第二章 東條の影
肉体に刻まれた雪(二・二六の呪縛)
むせ返るような熱気だった。
ビルマの密林は、巨大な緑のサウナである。腐葉土の発酵する匂いと、ねっとりとした湿気が、行軍する第15軍の将兵たちにまとわりついている。
だが、彼らの足取りは史実のそれとは全く異なっていた。
廃トラックの部品から急造されたリヤカーが、軋み音を立てながら列をなす。兵士たちは重い背嚢から解放され、配給された「素焼きの浄水フィルター」によって、安全な水を飲みながら前進を続けていた。
その隊列の先頭集団。
司令官たる坂上真一(牟田口廉也)は、軍馬に乗ることを拒否し、自ら泥濘を踏みしめて歩いていた。
手には、すっかり相棒となった「焦げた木の実の煮汁(泥コーヒー)」。それを煽りながら、脳内で等高線と補給ルートの計算を続けていた、その時だった。
――ヒュウゥゥゥ……。
突如、坂上の耳に、熱帯雨林には絶対に存在しないはずの音が聞こえた。
風の音だ。それも、ひどく冷たく、乾燥した、凍てつくような冬の風。
(……なんだ?)
坂上が足を止めた瞬間、周囲の景色がぐにゃりと歪んだ。
むっとするようなジャングルの熱気が、一瞬にして『絶対零度の冷気』へと反転する。
緑の木々が色を失い、灰色のコンクリートと瓦屋根に変わっていく。
空から降ってくるのは、スコールではない。
白く、冷たい――雪だ。
『連隊長殿! 決起の時間であります!』
脳内に、若い将校の絶叫が木霊した。
ドクンッ!!
坂上の心臓が、彼自身の意志とは無関係に、早鐘のように暴れ始めた。
気道が狭まり、呼吸が浅くなる。冷や汗が全身から噴き出し、小太りの肉体がガチガチと痙攣を始めた。
「か、閣下!? いかがなさいました!」
横を歩いていた久野村参謀長が、真っ青になって駆け寄ってくる。
だが、今の坂上の目には、久野村の姿すら、血走った目をした反乱軍の将校に見えていた。
(違う……俺じゃない……俺は知らん……ッ!)
坂上の意識の奥底で、この肉体の元の持ち主――牟田口廉也の魂が、無様な悲鳴を上げていた。
昭和11年(1936年)2月26日。
帝都・東京を震撼させたクーデター、二・二六事件。
当時、反乱を起こした歩兵第一連隊の連隊長こそが、他ならぬ牟田口廉也であった。
彼は部下の暴走を止めることができず、あるいは同調を疑われ、その後の軍歴において常に「反乱軍のそしり」と「処殺の恐怖」に怯え続けることになったのだ。
雪の朝。血の匂い。銃剣。
コントロールを失った部下たちが、自分に牙を剥くかもしれないという絶対的な恐怖。
(なるほど……)
過呼吸に陥り、泥に膝をつきそうになる肉体の中で。
坂上真一の『理性の化け物』たる現代の魂が、極めて冷徹に、事態を分析していた。
(これが、貴様の『狂気』の根源か、牟田口)
史実において、牟田口がなぜあそこまで「勝つ見込みのない前進」に固執したのか。なぜ部下の反対をヒステリックに怒鳴り散らして封殺したのか。
それは、勇敢だったからではない。
底知れぬ『恐怖』と『臆病さ』ゆえだ。
部下を恐れ、上官(天皇)からの評価に怯え、二・二六の汚名を雪ぐための「華々しい手柄」に縋りつかなければ、精神が崩壊してしまうほど、この男の器は脆く、矮小だったのだ。
『連隊長殿ォッ!! 昭和維新の春の空――!!』
幻聴が最高潮に達し、牟田口の肉体が恐怖で絶叫を発しようとした、その刹那。
「――黙れ」
坂上は、自らの分厚い掌で、自らの顔面を思い切り殴りつけた。
バチィィンッ!!!
乾いた破裂音が、ジャングルに響き渡る。
久野村や、周囲の護衛兵たちが、息を呑んで硬直した。
司令官が突然、自分の顔を殴り飛ばしたのだ。狂乱したかと思われても無理はない。
だが、坂上の顔を覆っていた『雪の幻影』は、その一撃と、口腔に広がる鉄の味(血の味)によって完全に霧散していた。
(過去の亡霊に怯えるな。俺はイージスの艦長だぞ)
坂上は、北辰一刀流の極意である『丹田呼吸』を深く行った。
下腹部に全神経を集中させ、暴走する心拍数を強制的にアイドリング状態まで引き下げる。
背中に彫り込まれた『阿吽の仁王像』が、牟田口の抱える矮小なトラウマを、金剛杵で粉砕するイメージ。
(感情で、トラウマで、過去の栄光や恥で、国は守れない。俺はシステムだ。部下を死なせないための、冷徹な歯車だ)
ゆっくりと、坂上は立ち上がった。
泥に塗れた軍服。口の端から流れる一筋の血。
しかし、その眼光は、二・二六の雪に怯える小官のものではなかった。数万の命を背負い、理不尽な歴史そのものと斬り結ぶ、本物の『将』の目だ。
「……か、閣下? 今、ご自身を……」
震える声で尋ねる久野村に対し、坂上は親指で口元の血を乱暴に拭い取り、ニヤリと笑った。
「気にするな。熱帯の巨大な蚊が顔に止まったんでな。叩き潰しただけだ」
「は、蚊、でありますか……?」
「そうだ。過去から飛んできた、鬱陶しい血吸い虫だ。だが、もう死んだ」
坂上は、手元に残っていた冷えた泥コーヒーを飲み干すと、マグカップを副官に放り投げた。
「行軍速度を落とすな。日が暮れる前に、予定のポイント(防衛陣地)に到達するぞ。俺たちの戦いは、幻影ではなく、この泥濘の先にある」
「ハッ!! 全軍、前進!!」
周囲の将兵たちが、再び力強い足取りで歩き始める。
その背中を見つめながら、坂上は一つだけ、元の体の持ち主に向かって内心で語りかけた。
(安心しろ、牟田口。お前が恐れた『暴走する部下』は、もうここにはいない。俺がすべて、完璧に統制してやる)
熱帯の太陽が、ジャングルの木々の隙間からジリジリと照りつけていた。
肉体に刻まれた冷たい雪の記憶は、現代日本のエリート自衛官が放つ圧倒的な熱量と合理主義の前に、もはや完全に溶け去っていた。




