翔の章3
僕は自分の死体の埋まっているあたりを彷徨っていた。
冴子のそばには辛すぎていられなかった。
悲しみと、やりばのない怒りと、もうあとはなんだかわからないマイナスの感情ばかりが、全身から吹き出ているようだった。
「・・・・ケル」
「カケル・・・」
誰かに呼ばれているような気がしてふと我にかえった。
声のするほうにふわりと進む。
この体の身軽さだけは、便利になったといってもいいだろうか。
暗い森のなかをどのくらい進んだのか、目の前に現れたものに僕は思わず目をみはった。
大きな、ほんとうに立派な南天の木があった。
高さは7~8メートルくらいか、たくさんの葉を茂らせていて、それがさわさわと衣擦れのような音をたてている。
赤い実もたわわに実っていて、飾り簪をさした花魁のように、豪奢でうつくしい古木だった。
僕はそっとその幹をなでた。南天の幹がこんなに太く育っているのを見た事がなかった。つややかで強靭そうな幹。
「すごい・・・。」
思わず、死んでいることも忘れて、このすばらしい木でどんな椅子が出来るだろう、とか、あのちょっと太めの枝は曲げ加工が効くだろうか、とか考えていると、うしろから肩をちょんちょん、と叩かれた。
振り返っておどろいた。
冴子が・・・いや、冴子にとってもよく似た女が僕をみて微笑んでいたのだ。
「おまえはカケルだね。わたしを探しに来たのだろう。」
「え?」
「わたしも、おまえを待っていたよ。」
「あ、あなたは・・・・誰?」
「わたしはこの南天の精霊。」
思わず、ごくっと喉がなった。今までいろんな木を見て来たし、触れてきた。
古い木には精霊がやどる、なんて話も、年老いた樵のおじさんや木工芸家、建築家なんかの話に聞いたりもした。
でもまさか、実際に、生きてこの目でみられるとは。
あ、そうか、死んでたんだっけ。僕。
「おまえは自分の死を受け入れていないようだね。」
「え」
「だから、成仏もしないでここらをうろついているのだろう?」
「あ」
そうか。僕は迷ってるのか。成仏できずに。
「このまま地縛霊になるか?」
「地縛霊」
ものすごくイメージの悪い響き。
「そうだ。自分の死んだ場所に留まって、近づいたものに悪さをする。」
イヤだな。思わず顔をしかめた。そんなものにはなりたくないよ。
南天の精霊は、冴子に似た顔を綻ばせた。
「では、わたしと、めおとになるか。」
「めおと」
精霊は南天の木を仰ぎ見た。
「わたしはもう、老いすぎた。自分ひとりでは子孫を残すこともかなわぬ。
ここから動く事もできぬ。だからおまえのような迷う魂を待っていた。」
僕の手をとって自分の胸にあてた。
「子づくりを手伝ってくれ。」
地縛霊か種馬か。
・・・・という二択であってるのかな。
やっぱり死んだらロクな事にはならないな。でもまあ、相手は冴子似の美人だし。
「じゃあ、種・・・じゃなかった、めおとで。」
「よし。」
精霊は鷹揚にうなずいて微笑んだ。
「もうつらいことは全て忘れておしまい。残して来たもののことは忘れて、これからは樹霊となって生きるがよい。」
そうできたら、どんなにいいだろう。
もう戻れないのならば、そうするしかないだろうな。
精霊の白い手をとって、その甲に口づけた。
体の中を、緑色の風が吹き抜けたようだった。
ざっ・・・とうなじを抜けていった風が、僕のさっきまでの、暗く淀んだエネルギーを洗い流していったようだった。
とりあえず、悪霊にはならずにすんだみたいだ。
僕は死んでからはじめて、笑顔を浮かべることができた。