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欠落            :約10000文字

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/08/22

【つまり……君が知りたいのは、なぜ我々が穴というものに対してこれほどまでに強く魅力を感じてしまうのか、ということだね。私の個人的な見解ではあるが、述べさせてもらうなら穴というものは何よりもまず、『世界の連続性を断つ一点』だと思うのだよ。

 穴は、我々が日常の中で無意識に信じ込んでいる“つながり”や“秩序”をいとも容易く裏返す力を持っている。平らであるはずの地面にぽっかりと口を開けた穴。外界を遮り、安全を保障するはずの塀に穿たれた穴。不変だと信じていたものに唐突に不安をもたらす存在。それが穴なのだ。

 しかも穴は単なる物理的な欠損にとどまらない。完璧だと思われた計画に生じる小さな抜け穴、会話の流れに不意に生まれる沈黙、人間関係の中に突然開く理解しがたい隙間――それらもまた穴なのだよ。

 そうした穴は、こちらの認識という布地を裏側から指先でそっと押し上げられたかのような、名状しがたいざわめきを伴って現れる。そして我々は、その“破れ目”からどうしても目を逸らすことができない。

 穴はね……単なる欠損ではなく、同時に未知への入口でもあるのだよ。穴の中には常に『見えていない何かがある』という誘惑が潜み、人はその存在を意識した瞬間、惹きつけられてしまうのだ。大きさは関係ない。大事なのは奥行きだからね。指一本程度の幅しかない小さな穴であっても、その向こう側が見えなければ人はそこに何かを求めてしまう。

 人間は本来、見えないものに弱い生き物で暗闇や深淵に恐怖を抱く。しかし一方で、それとまったく同じだけの好奇心も抱いている。穴はその恐怖と好奇心の双方を一度に差し出してくる実に狡猾な存在なのだよ。

 覗き込めば危険が待ち受けているかもしれない。しかし覗かなければその先に何があるのかを知ることは永遠にできない。だからこそ我々は穴の縁に立ったとき、自分の中に眠っていた原始的衝動――『この先には何があるのか』という問いを呼び覚まされる。そして、その問いこそが穴が持つ最大の魅力なのだ。

 穴は世界の欠陥ではない。むしろ世界がこちらへ差し出す、実にユーモラスでエキサイティングな“余白”なのだよ。その余白へ手を伸ばした瞬間、人は自分が探求者であることを思い出す。未知へ触れようとする快楽、理解の外側へ身を乗り出す陶酔。それはある種の宗教的体験であり、禅にも通ずる感覚なのだ。

 結局のところ穴に惹かれるというのは、自分の知らない世界を覗いてみたいという欲望と、自分自身の内側にある空洞を確かめたいという衝動が一つの点で重なったときに生まれる、きわめて人間的な反応なのだろうと私は思う】


「あのー……」


「……はい?」


「あ、そこはそんなに真面目に読むところではないので。すみません……」


 おれは自嘲気味に笑いながら、ぺこりと頭を下げた。

 大手出版社。今日はここへ漫画の持ち込みに来ていた。

 一階のロビーの隅には簡素なパーテーションで区切られた打ち合わせスペースがいくつか設けられており、それぞれに長机とパイプ椅子が置かれている。おれはその一角で編集者と向かい合って座っていた。

 周囲のスペースでも同じように漫画家志望者が作品を見てもらっており、原稿をめくる音や講評がパーテーション越しにぼそぼそと漏れ聞こえてくる。

 自分の作品について話している内容を他人に聞かれるのが妙に気恥ずかしく、おれはつい声を潜めていた。

 ただでさえ緊張しているというのに、個室くらい用意してくれてもいいのではないかと思うのだが、まだ漫画家志望の素人にそこまでの設備を割く理由はないのだろう。防犯や業務上の都合を考えれば社内の奥まで自由に人を入れるわけにはいかないし、こうした簡素なスペースで済ませるほうが合理的なのだろう……ん?


【嗚呼、本当に穴というものは、どうにも私の神経をざわつかせる存在だ……。たとえば道路脇の側溝蓋の穴であれ、ひび割れた塀に空いた穴であれ、古びた木の洞であれ、こちらが“それ”を意識した瞬間、向こうもこちらを意識し返してくるような何とも形容しがたい気配がある。

 互いが互いを引き寄せ合う磁力のようなものがそこには生まれるのだよ。私は凸で、穴は凹なのだ。

 だから私はそれを無視できず、気づけば足を止め、つい覗いてしまう。その瞬間、こちらが『見る』。そして向こうが『見られる』という一つの関係が成立するわけだよ。あるいは『見せられる』と『見せる』か。いや、『魅せられる』かな。ふははは。通り過ぎればそれで済むとわかっていても、一度そこに穴があると認識してしまった以上、その存在が意識の片隅に残り続ける。そう、それもまた穴なのだ。

 当然、覗いても、そこにはほとんど何もないさ。せいぜい側溝の底に溜まった湿った落ち葉や塀の向こう側の庭、木の洞で眠る虫が見える程度だ。何かが潜んでいるように見えても、実際にはただの影にすぎないことが多い。現実はそんなものだ。

 ただ、君も今度穴を覗く機会があったら、ぜひ意識してみてほしい。こちらが穴を覗いているだけではなく、穴のほうもまたこちらを覗き返している、とね。ちゃんと意識すれば、その感覚が目の周りにじわりと浮かび上がるはずだ。

 つまり、穴を単なる“物理的な穴”として見るのではなく、“概念としての穴”ごと覗き込むのだよ。

 私はその覗き返される感覚に奇妙な快楽を覚えてしまう性質でね。だから穴というものは単なる物体の欠損ではなく、世界の裏側へ通じる秘密の通路のように思えてならないのだ。

 子供の頃、庭の土を掘って『この先には別の世界があるのではないか』と本気で信じていたあの感覚が、いまだに私の中で燻り続けているんだ。ああ、そういえば一度、穴を掘っていたら別の穴に繋がったことがあったよ。むろん今の私なら、あれはモグラの巣穴だったのだろうと冷静に考えられるし、子供だった当時でも数日後にはそう思ったかもしれない。

 だが、あの瞬間だけは違った。

 本気で何か別の世界と繋がったのだと信じ、飛び跳ねたのさ。正直に言えば、あれで精通したのかもしれない。まさに通じたわけだね。

 あの頃は純粋だった。穴をまだ単なる穴としてしか認識していなかった。……いや、正確には少し違うな。その奥に別の意味が潜んでいることを無意識に感じ取っていた。そして、その正体を知りたいと思っていた。覗けば何かがいる。掘れば何かが出てくる。入ればどこかへ繋がると信じていた。穴も私も若かった。そして可能性に満ちていたのだ。

 しかし、大人になってから出会う穴は、より陰湿で狡猾だった。こちらが覗き込む前に、すでに心の隙間を測り、どこから入り込もうかと品定めしている気配がある。そう、人間の心のどこかにぽっかりと開いた形而上的な空洞のことさ。確かに、そこにはこちらが意識した瞬間、向こうからもこちらを覗き返してくるようなあの得体の知れない感覚もある。だが、それは子供の頃に感じた未知への胸躍る期待とは異なり、不気味でいやらしく、こちらの野心や欲望、あるいは心の脆い部分へ静かに爪を立てるような、とてつもない魔力を秘めているのだ。しかも厄介なことに、そうした穴は外から眺めているだけではその深さも形もわからない。だからこそ確かめたくなってしまうのさ。

 また、概念ではなく、実在する穴に対しても私はつい別の意味を見出してしまう。

 たとえば駅のホームと電車の間にできるあの細い隙間だ。あれは人間の不安を吸い込み、吐き出して呼吸する生き物のように思えてならない。私はあれを見るたびに『もし、ここに足を踏み外したら』という想像をしてしまうんだ。足先が滑り、身体の重心が崩れ、「あっ」と声を上げる間もなく暗い隙間に落ちていく。そしてその想像をしてしまった自分に気づいた瞬間、心の中にまた別の穴が開く。穴が穴を呼ぶ、連鎖反応に陥るわけだよ。

 こうして考えてみると、穴とは単なる物質的欠落であると同時に、こちらの精神のどこかに必ず対応する空洞を生み出すきわめて攻撃的な存在であり、しかもその攻撃は実に静かでほとんど気配を感じさせず、しかし確実にこちらの内側を侵食してくる。だから穴を前にすると妙に身構えてしまう人間は、無意識のうちに自分の中にある不安や脆さを感じ取っているのだろう。

 しかし、身構えれば身構えるほど、穴はますますこちらを誘い込むように口を開ける。それはまるで『お前の中にも穴があるだろう』と囁いているかのようで、ときに私はその誘惑に抗うことができない。見ないようにすればするほど気になり、気にすればするほどその存在は大きくなっていく。結局のところ、穴というものは世界の側に開いているのではなく、私自身の内部にこそ開いているのだと、私はそんなどうにも救いのない結論にたどり着いてしまうのである。それもまた穴の――】


「……あの?」


 おれはもう一度遠慮がちに声をかけた。

 この編集者、先ほどからほとんどページが進んでいない。眉間にうっすらと皺を寄せ、まるで難解な論文でも読んでいるかのような真剣な表情で原稿を睨み続けていた。

 何かミスでもあったのかと思い、そっと腰を浮かせて原稿を覗き込んでみると、そこは登場人物が延々と穴についてどうでもいいような持論を語り続ける場面だった。

 だからそこは読み飛ばして構わない。というより、むしろそうしてほしい部分なのだが、どうやらさっきの説明では伝わっていなかったらしい。


「あのー、そこはほんと読み飛ばして大丈夫なので……すみません……」 


「んー」


 編集者は返事とも唸り声ともつかない声を漏らした。こちらの声が聞こえていないのだろうか。

 だが、相手はプロだ。漫画家志望者ごときが何度もしつこく口を挟めば、馬鹿にされていると思われるかもしれない。

 とはいえ、この場面には作中の人物にも『長いなあ』『終わったら起こして』などと読み飛ばしを促す台詞を露骨に入れてある。それに気づかないはずがないのだが……。

 もちろん全部読んでもらっても構わない。ただ、読み飛ばされることでオチに繋がる仕掛けがあるのだ。ここを丁寧に読んでもらった結果、肝心なところで集中力が切れてしまうくらいなら、さっさと読み飛ばして先へ進んでほしいところだ。


「あの、そこ、本当に大丈夫なので。別に本筋と関係なくて、ただこう……ぐだぐだ語るキャラっていう描写なので、中身はほとんどないですし、軽く流すくらいで、はい……」


「ああ、はいはい」


 編集者はようやくこちらに一瞬だけ目を向け、軽く頷いた。

 よかった。どうやら今度こそ意図が伝わったらしい。説明して正解だったな。

 おれは胸を撫で下ろし、小さく息を吐いた。


【穴というものは、精神の空洞だの世界の裏口だのといった観念的な話だけにとどまる存在ではなく、もっと物理的で、もっと生々しく、そして大それたものでもなく、ごく日常の小さな隙間にずるりと入り込んでくる実に厄介な存在でもあるのだ。

 たとえば、靴下のつま先にいつの間にか開いているあの小さな穴。あれは単なる布地の劣化ではなく、日々の怠惰や加齢、あるいは人生そのものの摩耗が最も弱い場所から静かに顔を覗かせているように思えてならない。問題ないと思っていても靴の中で繰り返し擦られ、引っ張られ、気づかないうちに布地は薄くなっていく。そしてある朝、指先に違和感を覚えて視線を落とすと、そこには穴が開いているのだ。

 私はその穴を見つけるたびに、自分の身体のどこかにも同じような裂け目が生じているのではないかという妙な不安に駆られる。

 いやいや、なんてことはない。ただ捨てれば済む話ではないか――そう考える人もいるだろう。確かにそれも一つの選択ではある。『賢い』と付け加えてもいいかもしれない。

 だが、もし気づかなかったらどうだろう。あるいは気づいてもなお、『まだ履けるな』とそのまま履き続けたら?

 その行為自体が、穴を穴として受け入れる儀式となってしまうのだよ。それは契約であり、魂を一部譲渡したも同然なのだ。

 結局のところ穴とは、こちらがその存在を認識した時点で、すでに生活の一部へ侵食を終えている実に図々しい存在なのだ。しかもその図々しさは厄介なことに、壁紙の裏に静かに広がる湿気の斑点や古い本に刻まれた虫食いの跡のように、いわば時間という目に見えない力が物質に残した不可逆の痕跡として、じわじわとこちらの意識に染み込んでくる。そこに至るまでの時間や、そこから先に起こるかもしれない変化まで勝手に想像させられてしまうのだ。

 だから私は穴を前にすると、そこに開いているのが単なる空白ではなく、時間そのものが剥き出しの牙であり、こちらという存在を少しずつ静かに削り取っていく見えない捕食者なのではないかと思うのだ。そして、その考えこそがまた新たな穴を心の中に穿ち、気づけば私は穴に怯えながらも、同時に穴によって自分自身の輪郭を確かめているという、どうにも滑稽で、どうにも救いのない循環の中に閉じ込められてしまうのである】


「あのー……」


 おれは再び声をかけた。驚いたことに原稿は一ページも進んでいなかった。

 編集者は原稿を両手で持ったまま、こちらに視線を向けることなく、さっきから同じ箇所をじっと見つめている。

 なんという集中力だ。いや、むしろ本当に読んでいるのか疑わしくなってきた。


「あのー?」


「はいはい、ちゃんと読んでいますよ」


 編集者は顔を上げずに答えた。そのぶっきらぼうな返事に、おれは少しむっとした。


「いや、だからですね。その辺はそんなに真面目に読まなくてもいいんですよ」


「はいはい」


「ほんと、無理せず飛ばしちゃってください。そのくだりはあと数ページくらい続きますし」


「はいはい」


「飛ばしていただくと、それはそれでオチが活きるといいますか……」


「ええ、はい」


「いや、だからですね――」


「はーい」


「まあ……そういうわけなんで……よろしくどうぞ……」


【穴というものの厄介さは、こちらの生活に侵入してくるだけでは飽き足らず、いつの間にか『こちらの行動そのものを変質させてしまう』という点にもある。先ほどの靴下の話を例に考えてみよう。つま先の破れに気づいたあと、構わず履き続けたとする。人は無意識のうちにその穴を広げまいと、歩き方を微妙に変えるものだ。足の指をなるべく動かさないようにしたり、靴の中で当たる位置を気にし始めたりする。たった一つの小さな欠損のせいで、普段なら何も考えずに済ませている動作に、ほんの少し余計な意識を割くようになるわけだ。

 ああ、虫歯などもっとわかりやすい例だろう。穴に触れないように食べ物を反対側で噛むなど、食べ方に四苦八苦した経験は誰しも一度くらいはあるのではないだろうか。

 食事という日常行為そのものが、穴を中心に組み立てられてしまう。正確に述べるなら、支配しているのは穴そのものというよりも『穴を意識してしまった自分』なのである。穴は物質の欠損であると同時に、人間の行動様式を静かにねじ曲げる力を持ち、そのねじれは往々にして自覚されないまま、しかし確実に蓄積し、気づけば習慣や体の動かし方、物の扱い方、さらには時間の使い方にまで影響を及ぼしているのだ。

 そして、この変質は穴が増えるほど加速度的に広がっていく。一つの穴を見つけると、人は別の場所にある『まだ穴ではないが、いずれ穴になりそうな部分』を探し始める。壁に走る細いヒビ、縫い目のほつれ、皺に擬態するビニールの切れ目。そうした穴の前兆が次々と視界に浮かび上がり、やがて生活空間全体が潜在的な穴の候補地として立ち現れてくるのだ。たとえ見つけた穴を塞いだとしても、その意識からは簡単には逃れられない。

 穴は点ではない。面状に広がる存在なのだ。こちらが穴を探しているつもりでも、実際には穴のほうがこちらの視界を占拠し、認識のあり方を塗り替えている。現実に開いている穴より、『これから開くかもしれない穴』のほうが、人間の意識に対してはるかに強い影響力を持っている。もちろん、これは物質的な話だけではない。

 さらに言えば、穴は“修復”という行為にすら影を落とす。塞いだはずの穴の跡を見るたびに、人は『かつてここに穴があった』という事実を思い出してしまう。その記憶がまた新たな不安の温床となるのだ。補修した壁紙のわずかな色の違い、縫い合わせた靴下の不自然な厚み、テープで留めた本のページの硬さ――それらはすべて、一度穴がこちらの生活に侵入した証拠であり、穴は消えたのではなく姿を変えて居座っているのだと告げてくる。

 これは実に恐ろしいことではないか。穴は開いているときよりも塞がれたあとにこそ、深く人間に食い込んでくる。穴があったという記憶そのものが生活の底へ沈殿し、時間とともに警戒心や違和感へと姿を変えながら残り続ける。穴は消えてもなお、影響を及ぼし続けるのだ。

 いや、少々穴を恐ろしく語りすぎてしまったのかもしれない。穴そのものの怖さはむしろ単純なものだ。落ちる、はまる、足を取られる――そういった表現で事足りるだろう。暗ければ底が見えないし、深ければ落ちたあとにどんな怪我をするかわからない。それだけの、ごく当たり前の危険だ。

 もっとも、そんな単調さも穴の魅力の一部ではある。ただし、勘違いしないでほしい。穴というものは単純でありながら同時にきわめて複雑であり、高次元的な存在でもあるのだ。

 世界は本来、密度が高すぎる。物質は凝縮し、時間は絶え間なく流れ、意識は際限なく生成され、意味は過剰に蓄積していく。もしその密度を放置すれば、世界そのものが自らの重みに耐えられず、圧壊してしまうだろう。だから穴はその圧力を外へ逃がす排気孔として存在している。靴下の破れも、壁の穿孔も、地面の裂け目もすべては世界が自らの余剰な重量を吐き出した痕跡なのだ。穴の前に立つと、どこか世界そのものが呼吸をしているような気配を感じるのはそのためなのだよ。

 では、穴は単に世界の密度を逃がすためだけに存在しているのか。それは違うよ、君……。

 ちょっと試しに穴の中に手や指を差し入れてみてほしい。何も入っていない穴に、だ。ただし、縁には触れないようにね。

 どうだい。何かに触れている感覚はあるかな。もちろん、ないはずだ。そこには何も存在していないのだから。

 けれども、そこに確かに存在するものがある。それは……『無』だ。無とは本来、この世界の外側にしか存在しない概念のはずだ。それにもかかわらず、穴だけはその無が世界に触れるための唯一の接点として機能している。古今東西、地獄や冥界への入口として語られてきたのがなぜ穴なのか、少し考えてみるといい。きっと理解できるのではないかな。

 穴の暗さとは単なる光の欠如ではなく意味の欠如であり、穴の奥行きとは空間の深さではなく存在の限界そのものであり、穴の縁とは物質の境界ではなく世界と無とが唇を重ねる接吻点にほかならない。我々が穴に抗い難いほど惹かれてしまうのは、その奥に世界の外側が露出しているように感じるからであり、穴とは宇宙が自らの外皮を裂き、その裂け目から無をこちらへ覗かせた瞬間の痕跡なのだ。

 つまり穴とは、世界のあらゆる場所に散在しながら、常に『欠落』と『存在』、『内』と『外』、『始まり』と『終わり』を同時に抱え込む奇妙な構造体なのである。地球の地殻に刻まれた洞窟や噴火口のように地質学的な時間の堆積を物語るものもあれば、動物たちの巣穴のように生命を守る住処となるものもある。木の洞は腐朽と再生が同居する空間を生み出し、人工物では針の穴や鍵穴、トンネルや窓のように人間が目的のために意図的に設けた機能的な空白として文明を支えてきた。身体においては口や鼻孔、耳孔、血管内腔、イオンチャネルに至るまで、穴は外界との物質交換を可能にする生命の根本構造となり、心理の領域では喪失や虚無感を『心に穴があく』と表現し、文化や神話では井戸や洞窟が異界への入口として繰り返し描かれ、宗教儀礼では再生や通過の象徴として現れ、文学では未知への旅や内面の暗部を映し出すメタファーとして機能し、芸術では無限や反復、自己消失の象徴として現れ、宇宙物理学ではブラックホールが光さえも脱出できない時空の歪みとして語られ、ワームホールが空間同士を結ぶ理論上の通路として想像されてきて、数学のトポロジーではドーナツやコーヒーカップのように穴の数が物体の本質を決定づけ、日常生活では靴下の穴、壁の穴、排水口、マンホール、ストロー、ボタン穴といった存在が便利さと不便さを同時にもたらし、社会では制度の穴が不平等や混乱を招き、言語では意味の穴があるからこそ解釈の余地が生まれ、記憶においては忘却の穴が思い出せないことへのストレスを生むと同時に人間らしさを形作り、また忘却があるからこそ人は耐え難い過去を抱えながらも生き続けることができ、性的な意味においては穴は人間の本能に訴えかける強い象徴性を持ち、覗き行為を誘発し、女性が股を開けば性的欲求を著しく高め、より深く穴の奥へ奥へと進みたいという衝動を掻き立てる。そうした多層的かつ相反する意味合いが複雑に絡み合っているからこそ、穴は単なる空白では終わらず、世界の構造そのものを映す鏡であり、存在の輪郭を際立たせる影であり、未知への入口であり、恐怖と魅力が渦巻く深淵でもある。我々が穴を覗き込んだとき、その奥に見えているのは単純な空虚ではなく、世界の成り立ちと自分自身の内側が反射し合う果てしなく広大な空間なのだ。

 穴を語るという行為は、結局のところ、世界の複雑さと人間の精神の奥行きを語るに等しく、穴という概念はどれほど言葉を重ねても語り尽くせず、むしろ語れば語るほどその中心は遠ざかり、まるで穴そのものが無限に広がっていくかのように、我々を終わりなき思索へと誘い続けるのだ。穴は――】


 数時間が経過した。

 いったいいつまで続くのか。いつ終わるのか。それを書いたのはおれ自身のはずなのに、もはや見当がつかなくなっていた。作品はとっくの昔におれの手を離れ、誰の制御も及ばない場所を宇宙塵のように漂っているということなのか。あるいは、おれはおれ自身が生み出した地獄という名の穴に落ちてしまったのか。

 おれはパイプ椅子に座ったまま、ぼんやりと白いパーテーションの一点を見つめ続けていた。

 意識を遠くへ逃がし、今ここに座っているのはおれではなく、別のおれなのだと思い込むことで現実から距離を置こうとしていた。

 何もない白い壁をじっと見つめていると、やがて視界の中央に黒い点が浮かび上がってきた。

 おそらく目の疲れだろう。そう思った。だが、その点は静止しているようでいて、ほんのわずかに蠢いているようにも、あるいはゆっくりと回転しているようにも見えた。

 見れば見るほどその黒い点は周囲の白から切り離され、大きく深くなっていくような錯覚が強まっていく。


 ――あっ……穴だ。


 あれは穴だ。

『穴が開くほど見つめる』という慣用句があるが、それは間違いだ。正確には、見つめ続けるから穴が開くのだ。

 穴は最初からどこにでも存在している。我々がそれを認識していないだけで、この世界は穴だらけなのだ。

 それは個人の欠点や組織の穴といった弱点だったり、落とし穴といった罠や危険の示唆、制度の穴、記憶の穴、心の穴――形を変え、呼び名を変え、意味を変えながら穴は至るところに潜んでいる。

 穴とは空洞であり、埋めたいものであり、何かを隠す場所であり、あるいは穴そのものが隠される対象でもあり、性的な意味を帯びた 穴 であり、やはり  奥へ挿れ たい  もので  あ  り  あ  な  と   は――。


「なるほど」


「えっ」


 ふいに声がして、おれははっと我に返った。とんとん、と原稿の束を机の上で揃える乾いた音が響いた。

 ついに読み終えたのか――。


「感想いいかな?」


「は、はい……」


 おれは掠れた声で返事をしたあと、ごくりと唾を飲み込んだ。


「この、穴について語っている部分だけどさあ……」


「あ、はい……」


「めちゃくちゃ面白いよお!」


 どうやらこの編集者、目が節穴のようだ。

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