死の呪いと嫌悪の呪いをかけられた銀の血の公爵令息、私だけが彼に普通に触れられるのは前世の記憶があるからです
## 第1話 ヴァイスローゼ家の血
赤い、と最初に思った。
赤は、午後の薔薇園に降りそそぐ陽光と同じ色をしていた。父さまが、その薔薇のあいだに倒れている。胸に、見慣れない長剣が刺さっている。
「お前のせいだぞ、エルネスタ」
叔父さまが、息を切らしながら笑っていた。「お前さえいなければ、私が公爵だった。お前の母親が死んでくれた時、私は神に感謝したのだ。あとはお前と兄を片付けるだけでよかった」
エルネスタ・フォン・ヴァイスローゼは、五歳だった。
五歳の脳では、目の前の光景は処理しきれないはずだった。
——けれども。
血だまりに膝をつくその瞬間、エルネスタの内側で、何かが裂けた。
別の人生の、別の名前が、なだれを打って流れ込んできた。
水瀬詩織。
二十六歳。
都内の創薬会社で、新薬の薬効評価を担当していた研究員。
三日連続の徹夜明けに、社員寮の浴室で倒れた。動かない手で携帯を握りしめながら、ああ、私は今、死ぬのだ、と理解した最後の数十秒。
詩織だった私が、エルネスタになった。
その記憶の濁流のなかで、エルネスタはひとつだけ理解した。
「ここで泣いてはいけない」
泣けば、叔父はとどめを刺す。母を毒で殺し、父を剣で刺した男だ。五歳の姪を殺すことに、どれほどの躊躇もしないだろう。
エルネスタは、薬剤師としての訓練を受けた前世の手で、自分の頬を内側から噛んだ。痛みで嗚咽を抑える。
「叔父さま」
震える声で、できるだけあどけなく、言った。
「お父さまは、どうして倒れているのですか」
叔父グレゴリオは、刹那、戸惑った顔をした。
五歳の子どもが、目の前の死を「理解していない」のだと、判断したのだろう。
「兄さんはな、エルネスタ。ご病気で、急に倒れたのだ。叔父さまが、これから屋敷を守ってあげる。お前は、もう、お父さまには会えない」
「……はい、叔父さま」
うつむいて、エルネスタは小さく頷いた。
胸の奥では、別の声が、低く吼えていた。
——必ず、討つ。
その夜、自室に戻されたエルネスタは、寝台の天蓋の影で目を見開いていた。
詩織の記憶が、整理されていく。化学。薬学。物理。基礎医学。倫理学。人事評価面談。プロジェクトマネジメント。論文。学会。コーヒーの淹れ方。
——そして、誰にも頼らずに自立して生きるという、二十年あまりの習慣。
(母さまは半年前に病死した。前世の知識で振り返れば、あれは中毒症状だった。叔父叔母の長期計画だ。私は次に殺される)
幼い手を握り込み、エルネスタは決めた。
生き延びる。
そのうえで、必ず、父の仇を取る。
そして——
「お父さま、ごめんなさい」と、静かに呟いた。
「私は、もう、五歳の子どもではいられません」
天蓋の隙間から差し込む月光に、亜麻色の髪が銀色に光った。
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## 第2話 ★アルジェント家の銀の子
★セルディアス視点
セルディアス・フォン・アルジェントは、五歳の誕生日を、地下の食料庫で迎えた。
「銀の血の汚らわしい餓鬼が、なぜ陽の下に出てくるのです」
義母クラリッサの白い指が、鞭の柄を弄ぶ。
彼女は、セルディアスを、まともに、見ようとしなかった。視線を合わせるだけで、肌が粟立つ、と、本気で、感じていたからだ。嫌悪の呪いは、義母自身にも、深く、しっかりと、効いていた。けれど、それは「呪いのせい」だ、と、彼女自身は、思っていなかった。彼女にとって、それは、純粋な、本物の、嫌悪だった。
「お前は呪いそのものなのだから、暗いところがふさわしいのよ、セルディアス」
義弟ロデリックは、誕生日の主役だった。
本当はセルディアスの誕生日のはずだった。
けれども。
その朝、玄関広間に並んだ家令たちは、誰一人、嫡男の名を呼ばなかった。
「五歳の坊ちゃま、おめでとうございます」
小さな白い騎士の人形を抱いて笑うのは、義弟だ。
セルディアスのために用意されたはずの白い騎士は、義弟の腕の中にあった。
セルディアスは、地下の食料庫で、冷たい床に膝をついていた。
今日も、食事は出ない。
(おなかがすいた)
ぐしゃ、と顔を腕で拭った。涙ではない、と自分に言い聞かせた。
銀の血の子は泣かない。父さまも、亡くなる前にそう言っていた。
お前は、いずれ気づく。お前の血が、王家を凌ぐ古さであることを。お前を恐れる者は多い。だがお前自身が恐れてはいけない、と。
父さまは、二年前に死んだ。
落馬だった、と義母は言った。
セルディアスは、それが嘘だと、五歳の子どもながらに知っていた。
(僕は、銀の血の最後の正統な子。義母は、王家の傍流。義弟は、義母の連れ子で、本当は父さまの子じゃない)
幼い頭で組み立てた事実は、しかし、誰にも言えなかった。
言えば、殺される。
それは、本能的にわかっていた。
地下の闇のなかで、セルディアスは、自分の小さな手のひらを見つめた。
銀色の髪が額にかかる。藍紫の瞳が、暗がりで仄かに光る。
「お前なんて、生まれてこなければよかったのに」
義弟ロデリックが、地下に投げかけてきた言葉。
それは、屋敷中の人間が、目で語っていた言葉だった。
セルディアスは、声を出さずに、頷いた。
そうかもしれない、と。
銀の血を継ぐ子として生まれて、それで何になる。
誰も、自分を見てくれない。
——その夜、地下の食料庫で、セルディアスは、初めて意識的に、人を恨んだ。
五歳の子どもが、人を恨むということを覚えた。
そして、ふと、思った。
半年後に、婚約者が決まるのだという。
ヴァイスローゼ公爵家の、お嬢さま。
(その人も、僕を見ない)
それが、当然だった。
セルディアスは、自分が「見られない」ことに、もう、慣れ始めていた。
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## 第3話 婚約者の顔合わせ
ヴァイスローゼ家の屋敷は、半年前から、ぴくりとも動かなくなった父の遺産で運営されていた。
正確には、叔父グレゴリオが運営している、ことになっていた。
帳簿は、すでにエルネスタが密かに目を通していた。前世で投資信託の目論見書を読み解いていた目には、叔父叔母の横領は、子どもの落書きほどに杜撰だった。
(けれども、今は黙る)
エルネスタが選んだ生存戦略は、「無能で従順な姪」を演じきることだった。
叔母ベアトリーチェに頭を撫でられれば微笑んでみせ、いとこのフェルディに人形を取り上げられても抵抗せず、食事の時間を遅らされても文句を言わない。
かわりに、夜中に書斎に忍び込み、父の魔術書を読んだ。母の遺した薬草標本を写した。父の知人——王立魔術師団のロベルト師——への手紙の下書きを、何度も書いては破った。
そして、ある日、叔父が、忘れていた婚約契約書を持ち出してきた。
「エルネスタ、お前は、来月、アルジェント公爵家のセルディアス様にお目通りすることになっているそうだ。先代の取り決めだ」
叔父は、面倒くさそうに言った。
「本来なら、今すぐ破棄してもよいのだがな。アルジェントの坊ちゃまは『呪われている』と評判だ。会ってきて、お前のほうから婚約破棄を申し出てこい。話はそれで終わる」
「……はい、叔父さま」
エルネスタは、頷きながら、頭の中では別のことを考えていた。
銀の血の公爵家。父の書斎の歴史書では、王家より古い真祖の血統。
それが「呪われている」と評判?
論理的におかしい。意図的に貶められているのだ。
そして、当日。
アルジェント公爵家の応接間に通されたエルネスタは、はじめて、その「呪い」を見た。
部屋に入った瞬間、案内の家令の足が止まった。
ぴたり、と。
その家令は、ある一点を、絶対に見ようとしなかった。
壁際の、椅子に座る、銀髪の少年を。
エルネスタも、視線を、その少年に向けた。
——奇妙な感覚があった。
何かが、視線を逸らさせようとしてくる。粘度のある霧のような、嫌悪の指。
詩織だった頃の冷静さで、エルネスタはその力に気づき、そして、押しのけた。
(これは、呪い。前世の世界には存在しなかった種類の、心理干渉系の魔術)
エルネスタは、無視した。
霧を払うように、すっ、と前に進み、銀髪の少年の前で膝を折った。
「はじめまして、セルディアスさま。エルネスタ・フォン・ヴァイスローゼと申します」
セルディアスが、顔を上げた。
藍紫の瞳が、戸惑いに揺れていた。
それは、彼の生きてきた五年間で、はじめて、自分の名を呼ばれた瞬間だった。
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## 第4話 ★避けてくれない少女
★セルディアス視点
——僕の名を、まっすぐ呼んだ。
セルディアスは、椅子の肘掛けを握りしめた。指が震えるのを止められなかった。
「……エルネスタ、嬢」
声が掠れた。声を出すこと自体が、久しぶりだった。屋敷の人間は、誰もセルディアスに話しかけなかった。義母の前で口を開けば叩かれた。家令たちは、目線を絶対に合わせなかった。
エルネスタ嬢は、目を逸らさなかった。
(なぜだ)
セルディアスの背中を、冷や汗が伝った。
五歳のセルディアスは、まだ自分にかかっている呪いの全貌を理解していなかった。ただ、世界が自分から目を逸らすこと、肌に触れた瞬間、誰もが反射的に手を引っ込めること、その理由が「自分が悪いから」ではないかもしれない、と、薄々考え始めていた段階だった。
しかし、目の前の亜麻色の髪の少女は。
普通に、見ていた。
普通に、笑っていた。
普通に、声を発していた。
「セルディアスさま、お加減はいかがですか」
エルネスタ嬢が、すっ、と片手を差し出した。
小さな、白い、五歳の手。
セルディアスは、息を止めた。
手を取れ、という意味だ、と理解するのに、数秒かかった。
そして、取れない、と思った。
取った瞬間、彼女の顔も歪むに違いない。義母の顔のように、家令たちの顔のように、嫌悪と侮蔑で。
——けれども、エルネスタ嬢は、待っていた。
じっと、待っていた。
セルディアスは、震える手を、伸ばした。
触れた。
エルネスタ嬢は、笑顔のままだった。
ぱっと、彼女の若葉色の瞳が、嬉しそうに細められた。
「よかった、お会いできて」
その瞬間、セルディアスの目から、勝手に涙が落ちた。
「あ、」
慌てて頬を拭った。義母に泣くなと言われている。男の子は泣くなと、亡くなった父にも言われていた。けれども、止められなかった。
エルネスタ嬢は、何も言わずに、自分のハンカチを差し出した。
レースの縁取りの、丁寧に刺繍された、五歳の少女のハンカチ。
彼女自身が刺繍したのだろう、と、セルディアスは、なぜかわかった。
その夜、地下ではなく、自室の寝台で、セルディアスは、ハンカチを抱きしめて眠った。
枕に顔を埋めて、声を殺して、泣いた。
(あの人は、僕を、見てくれた)
たったそれだけのことが、五歳のセルディアスの世界を、塗り替えていた。
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## 第5話 七歳の誕生日に
二年が過ぎた。
エルネスタは、七歳になっていた。叔父叔母の屋敷では、相変わらず「無能で従順な姪」を演じていた。鳴りを潜めて、しかし、書斎の魔術書はすでに半分以上、頭に入っていた。手紙のやり取りは、王都のロベルト師のもとへ、月に一度、こっそり届いていた。
そして、セルディアスは、その日、七歳の誕生日を迎えた。
死の呪いが発動する日だった。
——朝の知らせは、悲鳴で届いた。
「セルディアスさまが、血を吐かれて、お倒れに、」
家令の悲鳴混じりの伝令が、ヴァイスローゼ家の応接間にもたらされたのは、エルネスタが叔父叔母の朝食に毒見役として同席していた最中だった。
「すぐに伺います」
エルネスタは、即答した。
叔父叔母は、止めなかった。むしろ、眉をひそめた程度だった。
彼らにとって、「呪われた婚約者の死」は、好都合だったのだ。
馬車のなかで、エルネスタは、用意してきた革のポーチを膝に抱いていた。
そこには、エルネスタが二年かけて調合した、十二種類のハーブと、七種類の魔石粉と、三種類の塗り薬が入っていた。
前世の薬剤師の知識と、この世界の薬草学を融合させ、何度も試して、安全な配合に煮詰めたものだった。
(間に合って)
馬車は、アルジェント公爵家に到着した。
案内された主寝室で、セルディアスは、白い枕に頭を沈めていた。
口の端に、血の筋が乾いていた。
銀髪が、汗で額に貼り付いていた。
藍紫の瞳が、半開きで、エルネスタを見つけた瞬間、ふっ、と笑った。
「来て、くれた」
「当然です」
エルネスタは、寝台の脇に膝をつき、ポーチを開けた。
家令たちが、後ろで困惑している。「呪われた血を吐く子」に、近づこうとする少女は、初めてだったのだ。
「白湯を一杯、ハチミツをひとさじ、それから乾燥カモミールを大さじ二杯、煎じてください。十分蒸らして、温度は——」
エルネスタは、淀みなく指示を出した。
「セルディアスさま、お腹に痛みは。胃か腸か、どちらが強いですか。指先のしびれはありますか」
セルディアスは、ぼうっとした目で、エルネスタを見上げた。
誰も、彼の体調をこんなふうに尋ねたことはなかった。
ただ「呪いだから仕方がない」と、皆、肩をすくめてきた。
「……腹の、奥が、燃えるみたいだ」
「指は、しびれない」
「咳が、出ると、血が」
「肺ではなく胃が中心ですね。良かった」
エルネスタは、自分の両手を擦り合わせて温めた。
「セルディアスさま、おへその、すぐ下に、触れさせてください」
「……いい、けど」
セルディアスの腹に、エルネスタの両手が当たった。
ぱあ、と緑色の魔力が、エルネスタの掌から流れ出した。鎮静と修復の、薬剤師らしい優しい治癒魔術。
セルディアスの呼吸が、少しずつ、整っていった。
呪いそのものは消せない。けれども、呪いが体に与える物理的損傷は、応急処置できる。
論文を書くように、エルネスタは、その手順を頭の中で組み立てていた。
「セルディアスさま」
「……うん」
「私は、あなたを生かします」
セルディアスの藍紫の瞳が、見開かれた。
誰かに「生かす」と、はっきり、宣言されたのは、初めてだった。
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## 第6話 父の遺品の魔術陣
ヴァイスローゼ家の書斎の床下に、父が遺した秘密の収納があった。
七歳になったエルネスタは、ある夜、それを発見した。
きっかけは、書斎の絨毯の縁が、わずかにめくれていたことだった。
詩織だった頃の癖で、何度も同じ場所を踏んで擦り切れた絨毯の縁を直そうとして、その下の床板が、わずかに浮いているのに気づいた。
蝋燭を一本、机の上で揺らしながら、エルネスタは、床板を持ち上げた。
そこには、革張りの分厚い手帳と、銀の鎖でくくられた魔術陣の図面と、母の筆跡で書かれた便箋が、入っていた。
『エルネスタへ。
これを読んでいるなら、私は既にこの世にいません。
父さまも、おそらく。
ヴァイスローゼ家の血は、グレゴリオ叔父さまにとって、ずっと邪魔だった。
彼は、私を毒した。次は父さま、そしてあなた。
逃げる準備を、必ずしてください。』
エルネスタは、便箋を二度、読んだ。
それから、深呼吸を三回した。
(母さま、ありがとうございます)
母は、知っていた。気づいていて、それでも、間に合わなかった。
五歳のエルネスタを残して死ぬ、その無念を、文字に閉じ込めて、床下に隠した。
革張りの手帳には、ヴァイスローゼ家代々の魔術陣の研究記録が、びっしりと記されていた。
特に、最後の数ページには、父が独自に開発しようとしていた「広域防御陣」の未完成の図面が、貼り付けられていた。
——これは、使える。
エルネスタは、図面を凝視した。
前世で論文を読み込んだ目で、その魔術陣の構造が、瞬時に頭に入ってきた。
ただ、未完成だった。発動条件が、論理的に矛盾していた。
(私が、完成させる)
エルネスタは、その夜、書斎の机に向かい、父の図面の余白に、自分の補足を書き始めた。
詩織だった頃の、研究員の手つきで。
亜麻色の髪に、月光が落ちていた。
二週間後。
完成した広域防御陣の小型試作版を、エルネスタは、自分の腕輪に刻んだ。
そして、もう一つを、青い革紐に通して、首にかけた。
——これは、セルディアスさまに渡す。
彼に対する、最初の本格的な贈り物だった。
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## 第7話 ★彼女に会える日だけ
★セルディアス視点
セルディアスは、八歳になっていた。
死の呪いは、依然として体を蝕んでいた。月に一度、必ず血を吐いた。皮膚に紫の痣が浮いては消えた。夜、悪夢にうなされ、目を覚ますと、シーツが汗で濡れていた。
それでも、生きていた。
エルネスタ嬢が、月に二度、屋敷を訪れてくれるからだった。
訪問の日は、決まって、晴れていた。
偶然ではなかった。エルネスタ嬢は、来る前日に、必ず手紙をくれた。「明日、晴れの予報です。お庭でお会いできますか」と。
セルディアスは、その手紙を、枕の下に隠していた。
「セルディアスさま、薬の在庫はいかがですか」
庭のベンチで、エルネスタ嬢は、いつものポーチを開けた。
「先月の咳止めは、効きましたか」
「……うん。効いた」
「では、配合を維持します。新しく、寝つきのお茶を持ってきました。ハチミツと、これは、レモンバームです」
エルネスタ嬢は、薬包を一つずつ、説明していった。
セルディアスは、聞いていた。
正確には、説明の内容よりも、彼女の声の調子を聞いていた。
彼女の若葉色の瞳の、まばたきの間隔を、数えていた。
彼女の指の、ハーブを摘む癖を、覚えていた。
(また、来てくれた)
それだけで、セルディアスは、もう一ヶ月、生きていられる気がした。
「セルディアスさま」
ふいに、エルネスタ嬢が言った。
「またいつ、来てくれますか」と、いつも、聞いてくださいますね」
「……あ」
セルディアスは、頬が熱くなった。
そんな質問を、毎回しているとは、自覚していなかった。
習慣として、別れ際に、必ず、口から出る言葉だった。
「ご迷惑、でしたか」
「いいえ」
エルネスタ嬢は、首を振った。
「次は、二週間後の、火曜日に伺います。覚えていてくださいますね」
「うん。覚える」
(覚える、どころか、今日から数えるだけだ)
セルディアスは、彼女に渡された薬包を、両手で握った。
彼女が帰っていく姿を、いつまでも、見送った。
馬車が見えなくなるまで。
見えなくなった後も。
その夜、義母が部屋に乗り込んできた。
平手打ちが、頬に飛んだ。
「ヴァイスローゼの娘に、お前のような汚らわしいものが、何を期待しているの。あの子は、いずれ婚約破棄を申し入れてくる。お前のような呪われた子と結婚するわけがない。期待するのを、おやめなさい」
セルディアスは、頷いた。
「はい、お義母さま」
頷きながら、心の中で、思った。
わかっています、お義母さま。
わかっています。
わかっていても、やめられないのです。
彼女に会える日だけ、僕は、生きていられるのです。
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## 第8話 神殿の魔術適性試験
九歳になったエルネスタは、王都の大神殿で、魔術適性試験を受けた。
それは、貴族の子女が十歳前後で受ける、魔術師団入団資格を問う、最初の関門だった。
試験官は、王立魔術師団の三人の高位魔術師。
受験者は、各家から一人ずつ、合計三十二人。
エルネスタは、試験前の一年間、書斎で自学自習した。父の魔術書、母の薬草学、そしてロベルト師から密かに送ってもらった基礎理論書。詩織だった頃の研究習慣を、ためらいなく動員した。
試験は、五項目だった。
魔力量。属性適性。詠唱速度。魔術陣の解析。即興発動。
エルネスタは、最後の即興発動の課題で、試験官全員を、しん、と黙らせた。
「『水を一升、十秒以内に、八十五度まで温めよ』ですね」
エルネスタは、課題を復唱した。
「ご指示どおりに」
両手を組んで、火と水の魔術を同時に走らせた。
ただし、火を直接水に当てるのではなく、水分子の振動を局所的に増幅させる、という前世の物理学の知識を応用した、変則的な手順だった。
水が、八秒で、ぴたり、八十五度に達した。
温度計を覗き込んだ試験官の口が、半開きで止まった。
「……ヴァイスローゼ嬢、これは、何という術ですか」
「私が考えました」
エルネスタは、淡々と答えた。
「火属性で水を直接熱するのは、効率が悪いと思いました。水分子の振動を直接刺激するほうが、エネルギー損失が少ないと判断しました」
試験官たちが、互いを見合わせた。
その日の夜、ヴァイスローゼ家に、王立魔術師団総帥からの手紙が届いた。
『エルネスタ・フォン・ヴァイスローゼ嬢を、王立魔術学園魔術科への特別推薦枠で迎えたい。十三歳の入学までの間、王立魔術師団の特別研修生として、月に二度、登団を許可する』
叔父グレゴリオの顔が、紙のように白くなった。
叔母ベアトリーチェの茶器が、テーブルから滑り落ちた。
エルネスタは、すました顔で、手紙を畳んだ。
(来た。これで、表舞台に出られる)
叔父叔母にエルネスタを「無能な姪」と思わせ続ける戦略は、ここで段階を変える。
これからは、「優秀すぎて、迂闊に手を出せない姪」として、生き延びる。
ロベルト師が、後ろ盾になってくれることが、確定した夜だった。
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## 第9話 毒のスープと解毒の手
セルディアスは、九歳の冬、義母の毒殺未遂を、生き延びた。
きっかけは、エルネスタの抜き打ちの来訪だった。
前世の研究員の習慣で、エルネスタは、毎月、セルディアスの食事の献立を文書で取り寄せていた。家令を一人、密かに買収して、報告書をもらっていた。
そして、その月の献立には、セルディアスの胃には絶対に合わない、強い香辛料を使ったスープが、三日連続で予定されていた。
(怪しい)
エルネスタは、予定を変更し、抜き打ちでアルジェント邸を訪問した。
夕食の直前だった。
セルディアスは、すでに食卓についていた。
銀のスプーンで、湯気の立つスープを口元に運ぼうとしていた。
「セルディアスさま、お待ちください」
エルネスタは、駆け込み、銀のスプーンを、彼の手から取り上げた。
家令たちが、ぎょっとした顔をした。
食卓に立っていた義母クラリッサが、目を吊り上げた。
「ヴァイスローゼ嬢、何のおつもり」
「失礼を承知で。このスープを、確認させてください」
エルネスタは、自分の革のポーチから、小さなガラス瓶を取り出した。
銀の薄片が入った、検出薬。彼女自身が調合した、簡易毒物検査キットだった。
スープを一滴、銀の薄片に垂らす。
薄片が、瞬時に、灰色に変色した。
「ヒソフエン酸。神経毒です」
エルネスタは、淡々と告げた。
「致死量の、おそらく三倍。三日連続で摂取すれば、確実に死ぬ量です」
食卓の空気が、凍った。
義母クラリッサは、しかし、眉ひとつ、動かさなかった。
銀のフォークを、優雅に、置いただけだった。
「あらまあ、それは、大事ですわね」
彼女は、扇子を、ゆっくりと、広げた。
「料理長に、調査を、命じておきます」
——エルネスタは、その瞬間、義母の心を、ほぼ正確に、読み取った。
(この人は、毒の存在を、知っていた。けれど、自分で仕込んだのではない)
ヒソフエン酸は、ヴェルセリア王国では入手困難な、隣国産の毒物だった。義母の出身は、王家の傍流。王太子派が、料理長を経由して、毒を持ち込んだ。義母は、それに、気づいていた。気づいていながら、止めなかった。
——「呪われた継子が、誰かの手で、勝手に死んでくれれば、好都合」
その消極的な悪意が、目の前の優雅な扇子の動きの中に、静かに、染み込んでいた。
義母自身が、手を下すつもりは、ない。直接の殺害は、義弟ロデリックの将来の汚点になる。だから、王太子の手駒たちが、勝手に、片付けてくれることを、待っている。
そして、嫌悪の呪いを、自分自身も、しっかりと、受けている。義母の目は、セルディアスを、汚物のように、避けていた。日々の罵倒は、嘘ではなく、本気の嫌悪から、出ていた。
(冷たい人だ)
エルネスタは、その認識を、自分の中に、深く、刻んだ。
直接の殺意よりも、ずっと、深い、種類の、悪意だった。
エルネスタの背後で、セルディアスが、震えていた。
怒りでも、恐怖でもなかった。
歓喜だった。
彼女が、自分のために、ここに来てくれた。
彼女が、自分のために、義母に立ち向かってくれた。
(どうか、どうか、彼女を、傷つけないでくれ)
セルディアスは、義母の顔を、睨み上げた。
「お義母さま」
低い声だった。
「このスープを作ったのは、料理長ですか」
「……ええ」
「では、料理長を、呼んでください。話を、聞きます」
「あら、セルディアス、あなたが、自ら、聞くのですか」
義母は、扇子で、口元を、隠した。
「呪われた子の声が、料理長の心臓に、悪い影響を、与えなければ、よろしいけれど」
セルディアスの拳が、握りしめられた。
義母は、すっ、と、席を立った。
食堂を出ていく裾の音が、廊下に、響いた。
——その日のうちに、料理長は、姿を消した。
屋敷から、忽然と、いなくなった。義母が手を回したのか、王太子派が回収したのかは、わからなかった。
ただ、その夜から、エルネスタは、月に二度、必ず、自分の調合した解毒薬を、セルディアスに渡し続けることに、した。
そして、王立魔術師団のロベルト師に、独自の調査依頼を、出した。
「アルジェント邸の使用人に、王太子派の手駒が、何人、潜伏しているか」
その夜、セルディアスは、エルネスタを玄関で見送った。
小さな手で、彼女の袖を、ぎゅっ、と握った。
「エルネスタ」
名前を呼んだ。「嬢」を、つけ忘れた。
エルネスタは、笑った。
「私のことは、エルネスタ、で構いません」
「エルネスタ。次は、いつ、来てくれる」
「来週、火曜日に。お守りも、新しいものを持ってきます」
セルディアスは、彼女が渡してくれた青い革紐の防御陣を、シャツの下で握りしめた。
それを首から外すことは、もう、二度となかった。
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## 第10話 雪の夜の暗殺者
セルディアスが十歳になる直前、王家から、最初の暗殺者が来た。
深夜、雪の降る庭。
アルジェント邸の二階の窓から、黒装束の三人が、忍び込んだ。
セルディアスの寝室を目指していた。
——その夜、エルネスタは、アルジェント邸に泊まっていた。
偶然ではなかった。
彼女は、王立魔術師団のロベルト師から、王太子派の動きが「不穏である」という警告を受けていた。
そして、その警告を、独自の判断で、「セルディアスさまの命が、近く狙われる」と翻訳した。
エルネスタが滞在の口実にしたのは、「セルディアスさまの呪いの月例観察」だった。
客間で寝ていた彼女は、十時を過ぎたあたりから、寝台で目を閉じたまま、自作の警戒陣に意識を集中させていた。
父の遺産の魔術陣に、彼女自身が補足した、空間の振動を感知する陣だった。
ぴく、と意識が反応した。
エルネスタは、跳ね起きた。
ローブを羽織る暇もなく、寝間着のまま、廊下を駆けた。
セルディアスの寝室まで、十二歩。
寝室のドアを蹴り開けた瞬間、黒装束の一人が、セルディアスの寝台に短剣を振り下ろそうとしていた。
「下がってください」
エルネスタの両手から、青白い光が放たれた。
父が遺した広域防御陣の発動。半径五メートルの結界が、寝台ごとセルディアスを包み込んだ。
短剣が、結界に弾かれた。
「魔術師——!」
黒装束が、舌打ちした。
「子どもじゃない、本気の魔術師だ。撤退!」
しかし、もう一人が、エルネスタの背後に回り込んでいた。
エルネスタは、振り向きざまに、両手を交差させた。
水属性の応用で、相手の足元の床に、薄い氷の層を瞬時に張った。
黒装束が、足を取られて転倒した。
——その瞬間、エルネスタの脇腹に、もう一人の短剣が、浅く、突き刺さった。
血が、白い寝間着に、にじんだ。
「エルネスタ!」
セルディアスの絶叫が、寝室に響いた。
彼は、結界の中で、寝台から飛び起きていた。
銀の血が、初めて、目覚めた。
藍紫の瞳に、銀色の魔力光が、走った。
アルジェント家代々の血の力が、十歳の体に流れ込む寸前で、しかし、まだ制御できなかった。
それでも、足りた。
セルディアスの周囲の空間が、一瞬で、銀色の閃光に包まれ、暗殺者三人が、悲鳴を上げて倒れた。
家令たちが、駆け込んできた。
義母も。
そして、王家への通報を、止めようとした義母を、家令長が、初めて、振り切った。
エルネスタは、脇腹を押さえながら、笑っていた。
「セルディアスさま、ご無事で、何より」
「エルネスタ、エルネスタ——」
セルディアスは、結界を解いて、彼女を抱きとめた。
血が、彼の寝間着にも、滲んだ。
「血が、血が、出ている」
「浅いです。大丈夫」
「でも」
「セルディアスさま、銀の血が、目覚めましたね」
エルネスタは、彼の藍紫の瞳に映る、銀の光を見て、微笑んだ。
セルディアスは、震える手で、彼女の脇腹を押さえた。
自分の指から、わずかに、銀の魔力が流れ、彼女の傷を、ふさいでいった。
「エルネスタ、僕は、お前を、守る」
セルディアスは、十歳の声で、誓った。
「この命に、賭けて」
エルネスタは、答えなかった。
彼に守られることよりも、彼を守ることが、自分の選んだ生き方だった。
だから、ただ、頷いた。
それは、後に、セルディアスが「あの夜の頷きは、了承だった」と、五年がかりで主張することになる、伏線だった。
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## 第11話 ★離れるべきか
★セルディアス視点
——彼女が、僕のせいで、刺された。
その夜、セルディアスは、自室で、一晩中、床を歩き回っていた。
エルネスタは、客間で寝ている。脇腹の傷は、彼の銀の魔力で、すでに塞がっている。命に別状はない。しかし、傷跡は残るかもしれない、と、駆けつけた治癒師が言っていた。
——彼女の白い肌に、僕のせいで、刃の傷跡が残る。
セルディアスは、十歳の拳を、自分の太腿に叩きつけた。
痛みでは、足りなかった。
(僕が、彼女に近づかなければ)
(婚約を、破棄すれば)
(彼女は、安全だ)
血の気の引いた頭で、セルディアスは、計算した。
王家が、自分を狙う理由は、銀の血の正統な継承者だからだ。
婚約破棄をすれば、エルネスタは、無関係になれる。
彼女は、王立魔術師団に推薦された、優秀な魔術師だ。彼女の人生は、自分のような呪われた血と結びつくべきではない。
(僕は、彼女から、離れるべきだ)
その結論にたどり着いた瞬間、セルディアスは、机に突っ伏した。
胸が、痛かった。
死の呪いの発作とは、別の痛みだった。
彼女に「会えない日々」を想像しただけで、生きる意味が、抜け落ちた。
(でも、彼女が刺されるよりは)
セルディアスは、机に置いてある便箋を、引き寄せた。
インクをつけ、ペンを取った。
婚約破棄の申し入れの、最初の一行を、書こうとした。
——書けなかった。
ペンの先が、便箋の上で、震えていた。
自分の手とは思えなかった。
何度も、書こうとして、止まった。
明け方、セルディアスは、便箋を破り捨てた。
代わりに、別の手紙を書いた。
『エルネスタへ。
僕は、君を巻き込みたくない。僕のような呪われた血と、君は関わるべきではない。
けれども、君に、この手紙を渡せない。
渡したら、君は、きっと、怒る。あるいは、悲しむ。
だから、これは、僕だけが知っている、僕の心の中の手紙だ。
君が、僕に「生かす」と言ってくれた日から、僕は、君のために生きると決めた。
それは、もう、変わらない。
どうか、僕より先に、傷つかないでくれ』
セルディアスは、その手紙を、机の引き出しの奥に、しまった。
そして、寝台に倒れ込んで、明け方の二時間だけ、眠った。
その朝、エルネスタが、客間から起きてきた。
脇腹を、まだ少し庇いながら、けれども、笑顔で。
「セルディアスさま、おはようございます」
セルディアスは、その声を、聞いた瞬間、決めた。
離れる、という選択肢を、永遠に、捨てた。
代わりに、彼女を、絶対に、誰にも、傷つけさせない。
それが、自分の生きる目的だ、と。
十歳のセルディアスの、最初の「決意」だった。
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## 第12話 別れの庭で
エルネスタは、十三歳になる年の春に、王立魔術学園に入学することが、正式に決まった。
入学までの、最後の三ヶ月。
ヴァイスローゼ家の叔父叔母は、もう、エルネスタを抑え込めなかった。
王立魔術師団の特別研修生として、王都に頻繁に通うようになった彼女は、屋敷を留守にする時間が増え、叔父叔母の横領の追加証拠を、独自に集め始めていた。
そして、入学一週間前。
エルネスタは、最後の挨拶のために、アルジェント邸を訪れた。
セルディアスは、十二歳になっていた。
死の呪いを抱えながら、彼は、確実に背を伸ばしていた。銀の髪が、肩につくほど伸びていた。藍紫の瞳が、子どもの丸さから、少年の鋭さへと、変わりつつあった。
二人は、薔薇園のベンチに、並んで座った。
七年前、出会った薔薇園だった。
あの日、エルネスタの父は、ここで、ではなくヴァイスローゼ邸の薔薇園で、刺された。
あの日、セルディアスは、地下の食料庫で、五歳の誕生日を迎えていた。
「セルディアスさま」
エルネスタは、革のポーチから、薄絹に包まれた箱を取り出した。
「これを、お渡ししに来ました」
箱の中には、二十個の、お守りが入っていた。
大小、形さまざま。革紐、銀の鎖、絹の組紐。
それぞれに、別の魔術陣が刻まれていた。
「対物理攻撃用、対魔術干渉用、毒物検出用、解毒用、警報用、空間転移阻害用、——」
エルネスタは、一つずつ、説明していった。
「私が、王都にいる間、お渡しできない月もあります。その間、これらが、あなたを守ります」
セルディアスは、お守りを、両手で受け取った。
言葉が、出なかった。
「セルディアスさま」
エルネスタは、彼の手の上に、自分の手を重ねた。
「死なないでください。私が、学園で、解呪の方法を必ず探してきます。三年で、必ず、戻ります」
セルディアスは、頷いた。
頷きながら、ふいに、藍紫の瞳から、涙が、ひとしずく、落ちた。
「エルネスタ」
彼は、涙を拭わなかった。
「僕は、君が学園で、楽しい時間を、過ごしてくれることを、願っている」
「セルディアスさま——」
「だから、僕のことは、忘れていい時間が、あっていい」
エルネスタは、首を振った。
「そんなお願いは、聞きません」
「エルネスタ」
「私は、忘れません。一日も、忘れません」
セルディアスは、息を、止めた。
そして、ゆっくりと、彼女の手を、両手で、包んだ。
五歳のあの日、彼女が差し出した手を、自分が震えながら取った日から、ずいぶん、二人の手は、大きくなっていた。
けれども、温度は、変わらなかった。
「待っている」
セルディアスは、言った。
「君が、戻ってくるのを、僕は、ずっと、待っている」
その日、エルネスタの馬車が、アルジェント邸を出ていく時、セルディアスは、玄関の前で、見送った。
馬車が、見えなくなるまで、立ち尽くしていた。
家令たちが、心配して声をかけても、動かなかった。
雪は、降っていなかった。
けれども、彼の頬には、ひんやりとした感触が、残っていた。
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## 第13話 王立魔術学園入学
王立魔術学園の入学式は、王都の中心に建つ、白亜の大聖堂で行われた。
エルネスタ・フォン・ヴァイスローゼは、魔術科の首席として、名を呼ばれた。
新入生代表の宣誓を、エルネスタが、壇上で読み上げた。
その声を、聖堂の最後列で、王立魔術師団総帥のロベルト師が、満足そうに聞いていた。
「私たちは、知の前に等しく、力の前に謙虚に、ヴェルセリア王国の平和と、民の安寧のために、その魔術を捧げます」
エルネスタは、十三歳だった。
亜麻色の髪を肩で切り揃え、若葉色の瞳に、薄い化粧を施していた。
詩織だった頃を思えば、二十六歳の研究員が、十三歳の少女の体に押し戻された違和感は、もう、ほとんど消えていた。
代わりに、エルネスタとしての八年間が、骨身に染み込んでいた。
父の死、叔父叔母の支配、セルディアスとの出会い、そして、ここまでの道のり。
入学式の後、エルネスタは、寮に荷物を運び込んだ。
魔術科の女子寮の、相部屋。同室は、商家出身のクラウディア・ベルンハルトという、ふくよかで朗らかな少女だった。
「ヴァイスローゼ様、お噂はかねがね」
「クラウディア・ベルンハルトです、よろしくお願いします」
クラウディアは、初対面で、エルネスタの両手を握った。
「私の家、薬種問屋なんです。ヴァイスローゼ様の毒物検査の話、業界で有名なんですよ」
エルネスタは、笑った。
「業界で?」
「アルジェント公爵家の食卓で、毒を見破ったお話。私たちの間では、伝説になっています」
(まずい。地味に生きるつもりだったのに)
エルネスタは、苦笑しながら、しかし、クラウディアの実家との関係が、後に薬剤調達で大いに役立つことを、すでに計算していた。
入学から二週間。
エルネスタは、首席の名に違わず、すべての授業で、教官陣を唸らせた。
特に、薬剤調合の授業では、教官のほうが質問する側になった。
「ヴァイスローゼ嬢、その配合の根拠は」
「血液中の成分循環を考えて、ハチミツの吸収速度を遅らせるためです」
「血液中の、何だって?」
「あ、ええと、——薬の効きが、緩やかになる、と直感的に判断しました」
(……今、研究室にいる気分で、答えてしまった)
エルネスタは、内心で、自分を叱った。
前世の研究員の癖が、つい、口に出てしまう。気をつけなければ。
論理は冷静に組み立てる。けれども、口に出すときは、現代用語を使わない。
この世界の人間が、すんなり受け入れられる言い回しに、翻訳しなければ。
——その慎重さが、後に、セルディアスの呪いを解く鍵となることを、まだ、エルネスタは、知らなかった。
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## 第14話 光属性のレイハルト先輩
入学から一ヶ月。
エルネスタは、学園の中庭で、初めて、レイハルト・フォン・ゾンネンシュタインを見た。
騎士科の二年生。光属性の使い手として、学園で唯一無二の存在。
背が高く、金髪で、瞳は澄んだ青。
中庭の噴水のそばで、後輩騎士に、剣の振り方を、丁寧に教えていた。
笑顔が、爽やかだった。声は、よく通った。
教え方が、根気強かった。
「ヴァイスローゼ嬢、見惚れていますね」
背後で、クラウディアが、にやにや笑った。
「えっ、いえ、別に」
「ゾンネンシュタイン家のレイハルト様。学園の女生徒の半数以上が、惚れています」
「そうなの」
「光属性は、貴重ですから。それに、人柄が良くて、家柄も良くて、お顔も整っていて」
「……まあ、確かに」
エルネスタは、首を、傾げた。
詩織だった頃も、エルネスタとしても、男性に憧れる、という感覚は、希薄だった。
忙しすぎたし、五歳から父を失い、叔父叔母に虐げられた時間が、心の余白を奪っていた。
そして、十歳でセルディアスと「生かす」と誓ってから、彼の生存が、彼女の最優先事項になった。
けれども、その日。
レイハルト先輩は、転びかけた一年生の少女を、ふっと支えて立たせた。
笑顔で、何事もなかったかのように。
その横顔が、なぜか、ほんの一瞬、エルネスタの胸を、ざわつかせた。
(……あ)
エルネスタは、自分でも驚きながら、その感覚を、認識した。
それは、十三歳の少女の、初めての、淡い憧れだった。
詩織でもなく、エルネスタでもなく、純粋な十三歳の少女の、心の動きだった。
その夜、寮の寝台で、エルネスタは、天蓋を見上げた。
セルディアスのことを、考えた。
彼の藍紫の瞳。彼の銀の髪。彼の震える手。彼の「生かす」と誓った後の、ありがとう、の声。
彼への感情は、深かった。
けれども、それは、「守る」という感情だった。
「憧れる」とも、「ときめく」とも、違っていた。
(私は、セルディアスさまを、家族のように、思っているのかもしれない)
エルネスタは、その自分の理解に、納得した。
そして、レイハルト先輩への淡い感情は、それとは別物として、心の片隅に、ふんわりと、置いた。
(セルディアスさまには、絶対に言えない感情ね)
エルネスタは、苦笑して、目を閉じた。
何も、起こらない感情だ、と。
そう、思っていた。
半年後、その「淡い憧れ」が、セルディアス本人の前で、丁度よく漏れ出してしまうとは、まだ、想像していなかった。
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## 第15話 学園編入
入学から三ヶ月後。
セルディアスが、学園に編入してきた。
それは、表向きは、「アルジェント公爵家嫡男の正規の入学」だった。
本来、セルディアスは、健康上の理由で学園入学を見送る、と通知されていた。
それが、覆された。
覆させたのは、王太子ライムントだった。
「アルジェント公爵家のセルディアス殿の体調は、もう、問題ありません。学園で、他の貴族の子息子女と、共に学ぶべきです」
王太子の奏上は、表向き、温情に見えた。
しかし、エルネスタは、ロベルト師から、その真意を聞いていた。
——王太子は、セルディアスを学園に呼び出して、監視下に置きたい。アルジェント邸は、セルディアスが「銀の血」を完全覚醒させかねない場所だ。学園であれば、王家の息のかかった生徒・教官が多数いる。死の呪いの最終段階を、コントロールしやすい。
(セルディアスさまを、学園で、殺すつもりだ)
エルネスタは、編入当日、学園の正門で、セルディアスを迎えた。
彼が馬車から降りた瞬間、周囲の空気が、ぴたり、と止まった。
——嫌悪呪いが、発動した。
正門に集まっていた生徒たちが、申し合わせたように、視線を逸らした。
教官の一人が、表情を歪めた。
編入受け入れ係の事務員が、書類を取り落とした。
セルディアスは、十三歳になっていた。
背丈は、エルネスタを少し追い抜いていた。銀の髪が、肩のあたりで揺れた。藍紫の瞳が、エルネスタを見つけて、ふっ、と緩んだ。
「エルネスタ」
セルディアスの声が、低く、響いた。
エルネスタは、正門の人混みの中で、一人だけ、彼に向かって、笑った。
「セルディアスさま、お待ちしていました」
すっ、と、エルネスタは、彼の腕に、自分の手を絡めた。
学園のルールでは、婚約者同士の挨拶として、許される接触だった。
けれども、それを、「呪われた」セルディアスに、迷いなく行う少女は、エルネスタだけだった。
正門の生徒たちが、ざわついた。
レイハルト先輩が、その中にいた。
彼は、エルネスタとセルディアスを、不思議そうに見ていた。
そして、すぐに、顔をそらした。
彼もまた、嫌悪呪いに、影響されていた。
ただ、レイハルト先輩は、紳士的に、表情を抑えただけだった。
——この三年間、僕は、彼女と一緒に、ここで暮らせる。
セルディアスは、エルネスタの手の温度を、自分の腕の上で、噛みしめた。
学園の編入は、王太子の罠かもしれない、と、彼も理解していた。
それでも、彼女と同じ場所で過ごせるなら、罠でも、構わない、と思った。
「エルネスタ」
彼は、低く言った。
「今日から、よろしく頼む」
エルネスタは、頷いた。
彼女の頭の中では、すでに、王太子の罠を、どう逆手に取るかの、計算が、走り始めていた。
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## 第16話 ★成長した彼女
★セルディアス視点
エルネスタは、変わっていた。
背が、伸びていた。亜麻色の髪が、肩より少し長くなっていた。十三歳の少女として、驚くほど、整った輪郭になっていた。
セルディアスは、寮の自室の窓辺で、十三歳の自分の手を、見つめていた。
銀の髪。藍紫の瞳。痩せた体。死の呪いの兆候は、依然として、月に一度、血を吐く形で、現れる。
それでも、生きていた。
それは、彼女のお守りのおかげだった。
(三年、会えなかった)
正確には、月に一度、文通はしていた。
エルネスタは、必ず、月初めに、手紙をくれた。学園の様子、研修の進捗、新しい薬の試作。
セルディアスは、その手紙を、引き出しの一番奥に、すべて、保管していた。
返事は、短かった。「元気にしている。心配するな」程度だった。
本当はもっと書きたかった。書きたいことが、毎月、十枚以上、あった。
けれども、彼は、自分の感情の量に、戸惑っていた。
言葉にすると、止まらなくなりそうだった。
だから、短く、書いた。
学園の正門で、彼女は、自分の腕に、迷いなく、手を絡めてきた。
周囲の視線を、無視して。
——彼女だけだ。
セルディアスは、自分の腕の感触を、まだ、覚えていた。
彼女の手の温度。彼女の髪の香り。彼女の歩幅。
すべてが、自分の中で、ゆっくりと、再生されていた。
(これは、依存だ)
セルディアスは、自分でも、わかっていた。
彼女がいなければ、自分は、生きていけない。
けれども、彼女には、自分以外の人生があるべきだ、とも、思っていた。
その夜、夕食の食堂で、セルディアスは、エルネスタを、遠目に見た。
彼女は、同室のクラウディアという少女と、楽しそうに話していた。
そして、ふと、視線を上げて、セルディアスに、軽く、手を振った。
セルディアスは、その手を、頷きで返した。
食堂の生徒たちが、再び、視線を逸らした。
セルディアスの周囲の半径三メートルに、誰も座らなかった。
(慣れている)
セルディアスは、ひとりで、夕食を済ませた。
慣れていた。アルジェント邸で、十三年間、ずっと、こうだった。
ただ、この食堂には、彼女がいる。それだけで、孤独が、半分になった。
その時、ふいに、誰かが、セルディアスの隣の椅子を引いた。
「ご一緒、よろしいでしょうか」
声が、降ってきた。
エルネスタだった。
食堂の中央、最も人目につく席で、嫌悪呪いに包まれたセルディアスの隣に、彼女は、迷いなく、座った。
「エルネスタ、——」
「お夕食、ご一緒に」
「でも、皆が」
「皆が、何ですか?」
エルネスタは、すっ、と、自分の皿を、彼の隣に置いた。
学園の食堂は、しん、と、静まり返った。
セルディアスは、息を、止めた。
これは、彼女の宣言だった。
私は、彼の婚約者であり、彼を見続ける、という宣言。
学園中の生徒・教官に、それを、見せつけた。
(エルネスタ、君は——)
セルディアスの胸が、痛いほど、熱くなった。
彼女は、十三歳の自分を、選び続けてくれている。
その事実が、彼の死の呪いを、また、一日、押し戻した。
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## 第17話 お弁当と図書室
エルネスタは、毎日、セルディアスと一緒に、昼食を取った。
二人だけのお弁当を、寮の食堂から持ち出して、中庭の隅の、人目につかないベンチで、食べた。
エルネスタが、メニューを決めた。
セルディアスの胃に優しい、消化のよい、ハーブを使った料理ばかりだった。
温かいスープ。蒸した白身魚。柔らかいパン。発酵を促進したヨーグルト。
「セルディアスさま、これは、新作のスープです」
「……ありがとう」
「カモミールと、生姜と、レモングラスを、混ぜています」
「うん」
「胃の動きを、整えます」
「そうか」
セルディアスは、毎日、ぼそりと、相槌を打つだけだった。
言葉は、少なかった。
けれども、彼の目が、彼女の話す唇を、ずっと、見つめていた。
彼女の指が、銀のスプーンを動かす動きを、追っていた。
午後の授業の後、二人は、図書室で会った。
エルネスタは、解呪の魔術陣の研究のために、古文書を片端から読み漁っていた。
セルディアスは、その隣で、自分のための魔術書を、写経のように写していた。
彼の銀の血の覚醒を、コントロールする訓練の一環だった。
時々、エルネスタが、ふと、ペンを止めて、セルディアスを見た。
セルディアスは、その視線に、気づきながら、顔を上げなかった。
彼女に見られるだけで、心臓が、痛いほど、跳ねた。
一度、目を合わせれば、もう、抑えが効かなくなる、と、わかっていた。
「セルディアスさま」
ある日、エルネスタが、囁いた。
「最近、お顔色が、良いですね」
「そうか」
「呪いの進行が、半年前に比べて、緩やかです。お薬と、お守りが、効いているようで」
「君のおかげだ」
セルディアスは、ペン先を、紙の上で止めた。
インクが、滲んだ。
彼の感謝の言葉は、どんなに重ねても、足りない、と、自分でわかっていた。
——けれども。
その日の夕方、セルディアスは、図書室を出る時、廊下の窓越しに、見てしまった。
中庭で、エルネスタが、レイハルト先輩と、話していた。
ただの挨拶のはずだった。
ただの、笑顔のはずだった。
それが、セルディアスの心臓を、突き刺した。
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## 第18話 ★初めての嫉妬
★セルディアス視点
レイハルト・フォン・ゾンネンシュタイン。
騎士科二年生。光属性。学園の星。
セルディアスは、彼を、入学初日から、認識していた。
教官陣にも生徒たちにも、彼は「次代の王国の柱」と呼ばれていた。
セルディアスとは、対照的だった。
彼は、世界に、見られる側の人間だった。
——その彼が、エルネスタと、笑っていた。
中庭の、噴水のそばで。
レイハルトが、エルネスタに、何か小さなものを、渡していた。手紙ではなさそうだった。たぶん、何かの薬草だった。エルネスタが、研修で必要と言っていた、希少な薬草。
レイハルトの実家、ゾンネンシュタイン家は、薬草の流通に強い、と、知っていた。
エルネスタが、両手で、その薬草を受け取った。
若葉色の瞳が、ぱあ、と、嬉しそうに、輝いた。
——その瞳の輝きを、自分以外の男に向けるな。
セルディアスの中で、何かが、ぐらり、と、傾いた。
廊下の窓枠を握りしめた指が、きしんだ。
銀の血の魔力が、無意識に、漏れ出した。
窓ガラスに、霜が、走った。
(——これは、何だ)
セルディアスは、自分の感情に、戸惑った。
嫉妬、という言葉は、知っていた。
小説の中の概念として。
しかし、自分自身が、それを、こんなふうに、燃え上がるように、経験するとは、知らなかった。
(僕は、彼女に、何を、期待しているんだ)
セルディアスは、自分を、嘲笑した。
エルネスタは、彼の婚約者だ。けれども、それは、政略上の契約だ。彼女には、自分以外を「好き」になる権利が、ある。
彼は、呪われた、銀の血の、いずれ死ぬかもしれない、嫌悪呪いをかけられた、男だ。
レイハルトのほうが、彼女を、幸せにできる。
それは、論理的に、明らかだ。
——論理的に、明らかなのに。
セルディアスは、廊下の窓枠から、手を離さなかった。
拳が、震えていた。
胸の中で、暗い、粘度のある何かが、渦巻いていた。
それは、生まれて初めての、独占欲だった。
(僕の)
セルディアスは、唇を、噛んだ。
彼女は、僕の婚約者だ。
彼女は、僕を「生かす」と誓った。
彼女は、僕の隣に、迷いなく座る、唯一の人間だ。
(誰にも、渡したくない)
その感情が、セルディアスの中に、岩のように、据わった。
——その瞬間、セルディアスの中で、もう一つ、認識が、めばえた。
(僕は、エルネスタを、愛している)
それは、誓いではなく、独占欲ではなく、感謝でもなく、もっと、根源的な感情だった。
五歳の薔薇園で、彼女が手を差し出した瞬間から、ずっと、自分の中に、置かれていた感情。
名づけ方を、知らなかっただけの、感情。
(愛している)
セルディアスの十三歳の体に、その認識は、重すぎた。
彼は、廊下の窓枠を離れ、寮の自室に、駆け込んだ。
寝台に倒れ込み、枕に顔を埋めた。
銀の髪が、汗で、湿った。
——彼女には、絶対に、知られてはいけない。
セルディアスは、決めた。
これを知られたら、彼女は、戸惑う。困らせる。
僕の死の呪いと、嫌悪呪いを背負わせるだけでなく、僕の重い感情まで、彼女に背負わせるわけにはいかない。
だから、隠す。
死ぬまで、隠す。
彼女の隣にいられるだけで、十分だ。
——けれども。
その夜、レイハルト先輩の顔を思い出すたびに、セルディアスの中の岩は、もっと、重く、硬く、なっていった。
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## 第19話 物陰での独占欲
学園の図書室は、夕方になると、人が引いた。
エルネスタが、古文書の貸し出し手続きをして、廊下に出た時、暗がりから、伸びてきた手があった。
「えっ——」
声を上げる前に、その手が、エルネスタの肩を、ぐ、と引き寄せた。
背中が、書架の隙間の壁に、つけられた。
目の前に、銀の髪が、迫っていた。
「セルディアスさま」
エルネスタは、息を、整えた。
彼の藍紫の瞳が、いつもより、深い色をしていた。
怒っているわけではない、と、すぐにわかった。
けれども、何か、いつもと違う、緊張感が、彼から、放たれていた。
「セルディアスさま、どうかなさいましたか」
「……エルネスタ」
彼の声が、低かった。
「君は、ゾンネンシュタイン家のあいつから、何を、もらった」
「あ、薬草を。研修課題に、必要だった、ローズマリーの稀少種を、」
「あいつが、自分から、申し出たのか」
「いえ、私が、お願いしました。家の伝手で、手に入るかもしれない、と」
セルディアスは、しばらく、黙った。
エルネスタの顔の、頭の上、書架の縁に、彼の手が、ついていた。
壁ドン、という体勢だった。前世の言葉でいえば。
エルネスタは、内心、(すごく現代少女漫画的な、あれだ)と思いつつ、しかし、セルディアスの感情の本気さは、漫画ではなかった。
「セルディアスさま」
エルネスタは、彼の藍紫の瞳を、まっすぐ、見た。
「私が、薬草を必要なのは、あなたの呪いの解析のためです」
「……」
「あなたを、生かすためです」
「……知っている」
「では、なぜ、ご機嫌が斜めなのですか」
セルディアスは、答えなかった。
代わりに、彼の額が、ふっ、と、エルネスタの肩に、預けられた。
銀の髪が、彼女の鎖骨に、触れた。
(あ)
エルネスタの心臓が、ぎゅ、と縮んだ。
五歳から見守ってきたこの少年の、こんな弱々しい仕草を、これまで、見たことがなかった。
セルディアスの体は、震えていた。
怒りでも、恐怖でもなかった。
何か、もっと、別の感情だった。
「君を、誰にも、見られたくない」
セルディアスの唇が、彼女の鎖骨のあたりで、低く、つぶやいた。
エルネスタの背骨に、ぞくり、と、何かが、走った。
「セルディアスさま」
エルネスタは、自分の手を、彼の銀の髪に、そっと、置いた。
彼の頭を、撫でた。
「私は、あなたの、婚約者です。それは、変わりません」
「……変わらないのか」
「変わりません」
セルディアスは、ふっ、と、息を、吐いた。
そして、エルネスタの肩から、額を、外した。
廊下に、また、距離が、戻った。
書架の本の匂いが、漂った。
「エルネスタ」
「はい」
「……すまない」
「謝らないでください」
「君を、困らせた」
「困っていません」
エルネスタは、笑った。
笑いながら、自分の心臓が、いつもより、速く打っていることに、気づいていた。
それは、これまで、感じたことのない、種類の、鼓動だった。
レイハルト先輩を見る時の、ふんわりとした憧れとは、まったく、違っていた。
(これは、何の感情)
エルネスタは、その夜、寮の寝台で、長いこと、考えた。
答えは、出なかった。
ただ、明日からも、セルディアスのお弁当を作るのを、楽しみにしている自分が、いた。
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## 第20話 学園対抗試合
学園対抗試合は、年に一度の、王立魔術学園の最大行事だった。
近隣三校の代表選手が、王都に集まり、剣・魔術・総合戦の三部門で、競い合った。
レイハルト・フォン・ゾンネンシュタインが、騎士部門の代表選手に選ばれた。
エルネスタは、観客席で、応援していた。
クラウディアと並んで、声援を送った。
レイハルト先輩は、決勝戦で、隣国の代表を、見事に下した。
優勝の瞬間、エルネスタは、思わず、立ち上がって、拍手をした。
頬が、紅潮していた。
若葉色の瞳が、輝いていた。
——観客席の、別の場所で。
セルディアスは、その光景を、見ていた。
彼は、観客席の最後列の、人気のない隅に、一人で、座っていた。
嫌悪呪いのせいで、誰も、彼の近くに座らなかった。
そして、エルネスタは、今日は、彼ではなく、クラウディアの隣にいた。
それは、合理的な判断だった。エルネスタが応援に集中するために、セルディアスは、自分から、「離れていろ」と言ったのだ。
——けれども。
エルネスタの輝く笑顔が、レイハルトに向かっている。
その光景が、セルディアスの胸を、抉った。
(僕に、ああいう笑顔を、向けさせたことが、僕には、あったか)
セルディアスは、自分に、問うた。
答えは、ない、ではなかった。
あった。何度も、あった。けれども、彼女が、レイハルトを応援している今この瞬間の輝きと、比べると、なぜか、彼女が彼に向ける笑顔は、もっと、優しくて、保護者のような、温度の低い笑顔のように、感じられた。
(僕は、彼女の、保護対象だ)
セルディアスは、観客席を立った。
誰にも、声をかけずに、会場を出た。
寮の自室に、戻った。
机の引き出しを、開けた。
そこには、二年前に書いた、出さなかった手紙があった。
婚約破棄の文言を書きかけて、破った、便箋。
セルディアスは、新しい便箋を、引き出した。
ペンに、インクを、つけた。
『エルネスタへ。
僕は、君の幸せを、願う。
だから、ゾンネンシュタイン家のレイハルト殿が、君を望むなら、僕は、身を引く。
婚約は、僕の側から、解消する。
君は、僕に縛られなくていい』
書き終えた。
便箋を、封筒に、入れた。
ロウソクの火で、封をした。
——その夜、セルディアスは、便箋を、手に、廊下を、歩いた。
エルネスタの寮の、ポストに、入れるためだった。
途中で、何度も、立ち止まった。
何度も、引き返そうとした。
それでも、足は、寮へ、向かった。
(これが、彼女の、幸せだ)
セルディアスは、自分に、言い聞かせた。
死の呪いは、もう、完全には、解けないかもしれない。
嫌悪呪いも、解ける見込みが、まだ、見えない。
彼女には、レイハルトのような、健全で、明るい、未来を、与えられる男が、ふさわしい。
——そして、彼は、ポストの前まで、来た。
便箋を、入れる、寸前で、止まった。
手が、震えていた。
便箋が、封筒の中で、紙の音を、立てていた。
(僕には、できない)
セルディアスは、便箋を、握りしめた。
それを、ポストに、入れる勇気が、なかった。
彼女を、失う勇気が、なかった。
——その夜、セルディアスの闇落ちは、寸前で、止まった。
便箋は、引き出しの奥に、戻った。
そして、セルディアスは、寝台に倒れ込んで、自分を、罵った。
弱い、と。
彼女の幸せより、自分の感情を、優先した、と。
最低の、男だ、と。
その夜、彼の枕は、湿った。
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## 第21話 ★距離を置く決意
★セルディアス視点
便箋を、ポストに入れられなかった夜から、セルディアスは、エルネスタとの距離を、自分から、少しずつ、空け始めた。
朝、彼女が用意してくれるお弁当を、断った。
「今日は、食欲がない」と、嘘をついた。
午後、図書室で、隣に座らなかった。
別の机を、選んだ。
夕方、彼女が話しかけてきても、短く返した。
「うん」「ああ」「そうか」だけで、会話を、終わらせた。
——彼女の表情が、徐々に、戸惑いに、染まっていった。
それを、見るのが、辛かった。
それでも、続けた。
彼女には、自分以外の選択肢を、見るための、余地を、与えなければならない、と、思っていた。
レイハルトでなくてもいい。誰でもいい。自分以外の、明るい未来を、彼女には、考えてほしい。
自分は、いずれ、死ぬかもしれない。死の呪いは、まだ、生きている。
「セルディアスさま、どこか、お加減が悪いのですか」
ある日、エルネスタが、廊下で、彼の腕を、つかんだ。
若葉色の瞳が、心配そうに、揺れていた。
「何か、私が、いけないことを、しましたか」
セルディアスは、彼女の手を、振り払った。
振り払う、自分の手が、震えていた。
「いや、何もない」
「セルディアスさま」
「君に、迷惑をかけたくない、それだけだ」
セルディアスは、彼女の若葉色の瞳から、視線を、逸らした。
胸が、痛かった。
彼女の悲しそうな顔を、見たくなかった。
それでも、彼女のために、これは、必要なことだ、と、思っていた。
(僕がいなくなった世界で、君は、レイハルトと笑える。クラウディアと、どこかの男爵と、誰でもいい、僕以外の、健全な男と、笑える。それが、君の、幸せだ)
セルディアスは、廊下を、足早に、歩いた。
振り返らなかった。
——その夜、彼の寮の自室の、扉が、ノックされた。
「セルディアスさま、開けてください」
エルネスタの声だった。
低く、しかし、強い声だった。
セルディアスは、扉の前で、息を、止めた。
開けない、と決めた。
彼女に、自分の弱さを、見せたくなかった。
——扉が、開いた。
エルネスタが、合鍵を、使ったのだ。
婚約者の身分で、家令長から預かっている、緊急時用の合鍵。
それを、緊急時の判断で、使った。
「セルディアスさま」
エルネスタは、扉の枠に、肩を、預けた。
亜麻色の髪が、夜の空気で、わずかに、湿っていた。
若葉色の瞳が、決意を、湛えていた。
「私は、あなたの、婚約者です」
彼女の声は、震えていなかった。
「私は、あなたから、離れません」
「エルネスタ、——」
「あなたが、私を、避けるなら、私は、なぜ避けるのか、聞きます。理由が、合理的なら、考えます。理由が、感情的なら、説得します。理由が、私への遠慮なら、お断りします」
セルディアスの心臓が、跳ねた。
「あなたが、私を、嫌いになったのなら、それを、はっきり、言ってください」
エルネスタは、淡々と、続けた。
「そうではないなら、私は、退きません」
セルディアスは、寝台の縁に、座り込んだ。
両手で、顔を、覆った。
銀の髪が、指の間から、こぼれた。
「……嫌いになった、わけが、ない」
彼の声が、潰れた。
「だったら、なぜ」
「君を、自由に、したかった」
「自由に?」
「僕は、君に、ふさわしくない」
エルネスタは、扉から、離れた。
ゆっくりと、寝台の前まで、歩いた。
膝を、折った。
彼の前で、跪いた。
彼の手の上に、自分の、両手を、重ねた。
「セルディアスさま」
彼女の声が、優しかった。
「ふさわしいか、ふさわしくないかを、決めるのは、私です」
「……」
「私は、あなたを、選んでいます。五歳の薔薇園で、あなたが、震える手で、私の手を取った瞬間から」
セルディアスの頬を、涙が、伝った。
彼は、もう、隠せなかった。
エルネスタは、彼の銀の髪に、自分の頬を、寄せた。
「セルディアスさま、私から、離れないでください」
「——うん」
「絶対に」
「うん」
その夜、セルディアスは、彼女の前で、声を上げて、泣いた。
五歳の地下の食料庫で、声を殺して泣いた、あの夜以来の、初めての、声を上げた、嗚咽だった。
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## 第22話 追いかけて、詰める
エルネスタは、セルディアスの自室で、明け方まで、彼の隣に、座っていた。
何も、話さなかった。
ただ、彼の銀の髪を、ゆっくりと、撫でていた。
彼が、泣き止んだ後、しばらくして、規則正しい寝息を、立て始めた。
(——五歳の薔薇園から、八年)
エルネスタは、セルディアスの寝顔を、見つめた。
詩織だった頃の二十六歳と、今のエルネスタの十三歳を、足しても、彼への感情を、整理しきれなかった。
「保護者だ」と、思っていた。
彼を、生かす対象だ、と、思っていた。
それは、確かに、変わらなかった。
けれども、それだけでは、なかった。
(私は、彼の隣で、安心している)
エルネスタは、自分の心の動きを、認めた。
彼の銀の髪を撫でる時間が、心を、整える時間だった。
彼の藍紫の瞳が、自分を見つめる瞬間、世界の中で、自分が、確かに「ここにいる」、と感じられた。
詩織として死んだ後、エルネスタとして再び生きる中で、それは、最も、深い実感だった。
(私は、セルディアスさまを——)
その名づけ方を、エルネスタは、急がなかった。
急ぐ必要は、なかった。
ただ、もう、レイハルト先輩への淡い憧れは、自分の中で、はっきりと、別の感情として、整理されていた。
レイハルト先輩は、太陽だ。憧れる、まぶしい、健全な太陽。
セルディアスさまは、夜だ。自分が、隣にいて、安心する、深い、静かな夜。
そして、自分は、夜のほうに、惹かれている。
エルネスタは、セルディアスの額に、軽く、唇を、寄せた。
触れるだけの、口づけだった。
セルディアスは、寝息を、立てたまま、わずかに、唇を、動かした。
夢の中で、何か、つぶやいた。
聞き取れなかった。
けれども、エルネスタの名前のような気が、した。
明け方、エルネスタは、寮の自室に、戻った。
クラウディアが、心配そうに、待っていた。
「ヴァイスローゼ様、大丈夫?」
「うん、大丈夫」
「セルディアス様と、何か」
「仲直りした」
「あら」
クラウディアは、にやり、と笑った。
「ヴァイスローゼ様、お顔の色が、変わったわよ」
エルネスタは、自分の頬に、手を、当てた。
熱かった。
クラウディアに、見られていることに、いまさら、気づいた。
「クラウディア」
「はい」
「私、たぶん、セルディアスさまのことが、好きだわ」
「……知ってましたよ」
クラウディアは、肩をすくめた。
「ヴァイスローゼ様、ご自分が、一番、最後でしたね」
エルネスタは、寮の寝台に、倒れ込んだ。
枕に、顔を、埋めた。
詩織だった頃も、こんなふうに、自分の感情を、人に指摘されて、初めて気づく、ということが、あった。
変わっていない、と、エルネスタは、思った。
そして、にやり、と、笑った。
(さて、これからどうしようか)
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## 第23話 学園演習と魔物暴走
学園対抗試合の翌月。
学園は、年中行事の「実地演習」を、王都郊外の演習林で、実施した。
二年生・三年生の合同演習。
模擬の魔物相手に、騎士科と魔術科が、連携して討伐訓練を行う、毎年恒例の、それなりに危険な演習だった。
今年は、騎士科二年のレイハルトが、現場指揮官に指名されていた。
エルネスタは、三年生の魔術科の班に、配属された。セルディアスも、同じ班だった。
レイハルトは、別の班の指揮官として、林の北側に、向かった。
——演習開始から、二時間後。
事故は、起きた。
模擬魔物として用意されたゴーレムの一体が、何者かの干渉で、暴走した。
本来、安全な訓練用の操作魔石を、抜き取られていた。
代わりに、本格的な実戦用の魔石が、装填されていた。
暴走したゴーレムは、北側の班に、突進した。
レイハルトの班だった。
「全員、退避!」
レイハルトの叫びが、林に響いた。
彼は、自分の光属性を、最大出力で展開した。
ゴーレムを、押し返そうとした。
押し返した。
しかし、押し返した瞬間、暴走したゴーレムの腕が、レイハルトの背中に、回り込んだ。
彼を、地面に、叩きつけた。
そして、ゴーレムは、林の奥に、消えた。
エルネスタは、後方の班から、その轟音を、聞いていた。
セルディアスが、その瞬間、彼女の前に、立った。
銀の血の魔力が、彼の周囲を、覆った。
「エルネスタ、行こう」
セルディアスは、彼女の手を、取った。
二人で、北の方角に、駆けた。
到着した時、レイハルトは、地面に、横たわっていた。
背骨が、折れていた。
内臓が、損傷していた。
彼の班の生徒たちが、彼の周りに、跪いていた。
血が、地面に、広がっていた。
「レイハルト先輩——!」
エルネスタは、跪いた。
ポーチを、開けた。
すべての治癒術を、試した。
前世の医学知識を、総動員した。
セルディアスの銀の血の魔力も、注がれた。
——間に合わなかった。
レイハルトは、ふっ、と、目を開けた。
エルネスタを、見つけた。
笑った。
「ヴァイスローゼ嬢」
彼の声は、かすれていた。
「君は、優しい人だ」
「先輩、喋らないで——」
「ありがとう。学園生活は、楽しかった」
レイハルトの青い瞳が、ゆっくりと、閉じた。
胸の動きが、止まった。
林の中に、静寂が、降りた。
鳥の声が、止まっていた。
誰かが、ぐうぅ、と嗚咽した。
別の誰かが、号泣した。
セルディアスは、エルネスタの肩を、自分の腕に、引き寄せた。
エルネスタは、声を、上げて、泣かなかった。
代わりに、レイハルトの胸の上で、両手を、組んだ。
安らかな寝顔のまま、彼女は、彼の睫毛を、指先で、撫でた。
若葉色の瞳から、涙が、ぽたぽた、と、彼の頬に、落ちた。
「ありがとうございました、先輩」
エルネスタは、静かに、つぶやいた。
「私の、初めての、憧れでした」
その日、王立魔術学園の歴史に、レイハルト・フォン・ゾンネンシュタインの名が、英雄として、刻まれた。
そして、エルネスタの中で、淡い憧れの感情に、終止符が、打たれた。
——後の調査で、ゴーレムの操作魔石を抜き取ったのが、王太子派の一人だった、と判明した。
標的は、セルディアスだった。
レイハルトは、巻き込まれた、犠牲者だった。
事故ではなかった。
未遂事件だった。
セルディアスを、北側の班に、誘導するための、罠だった。
——けれども、誘導に失敗した。
失敗の理由は、レイハルトの「全員退避」の判断だった。
彼は、自分の班だけを、退避させようとした。
そして、自分は、最後まで、ゴーレムを、押し返そうとした。
エルネスタは、その事実を、後から知った。
レイハルト先輩は、最後まで、英雄だった。
そして、彼の死は、エルネスタとセルディアスに、王太子派への、明確な「敵意」を、刻んだ。
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## 第24話 葬儀の後で
レイハルトの葬儀は、王都の大聖堂で行われた。
ゾンネンシュタイン家は、王国でも有数の、騎士の家系だった。多くの貴族が、参列した。
エルネスタも、セルディアスも、参列した。
葬儀の後、二人は、聖堂の裏の、人気のない庭に、出た。
冬の終わりの庭だった。
雪が、まだ、わずかに、残っていた。
枯れた薔薇の枝に、白い結晶が、引っかかっていた。
エルネスタは、ベンチに、腰を下ろした。
両手を、膝の上で、組んでいた。
若葉色の瞳が、虚ろに、雪を、見ていた。
「エルネスタ」
セルディアスが、隣に、座った。
何も、言わなかった。
ただ、エルネスタの肩に、自分の腕を、回した。
彼女を、抱き寄せた。
エルネスタは、抵抗しなかった。
セルディアスの肩に、頭を、預けた。
銀の髪に、頬が、触れた。
「セルディアスさま」
彼女が、囁いた。
「私のせいで、先輩が、死にました」
「違う」
「もし、私が、レイハルト先輩に、薬草を頼まなければ、——もし、私たちが、あの演習に、もっと早く、気づいていれば、——」
「違う」
セルディアスは、彼女の頭の上で、低く、繰り返した。
「君のせいではない」
「セルディアスさま——」
「悪いのは、王太子と、その手駒だ。それ以外、一切、ない」
エルネスタは、しばらく、黙った。
セルディアスの腕の中で、彼女の体が、わずかに、震えた。
「先輩は、私の、初恋でした」
「うん」
「淡い、片想いでしたけれど、初恋でした」
「……うん」
セルディアスの手に、力が、入った。
それでも、彼は、彼女を、責めなかった。
ただ、抱きしめる腕を、強くした。
「それでも」
エルネスタは、ゆっくりと、続けた。
「私が、本当に、生きてほしいと願っていたのは、あなたです」
「エルネスタ」
「先輩は、私にとって、太陽でした。眩しくて、憧れる、明るい、太陽。けれども、太陽の下では、私は、生きていけません」
「……」
「私は、夜のほうが、息ができます。あなたの隣の、静かな、夜のほうが」
セルディアスは、息を、止めた。
彼女の言葉の、意味を、噛みしめた。
そして、自分の胸が、痛いほど、満たされた。
「エルネスタ」
彼の声は、震えていた。
「俺は、夜だ。死の呪いと、嫌悪呪いの、夜だ。君を、明るく、できない」
「明るくしてほしい、なんて、思っていません」
「……」
「あなたの、隣にいたいのです」
セルディアスは、彼女の額に、唇を、寄せた。
触れるだけの、口づけだった。
エルネスタは、目を、閉じた。
その瞬間、二人の周りで、雪が、また、ひらり、と、舞った。
枯れた薔薇の枝の上に、白い結晶が、また、ひとつ、降りた。
「エルネスタ」
「はい」
「俺は、君を、愛している」
セルディアスの声は、静かだった。
告白というよりは、確認だった。
五歳の薔薇園から、八年かけて、固まってきた感情の、最終的な、名づけだった。
エルネスタは、目を、開けた。
若葉色の瞳が、潤んでいた。
彼女は、笑った。
笑いながら、頷いた。
「私も、セルディアスさまを、愛しています」
二人の手が、ベンチの上で、絡み合った。
冷たい雪の中で、彼の銀の血の魔力が、わずかに、温度を、保っていた。
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## 第25話 憧れと愛と
学園の、その後の日々は、表面上、何も、変わらなかった。
エルネスタは、首席のまま、学業を続けた。
セルディアスは、嫌悪呪いを抱えたまま、彼女の隣に、座った。
——けれども、二人の関係は、決定的に、変わっていた。
朝、寮の食堂で、エルネスタは、セルディアスのテーブルに、最初から、自分の席を、用意した。
昼、二人で、中庭で、お弁当を、食べた。
夕方、図書室で、隣に、座った。
夜、二人は、別々の寮に、戻った。
その夜の挨拶が、変わった。
セルディアスは、エルネスタの寮の前で、別れ際、必ず、彼女の額に、唇を、寄せた。
触れるだけの、口づけ。
五歳から、ずっと、続けてきた距離の、十三歳の進化形だった。
ある夜、クラウディアが、ヴァイスローゼ寮の自室で、にやにや、笑った。
「ヴァイスローゼ様、最近、お顔が、明るくなりましたね」
「そうかしら」
「セルディアス様も、お顔が、柔らかくなりました。あの嫌悪呪いを、皆、忘れそうですよ」
エルネスタは、笑った。
クラウディアの言葉は、半分、本当だった。
学園の生徒たちは、徐々に、セルディアスの嫌悪呪いに「慣れてきていた」のではない。
正確には、エルネスタが、毎日、彼の隣に、迷いなく座る姿を、見続けていることで、彼らの中の「嫌悪」のスイッチが、わずかに、鈍り始めていた。
人間の感覚は、繰り返しに、適応する。
呪いの強制力にも、絶対の例外を、目撃し続けると、わずかな、ほつれが、生じる。
(これは、いい兆候だ)
エルネスタは、ノートに、書き留めた。
解呪の研究は、依然として、継続していた。
そして、彼女の前世の知識と、王立魔術師団の古文書と、父の遺品の魔術陣を、組み合わせて、「銀の血と死の呪い」の起源に、徐々に、近づいていた。
ある夜、エルネスタは、寮の机で、ふと、ペンを止めた。
窓の外、星が、出ていた。
(レイハルト先輩)
エルネスタは、星を、見上げた。
彼の死は、二週間前のことだった。
傷は、まだ、癒えていなかった。
それでも、彼女は、進んでいた。
セルディアスを、生かす、という、最初の決意のために。
そして、今は、それに加えて、セルディアスを、愛している、という、新しい燃料のために。
「先輩、ありがとうございました」
エルネスタは、星に、呟いた。
「私は、私の道を、進みます」
ペンを、再び、握った。
解呪の魔術陣の、未完成の図面に、補足を、書き加えた。
亜麻色の髪に、月光が、落ちていた。
若葉色の瞳が、もう、揺らいでいなかった。
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## 第26話 古文書のなかの「銀の血」
王立魔術師団の、最深部の書庫に、エルネスタは、十六歳になっていた。
研修生から、正規の見習い魔術師に昇格していた。
ロベルト師の下で、学園と研修を、同時にこなしていた。
学園の卒業も、二年後に、迫っていた。
その日、エルネスタは、書庫の最奥の、施錠された棚の中から、ある古文書を、引っ張り出した。
ロベルト師の特別許可で、閲覧が、初めて、許された一冊だった。
表紙には、銀の箔押しで、こう書かれていた。
『アルジェント家、銀の血の真実』
エルネスタは、震える指で、表紙を、めくった。
そこに、記されていた事実は、彼女の、これまでの仮説を、すべて、確証するものだった。
——アルジェント家は、ヴェルセリア王国の、現王家よりも、五世代、古い血統だった。
——「銀の血」は、王国成立以前の、古代魔法王国の正統継承者の血。
——現王家は、五百年前、アルジェント家から、政治的策謀によって、王位を、奪った。
——以来、現王家は、アルジェント家を、潜在的な脅威として、世代ごとに、消そうと、してきた。
——そして、「死の呪い」と「嫌悪の呪い」は、現王家が、二百年前に、アルジェント家の当主と嫡男に、世代をまたいで、かけた、呪いだった。
——呪いの解除には、王家の秘宝「真銀の杖」が、必要だった。
「真銀の杖」は、現在、王宮の宝物庫に、保管されていた。
エルネスタは、古文書を、閉じた。
深く、息を、吐いた。
(やっと、解呪の方法が、明確になった)
そして、同時に、(これは、王家から、奪わなければならない)、と、理解した。
その夜、エルネスタは、セルディアスを、学園の、二人だけの中庭の、ベンチに、呼び出した。
古文書の写しを、彼に、渡した。
セルディアスは、無言で、写しを、読んだ。
読み終えた後、深い、深い、息を、吐いた。
「エルネスタ」
彼は、低く、言った。
「俺の家系は、王家より、古い」
「はい」
「俺の死の呪いは、王家が、二百年前に、かけた」
「はい」
「解呪には、王家の宝物庫の、真銀の杖が、必要」
「はい」
セルディアスは、ベンチの上で、両手を、握りしめた。
銀の髪が、夜風に、揺れた。
藍紫の瞳が、星の光を、映していた。
「エルネスタ」
「はい」
「これは、王家との、戦争だ」
「そう、なります」
「俺は、君を、巻き込みたくない」
「巻き込まれます。私は、あなたの、婚約者ですから」
セルディアスは、しばらく、黙った。
それから、ふっ、と、笑った。
「君は、強くなった」
「あなたが、私を、強くしたのです」
二人は、ベンチの上で、手を、つないだ。
冬が、再び、迫っていた。
雪が、降る前の、冷たい夜だった。
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## 第27話 真銀の杖、奪取計画
エルネスタは、真銀の杖の奪取計画を、半年かけて、組み立てた。
協力者は、慎重に、選んだ。
ロベルト師。第二王女ヴィオレッタ(兄である王太子の腐敗に、密かに、嫌悪を抱いていた)。クラウディア(実家の薬種問屋ルートで、警護兵の交代時刻を把握)。そして、レイハルトの遺族——ゾンネンシュタイン家の当主は、息子の死の真相を知った後、王太子派に対して、明確に、敵対的だった。
奪取の作戦日は、王宮の年中行事「冬至の祭典」の夜、と決められた。
祭典の夜、王宮の警護は、儀式の中央広場に集中する。宝物庫の警備が、最も、薄くなる。
ヴィオレッタが、内側から、宝物庫の鍵の保管場所を、変更させる。
ロベルト師が、王立魔術師団の警備担当として、現場で、警報を、遅延させる。
クラウディアが、警護兵の食事に、軽い眠気を促すハーブを、混入する(殺さない量、訓練効率を下げる程度)。
そして、エルネスタと、セルディアスが、宝物庫に、忍び込む。
「エルネスタ」
作戦会議の最後、セルディアスが、彼女の手を、握った。
「俺だけ、行く」
「いいえ」
「君は、外で、待ってくれ。俺が、一人で、入る」
「セルディアスさま、奪取の魔術陣の解除には、薬剤師としての知識が、必要です。あなたには、できません」
「学ぶ」
「半年では、無理です」
セルディアスは、唇を、噛んだ。
彼女の言うとおりだった。
真銀の杖は、何重もの魔術陣で、封じられていた。
解除には、薬学的素養と、魔術の併用が、必要だった。
「セルディアスさま」
エルネスタは、彼の手の上に、自分の手を、重ねた。
「私は、行きます。あなたを、生かすために」
「俺のために、君が、危険を、冒すなど、——」
「危険を、冒すのは、私が、選ぶことです」
セルディアスは、長く、息を、吐いた。
そして、頷いた。
頷きながら、彼の心の中では、別の決意が、固まっていた。
彼女に、傷をひとつ、つけさせるくらいなら、自分は、王宮の中央広場で、「銀の血」を、完全暴走させ、王太子と、刺し違える。
それが、彼の、最後の、選択肢だった。
——けれども、それは、エルネスタには、言わなかった。
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## 第28話 ★激しい口論
★セルディアス視点
作戦の三日前、セルディアスは、学園の、人気のない演習場で、エルネスタに、呼び出された。
エルネスタは、寒風の中、ローブを、羽織っていた。
若葉色の瞳が、刃のように、光っていた。
彼女が、本気で、怒っているのを、セルディアスは、彼女と出会って十一年で、初めて、見た。
「セルディアスさま」
彼女の声が、低かった。
「あなたは、作戦の夜、私を、助けようとして、王太子と、刺し違えるおつもりですね」
セルディアスは、息を、止めた。
「……なぜ、それを」
「あなたの、ヴィオレッタ殿下宛ての、手紙を、見ました」
セルディアスは、頬が、白くなった。
彼は、ヴィオレッタに、密書を、送っていた。「もし、私が王宮で死んだら、エルネスタを、保護してほしい。彼女には、王立魔術師団に、安全に、戻ってほしい」、と。
ヴィオレッタは、エルネスタの友人だった。
密書は、ヴィオレッタから、エルネスタに、流れていた。
「説明、なさってください」
エルネスタの目は、揺らがなかった。
「セルディアスさま、私が、解呪の研究に、五年、かけてきたのは、何のためですか」
「俺を、生かすため、だ」
「では、なぜ、あなたは、自ら、死のうと、するのですか」
「君を、守るためだ」
「私は、守られたくは、ありません」
エルネスタの声が、初めて、震えた。
「私は、あなたが、生きていてくれることが、私の、世界の、前提です」
「エルネスタ——」
「あなたが、私を守って死ぬなら、私は、あなたを生かすために、五年も、何のために、頑張ってきたのですか」
セルディアスは、唇を、震わせた。
彼女の言うことは、論理的に、正しかった。
彼の「君を守って刺し違える計画」は、彼女の「あなたを生かすために費やした五年間」を、踏みにじる計画だった。
そして、それを、彼は、無自覚に、してしまっていた。
「俺は——」
「あなたは、何ですか」
「俺は、君に、傷ひとつ、つけさせたく、ない」
「私も、同じです」
「……」
「あなたが、傷つくのを、見るくらいなら、私が、傷ついたほうが、まし、と、思っています」
二人は、向かい合って、しばらく、黙った。
寒風が、二人の髪を、揺らした。
銀と、亜麻色が、絡んだ。
「エルネスタ」
セルディアスが、先に、口を、開いた。
「ふたりとも、傷つかない方法は、ないか」
「ありません」
彼女は、断言した。
「ただし、二人で、傷を、減らす方法は、あります」
「……」
「私たちが、互いの命を、対等に、扱うことです。あなたが、私を守るのと、同じだけ、私が、あなたを守る。あなたが、私のために死ぬのと、同じだけ、私が、あなたのために、死ぬ覚悟がある。それでこそ、私たちは、対等の、二人です」
セルディアスは、深く、息を、吐いた。
そして、跪いた。
寒風の中で、彼女の前に、片膝を、ついた。
「エルネスタ」
彼の声は、震えていた。
「許してくれ」
「セルディアスさま」
「俺は、君を、対等に、扱っていなかった。君を、守る対象として、扱っていた」
「今、気づいてくださいましたね」
「……」
エルネスタは、跪いた彼の頬に、自分の両手を、添えた。
そして、自分も、しゃがんだ。
二人の額が、寄せ合わさった。
「セルディアスさま、約束してください」
「うん」
「作戦の夜、あなたは、私と、一緒に、生きて帰る」
「うん」
「死を、選ばない」
「うん」
「私も、同じです」
その夜、二人は、寒風の中で、初めて、唇で、口づけを、交わした。
触れるだけではなく、深く。
彼女の呼吸を、彼の呼吸の中に、迎え入れた。
彼の、不安と、覚悟と、独占欲のすべてを、彼女が、受け止めた。
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## 第29話 仲直りの夜(R18)
二人が、互いの心を、ようやく、対等に、すり合わせた、その夜。
セルディアスは、寮の自室に、エルネスタを、連れて、戻った。
死の呪いの、最も暗い時期を支えてくれた女性に対する、セルディアスの、長年抑え込んできた感情の、解放。
エルネスタの、「あなたを、生かす」という決意の、肉体的な、再確認。
銀の血の魔力が、彼女の体に、浸透していく感覚。
彼女の薬剤師としての知識が、彼の体に、安らぎを、与える。
互いに、初めての夜。
朝、彼女の腕の中で、セルディアスは、初めて、深い眠りに、落ちる。
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## 第30話 冬至の祭典、宝物庫に侵入
冬至の祭典の夜が、来た。
王宮の中央広場では、王太子ライムント主催の、盛大な祭典が、行われていた。
篝火が、燃え盛り、楽団が、演奏していた。
貴族たちが、酒盃を、傾けていた。
警護兵の、九割が、広場周辺に、配置されていた。
宝物庫の入り口は、王宮の西側、地下三階だった。
警護兵は、わずか、四人。
クラウディアの計画通り、彼らの夕食には、軽いハーブが、混入されていた。
四人は、ぼんやりとした目で、席に、座っていた。
エルネスタとセルディアスは、ロベルト師の手引きで、王宮の使用人通路を、通って、宝物庫の入り口に、たどり着いた。
ヴィオレッタが、内側から、扉を、開けてくれていた。
宝物庫の、最奥。
ガラスのケースの中に、真銀の杖が、置かれていた。
全長一メートル。輝く銀色の、細身の、杖。
柄の部分に、複雑な魔術陣が、刻まれていた。
「下がってください、セルディアスさま」
エルネスタは、ガラスケースの前に、しゃがんだ。
ポーチを、開いた。
七種類の薬剤を、並べた。
五種類の魔石粉を、並べた。
そして、自分自身の、血を、一滴、銀の杯に、垂らした。
——魔術陣の解析と解除は、薬学と魔術の、複合作業だった。
詩織だった頃の薬剤師としての訓練と、エルネスタとしての魔術の鍛錬が、ここで、全面的に、活かされた。
魔術陣の各層を、一つずつ、剥がしていく。
論理的に、順序立てて。
セルディアスは、後ろで、息を、止めて、見守っていた。
——一時間、経過した。
最後の魔術陣が、解除された瞬間、ガラスケースが、ひとりでに、開いた。
真銀の杖が、エルネスタの手の中に、収まった。
「行きましょう」
エルネスタは、立ち上がった。
セルディアスが、彼女の手を、握った。
二人は、宝物庫を、後にした。
——その瞬間、宝物庫の天井で、警報の魔術陣が、起動した。
ロベルト師が、警報を遅延させていた猶予は、ここまでだった。
王宮中の警護兵が、宝物庫に、駆けつけてくる。
エルネスタと、セルディアスは、ヴィオレッタが用意した、王宮の脱出経路を、駆け抜けた。
途中、警護兵に、二度、囲まれた。
セルディアスの銀の血の魔力が、初めて、戦闘で、解放された。
銀色の閃光が、警護兵を、薙ぎ払った。
殺さなかった。意識を、奪っただけだった。
それは、エルネスタとの、約束だった。
王宮を、脱出した時、二人の体は、汗と、傷で、汚れていた。
けれども、真銀の杖は、無事だった。
そして、二人は、生きていた。
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## 第31話 ★解呪儀式と告白
★セルディアス視点
王宮を脱出した、その夜。
二人は、王都郊外の、ヴィオレッタの離宮に、隠れた。
真銀の杖を、用いた、解呪儀式が、即夜、執り行われた。
セルディアスは、儀式の魔法陣の中央に、横たわった。
エルネスタが、彼の頭の側に、立った。
真銀の杖を、両手で、握っていた。
——儀式は、命がけだった。
解呪の魔術は、術者の魔力を、極限まで、消費する。
エルネスタは、王立魔術師団最高位の魔力量を、誇っていたが、それでも、二百年前にかけられた、王家の死の呪いを、解くには、不足するかもしれなかった。
ロベルト師も、援護に、入った。
ヴィオレッタも、補助者として、儀式に、参加した。
「セルディアスさま」
エルネスタが、彼の銀の髪に、手を、置いた。
「目を、閉じてください」
「うん」
「呼吸を、整えてください」
「うん」
「私が、必ず、解きます」
「うん」
セルディアスは、目を、閉じた。
彼女の手の温度が、額に、染み込んだ。
五歳の薔薇園で、彼女が差し出した、小さな手。
七歳の死の呪い発症の日、彼女が、自分の腹に、当ててくれた、温かい手。
十歳の暗殺者の夜、彼女が、自分を、結界で、守ってくれた、必死の手。
そして、今夜、彼女が、自分の死の呪いを、解くために、震えながら、真銀の杖を、握っている、手。
(エルネスタ)
セルディアスは、心の中で、彼女の名を、呼んだ。
今までの、すべての時間を、思い出した。
そして、決めた。
呪いが解けたら、彼女に、求婚する。
正式に。
婚約者から、夫へと、立場を、進める。
彼女の隣で、自分の命を、何度でも、捧げる。
——儀式が、始まった。
エルネスタの真銀の杖から、銀色の光が、伸びた。
セルディアスの胸の上で、その光が、渦を、巻いた。
死の呪いの黒い結晶が、徐々に、浮かび上がった。
それを、銀色の光が、包み込んで、消し去った。
時間が、わからなくなった。
半時間か、二時間か。
気づいた時、セルディアスは、目を、開けていた。
天井の魔術灯が、ぼんやりと、輝いていた。
体が、軽かった。
胸の中の、二百年分の重しが、消えていた。
「……エルネスタ」
彼の声に、応えがなかった。
セルディアスは、起き上がった。
そして、見た。
エルネスタが、魔法陣の縁で、倒れていた。
真銀の杖を、まだ、握ったまま。
「エルネスタ!」
セルディアスは、彼女に、駆け寄った。
彼女の体は、青ざめていた。
魔力の、極度の、枯渇。
ロベルト師が、慌てて、駆け寄った。
ヴィオレッタも、駆け寄った。
「魔力欠乏だ。命に別状は、ないが、三日は、目を覚まさない」
ロベルト師の言葉に、セルディアスは、エルネスタを、自分の腕に、抱き上げた。
そして、彼女の、若葉色の閉じた瞼に、唇を、寄せた。
「エルネスタ」
彼は、囁いた。
「ありがとう」
「君が、目を覚ましたら、求婚する」
「待っている」
そして、夜中、彼は、彼女の枕元で、ようやく、彼女から、初めて、聞いた話を、思い出した。
出立前の夜、彼女は、自分の前世のことを、彼に、初めて、話した。
水瀬詩織。創薬会社の研究員。二十六歳で、過労死。
セルディアスは、それを、信じた。
信じて、頷いた。
彼女が、転生者であろうと、なかろうと、関係なかった。
彼女が、自分のエルネスタであることに、変わりは、なかった。
(目を、覚ましたら、たくさん、話そう)
セルディアスは、彼女の手を、握って、寝ずの番を、した。
明け方、彼の頬を、涙が、伝った。
それは、八年前、五歳のあの日、薔薇園で、彼女が手を差し出してくれた瞬間の、続きの、涙だった。
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## 第32話 死の呪い消滅、嫌悪呪いだけ残る
エルネスタは、三日、眠った。
四日目の朝、目を、覚ました。
開いた若葉色の瞳が、最初に、捉えたのは、自分の手を、握りしめている、銀色の髪の、男だった。
セルディアスが、寝ずの番を、続けていた。
「エル、ネスタ」
彼の声が、震えていた。
「目を、覚ましたか」
「セルディアスさま、——」
「ああ、よかった、本当に、よかった」
セルディアスは、彼女の手を、自分の額に、当てた。
銀の髪が、彼女の手の甲を、撫でた。
「セルディアスさま、呪いは」
「死の呪いは、消えた」
「嫌悪呪いは」
「……まだ、残っている」
エルネスタは、ふっ、と、息を、吐いた。
セルディアスの体に、再び、視線を、走らせた。
死の呪いの黒い結晶は、確かに、消えていた。
彼の周囲の魔力の流れが、初めて、健全だった。
けれども、嫌悪呪いの粘度のある霧は、依然として、彼を、包んでいた。
ただし、二百年前にかけられた呪いの「核」が、死の呪いと連動していた部分があったため、嫌悪呪いの強度は、明らかに、弱まっていた。
「セルディアスさま、嫌悪呪いの解呪は、もう少し、時間が、かかります」
「それでも、構わない」
彼は、笑った。
「死の呪いが、消えただけで、十分だ。俺は、今、初めて、未来を、考えられる」
「未来」
「君と、共に過ごす、未来」
エルネスタも、笑った。
ベッドに、座り直した。
セルディアスの顔を、両手で、包んだ。
「セルディアスさま、嫌悪呪いも、必ず、解きます」
「うん」
「それから、王太子を、討ちます」
「うん」
「ヴァイスローゼ家の叔父叔母も、片付けます」
「うん」
「それから——」
「それから?」
「あなたと、結婚します」
セルディアスの目が、見開かれた。
そして、すぐに、緩んだ。
「エルネスタ、それは、俺の、台詞だ」
「あら、先に、言わせてしまいましたか」
「うん。俺の、求婚を、待ってくれ」
「もう少し、休んでいてもいいですよ」
「いや、今、する」
セルディアスは、立ち上がった。
寝台の脇で、片膝を、ついた。
ポケットから、小さな、銀の指輪を、取り出した。
アルジェント家の家紋の、控えめな、銀の輪。
「エルネスタ・フォン・ヴァイスローゼ」
「はい」
「俺と、結婚してくれ」
「はい」
シンプルな、求婚と、シンプルな、応えだった。
余計な、装飾は、なかった。
五歳から、十一年。
二人の関係は、最初から、常に、シンプルで、深かった。
エルネスタの薬指に、銀の指輪が、はめられた。
冷たい、けれども、彼の銀の血の魔力が、わずかに、込められていた。
温かい、輪、だった。
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## 第33話 ★初めての「未来」
★セルディアス視点
セルディアスは、十六歳になっていた。
死の呪いが消えた朝、彼は、生まれて初めて、「来年の自分」を、想像した。
(来年、俺は、十七歳だ)
それは、奇妙な感覚だった。
これまで、彼は、「来年」を、計算したことが、なかった。
死の呪いは、二十歳までに、魂を、蝕んで、彼を、殺すはずだった。
だから、彼の人生計画は、「あと何年、生きていられるか」、しか、なかった。
今、それが、なくなった。
代わりに、無限の時間が、目の前に、開けていた。
(エルネスタと、結婚する)
(子どもを、持つかもしれない)
(アルジェント公爵領を、再興する)
(銀の血の真の意味を、世間に、明かす)
(王家との、長い対決を、終わらせる)
(老いる)
(白髪に、なる)
(エルネスタと、二人で、薔薇園のベンチに、座る、年老いた自分を、想像する)
セルディアスは、寝台の縁で、彼女の寝顔を、見つめた。
エルネスタは、求婚を、受けた後、再び、深く、眠っていた。
魔力の枯渇が、まだ、回復しきっていなかった。
彼女の、銀の指輪が、眠る指で、わずかに、光っていた。
(俺は、彼女を、幸せにする)
セルディアスは、決意を、新たにした。
五歳の地下の食料庫の、絶望の少年が、十六歳で、初めて、自分自身に、未来を、約束した瞬間だった。
そして、彼は、立ち上がった。
窓辺に、向かった。
ヴィオレッタの離宮の、朝の景色を、見下ろした。
冬の終わりの、白い庭。
雪が、まだ、残っていた。
(王太子)
セルディアスの、藍紫の瞳が、冷たく、光った。
死の呪いを、二百年、自分の家系に、かけ続けてきた、王家。
父を、落馬に見せかけて殺し、義母を、自分の屋敷に、送り込んできた、王家。
そして、エルネスタの父を、ヴァイスローゼ家の叔父に、暗殺させたのも、王家の意思が、絡んでいた可能性が、高かった。
レイハルトを、結果的に、殺した、王家。
(終わらせる)
セルディアスは、両手を、握りしめた。
銀の血の魔力が、健全な状態で、彼の血管を、走った。
死の呪いがなくなったことで、銀の血は、本来の力を、発揮できる、正常状態に、戻っていた。
これから、その力を、王太子に、使う。
エルネスタの「殺さない」原則を、できる限り、守りながら。
けれども、必要があれば、自分が、引き受ける。
その覚悟も、彼には、あった。
「お早うございます、セルディアス様」
背後から、ヴィオレッタの、丁寧な声が、した。
セルディアスは、振り返った。
第二王女ヴィオレッタは、十七歳。エルネスタの、学園の親友だった。
彼女は、兄王太子と、決定的に、決別する覚悟を、すでに、固めていた。
「ヴィオレッタ殿下、世話になっています」
「いえ、こちらこそ、こんな機会を、ありがとうございます」
「機会?」
「兄を、止める、機会です」
ヴィオレッタの瞳が、強く、光った。
彼女は、王家の中で、唯一、王太子の闇を、内側から、見続けてきた、少女だった。
そして、エルネスタとの友情の中で、彼女自身が、王家を、変える、という決意を、固めていた。
「セルディアス様、私は、王位継承権を、捨てません」
「ヴィオレッタ殿下、——」
「兄が、退位させられたら、私が、女王になります。アルジェント公爵家との、新しい、関係を、築きたい」
セルディアスは、頷いた。
「俺たちも、同じだ」
「では、共闘の、契約を」
「もちろん」
二人は、握手を、交わした。
冬の終わりの、朝の、王女と、公爵令息の、密約だった。
そして、それは、新しい時代の、始まりの、合図だった。
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## 第34話 ヴァイスローゼ叔父叔母の崩壊
エルネスタは、回復した後、まず、自分の家——ヴァイスローゼ公爵家の、叔父叔母の処理に、向かった。
十一年。
五歳から、十六歳まで、彼女は、叔父叔母の屋敷で、虐待を、受けながら、しかし、密かに、証拠を、集めてきた。
父の暗殺の、明確な証言を、複数、確保していた。
横領の帳簿の、改ざん前の、原本も、隠匿していた。
叔母の毒物発注の、複数年分の、記録も、押さえていた。
ヴィオレッタの王家弾劾の、政治カードと、抱き合わせる形で、エルネスタは、王立魔術師団・司法局・複数の中立貴族家を、味方につけた。
ロベルト師が、後ろ盾だった。
セルディアスが、護衛として、共に、立った。
——ヴァイスローゼ邸の、応接間。
叔父グレゴリオは、ソファで、ふんぞり返っていた。
姪の唐突な「正式な訪問」を、まだ、何かの軽い相談だ、と、思っていた。
叔母ベアトリーチェは、紅茶を、すすっていた。
いとこのフェルディは、十八歳の、わがままな顔つきで、エルネスタを、見下ろした。
「叔父さま」
エルネスタは、いつもの、無表情で、言った。
「今日、私は、ここに、最後の挨拶に、参りました」
「最後の?」
「あなた方を、司法局に、引き渡します」
叔父の顔が、ぴくり、と、止まった。
「何の冗談だ、エルネスタ」
「証拠は、すべて、揃っています」
エルネスタは、革のフォルダを、テーブルに、置いた。
ロベルト師が、扉から、入ってきた。
セルディアスが、その隣に、立った。
そして、王立司法局の、十二人の捜査官が、応接間を、囲んだ。
「ヴァイスローゼ前公爵殿下の、暗殺。十一年に渡る、横領。先代公爵夫人——私の母——への、毒殺。エルネスタ・フォン・ヴァイスローゼ嬢への、長期にわたる、児童虐待。証拠は、こちらに」
ロベルト師の、声が、響いた。
叔父グレゴリオは、立ち上がろうとして、足を、もつれさせた。
叔母ベアトリーチェは、紅茶のカップを、落とした。
フェルディは、叫んだ。
「父上!」
「黙れ、フェルディ!」
「これは、——これは、捏造だ! エルネスタ、お前——」
「あなたが、私の父を、殺した時、私は、五歳でした」
エルネスタの、若葉色の瞳が、初めて、冷たく、光った。
「その時の、薔薇園の、記憶を、私は、十一年、覚えていました」
「……」
「叔父さま、もう、終わりです」
捜査官たちが、叔父叔母を、拘束した。
フェルディも、共謀の容疑で、別途、調査されることになった。
エルネスタは、応接間を、出た。
玄関で、振り返った。
父が、最後に、刺された薔薇園が、窓越しに、見えた。
(父さま、ただいま、戻りました)
エルネスタの、若葉色の瞳に、涙が、にじんだ。
セルディアスが、その肩を、抱いた。
無言で。
ただ、抱いた。
エルネスタは、その夜、ヴァイスローゼ公爵家を、正式に、継承した。
十六歳の、若い女公爵の、誕生だった。
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## 第35話 義母クラリッサ・義弟ロデリックの追放
数日後、セルディアスは、自分の番として、アルジェント邸に、向かった。
エルネスタが、共に、立った。
ヴィオレッタも、王家代表として、立ち会った。
証拠は、揃っていた。
義母クラリッサが、王太子と、密に、連絡を、取っていた書簡。
義弟ロデリックが、過去に、使用人を通じて、セルディアスの食事に、毒を、混入させていた、証言記録。
何より、二人の暗殺指令の、王太子の署名入りの、密書。
——アルジェント邸の、大広間。
クラリッサは、自分の絹のドレスの裾を、握りしめていた。
ロデリックは、震えていた。
セルディアスは、彼らの、向かいに、立った。
銀の血が、健全な状態で、彼の体に、流れていた。
死の呪いが消えたことで、彼の周囲の空気は、もう、暗くなかった。
むしろ、銀色の、清廉な、魔力で、満ちていた。
(まだ、嫌悪呪いだけは、残っているけれど)
セルディアスは、それでも、堂々と、立っていた。
五歳の地下の食料庫の少年が、十六歳で、自分の屋敷の主として、義母と、義弟を、断罪しようとしていた。
「クラリッサ、ロデリック」
セルディアスの、低い声が、響いた。
「お前たちは、私の、十一年分の苦しみと、引き換えに、何を、得た」
「セルディアス、あなた、私たちを——」
「公爵領からの、永久追放だ」
セルディアスは、書類を、テーブルに、置いた。
クラリッサの目が、絶望に、染まった。
「殺さない。エルネスタとの、約束だ」
彼は、続けた。
「だが、お前たちは、二度と、この公爵領の地を、踏まない。財産は、すべて、没収する。お前たちは、王太子から、わずかな手当を、もらいながら、隣国で、惨めに、生きるがいい」
「セルディアス、——」
「最後に、ひとつ、聞きたい」
彼の声が、わずかに、震えた。
「父を、殺したのは、お前たちか。それとも、王太子の、直接の、手か」
クラリッサは、唇を、噛んだ。
答えなかった。
ロデリックが、震える声で、言った。
「父上は、——王太子殿下の、命令で、——お、お義母さまが、毒を、——」
「ロデリック、黙れ!」
クラリッサが、叫んだ。
けれども、もう、遅かった。
セルディアスの目に、銀色の、冷たい、怒りが、走った。
彼の銀の血の魔力が、室内の温度を、わずかに、下げた。
——けれども、彼は、彼らに、手を、上げなかった。
エルネスタとの、約束だった。
「連れていけ」
セルディアスは、捜査官に、命じた。
クラリッサと、ロデリックは、引きずられて、大広間を、出ていった。
クラリッサの、最後の悲鳴が、廊下に、こだました。
そして、扉が、閉まった。
セルディアスは、誰もいなくなった大広間で、長く、息を、吐いた。
「お父さま」
彼は、亡き父の肖像画を、見上げた。
「俺は、生き延びました」
「あなたが、誰に殺されたかも、明らかにしました」
「あとは、王太子だけです」
エルネスタが、彼の隣に、立った。
銀の指輪をはめた手で、彼の手を、握った。
「セルディアスさま」
「うん」
「次は、王太子です」
「うん」
「終わらせましょう」
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## 第36話 王太子失脚、ヴィオレッタ即位
王太子ライムントの失脚は、政治的には、半年かけた、丁寧な、手続きだった。
セルディアス、エルネスタ、ヴィオレッタ、ロベルト師、ゾンネンシュタイン家、その他、数十の中立・反王太子派の貴族家が、連合した。
真銀の杖を、王宮から「王立魔術師団に正式に保管を移管する」、という名目で、表に出した。
古文書「アルジェント家、銀の血の真実」の写しが、一部の貴族家に、密かに、配られた。
レイハルトの死の真相が、ゾンネンシュタイン家から、王宮の調査委員会に、提出された。
ヴァイスローゼ叔父叔母の処分の経緯から、王太子の、過去の暗殺関与が、芋づる式に、暴かれた。
——王宮の、貴族院、緊急議会。
王太子ライムントは、貴族院の、特別審議の場で、弾劾された。
証拠は、覆らなかった。
王自身も、息子を、もはや、庇いきれなかった。
古い王が、長く、息を、吐いた後、宣言した。
「王太子ライムントの、王位継承権を、剥奪する。第二王女ヴィオレッタを、王太女と、する」
貴族院の、半数以上の、貴族が、同意した。
反対派は、すでに、王太子の腐敗に、与していた者たちだけだった。
彼らも、半数を、欠いていた。
ライムントは、震えながら、議場を、引きずられて、出ていった。
処遇は、永久幽閉。死罪は、免れた。
ヴィオレッタが、それを、進言した。
「兄を、殺さない」、というのが、彼女の、最後の、譲歩だった。
セルディアスも、エルネスタも、同意した。
殺せば、彼らも、王太子と、同じになる。
——その夜、王宮の中央広場で、ヴィオレッタの、王太女即位の儀式が、行われた。
ヴィオレッタは、十七歳。
銀色の、控えめな、ドレス。
青い瞳が、強く、光っていた。
彼女の、隣に、エルネスタが、王立魔術師団代表として、立った。
セルディアスが、アルジェント公爵代理として、立った。
「私は、ヴェルセリア王国の、新しい、時代を、始めます」
ヴィオレッタの、声が、広場に、響いた。
「アルジェント家との、五百年の、対立を、終わらせます」
「ヴァイスローゼ家との、長年の、不当な抑圧を、清算します」
「これからの、王国は、銀の血と、共に、歩みます」
広場の、貴族たちが、深々と、頭を、下げた。
セルディアスは、その瞬間、人生で、初めて、王宮の中央広場で、貴族たちが、自分に、頭を、下げる光景を、見た。
五歳の地下の食料庫の少年が、十六歳で、王宮の表舞台に、立つ瞬間だった。
(嫌悪呪いは、まだ、残っている)
セルディアスは、わずかな、ほつれを、感じた。
人々の、頭が、下がっていた。けれども、視線は、まだ、わずかに、彼を、避けた。
完全な解呪には、もう一段階、儀式が、必要だった。
それは、もう少し、後の話だった。
今は、この、勝利の瞬間を、噛みしめる時だった。
エルネスタが、セルディアスの手を、握った。
銀の指輪が、夜風で、わずかに、光った。
セルディアスは、彼女の手を、握り返した。
(まだ、終わっていない)
けれども、もう、少しで。
もう、少しで。
彼の、二百年分の、家系の、苦しみが、終わる。
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## 第37話 ★嫌悪呪いの完全解呪
★セルディアス視点
ヴィオレッタの即位から、ひと月後。
セルディアスは、エルネスタと、ロベルト師の指導の下、嫌悪呪いの、完全解呪儀式を、迎えた。
場所は、アルジェント家の、領地の中心にある、古代神殿だった。
五百年前、アルジェント家が、まだ、王家として、君臨していた時代の、神殿。
銀の血の、源流の、土地。
セルディアスは、その聖域に、立った。
——銀の血を、完全に、覚醒させる。
それが、最後の、儀式だった。
死の呪いがあった頃は、銀の血の完全覚醒は、不可能だった。
覚醒の魔力負荷に、呪われた魂が、耐えられなかった。
今、死の呪いが、消えた。
銀の血を、本来の、力で、目覚めさせることが、できる。
そして、銀の血の、根源的な、清浄の力で、嫌悪呪いの、最後の、霧を、振り払う。
それが、儀式の、原理だった。
「セルディアスさま」
エルネスタが、神殿の、聖壇の前で、彼の手を、握った。
「ご準備は」
「うん」
「魔力負荷は、相当です。私が、補助します」
「うん」
「お父さまの、銀の魔力陣を、思い出してください」
「うん」
セルディアスは、目を、閉じた。
亡き父の、銀の髪の、藍紫の瞳の、笑顔を、思い出した。
「お前は、銀の血の、最後の、正統な子だ。お前を、恐れる者は、多い。だが、お前自身が、恐れてはいけない」
父の、最後の言葉。
セルディアスは、十六歳の心臓に、その言葉を、もう一度、刻みつけた。
——儀式が、始まった。
セルディアスの体の中で、銀の血が、覚醒した。
五百年、抑え込まれていた、純粋な、銀色の魔力が、彼の体の、すべての血管を、満たした。
彼の銀の髪が、光に、変わった。
彼の藍紫の瞳が、銀色に、染まった。
神殿の聖壇が、銀色の閃光に、包まれた。
——そして、嫌悪呪いの、霧が、剥がれていった。
二百年、彼の家系を、覆っていた、粘度のある、嫌悪の指。
それが、セルディアスの体の表面から、ぞろり、と、剥がれて、銀色の光に、焼かれていった。
神殿の、外で、エルネスタが、補助の魔力を、注ぎ込んだ。
ロベルト師も、ヴィオレッタも、補助に、加わっていた。
時間が、わからなくなった。
気づいた時、セルディアスは、聖壇の、前で、立っていた。
銀の髪は、もう、ただの、銀の髪に戻っていた。
藍紫の瞳も、ただの、藍紫の瞳に戻っていた。
けれども。
彼の体の、周囲の空気が、初めて、清廉だった。
嫌悪呪いの、霧が、完全に、消えていた。
——神殿の、外。
エルネスタが、彼を、見ていた。
彼女の、若葉色の瞳が、ぱあ、と、輝いた。
「セルディアスさま」
彼女の声が、震えていた。
「お顔が、お顔が、——」
「どうした」
「初めて、見ます。あなたの、お顔の、そのままを」
セルディアスは、戸惑った。
そして、神殿の、銀の鏡を、覗き込んだ。
そこに、映っていたのは、十六歳の、銀の髪の、藍紫の瞳の、整った顔立ちの、青年だった。
誰も、目を、逸らさない。
彼自身が、自分の顔を、まっすぐに、見られる。
鏡の中の、自分が、初めて、自分のもとに、戻ってきた瞬間だった。
セルディアスは、両手で、自分の顔を、覆った。
泣かなかった。
ただ、長く、長く、息を、吐いた。
(僕は、——いや、俺は、ここに、いる)
そして、外で、待っていたエルネスタの、もとに、駆け寄った。
神殿の、入口で、彼女を、抱きしめた。
彼女の、亜麻色の髪に、自分の頬を、寄せた。
彼女の、温度が、伝わってきた。
五歳の薔薇園の、あの日と、同じ、温度だった。
「エルネスタ」
彼の声は、潰れていた。
「ありがとう」
「セルディアスさま」
彼女の声も、震えていた。
「これで、全部、終わりました」
そして、神殿の、入口で、初めて、二人は、互いの、すべてが、見える状態で、接吻した。
誰の、目も、彼を、避けなかった。
神殿の周囲に、集まっていた、領民たちが、初めて、二人を、見て、歓声を、上げた。
「アルジェント公爵様、おめでとうございます!」
「ヴァイスローゼ女公爵様、おめでとうございます!」
セルディアスは、その歓声を、初めて、自分の耳で、まともに、聞いた。
五歳の、地下の食料庫の少年が、十六歳で、領民から、初めて、祝福される瞬間だった。
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## 第38話 公爵夫妻のお披露目
嫌悪呪いの解呪から、半年後。
セルディアスとエルネスタの、公爵夫妻の正式お披露目が、王都で、行われた。
王宮の、中央広場。
新女王ヴィオレッタの、正式な祝辞のもと、二人は、貴族院と、市民の前に、立った。
セルディアスは、十七歳になっていた。
銀の髪が、肩で、揺れていた。
藍紫の瞳が、健全な光を、湛えていた。
彼の、整った顔立ちは、もう、誰も、目を、逸らさなかった。
むしろ、貴族令嬢たちの、半数以上が、彼を、見て、頬を、染めていた。
(——遅い)
セルディアスは、苦笑した。
今になって、彼を、「美しい」と、評価する貴族令嬢たち。
彼が、嫌悪呪いを背負っていた十六年間は、誰も、彼を、見ようとしなかった。
それが、急に、見るようになる。
それは、人間の、業だった。
セルディアスは、それを、責めなかった。
ただ、エルネスタの手を、強く、握った。
彼女は、最初から、彼を、見ていた。
それが、すべてだった。
エルネスタは、十七歳になっていた。
亜麻色の髪が、儀式用に、丁寧に、結い上げられていた。
若葉色の瞳が、冬の空のように、澄んでいた。
彼女は、ヴァイスローゼ家の、若い女公爵として、堂々と、立っていた。
「アルジェント公爵セルディアス様、ヴァイスローゼ女公爵エルネスタ様の、ご婚約を、正式に、王家として、承認します」
ヴィオレッタが、貴族院の議場で、宣言した。
「両家の、長年の、苦難を、王家の名において、お詫びします。そして、両家の、新しい、時代を、王家として、支援します」
貴族院の、貴族たちが、深々と、頭を、下げた。
広場に、市民の、歓声が、上がった。
銀の血の継承者と、ヴァイスローゼの、若い女公爵。
新女王ヴィオレッタの、新しい時代の、象徴的な、二人だった。
その日、王都の中央広場で、二人は、初めて、公の場で、長く、抱き合った。
誰も、目を、逸らさなかった。
誰も、二人の幸せを、邪魔しなかった。
夜、二人は、ヴィオレッタの離宮で、ささやかな、祝宴を、開いた。
ロベルト師、クラウディア、ゾンネンシュタイン家の当主、王立魔術師団の、ごく限られた、信頼できる仲間だけだった。
レイハルトの遺影が、テーブルの隅に、置かれていた。
セルディアスは、彼の遺影に、酒を、捧げた。
「ありがとう、レイハルト殿。あなたの命に、誓って、エルネスタを、幸せにする」
その夜、エルネスタは、長い、長い、息を、吐いた。
五歳の、父の死から、十二年。
詩織として死んだ過労の夜から、もう、何年経ったかも、わからない。
ようやく、自分の、本当の、人生が、ここから、始まる、と、感じた。
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## 第39話 婚礼と最終夜(R18)
婚礼は、王立大聖堂で、行われた。
千二百名の、招待客。
王国中の、貴族と、商家と、王立魔術師団の代表が、参列した。
ヴィオレッタが、王として、列席した。
ロベルト師が、新郎新婦の、後見人として、立った。
クラウディアが、エルネスタの、付き添いを、務めた。
ゾンネンシュタイン家の現当主——レイハルトの、弟——が、新郎の、付添人を、務めた。
セルディアスの、白銀の婚礼衣装。
エルネスタの、絹の白いドレス。
亜麻色の髪が、銀の冠で、飾られていた。
若葉色の瞳が、若い、新妻の、確かな、決意を、湛えていた。
二人は、聖壇の、前で、誓いを、交わした。
「私、セルディアス・フォン・アルジェントは、エルネスタ・フォン・ヴァイスローゼを、生涯の、伴侶とし、永遠に、共にあることを、誓います」
「私、エルネスタ・フォン・ヴァイスローゼは、セルディアス・フォン・アルジェントを、生涯の、伴侶とし、永遠に、共にあることを、誓います」
二人の、銀の指輪が、聖壇の、灯りの下で、光った。
誓いの口づけが、交わされた。
聖堂の、千二百名が、立ち上がって、拍手を、送った。
——その夜。
セルディアスとエルネスタの、新居となる、アルジェント邸の、主寝室。
長い、長い、夜だった。
二人の、五歳から十七歳までの、十二年間の、すべてが、その一夜に、流れ込んだ。
セルディアスの、地下の食料庫の、五歳の絶望。
エルネスタの、薔薇園の、五歳の覚醒。
七歳の、死の呪い発症の、血の朝。
八歳の、お守り作りの、夜。
十歳の、雪の暗殺者の夜。
十三歳の、再会の正門。
十六歳の、解呪儀式の、銀色の光。
十七歳の、嫌悪呪い解呪の、聖域の銀。
そのすべてが、二人の、肌に、刻まれていた。
[正式稿で執筆予定/本スケルトン版では省略]
朝、エルネスタは、セルディアスの腕の中で、目を覚ました。
銀の髪が、彼女の頬に、触れていた。
彼の、安らかな、寝息。
彼女は、彼の額に、唇を、寄せた。
「セルディアスさま」
彼女は、囁いた。
「ようやく、私は、あなたを、生かしました」
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## 第40話 エピローグ/第二子妊娠
三年後。
アルジェント・ヴァイスローゼ連合公爵領は、ヴェルセリア王国の、北部経済の中核に、なっていた。
セルディアスが、領主として、銀の血の魔力で、領地の魔脈を、整え直した。
エルネスタが、王立魔術師団の、薬学・治癒部門の、若き責任者として、活動した。
公爵領の医療水準は、王国一に、なった。
領民の、生活水準が、見違えるほど、向上した。
二人は、第一子に、ルカン・フォン・アルジェントを、迎えていた。
銀の髪に、若葉色の瞳の、二歳の男児。
エルネスタの父の名と、セルディアスの父の名から、一文字ずつ、取った。
小さな手で、母の魔術書を、いじりまわすのが、最近の、お気に入りだった。
「お父さま、お母さま!」
ルカンが、薔薇園の、ベンチの前で、笑った。
「お花、きれい!」
セルディアスが、しゃがんで、ルカンの頭を、撫でた。
銀の髪を、優しく。
ルカンが、父に、ぎゅっ、と、抱きついた。
セルディアスは、目を、閉じた。
五歳の、地下の食料庫の自分が、二歳の息子を、抱きしめている、現在の自分を、見ていた。
あの日の、絶望の少年に、伝えたかった。
「俺は、お前の二歳の息子を、抱きしめる、未来に、生きている」、と。
エルネスタが、ベンチに、座っていた。
亜麻色の髪が、二十歳の、若い、母らしく、緩やかに、肩で、揺れていた。
若葉色の瞳が、夫と息子を、優しく、見つめていた。
そして、彼女の、お腹に、片手を、添えていた。
「セルディアスさま」
彼女が、呼んだ。
「うん」
「実は、——」
セルディアスは、ルカンを、抱き上げて、ベンチに、座った。
エルネスタの隣に、寄り添った。
彼女の、若葉色の瞳が、笑っていた。
「第二子です」
セルディアスは、息を、止めた。
そして、エルネスタの、お腹に、自分の手を、重ねた。
銀の血の魔力が、わずかに、伝わって、お腹の中の、新しい命を、温めた。
お腹の中の小さな命が、それに、応えるように、わずかに、動いた。
「エルネスタ」
彼の声は、震えていた。
「今度は、女の子だと、いい」
「私も、そう思います」
「君に、似た、女の子だ」
「あら、私に似たら、うるさいですよ」
「うるさくていい」
エルネスタは、笑った。
ルカンが、二人の間で、不思議そうに、見上げた。
「お母さま、お腹、痛い?」
「いいえ、ルカン、お腹に、赤ちゃんが、いるのよ」
「赤ちゃん」
「あなたの、妹か、弟」
「ぼく、お兄さま」
「そう、お兄さま」
ルカンは、得意げに、胸を、張った。
セルディアスは、息子の頭を、撫でた。
そして、エルネスタの肩に、自分の頭を、預けた。
——薔薇園のベンチ。
五歳の、二人が、初めて、出会った場所。
あれから、十五年。
ベンチの上の、二人は、今、夫婦であり、両親であり、互いの、生涯の、伴侶だった。
「エルネスタ」
セルディアスが、囁いた。
「ありがとう」
「何が、ですか」
「俺を、生かしてくれて」
「私こそ、ありがとうございます」
「何が」
「私を、待っていてくれて」
二人の、銀の指輪が、夕日の中で、金色に、染まった。
ルカンが、その指輪を、見て、笑った。
——薔薇園に、新しい風が、吹いた。
銀の血の、新しい時代の、風だった。
それは、王国の、北の、雪の、季節を、越えて、やがて、王国全体に、広がっていった。
【完】




