余命半年の婚約者に『婚約解消』を告げられましたが、お断りいたします~病人の世話係と蔑まれた令嬢は聖女でした~
【お知らせ】
この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています
あらかじめご了承の上、お楽しみください
「——あと半年だそうです」
婚約者のレオンハルト公爵が、まるで明日の天気を告げるような穏やかさで言った。
銀灰色の髪が窓からの光を受けて淡く輝いている。冬の湖を思わせる青灰色の瞳は、いつものように静かで、どこか遠くを見つめていた。
余命宣告。
それは私ではなく、彼自身のことだった。
「ですから、婚約は解消します」
彼は微笑んだ。儚げで、美しくて、そして——どこまでも諦めきった笑み。
「貴女を未亡人にするわけにはいきませんから」
優しい言葉。
誰が聞いても、彼は婚約者を思いやる理想的な貴公子だろう。病に蝕まれながらも、最期まで私の幸福を願ってくれる高潔な人物。
けれど私は知っている。
彼が本当に守りたいのは、私ではなく——私の『その後』の自由だということを。
(……勝手に決めないでくださいませんこと?)
十五年。
幼い頃から婚約者として、私はずっとこの人を見てきた。病床に伏せる彼を見舞い、社交界では『献身的な婚約者』と称えられ、実家では『病人の世話係』と蔑まれながら。
「セラフィーナ」
彼が私の名を呼ぶ。
「貴女には、もっと相応しい方がいる。健康で、貴女を幸せにできる——」
「レオンハルト様」
私は彼の言葉を遮った。
表面上は穏やかに。けれど、心は静かに燃え上がっていた。
「その件につきましては」
私は真っ直ぐに彼を見つめる。翡翠色の瞳に、十五年分の想いを込めて。
「——お断りいたします」
◇◇◇
公爵邸の応接室に、重い沈黙が落ちた。
「……今、なんと?」
レオンハルト様が目を見開いている。普段の達観した表情が崩れ、純粋な驚愕が浮かんでいた。
(あら、そんな顔もできるのですね)
十五年の付き合いで、初めて見る表情かもしれない。
「お断りすると申し上げました」
私は淑女の微笑みを崩さない。声も、姿勢も、完璧に保つ。
「婚約解消のお申し出を、謹んでお断りいたします」
「しかし——」
「半年なのでしょう?」
私は一歩、彼に近づいた。
「でしたら、半年を共に過ごします」
「何を言って——」
「レオンハルト様」
私は彼の言葉を再び遮る。今度は、もう少しだけ強く。
「私は十五年間、貴方様の婚約者でした。社交界では『献身的』と褒めそやされ、実家では『病人に縛られた哀れな娘』と蔑まれてきました」
彼の顔が苦しげに歪む。罪悪感。いつもの、あの表情。
「だからこそ——」
「違います」
私は首を横に振った。
「私が申し上げたいのは、恨み言ではありません」
窓から差し込む光が、彼の銀灰色の髪を照らしている。病に蝕まれてなお、彼は美しい。儚げで、壊れそうで、——だからこそ、守りたいと思った。
「私は、私の意思でここにいるのです」
(誰かに強いられたわけではありませんわ。少なくとも、最初は)
「貴方様が『申し訳ない』と思うのは自由です。けれど、その罪悪感で私の選択まで奪わないでくださいませ」
「……セラフィーナ」
「私は——」
声が、少しだけ震えた。
十五年。ずっと、言えなかった言葉。
「私は、貴方様のお傍にいたいのです。貴方様が望まなくとも。残された時間が半年でも、一月でも、一日でも」
彼の青灰色の瞳が揺れる。
「どうして、そこまで——」
「『どうして』ですって?」
私は思わず小さく笑ってしまった。
(十五年も傍にいて、まだお気づきになりませんの?)
「それは——」
言いかけて、私は口を閉じた。
今はまだ、その言葉を告げる時ではない。
「いずれ、お伝えいたします」
私は微笑んだ。今度は、心からの笑みで。
「ですから——どうか、もう少しだけ、傍にいることをお許しくださいませ」
◇◇◇
その夜、私は自室で一人、天蓋付きの寝台に腰かけていた。
「……半年」
呟いた言葉が、静かな部屋に溶けていく。
(本当に、半年で終わらせるつもり?)
私は自分の両手を見つめた。
白くて、華奢で、何の力もないように見える手。
けれど——この手には、誰にも明かしていない力がある。
『癒しの聖女』。
幼い頃、偶然発現したその力を、私はずっと隠してきた。実家に知られれば、政治の道具にされる。社交界に知られれば、好奇の目に晒される。
何より——治せる保証などなかったから。
「でも」
私は両手を握りしめた。
(試しもせずに、諦めることだけはしたくない)
扉を叩く音がした。
「お嬢様、マリアンヌでございます」
「入って」
栗色の髪をきっちりとまとめた侍女が、静かに部屋に入ってくる。聡明な茶色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめた。
「公爵邸でのこと、お聞きしました」
「……そう」
「婚約解消をお断りになったとか」
マリアンヌの声には、微かな——けれど確かな喜びが滲んでいた。
「ようやく、ご自身のお気持ちを口になさいましたね」
「……ようやく、ね」
私は苦笑した。
十五年。長すぎた。
「マリアンヌ」
「はい」
「私の『力』のこと——貴女は知っているわね?」
侍女は一瞬だけ目を見開き、すぐに静かに頷いた。
「五年前から、存じ上げております」
「そう」
(やっぱり、気づいていたのね)
「あの力で、レオンハルト様を——」
「ええ」
私は立ち上がった。
「治せる保証はない。けれど、やれることは全てやる」
マリアンヌが深く頭を下げた。
「お嬢様のお力になれることがあれば、何なりとお申し付けくださいませ。このマリアンヌ、お嬢様の幸せのためなら——何でもいたします」
「……ありがとう」
窓の外では、月が静かに輝いていた。
(半年——いいえ、そんな結末は認めない)
私は決意を固めた。
もう、何も諦めない。
誰にも、何も、譲らない。
——私の物語は、ここから始まる。
◇◇◇
翌日、私は実家であるローゼンクランツ伯爵邸に呼び出された。
(嫌な予感しかしませんわね)
父の書斎に通されると、案の定、不機嫌そうな顔をした伯爵——私の父が待ち構えていた。
白髪交じりの茶髪に、濁った緑の目。かつては端正だったのだろう面影は、今では強欲と傲慢に歪んでいる。
「セラフィーナ」
父は書類から顔も上げずに言った。
「公爵家から連絡があった。婚約解消を断ったそうだな」
「はい、お父様」
私は淑女の礼を取る。完璧に。一分の隙もなく。
「……正気か?」
ようやく顔を上げた父の目には、明らかな苛立ちが浮かんでいた。
「あの病人、余命半年だそうじゃないか。今なら傷も浅い。さっさと縁を切って、別の相手を探せ」
(病人、ですか。貴方の娘の婚約者を、そう呼ぶのですね)
「恐れながら、お父様」
私は顔を上げた。
「私は、私の意思で行動しております」
「意思だと? お前の意思など、知ったことか!」
父の顔が、怒りで真っ赤に染まっている。
「いいか、セラフィーナ。ヴィルヘルム殿から話があった。あの病人が死ねば、次の公爵は彼だ。そして——」
「そして?」
「お前をヴィルヘルム殿に嫁がせる約束をした」
私は、ゆっくりと瞬きをした。
(……なるほど。繋がりましたわね)
「お父様。それは——私に、婚約者の死を望めと?」
「何を言っている。どうせ半年で死ぬ相手だ。それなら、次の公爵に繋ぎを付けておく方が賢い選択——」
「お父様」
私は、静かに口を開いた。
「私は、その話をお断りいたします」
「な——」
「そして、もう一つ」
私は真っ直ぐに父を見つめた。
「レオンハルト様は——死にません」
「何を馬鹿な——」
「私が、救いますから」
父の顔が、一瞬凍りついた。
「……お前、何を言って——」
「失礼いたします」
私は一礼して、書斎を出た。
背後で、父の怒声が聞こえた。けれど、もう振り返る気はなかった。
(この家とは——もう、終わりですわね)
廊下を歩きながら、私は胸の奥で決意を固めた。
◇◇◇
数日後、私は公爵邸を訪れた。
「セラフィーナ様、お待ちしておりました」
出迎えてくれたのは、銀髪を短く刈り上げた精悍な顔つきの執事——クラウスだった。
「レオンハルト様は、本日はお加減が——」
「良くない、ということね」
「……恐れ入ります」
クラウスの表情は変わらない。けれど、その目の奥に深い憂いが宿っているのを、私は見逃さなかった。
「お部屋にご案内いたします」
長い廊下を歩きながら、私はそれとなく尋ねた。
「クラウス。最近、何か変わったことはなくて?」
「変わったこと、でございますか」
「ええ。たとえば——見慣れない訪問者とか」
一瞬、クラウスの足が止まった。
すぐに歩き始めたが、その反応を私は見逃さなかった。
「……セラフィーナ様」
「何かしら」
「失礼ながら、お尋ねしたいことがございます」
クラウスは立ち止まり、私を真っ直ぐに見つめた。
「貴女様は——本当に、若様のことを想っておいでなのですか?」
(ずいぶん直接的な質問ですこと)
「なぜ、そのようなことを?」
「若様は、ずっと貴女様に申し訳ないと思っておられた。自分のせいで、貴女様の人生を縛っていると」
クラウスの声には、主人への深い忠誠が滲んでいた。
「だからこそ、婚約解消を——」
「クラウス」
私は彼の言葉を遮った。
「私は十五年間、レオンハルト様の傍にいた。それが義務だったから? 違うわ」
私は一歩、執事に近づいた。
「私があの方の傍にいたいと思ったから。私が、あの方を——」
言葉が詰まる。
十五年間、一度も口にしたことのない言葉。
「……分かりました」
クラウスが深く頭を下げた。
「セラフィーナ様。実は——お話ししたいことがございます」
「聞かせて」
「ここでは人目が。後ほど、お時間をいただけますか」
私は頷いた。
(やはり、何かある)
◇◇◇
レオンハルト様の部屋は、薄暗かった。
カーテンが閉め切られ、僅かな隙間から差し込む光だけが、室内を照らしている。
「……セラフィーナ?」
寝台の上で、彼が目を開けた。
青灰色の瞳は熱っぽく潤み、普段より一層儚げに見える。銀灰色の髪が汗で額に張り付いていた。
「お加減はいかが?」
私は寝台の傍らに椅子を引き、腰を下ろした。
「……昨日よりは、少し」
彼は微かに笑った。けれど、その笑みはすぐに苦しげに歪んだ。
「来なくて良かったのに。このような姿を、見せたくなかった」
「私は、貴方様の婚約者ですわ」
私は彼の手を取った。
熱い。高熱のせいだろう。
けれど——それだけではない。
(やっぱり……)
彼の手に触れた瞬間、私の中の『力』が反応した。
冷たい。禍々しい。身体の奥深くに、何か暗いものが根を張っている。
これは——病ではない。
「レオンハルト様」
私は彼の目を真っ直ぐに見つめた。
「失礼を承知でお尋ねします。貴方様のご病気について——何か、心当たりはございません?」
「……心当たり?」
「いつ頃から、このように?」
彼は少し考え込んだ。
「……三年ほど前からだろうか。急に体調を崩すようになって、医師に診せても原因が分からず——」
「三年前」
私は反芻した。
「その頃、何か変わったことは?」
「変わったこと……」
彼の瞳が、僅かに揺れた。
「——ああ、そういえば」
「何か?」
「あの頃から、ヴィルヘルムがよく訪ねてくるようになった。『体調が心配だから』と言って、見舞いの品を持って」
(ヴィルヘルム)
私の中で、パズルのピースが嵌まっていく。
「その見舞いの品とは?」
「薬湯や、滋養強壮の菓子など。親族として心配してくれているのだと——」
「レオンハルト様」
私は彼の手を、少しだけ強く握った。
「その品々を、今後は口にしないでいただけますか」
「……どういう意味だ?」
彼の瞳が、鋭くなった。病に蝕まれてなお、この人は聡明だ。
「まだ確証はありません。けれど——」
私は一度言葉を切り、意を決した。
「貴方様を蝕んでいるのは、病ではないかもしれません」
「何だと?」
「呪い、です」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
「……呪い、だと?」
「はい」
私は彼の手を握ったまま、目を閉じた。
意識を集中する。身体の奥底に眠る、あの力を呼び起こす。
「——っ」
私の手が、淡く光り始めた。
「セラフィーナ、これは——」
「見ていてください」
光が、彼の身体へと流れ込んでいく。
病を癒す光。聖女の祝福。
けれど——
「ぐっ——!」
彼の身体が、激しく痙攣した。
「レオンハルト様!」
私は慌てて力を引く。
彼の身体から、黒い霧のようなものが立ち上っていた。私の癒しの光に反発するように、禍々しく蠢いている。
「……これは」
彼が呆然と呟いた。
「呪い——本当に、呪われていたのか。私は——」
「レオンハルト様」
私は彼の顔を両手で挟み、真っ直ぐに見つめた。
「これで分かりました。貴方様の病は、人為的なものです。誰かが、貴方様を——」
「殺そうとしている、と?」
彼の声は、驚くほど冷静だった。
「……心当たりがある」
「ヴィルヘルム様、ですね」
彼が頷いた。
「三年前——私が成人し、正式に公爵位を継いでから。彼の態度が変わった」
「公爵位の継承権を、狙っているのでしょう」
「だろうな」
彼は苦笑した。けれど、その瞳にはもう諦観はなかった。
「セラフィーナ」
「はい」
「貴女は——聖女、なのか?」
私は一瞬躊躇い、そして頷いた。
「幼い頃から、この力がありました。誰にも言わずに、隠してきましたけれど」
「なぜ、今——」
「決まっています」
私は微笑んだ。
「貴方様を、救うためです」
彼の青灰色の瞳が、大きく見開かれた。
そして——
「……私は」
彼の声が、震えていた。
「私は、ずっと——死を受け入れていた。貴女に迷惑をかけたくない、未亡人にしたくない。だから、婚約を解消して、静かに逝こうと——」
「レオンハルト様」
「けれど、それは——」
彼の目に、涙が滲んでいた。
「殺されることを、受け入れていたということか。誰かの悪意に、屈服していたということか」
「……ええ」
私は、彼の涙を指で拭った。
「でも、もう——」
「セラフィーナ」
彼が、私の手を掴んだ。
震える手。けれど、その握力には——確かな意志が宿っていた。
「私は——」
彼の瞳が、私を真っ直ぐに捉えた。
「生きたい」
その言葉が、静かな部屋に響く。
「貴女の傍で——生きたいと、思う」
私の目から、涙が零れ落ちた。
「……ようやく」
「すまない」
「謝らないで」
私は彼の手を、強く握り返した。
「一緒に、戦いましょう。呪いも、黒幕も——全部、暴いて」
「ああ」
彼が頷いた。
「——一緒に」
窓の外で、雲間から陽光が差し込んだ。
暗闘の中で、確かな希望が生まれた瞬間だった。
◇◇◇
その夜、私はクラウスから密かに話を聞いた。
「三年前から——若様のお部屋に、不審な人物が出入りしていたのです」
クラウスの声は、怒りを押し殺したように低かった。
「見慣れない使用人が、ヴィルヘルム様の紹介で雇われました。若様の身の回りの世話をするという名目で」
「その使用人は、今どこに?」
「半年前に、突然姿を消しました。ちょうど——若様の容態が急激に悪化した時期と、重なります」
私は眉を顰めた。
「計画的ね。呪いを十分に根付かせてから、証拠を消したということ」
「恐れながら——そのように推測しております」
クラウスが深く頭を下げた。
「私の不明でした。もっと早く気づいていれば——」
「貴方のせいではないわ、クラウス」
私は首を横に振った。
「それより、他に証拠になりそうなものは?」
「ヴィルヘルム様が持参された『見舞いの品』を、いくつか保管しております」
「それを、調べられる人に——」
「大神官カシウス様」
不意に、クラウスがその名を口にした。
「王国の聖教会を統べる方です。呪いに関しても、深い知識をお持ちと聞いております」
「大神官……」
私は考え込んだ。
聖女の力を持つ私が、教会に接触する。それは——私の秘密を明かすことでもある。
「お嬢様」
背後から、マリアンヌの声がした。
「お時間がございません。レオンハルト様の呪いは、日に日に強くなっています。このままでは——」
「分かっている」
私は決断した。
「クラウス、大神官様への面会を手配してくれる?」
「畏まりました」
「それから——」
私は窓の外を見つめた。月が、不穏に赤く滲んでいる。
「ヴィルヘルム様とプリシラ様の動きも、監視を続けて」
「承知いたしました」
◇◇◇
その頃、王都の一角にある邸宅では——
「計画通りに進んでいるわね」
紫水晶色の瞳が、妖艶に輝いていた。
プリシラ・メルヴェイユ。
豪奢な部屋の中で、彼女は満足げに微笑んでいた。
「あと少しで、あの病人は死ぬ。そうすれば、ヴィルヘルム様が公爵位を継いで——」
「そして、貴女は次期公爵夫人、というわけですか」
部屋の影から、男が姿を現した。黒髪に、鷹のような琥珀色の目——ヴィルヘルム・フォン・グラオザーム。
「ふふ、そうよ。約束は覚えているでしょうね?」
「無論」
ヴィルヘルムは薄く笑った。
「レオンハルトが死ねば、私が公爵位を継ぐ。そして、貴女を妻に迎える——」
「それと、あのセラフィーナとかいう女」
プリシラの顔が、醜い嫉妬に歪んだ。
「あの地味で取り柄のない女が、レオンハルト様の傍にいるのが許せないの。彼女には——相応しい末路を用意してあげるわ」
「好きにするといい」
ヴィルヘルムは肩をすくめた。
「あの女は、所詮『病人の世話係』だ。何の力もない。利用価値もない」
二人は笑い合った。
自分たちの陰謀が、間もなく実を結ぶと確信して。
——彼らはまだ知らない。
その『何の力もない世話係』が、聖女の力を持つことを。
そして、彼女が既に——反撃を開始していることを。
◇◇◇
数日後、私は聖教会の大聖堂を訪れていた。
白亜の尖塔が天を突き、ステンドグラスから七色の光が降り注ぐ。荘厳な空間の中、私は奥へと案内された。
「お待ちしておりました、セラフィーナ・ローゼンクランツ嬢」
白髪の長髪に、穏やかな金色の瞳。老齢ながら、その存在感は圧倒的だった。
大神官カシウス。
王国の聖教会を統べる、最高位の聖職者。
「お目にかかれて光栄です、大神官様」
私は深く礼をした。
「楽にしなさい」
大神官は穏やかに微笑んだ。
「さて——公爵家の執事から話は聞いている。呪いについて、相談があるとか」
「はい。私の婚約者、レオンハルト・フォン・ヴァイスシュタイン公爵が——」
「呪いによって、命を脅かされている。そして、貴女は——」
大神官の金色の瞳が、私を真っ直ぐに見つめた。
「——癒しの力を持っている」
私は息を呑んだ。
「お気づき、でしたか」
「この部屋に入った瞬間から」
大神官は静かに立ち上がり、私に近づいた。
「貴女の身体から——聖なる光が溢れている。長年、私が待ち望んでいた光が」
「待ち望んでいた……?」
「聖女の力を持つ者は、百年に一人現れるかどうか。私は六十年間、ずっと待っていた」
大神官の瞳が、微かに潤んでいた。
「ようやく——ようやく、出会えた」
「大神官様……」
「なぜ、力を隠してきた?」
私は少し俯いた。
「……実家に知られれば、道具にされると思いました。社交界に知られれば、好奇の目に晒される」
「成程。賢明な判断だ」
大神官は頷いた。
「しかし——今は違う」
「はい」
私は顔を上げた。
「大切な人を救うためなら、私は——」
「分かっている」
大神官は穏やかに微笑んだ。
「さあ、その呪いについて——詳しく聞かせてもらおうか」
◇◇◇
私は、これまでの経緯を全て話した。
レオンハルト様の病。三年前からの不審な出来事。ヴィルヘルムとプリシラの関与。そして——呪いの存在。
「ふむ……」
大神官は、クラウスから預かった『見舞いの品』を調べながら唸った。
「間違いない。これは『腐蝕の呪い』だ」
「腐蝕の呪い?」
「身体を内側から蝕み、ゆっくりと命を奪う呪い。病と見分けがつかないため、発覚しにくい。そして——」
大神官の表情が、厳しくなった。
「非常に高度な呪術だ。相当な腕の呪術師を雇ったのだろう」
「解呪は、可能でしょうか」
「聖女の力があれば——可能だ」
私の胸に、希望の光が灯った。
「ただし」
大神官は私を真っ直ぐに見つめた。
「呪いが深く根付いている。解呪には、相当な力と——」
「覚悟、ですね」
「そうだ」
大神官は頷いた。
「そして、もう一つ重要なことがある」
「何でしょう」
「呪いを解くには、呪われた者自身の『生きたい』という意志が不可欠だ。諦めた心には、どんな癒しも届かない」
私は微笑んだ。
「それなら——大丈夫です」
「ほう?」
「レオンハルト様は、もう——生きることを、選んでくださいましたから」
大神官の金色の瞳が、優しく細められた。
「……良い表情をしている。愛する者のために戦う者の顔だ」
「大神官様——」
「私も、協力しよう」
大神官は立ち上がった。
「呪いの解呪に必要な儀式について、教える。そして——」
彼は私の手を取った。
「その時が来たら、私は貴女を『聖女』として公認しよう」
「公認……」
「聖女として認められれば、貴女は誰にも利用されない。教会が、貴女を守る」
私の目から、涙が溢れた。
「ありがとう、ございます——」
「礼を言うのは、こちらだ」
大神官は穏やかに微笑んだ。
「百年に一人の聖女。そして——愛のために戦う、強き魂。貴女に出会えて、私は幸せだ」
窓から差し込む光が、私たちを包み込んだ。
◇◇◇
大聖堂を出る時、私は不思議な安堵を感じていた。
(一人じゃない)
マリアンヌがいる。クラウスがいる。そして今、大神官様も味方についてくださった。
「お嬢様」
待っていたマリアンヌが、小声で告げた。
「リディア様がお見えです。ローゼンクランツ邸で、お待ちとのこと」
「リディアが?」
金髪にそばかすが散る、愛らしい顔立ちの友人。社交界の噂話に疎く、純粋に人柄で付き合ってくれる、数少ない理解者。
「何かあったのかしら」
「婚約解消の噂が流れているようで——心配されているのでは」
私は小さく笑った。
「そうね。リディアらしいわ」
◇◇◇
ローゼンクランツ邸の客間に、リディアが待っていた。
「セラフィーナ様!」
金髪を揺らして駆け寄ってくる彼女を見て、私は思わず笑みを浮かべた。
「リディア、久しぶりね」
「久しぶり、じゃありません! 大変なことになっているって聞きました!」
リディアの純粋な茶色の瞳が、心配で潤んでいる。
「婚約解消とか、余命半年とか——そんなの、酷すぎます!」
「落ち着いて、リディア」
私は彼女を席に着かせた。
「話は、聞いているのね?」
「ええ! レオンハルト様が余命半年で、婚約解消を申し出たって。でもセラフィーナ様が断ったって——」
リディアが、ぎゅっと私の手を握った。
「私、セラフィーナ様は間違っていないと思います」
「リディア……」
「だって、愛しているのでしょう? レオンハルト様のこと」
私は、少しだけ目を伏せた。
「……ええ」
「なら、傍にいるのは当然です。社交界の人たちが何を言おうと——私はセラフィーナ様の味方です」
温かい。彼女の言葉が、彼女の存在が。
「ありがとう、リディア」
「でも——」
リディアの表情が、少し曇った。
「プリシラ様が、変なことを言っていたんです」
「プリシラが?」
「ええ。夜会で『もうすぐ私が公爵夫人になるの』って。それと、セラフィーナ様のことを——」
リディアの顔が、珍しく怒りに染まった。
「『あの地味女には、相応しい末路が待っている』って——私、思わず声を荒げてしまいました」
「リディア……」
「だって! セラフィーナ様は地味じゃありません! 美しくて、聡明で、誰よりも優しい方なのに——」
「ありがとう」
私はリディアの手を、優しく握り返した。
「でもね、リディア。もう、心配しないで」
「え?」
「プリシラも、彼女の仲間も——もうすぐ、全てが明らかになるわ」
私は微笑んだ。
「そして、レオンハルト様は——死なせない」
リディアが、不思議そうな顔をした。
「セラフィーナ様……何か、あるんですか?」
「ええ。でも、今はまだ言えないの」
私は立ち上がり、窓の外を見つめた。
「ただ——信じてくれる?」
「勿論です」
リディアが、即答した。
「セラフィーナ様が大丈夫と言うなら、私は信じます。どんな時でも——ずっと、味方です」
私の目に、じわりと涙が滲んだ。
「……ありがとう。本当に」
◇◇◇
数日後、呪術師の居場所を突き止めた私たちは、王都の外れにある廃屋を訪れた。
「ここに、呪術師が?」
「はい。ヴィルヘルム様の使用人を尾行した結果——」
クラウスの声は低く、緊張を孕んでいた。
「ここで、定期的に報告をしているようです」
私は廃屋を見上げた。
月明かりの下、朽ちた建物が不気味に佇んでいる。中からは、微かに——禍々しい気配が漏れ出していた。
「私が行くわ」
「お嬢様! 危険です——」
「マリアンヌ、私は聖女よ」
私は微笑んだ。
「呪いに対抗できるのは、私だけ」
「ですが——」
「大丈夫。すぐに戻るわ」
私は一人、廃屋の中に足を踏み入れた。
◇◇◇
中は、予想以上に広かった。
朽ちた壁、埃まみれの床。けれど、奥に進むにつれて——空気が変わる。
冷たい。禍々しい。まるで、レオンハルト様の身体から感じたものと、同じ——
「——誰だ」
声がした。
奥の部屋から、黒いローブを纏った人物が姿を現す。
「こんな夜更けに、廃屋を訪ねるとは——」
呪術師は私を見て、嘲笑った。
「ただの令嬢か。道に迷ったか?」
「いいえ」
私は一歩、前に出た。
「貴方を、探していたの」
「何——?」
「ヴァイスシュタイン公爵に呪いをかけた、呪術師。ヴィルヘルム・フォン・グラオザームに雇われた——貴方を」
呪術師の顔が、一瞬凍りついた。
「どこでそれを——」
「調べたのよ」
私は微笑んだ。
「さあ、選んで。今すぐ呪いを解くか——私に、強制的に解かされるか」
「何を馬鹿な——」
呪術師が手を振った。黒い霧が渦巻き、私に向かって襲いかかる。
「——っ!」
私は両手を前に突き出した。
光が、溢れ出す。
「なっ——!」
黒い霧が、私の光に触れた瞬間——消滅した。
「聖女の——光だと!?」
呪術師が後ずさる。
「馬鹿な! 聖女は百年現れていないはず——」
「現れたのよ」
私は一歩、また一歩と近づいた。
「さあ、もう一度聞くわ。呪いを、解く気は?」
「く——来るな!」
呪術師が、更に強力な呪いを放とうとした。
けれど——
「遅いわ」
私の光が、彼を包み込んだ。
「ぐあああああ——!」
呪術師の身体から、黒い霧が噴き出す。彼自身が纏っていた呪い——それが、聖女の光によって浄化されていく。
やがて、呪術師は床に崩れ落ちた。
「……くそ」
彼は荒い息を吐きながら、私を睨み上げた。
「ヴィルヘルムめ……聖女がいるなんて、聞いていなかった……」
「それで?」
私は彼を見下ろした。
「呪いを解く方法を、教えてくれるかしら」
「……勝手にしろ」
呪術師は吐き捨てた。
「呪いの触媒は——ヴィルヘルムが持っている黒水晶のペンダントだ。あれを破壊すれば、呪いは弱まる。だが——」
「だが?」
「三年も根付いた呪いだ。完全に解くには、相当な力が必要だぞ。聖女でも——」
「それは、私が決めること」
私は背を向けた。
「マリアンヌ、クラウス。この男を拘束して。後で、大神官様に引き渡すわ」
◇◇◇
呪術師を捕らえた翌日。
私は公爵邸で、レオンハルト様に全てを報告した。
「……呪術師を、捕らえたのか」
「ええ。触媒は、ヴィルヘルム様が持っている黒水晶のペンダント。それを破壊すれば、呪いは弱まるわ」
「セラフィーナ……」
レオンハルト様の青灰色の瞳が、複雑な光を湛えていた。
「貴女は、どこまで——」
「貴方様を救うためなら、何でもいたしますわ」
私は微笑んだ。
「さあ、これからが本番です。黒幕を、表舞台に引きずり出しましょう」
「どうやって?」
「——夜会を開きます」
私は窓の外を見つめた。
「ヴァイスシュタイン公爵家の、特別な夜会を。そして——全ての決着をつけます」
◇◇◇
ヴァイスシュタイン公爵邸の大広間は、華やかな光に包まれていた。
シャンデリアが煌めき、貴族たちが優雅に談笑する。
表向きは、レオンハルト様の『回復祝い』という名目の夜会。
けれど——本当の目的は、別にある。
「レオンハルト様、お加減はいかがですか?」
「ああ、随分良くなった」
彼は私の隣で、穏やかに微笑んでいた。
病で臥せっていた時の儚げな姿は影を潜め、今は凛とした公爵の威厳を纏っている。
(嬉しい……)
彼の回復は、まだ完全ではない。けれど、希望は見えている。
「あら、レオンハルト様。お元気そうで何よりですわ」
紫水晶色の瞳が、妖艶に輝いた。
プリシラ・メルヴェイユ。艶やかな黒髪を巻き上げ、挑発的な笑みを浮かべている。
「もう長くないと聞いていたのに——奇跡的な回復ですこと」
(何も知らずに、のこのこと現れましたのね)
「ええ、お陰様で」
レオンハルト様は淡々と応えた。
「婚約者の献身的な看護のお陰ですよ」
「あら、セラフィーナ様の?」
プリシラの目が、私を見た。嘲笑と侮蔑が滲んでいる。
「何の取り柄もない方だと思っていましたけれど——病人の世話だけは上手いのですわね」
(……相変わらず、品のない方)
私は淑女の微笑みを崩さない。
「お褒めに預かり、光栄ですわ。プリシラ様」
「あら、素直に受け取るの? さすが——」
「プリシラ嬢」
不意に、低い声が割って入った。
ヴィルヘルム・フォン・グラオザーム。黒髪に鷹のような琥珀色の目が、冷酷に光っている。
「あまり騒がしくしないでくれ。今夜は——特別な夜なのだから」
「そうですわね、ヴィルヘルム様」
プリシラがくすくすと笑った。
「今夜、全てが——」
「ええ、今夜」
私は一歩、前に出た。
「全てが、明らかになりますわ」
「……何?」
ヴィルヘルムの目が、わずかに細まった。
「セラフィーナ嬢。どういう意味かな?」
「そのままの意味ですわ」
私は微笑んだ。そして——
「皆様」
私の声が、大広間に響き渡った。
「本日は、お集まりいただきありがとうございます。夜会の主旨についてご説明させていただきます」
貴族たちの視線が、一斉に私に集まる。
「本日の夜会は——断罪の場でございます」
「断罪……?」
ざわめきが広がる。
「レオンハルト・フォン・ヴァイスシュタイン公爵の命を狙った者。呪いによって公爵位を奪おうとした者。その罪を——今宵、暴きます」
「何を——」
ヴィルヘルムの顔が、蒼白になった。
「馬鹿な! 何の証拠があって——」
「証拠なら、ございますわ」
私は手を挙げた。
大広間の扉が開き、クラウスに連行された人物が姿を現す。
「——っ!」
ヴィルヘルムの顔が、凍りついた。
「呪術師殿。証言を、お願いいたします」
呪術師は、力なく頷いた。
「三年前——ヴィルヘルム・フォン・グラオザームに雇われ、公爵に呪いをかけた。目的は——公爵を殺し、爵位を奪うこと」
大広間が、どよめいた。
「嘘だ! この男の言うことなど——」
「それだけではありませんわ」
私は、もう一人を示した。
「——っ!」
プリシラの顔が、蒼褪めた。
「プリシラ・メルヴェイユ様。貴女は、ヴィルヘルム様と共謀していましたわね」
「何を——証拠でもあるの!?」
「ございます」
私は、一通の書簡を取り出した。
「『計画は順調。公爵が死ねば、私が公爵夫人に』——貴女の筆跡ですわね」
「そんな——どこで——」
「マリアンヌ」
私の侍女が、静かに一礼した。
「プリシラ様の侍女から入手いたしました」
「あの女——裏切ったの!?」
プリシラが叫んだ。
「貴女が、普段から酷い扱いをしていたからですわ」
私は冷たく告げた。
「人を虐げれば、いずれ報いを受ける。当然のことでしょう?」
「この——!」
プリシラが私に飛びかかろうとした瞬間——
「下がれ」
レオンハルト様の声が、低く響いた。
「ヴィルヘルム。プリシラ。お前たちの罪は明らかだ」
「レオンハルト——」
「私を殺そうとした。呪いで命を奪おうとした」
レオンハルト様の青灰色の瞳が、冷厳に二人を見据えた。
「爵位剥奪。領地没収。そして——王国からの追放を申し渡す」
「そんな——!」
「不服があるなら、王宮に申し立てるがいい。もっとも——」
彼は薄く笑った。
「証拠は全て揃っている。お前たちに、勝ち目はない」
衛兵たちが、ヴィルヘルムとプリシラを取り囲んだ。
「くそ——くそ!」
ヴィルヘルムが叫びながら連行されていく。
「セラフィーナ・ローゼンクランツ——覚えていろ!」
「あら」
私は淑女の微笑みを浮かべた。
「私は何もしておりませんわ。ただ——真実を明らかにしただけ」
(貴方たちが蒔いた種が、芽吹いただけですもの)
二人が連行されていくのを見送りながら、私は静かに息を吐いた。
◇◇◇
夜会の後、大広間には静寂が戻っていた。
「——終わったな」
レオンハルト様が、疲れたように椅子に沈み込んだ。
「ええ。けれど、まだ——」
「呪いが、残っている」
彼は頷いた。
「触媒の黒水晶は破壊した。だが、三年根付いた呪いは——」
「解呪の儀式を、行います」
私は彼の前に跪いた。
「今夜。この場所で」
「セラフィーナ……」
「大神官様が、待機してくださっています。私の力と、貴方様の意志があれば——きっと」
私は彼の手を取った。
「私たちなら、できます」
彼の青灰色の瞳が、私を真っ直ぐに見つめた。
「……ああ」
彼は、私の手を握り返した。
「私は——生きる。貴女と共に」
月明かりが、二人を包み込んだ。
◇◇◇
大広間に、厳かな空気が満ちていた。
大神官カシウスが祭壇を整え、私はその前に立つ。レオンハルト様は祭壇の中央に横たわり、静かに目を閉じていた。
「セラフィーナ」
大神官の声が響いた。
「準備は良いか」
「はい」
私は深く息を吸い込んだ。
三年間、彼を蝕んできた呪い。それを、今夜——根こそぎ浄化する。
「レオンハルト様」
私は彼の手を取った。
「私を、信じてくださいますか」
「ああ」
彼の瞳が開いた。青灰色の瞳には——もう、諦観はない。生きたいという、強い意志だけが燃えていた。
「貴女を——信じている」
私は微笑んだ。
そして——力を解放した。
光が、溢れ出す。
私の身体から、眩いばかりの聖なる光が広がっていく。大広間全体を包み込み、闇を駆逐していく。
「これは……」
大神官が、感嘆の声を漏らした。
「百年に一人の聖女——いや、それ以上の光だ」
光が、レオンハルト様の身体に流れ込んでいく。
「——ぐっ」
彼の身体が、微かに震えた。呪いが、聖なる光に反発している。
黒い霧が、彼の身体から立ち上る。三年分の呪い——それが、一気に噴き出していく。
「セラフィーナ——」
「大丈夫」
私は力を込めた。
「必ず、救いますから」
光が、更に強くなる。黒い霧と、聖なる光がせめぎ合う。
「くっ——」
身体が、重い。力が、どんどん吸い取られていく。
けれど——止まるわけにはいかない。
「レオンハルト様!」
私は叫んだ。
「生きたいと——願ってください!」
彼の瞳が、私を捉えた。
「私は——」
彼の声が、震えた。
「生きたい」
「もっと!」
「生きたい——!」
彼の声が、大広間に響き渡った。
「セラフィーナと——共に——!」
その瞬間——
光が、爆発した。
◇◇◇
静寂が、戻っていた。
私は荒い息を吐きながら、祭壇の傍らに崩れ落ちていた。
「セラフィーナ——」
声がした。
顔を上げると——レオンハルト様が、身を起こしていた。
「レオンハルト、様……」
彼の顔色は——違う。
病で蒼褪めていた肌に、血色が戻っている。青灰色の瞳は澄み渡り、生命力に満ちていた。
「呪いが——消えた」
大神官が、静かに宣言した。
「完全に。一片も残さず」
「本当……に……」
私の目から、涙が溢れ出した。
「良かった……本当に……」
「セラフィーナ」
レオンハルト様が、祭壇から降りた。そして——私を、抱きしめた。
「——っ」
「ありがとう」
彼の声が、耳元で響いた。
「貴女が、救ってくれた。私の命を。私の——人生を」
「私は——」
「愛している」
私は、息を呑んだ。
「十五年前から——ずっと。けれど、言えなかった。病人の自分が、貴女を縛る権利はないと」
「レオンハルト様——」
「もう、レオンハルトでいい」
彼が私の顔を上げた。青灰色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。
「セラフィーナ。——愛している」
私の涙が、更に溢れ出した。
「私も——私も、ずっと——」
言葉にならない。けれど、想いは伝わる。
「愛しています——レオンハルト」
彼が、私の涙を指で拭った。
「今度こそ——貴女を幸せにさせてください」
私は首を横に振った。
「いいえ」
彼が目を瞬かせる。
「私たちで——幸せになるのです」
彼の瞳が、微かに潤んだ。
「……ああ、そうだな」
彼は微笑んだ。本当の——心からの笑顔で。
「私たちで——幸せになろう」
月明かりの下、二人は誓いを交わした。
◇◇◇
呪いが解けてから、一月が過ぎた。
ヴィルヘルムとプリシラは、王宮の裁判で罪を問われ、爵位剥奪と領地没収、そして王国からの追放が確定した。
二度と、この国の土を踏むことはないだろう。
◇◇◇
そして——
「セラフィーナ・ローゼンクランツを、正式に『聖女』として認定する」
大神官カシウスの宣言が、大聖堂に響き渡った。
私は白い聖衣に身を包み、祭壇の前に跪いていた。
「百年に一人の聖女。その力を以て、公爵の命を救った功績を称え——王国の聖女として、永久にその名を刻む」
大聖堂には、多くの貴族が集まっていた。私を『病人の世話係』と蔑んでいた者たちも、今は畏敬の眼差しを向けている。
(手のひらを返すとは、このことですわね)
内心で苦笑しながら、私は儀式に臨んだ。
「——以上を持って、聖女認定の儀を終了する」
大神官が私に向かって微笑んだ。
「おめでとう、セラフィーナ」
「ありがとうございます、大神官様」
私は深く一礼した。
◇◇◇
儀式の後、私は大聖堂の外に出た。
「セラフィーナ」
待っていたのは——レオンハルト。
病の影は完全に消え、彼は凛とした公爵の風格を取り戻していた。銀灰色の髪が陽光に輝き、青灰色の瞳は生命力に満ちている。
「聖女認定、おめでとう」
「ありがとうございます」
私は微笑んだ。
「これで——誰にも、利用されなくなりますね」
「ああ。教会が、貴女を守る」
彼は私の手を取った。
「そして——私も」
「レオンハルト……」
「改めて、言わせてくれ」
彼が私の前に跪いた。
「セラフィーナ・ローゼンクランツ。私と——正式に婚約してくれないか」
「え……でも、私たちはもう——」
「以前の婚約は、政略だった。私の意思ではなく、家同士の取り決めで」
彼の青灰色の瞳が、真っ直ぐに私を見上げた。
「今度は——私の意思で。私の想いで、貴女を求めたい」
「……レオンハルト」
私の目に、涙が滲んだ。
「答えは、決まっていますわ」
私は彼の手を取り、立ち上がらせた。
「喜んで——貴方の妻になります」
彼の顔が、幸福に輝いた。
「セラフィーナ——」
「ただし」
私は悪戯っぽく微笑んだ。
「『幸せにさせてください』は、もうなしですわよ」
「……ああ」
彼も笑った。
「『私たちで幸せになる』——だったな」
「ええ」
私は彼の手を、強く握った。
「今度は——一緒に」
◇◇◇
その頃、ローゼンクランツ伯爵邸では——
「セラフィーナが——聖女だと!?」
伯爵の叫び声が、屋敷中に響き渡った。
「何故、今まで黙っていた! 分かっていれば——」
「分かっていれば、道具として利用したのでしょう?」
扉が開き、私が姿を現した。
「お父様。私は、もうこの家の人間ではありません」
「何だと——」
「聖女として公認された今、私は教会の庇護下にあります。そして——ヴァイスシュタイン公爵家に嫁ぎます」
「待て——待て! セラフィーナ!」
父が立ち上がった。
「考え直せ! お前は我が家の娘だ——」
「娘、ですか」
私は冷たく笑った。
「『病人の世話係』、『道具』——そう呼んでいたのは、どなたでしたかしら」
「あれは——」
「もう結構です」
私は背を向けた。
「さようなら、お父様。——もう二度と、お会いすることはないでしょう」
「セラフィーナ——!」
私は振り返らなかった。
◇◇◇
廊下を歩いていると——
「セラフィーナ」
母の声がした。
オルガ・ローゼンクランツ。私の母。
彼女は——泣いていた。
「ごめんなさい……」
「母様……」
「あなたを、守れなかった。何も、してあげられなかった……」
「……ええ」
私は静かに言った。
「でも、もういいのです」
「セラフィーナ——」
「私は——私の道を歩きます」
母の目から、涙が溢れ落ちた。
「……幸せに、なって」
「ええ」
私は微笑んだ。
「必ず」
それが——母との、最後の会話だった。
◇◇◇
公爵邸の庭園で、私はレオンハルトと並んで歩いていた。
「実家との決別、辛かったか?」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「むしろ——清々しい気分ですわ」
「そうか」
彼は私の手を取った。
「これからは——私の家族だ」
「ええ」
庭園の花々が、春風に揺れている。
十五年の長い冬を越えて——ようやく、春が来た。
「レオンハルト」
「何だ?」
「幸せですわ」
私は微笑んだ。
「今、この瞬間が——とても」
彼が、私を引き寄せた。
「俺もだ」
青灰色の瞳が、私だけを映している。
「これからも——ずっと」
「ええ」
私は彼の胸に顔を埋めた。
「私たちで——幸せになりましょう」
春風が、二人を優しく包み込んだ。
◇◇◇
——これは、一人の令嬢の物語。
婚約破棄を拒み、愛する人を救い、自らの運命を切り開いた、一人の聖女の物語。
病人の世話係と蔑まれ、道具と扱われ、それでも諦めなかった。
大切な人を守りたい。その一心で、全てを賭けた。
そして——勝ち取った。
本当の愛と、本当の幸福を。
「セラフィーナ」
「何?」
「愛している」
「……私も」
今度こそ、二人で。
——未来を、歩み始める。
【完】




