最終章
数日後、俺は栗山さんと一緒に、高級感あふれる店の前に立っていた。
まだ店外なのに、キラキラのオーラがあふれでている。
おそらく俺がこんな店に入るのは、最初で最後だろうな。
「さ、いくわよペキちゃん。」
「栗山さん、頼りにしてます。」
「まかせなさい!」
電話やメールはしていたが、冴子に逢うのは、半月前に和歌山で別れて以来だった。
すこしだけ、面やつれしてみえたが、冴子の再生力は俺の想像以上だった。
とにかく和歌山で、涙を絞り切るくらい泣いた、と言っていた。
「もうな、ミチ子さんやらヒロ君やらもわんわん泣くねんな。つられてまた泣いて、
で笑い話になって、めっちゃ笑て、笑いすぎてまた泣くねん。」
同じ思い出を共有するものどうしで、こころゆくまでカケルを偲んだようだった。
「涙ってなんぼでも出るねんな。びっくりしたわ。」
一緒に夕食をとって、ナツメが部屋にひきあげてから、俺たちはリビングの隅の、
小さなベランダに移動した。
「うわっ、真正面やな。」
「やろ。」
耿々と照る満月が見えた。
ふたりで並んで手すりにもたれた。
「なあ。」
「ん?」
「碧が言うとおりにカケル連れて帰ってきたけど、ほんまにええんかな。」
「親戚とかいてへんのやろ?ナツメの父親なんやからええやんか。」
「うん・・・。」
俺は冴子のほうをちゃんと向いて言った。
「それからな、冴子。カケルのことを封印とかするな。」
「え。」
「いつでも思い出したら話したらええし、哀しかったら泣け。我慢するな。」
「う、うん。」
「約束やで。」
冴子はふふっと笑った。そして、
「碧、わたしな。ずうっと昼間を歩いてると思ってた。けっして暗闇じゃなかったから・・・。」
「・・・・。」
「ナツメもおったし、両親も支えてくれたし、好きな仕事もあった。
・・・・碧もおってくれたし。」
「うん。」
「でも、充分明るいと思ってたけど、太陽は出てへんかったんやな。」
「・・・・。」
「こんどのことでわかってん。私はずっと、薄明の・・・白夜のなかにいたんやって。」
「冴子・・・.」
「影がな・・・。」
「・・・・。」
「私のあしもとには影がなかった。ていうか、見ようとしんかった。」
冴子は月明かりでできた自分の影をみつめながら続けた。
「カケルに逢おうとしたときな、真っ黒な影が見えた。怖くて進めんかった。」
「・・・・。」
「碧が・・・連れて行ってくれたやろ。」
「俺、無理に連れて入って・・・。」
かぶりを振って冴子が言った。
「あのとき逃げてたら、きっと今でも白夜の中やったと思う。」
「・・・・。」
「ありがとうな、碧。やっと夜があけた気がする。」
影のむこうに、ほんとうの光が射したよ。冴子はそう言って月をみあげた。
「わたしな、碧のことをすごく大事に思ってる。」
え。
「せやから怖かった。また無くしたらどうしようって。踏み出せへんとこがあった。」
なんだかイヤな予感がした。いや、本来なら嬉しい予感なのだが。
「でもな、前に碧がお茶碗を持って、壊れそうで怖いってゆったとき・・」
ちょっと待て、冴子。
「ああ、碧やったらわかってくれるんかなあって、」
あかん。それ以上言うな。
「私、碧といっ・・・・・!」
「・・・・・。」
うわっ!キスしてしもた!!
あわてて離れた。
「あっ!いや、えっと。」
「・・・・・。」
冴子は言葉を忘れたように、目をぱちくりさせて俺をみつめていた。
「ちょ・・・ちょっと俺にしゃべらしてくれ。」
やっとそういうと、冴子はまだぽかんとしたまま、あいまいにうなずいた。
落ち着け。碧。深呼吸や。
「えっ・・・と。」
ああ、台本がないというのは、なんと心もとないことか。
「あのな、冴子。」
「うん。」
「明日の・・・ことは俺にもわからん。」
「うん。」
「どんだけえらそうなこと言うても、明日お前を泣かすかもしれん。」
冴子の瞳が不安げに揺れた。あ、いらんこと言うてしもた。
「先のことはわからんし、怖い。そんでも俺は、今お前と一緒におりたいと思う。それだけやったら、あかんかな。」
「碧・・・。」
「この10年の・・・いや、もっともっと前からの俺を信じてくれ。」
「・・・・。」
「俺、お前を嫁さんにしたい。・・・・結婚してください。」
目をつぶった。ついでに息もとまった。
「・・・・・・。」
「・・・・・・。」
「・・・・・・はい。」
「ぐはっ!」
「碧!??」
「げほっ・・・い、息とまってた・・・。」
「ちょっと大丈夫?」
「だ、大丈夫や・・・。」
ああ、くらくらする。
もう一度呼吸を整えなおして、袂に手をつっこんだ。
冴子の左手をとって、手に持ったものを薬指にそっと嵌めた。
ぴったりと嵌ったことに、俺がまず感動した。すごい。
「えっ・・・・。うそ。」
冴子が薬指と俺の顔をかわるがわる見て、もう一度
「うそやん。」といった。
「碧がこんなん、絶対ないと思てた・・・。」
「栗山さんの見立てやからな、間違いないで。」
大きな石はついていないが、洗練されたデザインの、冴子の指に似合う指輪。
栗山さん、ほんまにサンキュー。
「でも、サイズは?碧、指輪のサイズなんか知ってたん?」
「まあ、なんとなく。」
ウソや。そんなん俺が知ってるわけない。
カケルが消える間際に囁いたのは、冴子の指輪のサイズだった。
ほんまにぴったりやったぞ。カケル。
「うわあ。どないしよう。」
冴子が月に左手を掲げてうっとり見上げていた。
「ありがとう。碧。」
俺を見る目が潤んでいる。
そう、ここでチューやろ。
さっきのフライングが悔やまれる。照れくささ倍増やんか。
それでも思い切って顔を近づけた。
さっきは気づかなかったが、冴子のくちもとから、微かに抹茶の香りがした。
夕食のあとで、彼女が点ててくれて、二人で飲んだお茶。
俺に選んでくれた鼠志野の茶碗の上で手を重ねたときのことを思い出した。
そのときのように。
包むように冴子の顔に両手のひらをあてた。
中指に、耳たぶが触れた。その思いがけない柔らかさにきゅんとする。
そっと、目を閉じた冴子の唇を口に含む。
意外なつよさで、冴子の唇がこたえてきた。
どちらからともなく、求め合う。
そしてしっかりと、深く、あまく、俺たちは繋がった。
痺れるような快感に頭のなかがチカチカした。
なんやもう、キスだけで気絶しそうや、俺。
冴子の手が、俺の背中を抱いてきた。
しっかりした質感と、あたたかな体温を全身で感じた。
現身の、現世でこそ。
このかけがえのないもの。
いつかくる、いのちのおわりまで、絶対に離さない。
両腕をまわして、冴子を抱いた。
ぎゅっと。
完




