第29話「あなたともっと一緒にいたい。」
マンションのエントランスへ入り、陽菜子は足を止めた。
さっきまで隣にあった温もりが、まだ身体に残っている。
今日一日、ずっと一緒にいた。
水族館へ行って、ご飯を食べて、手をつないで歩いて。
最後には、初めてハグもした。
十分すぎるくらい幸せだったはずなのに。
(……もっと一緒にいたい。)
胸の奥から湧き上がった気持ちは、少しも消えてくれなかった。
神崎も、同じ気持ちなのだろうか。
このまま部屋へ帰ったら、きっと後悔する。
そう思った瞬間、陽菜子はマンションの出口へ向かっていた。
自動ドアを抜け、マンションの外へ飛び出す。
少し先に、帰っていく神崎の後ろ姿が見えた。
「紅夜くんっ!」
陽菜子の声に、神崎が振り返る。
「陽菜子さ――」
その言葉が最後まで続くより先に。
陽菜子は神崎の胸へ飛び込んでいた。
「っ……!」
神崎の身体がびくっと大きく跳ねる。
「ひ、陽菜子さん!? どうしたんですか?」
さっきのハグとは違う。
今度は、してみたいと思ったからではない。
ただ、離れたくなかった。
陽菜子は神崎の服をぎゅっと掴んだまま、顔を上げる。
「……私、もっと一緒にいたいんです。」
「…………。」
神崎の目が見開かれる。
陽菜子自身、口にしてから急に恥ずかしくなってきた。
頬がどんどん熱くなる。
それでも、腕を離すことはできなかった。
「紅夜くんは……違いますか?」
神崎の喉が、ごくりと鳴る。
しばらく何も言わなかった神崎は、やがて陽菜子の背中へそっと腕を回した。
「……俺もです。」
低い声が、すぐ近くから聞こえる。
その一言だけで、陽菜子の胸がいっぱいになった。
「本当ですか?」
「はい。」
神崎は陽菜子を抱きしめたまま、少し困ったように笑った。
「さっき別れたばかりなのに、もう戻りたいと思っていました。」
「……同じですね。」
「同じです。」
陽菜子はほっとしたように笑った。
けれど。
同じ気持ちだと分かってしまったら、今度こそ離れるのが嫌になった。
陽菜子は少し迷ったあと、神崎の胸元へ視線を落とす。
「あの……紅夜くん。」
「はい。」
「だったら……。」
陽菜子はおそるおそる顔を上げた。
「もう少しだけ、一緒にいてください。」
「もちろんです。」
即答だった。
陽菜子は一瞬だけマンションを振り返る。
そして、再び神崎を見る。
「……うち、寄っていきませんか?」
「…………。」
神崎の表情が消えた。
「紅夜くん?」
「…………。」
「聞こえました?」
「聞こえました。」
神崎はゆっくり口元を押さえる。
耳が、みるみる赤く染まっていった。
「では、なぜ黙ってるんですか?」
「今、必死に理性を保っています。」
「え?」
神崎は深く息を吸った。
「陽菜子さん。」
「はい。」
「今の俺に、その言葉は少し危険です。」
「危険?」
陽菜子は不思議そうに首を傾げる。
「前にも、うちに来たことあるじゃないですか。」
「あります。」
神崎は即答した。
「あのときは、酔った陽菜子さんを送り届けただけです。」
「朝ごはんも一緒に食べましたよ?」
「それも覚えています。」
神崎はますます顔を赤くする。
「ですが、あのときと今では状況が違います。」
「何が違うんですか?」
「……今は、恋人です。」
「…………あ。」
言われて初めて、陽菜子も気づいた。
あのときはまだ、恋人ではなかった。
しかも自分から家へ誘ったわけでもない。
けれど今は。
自分から、もっと一緒にいたいと言って。
そのうえ、家へ誘っている。
「……そ、そうですね。」
陽菜子の顔まで一気に熱くなった。
「別に、変な意味じゃないですよ?」
「分かっています。」
「本当に、もう少し一緒にいたいだけで……。」
「それも分かっています。」
神崎は胸元を押さえ、大きく息を吐いた。
「分かっているからこそ、嬉しすぎて困っています。」
陽菜子は少しだけ目を丸くしたあと、くすっと笑った。
「じゃあ……来ますか?」
神崎は数秒、黙り込んだ。
まるで人生を左右する決断でもするような顔で、ゆっくりとうなずく。
「……お邪魔します。」




