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碧の章3

いつもなら夕食がすんで、ナツメが自分の部屋に引き上げる頃になると、

俺も腰をあげるのだが、その日はリビングでぐずぐずしていた。

冴子は別段気にとめる様子もなく、キッチンの片付けをしている。


一日の終わりにまったり、焼酎のお湯割りを一杯、が冴子の日課らしい。

「碧も飲む?」

ボトルを振って訊いて来た。


俺はほとんど酒は飲まないが、全く飲めないわけではない。

というか、ちょっと入れといたほうがいいかな、アルコール。

「おお、たのむ。」


冴子は二人分のグラスを持ってこちらにくると、

「どっこいしょ」といって椅子に座った。

「おい、どっこいしょ出たぞ。」

「え?」

「今。」


「うそん、言うてへんわ、そんなん。」

「いや、言うたって。」

「言うてへん!」


無意識や・・・。

しみじみと二人の年月を思った。

あの幼かった「みいくん」と「さあちゃん」が、

どっこいしょを言った言わないでもめてるんやな・・・。

「ちょっと、なに笑てんの?気持ち悪いなあ。」

「いや、なんでもない。あんな、冴子。」


「なに?」

「あ、・・・・ちょっと待って。」

急いでアルコール投入。お約束だが咳払いが出る。


「あんな。」

「あ、ちょっと待って。」

こんどは冴子だ。

尻ポケットで携帯が震えたらしい。

「はい。はい、え?・・・ああ、ミチ子姐さん??

いやぁ、ご無沙汰してますーーー!!」


冴子は俺にひらひらっと手を振ると、椅子から立って俺に背中を向けた。

通話はすぐに終わらなかった。

しかも、話が進むにつれて、冴子の声は低くなり、立ち位置もどんどん俺から離れていく。


焼酎を飲み干しても、まだ冴子は話つづけていた。

ミチ子姐さんという名前は聞いた事がある。

冴子が以前世話になっていた工房の人だ。

たしか親方の北村さんて人と結婚したとか言っていた・・・・。


こりゃ出直しだな・・・。

と思っていると、冴子が戻って来た。

振り返って顔を見て驚いた。顔色が紙みたいに白くなっている。

「どした・・・。」

「碧ごめん。あんな・・・。」

とりあえず椅子をひいてやって座らせた。

冴子は視線をさまよわせながら

「え・・・と。なにからゆったらええんやろ。」


なにか俺に説明しようとしているようなのだが、あせる一方で言葉が出てこない。

体が小刻みにふるえはじめている。

「冴子おちつけ。深呼吸しよ。な。」

と俺が言ったそのとき、冴子の呼吸が乱れはじめた。


必死に空気を吸おうとしている。ひぃ、ひぃという息づかいが次第に大きくなって、

冴子は椅子から崩れるように落ちて床に踞った。

「冴子?おい!」

胸を押さえて苦しそうだ。


「き、救急車・・・。」

俺がつぶやいたとき、ばたん!というドアの音がして、ナツメがリビングに飛び込んで来た。

ナツメは冴子を見ると、低い声で

「過呼吸だ。」とつぶやくと、キッチンに走った。


紙袋を見つけると、中身をテーブルにぶちまけて冴子の傍らに駆け寄り、

「これを口にあてて」

と言って俺に押し付けた。

そこでやっと俺にも落ち着きが戻った。

過呼吸は見た事がある。以前撮影所で、新人の若手女優が発作を起こして騒ぎになったことがあった。


紙袋をあてられて、冴子の発作は少しづつ治まって来た。

ナツメは俺のかたわらで黙って冴子を見ていた。

さっきから違和感があった。ナツメの声、話し方。


「冴子、ごめん。」

ナツメが片手をすっと出して、冴子の頬に触れようとした。

違う!ナツメやない!


俺はとっさにナツメのその腕をつかんだ。

「おまえ、だれや。」


ナツメははっと俺の方を見、ほんの一瞬、その眼に敵意を浮かべたが、すぐに

あきらめたような表情をすると、すとんと体の力を抜いた。

「!」


昏倒する寸前で、ナツメはふみとどまった。

そしてはっとしたように顔をあげると、今初めて気づいたような声で

「おかあさん?」

と叫んだ。


どうにか落ち着いた冴子を寝室に運んで、ナツメの部屋に行ってみた。

「ナツメ、入るで。」

「うん。」


ナツメは勉強机の前に座って、俺がつかんだ腕をさすっていた。

少し赤くなっている。


「あ・・・。すまん。痛いか。」

「うん、大丈夫。」


「さっきの・・・。」

ナツメは机の上のペンダントを一瞥して吐き捨てるようにいった。


「ナンテンオバケにやられた。」

「ナンテン・・・?」


ナンテンオバケの話はナツメから訊いていた。

「難を転じる」お守りに憑いている霊がいるのだが、見た目が奇怪なうえに

言動がとにかく「チャラい」、ほんとに頼りになるのか甚だ不安だ、というようなことだった。

でも害はまったくなさそうなヤツだということも。


今回も、ナツメは体を乗っ取られて不愉快だろうが、助けてくれたことには違いない。だが俺は、冴子に触れようとしたときの、あの気配が腑に落ちなかった。

あれはまるで・・・。


「ミドリ。」

ナツメが俺を見た。瞳が不安に揺れている。

「ナンテンオバケが、おかあさんを連れて行ったり、しいひんよな。」

「!」

思わずナツメの肩に手をかけた。

「なんで、そんなふうに思った?」

ナツメが肩を震わせているのが手のひらに伝わって来た。


「さっき体に入られた時思った・・・。あいつ、おかあさんのことが好きやって。」


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