るのだ、あの諸悪の根源とも言えるであろう地下室を。


「エイブラム、いるか」


「控えております」


彼の言葉に、静かに緩やかに物陰から壮年の男が現れた。エイブラム・エインズワーズ──彼が辺境伯の執務をするにあたり、一から揃えた正規部隊とは全く指揮系統の異なる彼だけの部下である。例えるのであれば、一種の私兵団とも言えようか。スコットランドの森林地帯の出身でレンジャーとしての技能に長けた彼は、追跡や狙撃などと言った幅広い役割を果すことが出来る点で大変使い勝手の良い男であり、その部下である傭兵団は騎士とは違い勝率に沿った実に効率性の高い戦闘を行える希少な兵でもあった。


「父上──いや辺境伯の視察出立時間は?」


「明朝、日の出と共に向かうそうです」


「よし、お前からも護衛と言う名目で部下を出しておけ」


「既にそのように手配してあります、逐一行動を報告するようにとも」


「──流石だな」


この打てば響くような行動力こそが、エイブラムと言う男の持ち味だった。主筋の人間の行動を先読みして尚且つ出過ぎない程度に下準備を済ませておくというのは、ある程度以上の観察力が必須の技能となる。これをいともあっさりとこなすこの男と、多様性の高い部下の傭兵団は本当に拾い物だったとつくづく思う。


「いえいえ、馬鹿高い給金をいただいてますので。これくらいはやりませんと」


「ハハハ、違いないな。とは言え今は我々しかいない、言葉を崩してもかまわんぞ」


「へ、流石旦那は話がわかる。じゃあ、遠慮なく。ついでに一つ聞きたいんですがね」


アルフォンスの言葉に一気に崩した言葉へと口調を変化させるエイブラム。先程までが武人のような印象であるならば、今は道化に似た印象だ。恐らく此方が元々の本章であろうことは確実なので、道化が鎧を着て武人に成りすましていた、とでも表現すべきだろうか。


「なんだ?」


「いえね、本当に──辺境伯閣下をお疑いで?」


そう尋ねる配下の眼に鋭い探るものを感じて、言葉を言いよどむ。彼等は互いに決定的な一言は言わないが、その示唆するところは只一つだった。即ち、ヴァレンタイン・ガーフィールド辺境伯は異端信仰──悪魔崇拝を行っているのではないか、と言う疑惑である。ガーフィールドに連なる者として、何より実の息子として言下に切って捨てたい推論だが、それらしき状況証拠が余りにも多すぎる。そして、万一だがこの流言がローマに流れることになればガーフィールド家の取り潰しは確実、一門揃って火炙りの憂き目に合うだろう。何しろ、ローマはいつでもあらゆる国の内政に関与する機会を狙っている。そんな連中が、この風聞を聴いたならどうなるか。確実に羊の群れに襲い掛かる飢えかけた狼のように、或いは処女に群がる強姦魔の群れのようにガーフィールドを、引いてはこのイングランドを食い尽くし、陵辱しにかかるだろう。


「疑うなどとんでもない、私は領民の安堵する為に事実を知っておきたいのだ」


「……まあ、旦那がそう言うんならこっちとしてはそれでいいんですがね」


アルフォンスとしては最大限に演技した心算だが、それでもあまりに重要な事柄だった所為なのか、口から出てきた台詞は棒読みもいいところだった。だが、エイブラムからのそれ以上の追及は無い。彼とても一線は弁えている、ここが互いに言い合えるギリギリの妥協点だということを感覚で理解しているのだ。それにこれ以上は言葉を弄さずとも互いに理解していた、ガーフィールド辺境伯は残念ながら限りなく黒に近いと。


「──アルフォンス様、誰かが此方へ向かってくるようです。足音の軽さからして、恐らくは妹君かと」


「そうか」


「外しましょうか?」


「いや、構わない。まだお前とは明日の打ち合わせもあるしな」


「──ハ」


まだ距離がある内から、他人の気配を察知して対外用の言葉使いへと瞬時に変化するエイブラムが、己の雇い主に頭を下げた所で扉が躊躇いがちにノックされる。この弱弱しい音は恐らく、次女のエヴァンジェリン辺りだろうと当たりをつけたアルフォンスは、扉の外にいるであろう末妹に声を掛けた。


「エヴァかな?どうぞ、入っておいで」


「はい……あの、にいさま。アンジェねえさまからにいさまのごようすがおかしいって、それで……。あっ……?」


おずおずと入ってきたのは予想通りエヴァであった。お気に入りの熊のぬいぐるみを胸に抱いた少女の最も母親に似た腰まで伸びた白金色の髪が、執務机の燭台の光を反射してきらきらと光る。まるで部屋の中が古びて色褪せたかの様にも思える程、幼姫は鮮烈な色彩を帯びていた。


「ご、ごめんなさいにいさま。エイブラムさまがいらっしゃったのね」


「いえいえ、御気になさらずエヴァンジェリン様。私の事はその辺りの彫刻とでも思っていただいて結構ですよ」


「おや、エヴァはエイブラムを知っていたのかい?」


てっきり初対面であると思っていたからこそ、アルフォンスとしてはこの機会に紹介しておこうと思ったのだが……既に二人は対面を果していたらしい。だが城詰めの兵士や連絡役のエイブラムの部下ならば兎も角も、普段はエイブラム自身は領地を密偵として飛び回っている──正直エヴァとエイブラムには接点など無いと思ったのだが。


「えっと、はい。おにわであそんでいたときにいちどおあいしました」


「先日、アルフォンス様の御遣いの帰りに偶然お会いしまして」


「そうだったか……その話は聞いていなかったな」


「ああ、その──」


「ごめんなさいにいさま、わたしがエイブラムさまにいわないでっていったから」


どう言う事だ、と眼で尋ねるとエイブラムは苦笑した。どうやら純粋に妹の我儘から出た発言のようだ。まあアルフォンスとしても、実際の所エイブラムが何かを企んでいるとも元々思ってはいないのだが。後でその辺りの話はじっくりと聞かせてもらうことにしよう、と言う意味を込めてアルフォンスが軽くエイブラムを睨むと、エイブラムは他人に見えるかどうかわからない程度に肩を竦めることで返事とした。忘れるなよ、とそれに対して睨み返してエヴァに向き直る。


「そうなのか、じゃあ聞かないでおくことにしようか──それでこんな時間にエヴァは何をしに来たんだい?」


「えと……その、こわくて」


「怖い?どうしたんだ」


「おとうさまがかえってきてうれしいはずなのに、なんだかこわいのです。からだがつめたくなるような……」


末妹のその言葉を聴いて思わず顔を見合わせる二人。この妹は母親に似て感性が鋭い、無論アルフォンスもアンジェも他の人間よりは感性が強い人間だが、エヴァはその中でも飛び切りだ。今までにもこういうことは無かったわけでは無いが、今はタイミングがタイミングなだけに気になることは確かである。一体、エヴァは何を感じ取ったのだろうか。


「……ハハハ、エヴァは怖がりだなあ。常勝無敗を詠われた父上が御帰還してきたんだ、例えどんな悪霊が来たとしても怖いことなど無いよ」


「もしかすると、御父君の戦場の覇気に当てられたのかもしれませぬな。度重なる戦の合間に戦場から帰還すると、戦場での居住まいが抜け切らずにそのまま空気となって周囲に発散される、ということは間々在る事と聞きますので」


「せんじょうの、くうき?」


示し合わせたように話を併せる二人の言葉に、小首を傾げるエヴァ。もうじき十歳と言う幼い少女が理解するには難しい話であったが、幼い子供に説得するには少し情報過多であろう内容を畳み込むように話す兄と、その部下の言葉を疑いなく聞き入れる。まるでその言葉は彼ら自身をも説得するかのように聞こえるが、エヴァはその幼さ故にそれに気付くことはなかった──彼らにしても恐らくは無意識なのだろうが。


「そうさ、父上は武人だからね。戦場から帰って間もない父上に逢ったから、エヴァは父上の纏う戦場の空気に中てられたのかもしれないね」


「そうなのですか……なら、これはおとうさまのくうきなのですね」


「きっとそうだよ、だから何も心配は要らないんだよ」


「そうですとも、アルフォンス様の仰るとおりかと思いますぞ。なあに例え何かあったとしても、此処には辺境伯であるヴァレンタイン様やエヴァンジェリン様、アンジェリカ様の兄上様であらせられるアルフォンス様、そして不肖ながら私と部下も騎士団の皆様もおられます。悪霊など追い返すどころか退治してご覧に入れましょうぞ」


「わあ……にいさまたちがいらっしゃれば、こわいものなんてないですのね」


必要以上に力強い言葉を聴いてにこりと微笑むエヴァに、二人は内心で汗を拭った。まさか今挙げた筆頭であるヴァレンタイン卿こそが諸悪の根源かもしれないなどと言える筈も無い。無論、確定的証拠が出てくるまでは、アルフォンスとしては否定し続けるつもりではあるのだが。


「どうだい、これでもまだ怖いかい?」


「んと……すこしこわくなくなったきがします」


「部屋へは独りで帰れる?」


「それはこわいですけど……がんばります!」


小さな手で知らず握り拳を作る妹に、先程までの話も緊張感すら忘れてつい穏やかに微笑みを洩らすアルフォンス。見れば、似合わないことこの上ないがエイブラムの顔も若干綻んでいる。どうにもこの邸内の人間は、ヴァレンタインすらもだがエヴァとその姉であるアンジェには皆一様に弱いようであった。


ではにいさま、エイブラムさま、おやすみなさいませ。涼やかな鈴の音でもなりそうな髪を揺らし、夜着の裾を少し持ち上げた幼いながらにも貴族の子女らしい挨拶を残してエヴァは部屋へと戻っていった。暫しその後姿を見やる、小柄なその身体は白い肌と夜着に相俟って、闇の中に白く抜かれたように際立っていた。まるで、古城に出るという妖精のようだ──自らの妹に対してそんな感想が脳内に浮かぶ。その神秘的な姿は、この邸内に滞留している闇を進むだけで祓って行く様にも見えた。


「アンジェリカ様も大概お美しいですが、エヴァンジェリン様のあれはもう魔性の域ですな──使用人の連中の言っていた内容がはっきり理解できましたわ」


「使用人が何か言っていたのか?」


アルフォンスと同じように、エヴァの後姿に見惚れていたらしいエイブラムが隣で呟いた。その言葉を聞き咎めてアルフォンスは問い正す。父の奇行に関しての醜聞ならば兎も角、エヴァに対する何らかの風聞があるのなら物によっては規制をかけなければなるまい。何しろ、エヴァは直に王城へ召し上げられることが決まっているのだ。多少の風聞が命取りになりかねない。それ以前にエヴァンジェリンと言う少女は、アルフォンスにとってアンジェリカと同様に二人と居ない家族であり妹なのだ。あの純真な妹に汚らしい風聞を浴びせる者を発見したならば、温厚を自認しているアルフォンスとて平静でいられまい。帯剣していれば間違いなく首か、そうでなけらば胴体の何処かしらが床に転がっている事は想像に難く無い。


「いやいや、そんな殺気に満ちた眼をしないでくださいよ。メイドの間でそんな話をしてるのを聞いてですね」


「言え、話によっては父上の件よりも早急に対応する必要が出るかも知れぬ」


「まあ、少し落ち着いて。単に、湯浴みの手伝いをしても肌が人に思えないくらい綺麗だとか、あれだけ美しいと汚れが自重して寄って行かないんだとか、稀に髪の色の所為か光に当たると綺麗に反射して後光が見える気がするとか、そんな他愛も無い話ですよ」


「なんだ、そんな事か」


本当に他愛も無い内容にアルフォンスはようやく肩の力を抜いた。そんな彼を珍妙な眼で見ている部下だが、アルフォンスに取り繕う気力は残っていなかった。実際の所、他愛無い噂であろうともこの時期は多少過剰反応しても間違いでは無い。エヴァの参内までには彼女に瑕疵を作る事は儘ならぬ、場合によってはどんな手を使おうとも除かねばならないのである。未だイングランド貴族に参入して宮廷政治には疎いガーフィールド家が権力基盤を築く事が出来るのか、イングランドに根付く事が出来るのかの重要な岐路でもある。何にせよ、悪印象に起因する噂では無いのであれば精々利用させてもらう事にしよう、そう考えてそのまま元々聞こうとしていた内容をエイブラムに尋ねる事にした。


「で、一体エヴァと何があったんだ?」


「これも大した事じゃないですぜ、単に妹君がやんちゃして樹から降りれなくなったのを助けただけですわ」


「メイド共の件と言い……エヴァの家庭教師には少しきつく言っておかねばならんな」


思いも寄らぬところから、別件でやらねばならぬ事が増えて眉根を揉むアルフォンスに、まあ程々にしてやってくださいやと笑うエイブラム。何にせよ、緊張していた部屋の空気はエヴァと言う可憐な風によって大分緩和されていた。未だに部屋の中はエヴァの目の覚める様な明るい色彩で構成された存在感によりどうにもぼやけた様な雰囲気で、尚且つ若干弛緩した空気の中だが詰める点は詰めておかねばなるまい。そう考えながら、話の接ぎ穂を探すようにアルフォンスは言葉を続ける。


「しかし、エヴァの言葉は気になるな」


「怖いって奴ですか?そこほどまでに気にすることなんでしょうかね、確かにタイミングが良いと言うことは認めますが」


「私にも判らんが、私の直感が何かを訴えかけてくるんだ」


「然様で、まあ俺は旦那に従うまでですけどね」


特に何も考えずに話していただけなのだが、アルフォンスは唐突に自分の発言に自分で恐ろしくなってきた。何一つ取り繕う事無く、会話内容の取捨選択をすることも無く会話していたということは、今のは自らの本心であるということだ。その自分から、全く予期していなかった言葉が出てきたのだ。エヴァの言葉を聞いて、己の直感が無意識に警戒を発しているとでも言うのだろうか。まさかそんな馬鹿げた話もあるまい、と思いついた端から彼は首を振って即座にその愚にもつかない思考を追い出す。


「ともあれ、明日はお前と私で地下を探ることとなる。何が出てくるかは判らんが、それなりの覚悟と用意はしておいてくれ」


「了解です──では」


「ああ、明日」


そう言ってエイブラムは一礼して部屋を出て行った。微かに吹き込む風に埃が舞い、アルフォンスは目元を顰めながらゆっくりと閉じた扉を睨みつけていた。アルフォンスは先程自覚して以来ずっと自分の脳内で鳴り続ける警鐘を持て余していた。一体私は何に警戒しているのだ、そう自問自答する。だが、そも未知の物に対して本能が鳴らす警鐘に、自問自答で答えが見つかるはずも無い。


言うなれば喉に小骨が刺さったような不快感、もう少しで思い出せそうな答えが出てこない焦燥感、それらを綯い交ぜにしたような不愉快な感覚が暫くは解消されなさそうであると判断して、更に彼は考える。


もしかすると、ヴァレンタインがエヴァを溺愛していることにも何か関係があるのかもしれない。何分他の奇行に隠れて見えないが、あの溺愛振りもそれ単体で抜き出してみれば充分異常な部類に入ると思える。確かに亡き母の面影を最も色濃く受け継いでいるのがエヴァであると言う事は確かだ、エヴァの出産と入れ替わるようにして亡くなったと言う事もあって、余計に最愛の妻を娘に重ねていると思えば納得できなくも無い話だったので余り気にしていなかったのだが──。


「今日はどうにも埃が舞うな……掃除が雑には見えなかったが」


目に入り込んだ埃を擦り取りながら気を取り直すかの様に呟いて、アルフォンスは下降する螺旋に嵌まり込んだ様な悪感情を逸らすべく努力した。何かを一つ疑いだすと限が無くなる、若しくはこうあれば良いと思いながら考える思考に正解は無いとはよく言うが、アルフォンスの思考はまさにその状態だった。


「埃……昔母上から寝物語に聞かされた塵の悪魔の話を思い出すな」


病床の身であったアルフォンスの母は、侍女などにもそれなりに公正に語りかける人物だった。そんな彼女がよく掃除を担当する侍女に話していたのが塵の悪魔の話である。塵を残すと、塵に悪魔が宿る。宿った悪魔は塵から生まれて塵を増やすのだ。そして力を増して人を塵にしてしまう──そんな話であったか、とぼんやりとアルフォンスは思い出していた。掃除に手を抜かぬように、引いてはヴァレンタインにそれを理由に解雇されない様に、と言うような配慮だったのだろう、とこの歳になって漸くアルフォンスはそう理解出来ていた。今ではその話をする物も無く、このような塵が舞わぬ様にと話してきた結果がこの様である。こう言う事こそが、母が他人の記憶から忘れ去られていくと言う事なのだろうか。余りにも不安材料が多い所為で、沈欝になるような思考しか生まれぬ己がどうにも息苦しくて、アルフォンスは目を瞑った。


結局そのまま彼は、夜が明けるまで全く先の見えぬ懊悩を抱える事となる。



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