第20話「この気持ちは、なんと言ったらいいのですか? 」
平日は、お互い仕事に無理のない範囲でランチへ行く。
土曜日にそう約束してから、初めての月曜日。
陽菜子が出勤すると、経理部の入り口に神崎が立っていた。
「春宮さん、おはようございます」
「神崎さん、おはようございます。朝からどうしたんですか?」
「今日もお会いできて嬉しいです。あと、今日も世界一可愛いですね」
「ふふっ。朝からありがとうございます」
陽菜子はもうすっかり慣れた様子で笑った。
以前なら、そんなことを言われれば戸惑っていたはずなのに。
神崎が自分を『推し』だと知った今では、これも彼なりの挨拶なのだと思っている。
「今日は、お昼どうですか?」
「はい、ぜひ」
陽菜子は満面の笑みで答えた。
「……っ」
神崎は一瞬胸元を押さえた。
「どうしました?」
「いえ。朝から素晴らしい笑顔をいただいたので、少し寿命が縮んだだけです。」
「それ、大丈夫じゃないですよね?」
「本望です。」
「本望じゃ困ります。」
陽菜子はくすくすと笑った。
翌日の火曜日。
この日は神崎に昼の会食が入っており、一緒にランチを取ることはできなかった。
その代わり、陽菜子が席へ戻ると、デスクの上には見慣れたチョコレートと一枚の付箋が置かれていた。
『今日は一緒に行けなくて残念です。また空いている日があったら誘いますね』
見慣れた神崎の字。
陽菜子は付箋を手に取り、小さく笑った。
「……ちくわくん、律儀だなぁ。」
一緒にランチへ行けないだけなのに、わざわざこんなものを残してくれる。
チョコレートを引き出しへしまい、付箋をそっと手帳へ挟んだ。
水曜日の朝。
今日も経理部の前には神崎の姿があった。
けれど、月曜日とは少し様子が違った。
神崎は数人の女性社員と話をしていた。
以前なら考えられないほど、柔らかな表情を浮かべている。
「神崎さんって、意外と話しやすいんですね。」
女性社員の一人が笑う。
「そうですか?」
神崎も穏やかな笑顔を返していた。
その光景を見て、陽菜子は足を止めた。
以前の神崎なら、興味のない相手には冷たい態度を取っていた。
けれど、最近は違う。
――もう少し優しい断り方のほうが安心ですよ。
以前、自分がそう言ったことを思い出す。
ちゃんと聞いてくれていたんだ。
そう思うと、陽菜子は嬉しくなった。
「あ、春宮さん!」
陽菜子に気づいた瞬間、神崎の表情がさらに明るくなる。
「おはようございます。」
「神崎さん、おはようございます。」
陽菜子が近づくと、話していた女性社員たちは神崎と陽菜子を交互に見てから、その場を離れていった。
「最近、神崎さん優しいよね。」
「うん。前より話しかけやすくなった。」
そんな会話が遠ざかっていく。
「春宮さん、今日もランチどうですか?」
「はい。行きましょう」
陽菜子は笑顔で答えた。
そして木曜日。
陽菜子が経理部へ向かっていると、今日も入り口の前に神崎がいた。
けれど、神崎の前には一人の女性社員が立っていた。
「神崎さん、今日のお昼空いてます? よかったら一緒に行きませんか?」
ランチに誘われているようだった。
「すみません。今日は昼前に取引先との予定が入っていますので。」
神崎は以前のように冷たく突き放すことなく、丁寧に断っていた。
「そっか。残念です。また今度誘ってもいいですか?」
「予定が合えば。」
女性社員は嬉しそうに笑った。
陽菜子は少し離れた場所から、その様子を眺めていた。
神崎が変わってくれたことは嬉しい。
誰に対しても冷たかった以前より、今のほうがずっといい。
――そのはずなのに。
なぜか、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
「春宮さん!」
陽菜子を見つけた神崎が、すぐに駆け寄ってくる。
「おはようございます。今日も素敵ですね。」
「ふふっ。おはようございます。ありがとうございます。」
「すみません。今日は昼前にアポが入ってしまって、ランチをご一緒できそうにないです……。」
神崎は見るからにしょんぼりと肩を落とした。
「そんなに落ち込まなくても。お仕事なんですから。」
陽菜子が笑う。
「そうなんですが……残念です。」
神崎は鞄から小さな箱を取り出した。
「なので、これ。よかったらどうぞ。」
「え?」
受け取った箱を見る。
いつものチョコレートより、明らかに高級そうだった。
「こんなにいいもの、もらっていいんですか?」
「もちろんです。」
「神崎さん、いつもありがとうございます。じゃあ、私からも。」
陽菜子は鞄の中から、小さな袋を取り出した。
「これ、どうぞ。」
「ありがとうございます。これは……?」
「クッキーです。昨日、家で焼いたんです。」
神崎の動きが止まった。
「……手作り?」
「はい。お口に合うといいんですけど。」
「春宮さんの……手作り……。」
神崎は震える両手でクッキーを受け取った。
「ありがとうございます。一生大切にします。」
「食べてくださいね?」
「……はい」
陽菜子は思わず吹き出した。
「ふふっ。大げさですよ。」
「大げさではありません。家宝級です。」
「クッキーは腐っちゃいますから。」
「では、包装だけでも……。」
「それは好きにしてください。」
呆れながらも、陽菜子は楽しそうに笑った。
その日の昼休み。
神崎とランチへ行けなかった陽菜子は、久しぶりに恵美と社員食堂で昼食を取っていた。
「ねえ、陽菜子」
「ん?」
「神崎さんさ、最近ほかの人から誘われること増えてない?」
箸を動かしていた陽菜子の手が、一瞬止まった。
「……あ、そうだね。」
「なんか前より雰囲気柔らかくなったよね。話しかけやすくなったって、経理の子たちも言ってたよ」
「うん。」
陽菜子は小さく笑った。
「前より優しくなったよね。私も、そのほうがいいと思う。」
そう答えたものの、今朝の光景が頭に浮かぶ。
神崎をランチへ誘っていた女性社員。
胸の奥が、わずかに重くなった。
「……陽菜子?」
「え?」
「なんか嬉しくなさそうだけど。」
「そんなことないよ。」
慌てて笑ってみせる。
恵美はそんな陽菜子をじっと見つめた。
「ねえ。前から聞こうと思ってたんだけどさ。」
「なに?」
「あんなにいつも陽菜子に優しくしてくれる神崎さんのこと、陽菜子はどう思ってるの?」
「え?」
陽菜子は目を瞬いた。
「私のファンだって言ってたよ?」
「ファン?それは神崎さんから陽菜子への気持ちでしょ。」
「うん。」
「逆。陽菜子は神崎さんをどう思ってるの?」
「……私?」
「そう。」
陽菜子は言葉に詰まった。
神崎が自分をどう思っているのか。
それなら答えられる。
二年前から自分を見ていてくれた。
残業していると、名前も告げずに差し入れを置いてくれた。
そして、自分のことを『推し』だと言ってくれた。
けれど――。
自分が神崎をどう思っているのか。
そんなこと、今まで考えたことがなかった。
「ちくわくんは……。」
陽菜子は真剣に考え込む。
「……会社の人?」
「疑問形じゃん。」
恵美が呆れたように笑った。
「だって、急に聞かれても……。」
「じゃあさ。」
恵美は頬杖をついた。
「神崎さんがほかの女の人と毎日ランチへ行くようになっても、なんとも思わない?」
「それは……。」
陽菜子は答えられなかった。
今朝の光景が、再び頭に浮かぶ。
神崎へ楽しそうに話しかける女性社員。
もし、あのとき神崎に仕事の予定がなかったら。
二人でランチへ行っていたのだろうか。
自分に向けてくれるような優しい笑顔を、その人にも向けるのだろうか。
そう考えると――。
胸の奥が、少しだけ苦しくなった。
「……ちょっと、寂しいかも。」
陽菜子は小さな声で答えた。
恵美はしばらく陽菜子の顔を見つめた。
それから、意味ありげに笑う。
「それ、本当に『ファンと推される側』だけの感情?」
「……え?」
陽菜子は答えられなかった。
神崎がほかの女性と楽しそうに話していると、少しだけ寂しい。
自分以外の誰かとランチへ行くところを想像すると、胸の奥がもやもやする。
でも、その感情をなんと呼べばいいのか。
陽菜子には、まだ分からなかった。
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