庶民お嬢様、婚約解消をかけて大魔法使いと勝負する
もしも私が虚構に息づく登場人物の一人であったなら、その紹介文は簡潔に済む。
名前も容姿も性格も必要ないからだ。
たった一文、こう書けばいい。
バラド・キジェマの婚約者。
それが私のすべて。
昨日まではね!!
「普通科二年、ルシェ・ハワード。バラド様にお目通り願いましてよ!」
手順どおりのノックと挨拶をすれば、チョコレート色の両開き扉から生えた金のドアノブに手を触れずとも、視界が開けていく。
私は背筋を伸ばし、バスケットを抱え直して、生徒会室に踏み入れた。
敷き詰められた赤い絨毯をしっかりと踏みつけながら、入り口正面に堂々と構えられた生徒会長の席を見据える。
歴代の生徒会長たちが大事に受け継いできた執務机は、父の執務机の雰囲気と似ていた。
無駄なものはなにもなく、必要なものが、必要な場所にきちんとおさまる。
それは、そこに鎮座する生徒会長フィル・クレジエを含めてだ。
彼は私を見るなり、金色の睫に縁取られた碧眼を猫のように細めた。
「貴女も頑張るね」
「そのお言葉は、激励として拝領いたします、閣下。本日も執務のお邪魔をいたしますわ。よろしければ、お待ちいただく間に、
こちらをお召し上がりくださいませ」
持参したバスケットを掲げて見せる。
光沢ある黒革の椅子に腰かけたままの彼は、机上に広げた書類の最後に署名し、羽根ペンをペン立てに戻した。
「いつも差し入れありがとう。悪いがこれだけ済まさせてもらうよ」
書類を顔の前まで掲げ持つと、書き上げた紙面に上から下まで視線を走らせ、ぱっと手を放す。
するとそれは、風に吹かれたように宙を漂い、副会長以下人員が机を並べる方に向かう。魔法を編まれた用紙に書かれているのだろう、部屋の扉と同じだ。
書類は庶務の、確か名前はエリック・ボルドー。彼のもとへたどりつくと、紙はぴたりと停止した。
それを恐る恐る手に取っている姿が初々しい。
身につけた制服のネクタイは、青地に白の一本線。
それは普通科の一年生であることを示す。
彼は魔法適性を持たないのだ。
様子からして、魔法に縁のある出身でもなかったのだろう。
目の当たりにした魔術への興奮と驚きが、横顔からでもうかがい知れた。
学友たちのそうした様子を見るたびに、胸が熱くなる。
その感動には私も覚えがあるから。
「皆、ルシェ嬢の勝負の時間だ。休憩にしよう」
フィル会長の号令に、生徒会執行部員たちが各々の手元を片付け出す。
「もうそんな時間か。どうりで小腹すいてると思った」
「我々、すっかり味をしめてますからね」
「お茶を淹れます。ルシェ様、本日はなにをお持ちいただけたのですか」
「サンドイッチと、すこしだけですがビスケットを用意いたしました。私も、お茶を淹れるお手伝いをさせていただきますわ」
「いやいや、ルシェ様にそのようなことはさせられません。ぜひとも、あちらを優先なさってください」
少々ぞんざいな仕草でしめされた先には、私の婚約者がいる。
席についたまま私を見上げていた彼は、薄い唇に優美な弧を描かせている。けれど、瞳からは一切のあたたかな感情を廃してもいる。
ラベンダー色の洞穴が私を吸い取るように見つめてくる。
「今日は、なに?」
口調は柔らかに。ただ響きはどこか冷たい。
笑みと同じ、本質を置き去りにして形だけを優しさに寄せたような態度は、整った顔立ちの彼の作り物めいた印象を強めた。
しかし幼い頃から彼を見続けてきた私にはわかる。それが彼のニュートラルだと。
怒ってないし、無関心でもない。
個性のひとつとして、彼はすこし不器用で、仕草で感情を表すのが苦手なだけ。
ほんとうは生真面目で、優しくて、誠実な、情に厚いひと。
そうでなければ、児戯のごとく交わされた婚約が、成長した今でも有効だなんて思わないだろう。
「本日の勝負はクルミの殻割りです」
バスケットに一緒にいれていた殻つきのクルミの入った袋とクルミ割器を彼に手渡す。
同じ数が入った袋はもうひとつあり、それは私に。
「単純明快、全てを先に割り終えたほうの勝ちですわ。あ、魔法は使われませんようにね」
「……フィル」
バラド様に声をかけられたフィル生徒会長はティーセットを手に振り向き頷いた。
「私たち生徒会が勝負を見届けよう」
私は心強く頷き返す。
魔法が使われても、適性のない私にはその感知ができない。
しかし生徒会のメンバーは半数が赤いネクタイかリボン、つまり、魔法科の生徒たちであるから、きっと魔法が使われたら知らせてくれるだろう。
私は心置きなく、自分の手元に集中していればいい。
机をひとつ借りて、勝負の席につく。
綺麗なハンカチを敷いて、クルミを並べ、準備は万端。
有言実行すべく見守ってくれるフィル会長たちの視線を浴びながら、気合いをいれた。
「さあ、お覚悟よろしくて? 私が勝利を得たのなら、今度こそ、婚約破棄に同意いただきますからね」
バラド様は固さを確かめるように、木の実を机に打ち付けていた。こんこん、とリズミカルな音がする。
「ルシェ」
ラベンダー色の目がつっと流れて私を見やる。
そして自然な仕草で手を重ねられた。
同い年なのにふた回りも違う大きさの手のひらに包まれると、じんわりとあたたかくなる。
魔法だ。すぐにわかる。何度も同じようにかけてもらったことがある。加護の魔法。
「バラド様、これは」
「案外、固そうだったから」
すっと手が引かれ、クルミを掲げて見せられる。
何個も割る途中で手を傷つけたりしないように慮ってくれたのだ。
私は胸の前でぽかぽかと温もる両手を重ね合わせる。自然と笑みがこぼれた。
「ありがとうございます。バラド様の優しさを纏ったようで、これなら私は何個でもクルミを割れそうです」
等価のお返しなんてできない。
私には魔法は使えないから。
けれど彼を想うことはできる。
彼の凪いだ目を見つめ、祈る。
「バラド様もどうかお怪我なされませんように。……さあ、いざ尋常に勝負です!」
「始めの合図は私が務めよう。二人とも、いったん手を膝に置いて。…………始め!」
フィル会長の号令と共に、私たちの婚約破棄をかけた熱き戦いが始まった。
ばきばき、みしっ、ぱきんっと軽快な滑り出しで、私はクルミを割る。
慣れた行為とはいえ、その手はいつになく軽く、もしかして加護は腕力にも及んでいるのではないかと疑ってしまうほどだ。
次々とクルミを割っていく。
勝負に専念する私はだんだんと耳が遠くなり、指の感覚と視覚情報に没入する。
「あの、フィル会長」
「なんだい、エリック」
「入学して以降、何度かお二人の勝負? を見てきましたが、こちらはどのような意味があるのでしょうか。いつもバラド様が勝利されていますが……」
「ああ、私たちも慣れすぎて説明を省いていたな。すまない。前提として、あの二人が婚約者なのは?」
「この学園で知らぬものはおりません」
「そうだな。そもそもバラドが有名人だ。希代の魔法使いバラド・キジェマ」
「華々しい活躍は入学前から耳にしたことが幾度か。新聞にも載っていました。さすがに婚約のことは知りませんでしたが、バラド様ともなるとそうした方もいるのかと、納得はしています」
「実際は幼馴染みが交わした口約束だそうだがな。それを反古にするべく、ルシェ嬢はああしてバラドに勝負をしかけている。ルシェ嬢が勝ったら婚約破棄。バラドが勝ったら婚約継続だ」
「そこが不思議なのです。幼少期の口約束ならばそもそも無効なのではありませんか?」
「ははは、エリック新入生」
「なんでしょう、フィル生徒会長」
「それは、決して口にしてはいけないよ。バラドの前では、特にね」
「……はい……あの、なぜかお聞きしても?」
「誰も止められない嵐が来るから」
勝てる。今日こそ勝つ。
クルミ割りは得意だ。何度もやってきた。
反対に、ご多忙極めるバラド様はこうした雑事に時間を割いてきたことがほぼないぶん、有利をとれる。
すこし、ずるい手だけれど。
これで勝てば念願叶う。
バラド様を解放できる。
私は魔法が使えない。
容姿や成績も秀でたるところない。
せめて品行方正でいようと、自分が想像できる限りの良家のお嬢様らしい振る舞いを心がけても、青き血がこの身に流れているわけでもない。
ほんとうに貴族の血を受け継ぐフィル会長含め、他者が私を丁重に扱ってくれるのは、彼ら彼女らの温情にのうのうと浴しているだけでしかないのだ。
もしくは、私がバラド・キジェマの婚約者だから。
バラド様は本人とご両親の意向で、学生をしているけれど、本来であればすぐにでも国の機関に属して、どんどんとその腕前を奮っていける力をすでに有している。
幼い頃からその力は抜きん出ていた。
時が過ぎても鮮やかに思い出されるのは、曇天の空を駆け抜け美しい色に染めあげる紫電。
私が生まれて初めて目撃した魔法は、バラド様が喚んだ雷だった。
まだ十歳にもならない幼さで、彼は天候を操って見せたのだ。
轟く雷鳴。一変する景色。
幼い私は無邪気にはしゃいだ。
魔法ってすごい。
それを操るバラドはもっとすごい!
すごい、すごいと跳び跳ねる私に、彼は言ったのだ。
「ルシェは怖くないの?」
私は、当時のバラドの言う「怖くない」が、よくわからなかった。
「なにが」怖くないと尋ねられたのか。
「雷が」怖くない?
「魔法が」怖くない?
もしかして「バラドが」怖くない?
わからないなりに、ラベンダー色の瞳がいつになく揺れるのを見て、なにかを怖がっているのは彼のほうなのだと直感した。
だから私は、母が私にそうするように抱き締めて、父が私にそう言うように囁いた。
「素敵なバラド。大丈夫だよ。ルシェがいるからね」
両親から受けた愛の横流しは、つたないながらに彼にも伝わったのだろう。
結婚を申し込まれたのは、その翌日だった。
大人な響きに浮かれた私は、いちもにもなく頷いた。
それが、私たちの婚約の誓い。
自分は立派な大魔法使いになるからルシェには苦労させないなんて言う小生意気な彼に、私も負けじと言い返す。
なら、私は立派なお姫様になる。
お姫様はね、誰にでも丁寧なのよ。だからバラドのことも、バラド様って呼ぶからね。
庶民お嬢様、いわゆる道化の誕生である。
それでも私たちは仲良く成長し、遊ぶように婚約者ごっこを続けた。
けれどそれは本当に良かったのだろうか。
すっかりとバラド様呼びが定着してしまった私に、付き合わせていただけのような気がする。
この学園に入ってその思いは強まった。
魔法科の学友たちは当然ながら皆、魔法を使える。
特性の差こそあれども、バラド様も彼ら彼女らにまざると、ただの少年なのだ。
これまでも彼が大人に頼られ、力を奮う場面ではそうだったのかもしれない。たいていは危険な場所だから、安全な家の中を歩き回って心配するばかりだった私は、それを知らない。
魔法使いの常識を共有する人たちに囲まれる彼を初めて間近で見て、私は思った。
ああ、良かった、と。
きっと魔法科の人たちは、曇天に走る紫電をすごいと言ってくれる人たちだ。
もう私だけじゃない。
もうバラド様は大丈夫。
嬉しくて、自分の両親にも彼のご両親にも手紙を書いて報告して、それでもおさまらずに笑いながら涙があふれてくるくらい。
思うに、私のバラド様への愛は、友愛や親愛なのだ。
バラド様を大切にしてる。
そうしたいと思うし、そのための労は惜しまない。
なんでかなんて、わかんない。
好きだからでしょ?って言われても、たぶん、私がこれから万が一にもバラド様を嫌ったって、私はこの思いを持ち続けるだろうから。
だって昔からそうなんだもの。
そういうものなんだもの。
私は私できちんと存在してるのに、バラド・キジェマに私のすべてをかけてもいいの。
でも恋愛ってたぶんそうではないって、私はなんとなくわかってる。
だから、彼をずっと好きでいてくれる人がいて、彼がいるから自分の幸せも大切にできる人がいるのなら、私、彼を笑って見送れる。
その覚悟が私にはある。
だから、どうして凡庸な私を彼が構い続けるのか、なんて、そんな、どうでもいいことで煩わされて欲しくない。
婚約者を理由にして嫌なことを遠ざけられているならいいけれど、私が婚約者だからって彼に悪評が立つなんて、悔しい。
そう口にしたくなるのもわかるから、怒りはまるでないのに、ただただ悔しい。
けれど、いくら努力しても私は私の範疇を広げるだけで、こえられはしない。
魔法のことを勉強したって、魔法が使えるわけじゃない。
気品や化粧を身につけても、元の容姿は変わらない。
一年間、この学舎で頑張ったけれど、だめだった。
だったらアプローチを変えなくちゃ。
バラド様に、婚約者ごっこはもうやめて、同郷の友人になりましょうと言ったけれど、彼からの返事はなかった。
今更な話に彼が驚いているうち、なぜか急に空が荒れだして、敷地内にある温室の屋根が吹き飛ぶような猛烈な嵐が来たので、血相を変えて彼を探しに来た先生たちに引きずられていったのだ。
嵐は幸いすぐに通りすぎたけれど、温室の修繕の他、さまざまな被害対応に駆り出されて、その後しばらく会えなかった。
大魔法使いも大変だ。
やはり、彼には支えがいる。
できれば魔法適性があるほうが、こうした有事にも付いていけていいかもしれないなと思う。
婚約破棄の話を聞いたのか、主にバラド様が親しくしている先生や先輩たちが代わる代わるに私のもとにやってきて、彼となにかあったかを聞きにきたので、そんな話をした。
たいていは慰められた。
君の苦労はわかるが、彼を止められるのは君だけなんだ。見捨てないでやってくれ、なんて、駄目亭主を愛想をつかした女将さんを引き留めるみたいな冗談ばかり言われて、みんな私を笑わせてくれた。
君ほど彼のために努力し適応した人間はいない、なんてことまで言われて、嬉しかったな。
彼に釣り合うためにしてきたことは見てもらえてたんだなと思えたから。
それで私は報われた。
次はバラド様だ。
私の前では見せなかったけれど、強大な力で辛い思いもしてきただろう幼少期を経て、なにかあれば人に頼られるようになるまで頑張ってきたバラド様。
幼馴染みの手をいつまでも握ってたら、もっと輝かしい成功を掴み損ねてしまう。
彼を解放したい。
その意思をかためた後に、フィル会長がやって来てこう助言してくれた。
「言葉すべてを丸のみにして消化するのは、なかなかに難しい。人には人の思いがあるからな。貴女がいくら彼と無関係になったと主張しても、それを信じる人間はどうしたって限られる。だから、もっと大々的なショーにすべきだ。娯楽ならば人も受け入れやすいだろう」
「ショー?」
「卒業まで、彼と勝負をするといい。貴女が勝てば婚約解消。彼が勝てば婚約継続。そう触れ回って、人々の前で実際に争ってみなさい。勝ち負けほど白黒はっきりしたものはないからね。貴女が盛大に勝ったなら、観客は拍手と共に貴女と彼の婚約解消を認めるだろう」
そうして勝ち負けで明暗を突きつけるやり方は、ただ婚約破棄を触れ回るより、効果がありそうだった。
口先だけじゃない結果でもって、だから婚約解消したのよ、といえば済む。
「ただ、私がバラド様に勝てることなどあるのでしょうか。逆のほうがよろしいのではなくて?」
「バラドが負けたほうが彼も気まずくなって貴女から自然と離れやすいと思うよ」
「……それは、そうかもしれませんね。わかりましたわ! 私、やってみます!」
そして私は彼に勝負を持ちかけた。
優しい彼は応じてくれた。
以来、全敗である。
けれど、今日こそは。
今日こそは!
私は最後のクルミをセットした。
横目で確認したバラド様のクルミはあと二つ。
思っていたより差は開かなかったが、十分に余裕がある。
クルミ割り器を力一杯握りしめた。
が、なぜかクルミが異常に固く、力をいれてもびくともしない。
石かと見まがう固さだ。
「ん、んぅ、う、な、なんで……」
鮮度は確認していたのに、悪いクルミでもまざってただろうか。
それとも角度?
あわててクルミの向きを変える。
けれどそうしてまごついているうちに、隣から、ぺきぺき、ばきっと音がした。
二回。
「勝負あり! 勝者はバラド・キジェマ!」
高らかなフィル会長の采配に、肩の力が抜ける。
最後まで割れなかったクルミがころんと転がり、ぴしりとひび割れ、あっけなく割れる。
「また負けた……」
「ルシェ」
呼び掛けられて振り向く。
バラド様はほんの少しだけ、気の毒そうな目をしていた。
「…………ごめんね」
幼い頃から変わらないその落ち込んだ表情に、反射的に微笑んでしまう。
私に付き合ってくれているだけなのに、私が落ち込んでいると思っているのだろう。
婚約破棄だなんだと身の回りを騒がしくして、きっと嫌な思いもさせている。
バラド様は本当に優しい。
わかってる。バラド様も、たぶん私も、あの頃からなにも変わらない。変わったのは、私たちを取り巻く環境だけなんだって。
それでも諦めきれないの。
学園に来て、広い世界を知ったから。
私でも想像つかないような、バラド様の幸福を願っていたい。
「バラド様はすごいですわ。クルミ割りまでお上手だなんて!」
彼は私にしかわからないように微笑み、指を振る。
かき集めようとしていた机のクルミの殻や実が、ふわふわと浮かぶ。
それは選別され、殻はバラド様にクルミを渡した時の袋へ。実は私がクルミを入れていた袋に流されていった。
私はハンカチを畳み、袋を回収する。
「このクルミを煎って、パン生地に混ぜようかと思いますの。うまく焼けたらお持ちいたしますね」
「焦げてるのも、変なのも、全部ちょうだい。ルシェのくれた色んなジャムをのせたら、ぜんぶ美味しいよ」
「だめ。柔らかくて一番いいのを食べさせたいの」
かすかに、ラベンダー色の瞳に光がさす。
ふわふわのクルミたっぷりパンは彼の好物のひとつだ。
これくらいは、巻き込んだお詫びとして妥当だろう。
「さてと、生徒会の皆様方。本日もお邪魔いたしました。勝負はつきましたので、そろそろおいとまします」
「ああ。良い勝負だったよ、ルシェ嬢」
「ありがとうございます、フィル会長。毎度ながら、ご厚意に感謝しますわ……ところでそちらのエリック様はどうなさったの? 息が止まってしまいそうよ」
先輩たちに取り押さえられ、口許を押さえられた後輩を心配げにうかがうと、彼は瞳を潤ませてなにかを訴えたいようだった。
私は席をたった。
「あらあら、なにかしら。私になにか?」
「いやいやいやいや」
「気にしないで、ルシェ様。最後の、サンドイッチの取り合いで色々とありまして」
「まあ、あっという間にお召し上がりになったのね。お口に合ってよかった」
空のバスケットを見つけ、ほっと息つく。
その時、後ろからぬっと影がさした。
バラド様だ。
「…………ルシェの、サンドイッチ……」
哀愁のある小さな呟きに、どこからかひゅるりと風がふく。バラド様の灰色の髪がゆらゆらと揺れた。
「バラド。ちゃんと取ってあるから安心なさい。ほら」
フィル会長の差し出す皿には、卵のサンドイッチとジャムのサンドイッチが避けられていた。ビスケットも何枚か。
バラド様は両手で受け取り、じっと見つめている。彼も含めて生徒会執行部員たちも、まだまだ育ち盛り。すこし足りなかっただろうか。
「バラド様、足りなければまた作って参りますわよ」
「大丈夫。美味しそうだと思ってた。この前のより、お義母様の作るビスケットに似てるね」
「ええ。見よう見まねで作っていたのを、改めて母からレシピを貰って……あ、そうだ。お母様からも新しいレシピを教わったの。バラド様がお好きなケーキ。今度のお休みに材料を買って焼いてみますね」
「ああ、母さんのナッツケーキ。楽しみだな。その買い物にも付いていくよ。ちょうど町に用事もあるから」
「嬉しいですけれど、ご存知のとおり私の買い物は長いですわよ、どんどん目移りしちゃうから。お忙しいのだから、休みの日はゆっくりなさって。さあ、サンドイッチも、乾燥してしまうわ」
ひょいとつまみ上げて口許に持っていくと、バラド様はパクリと噛みついてくる。
魔法の勉強に夢中になっても、こうして口許に持っていくと食べてくれるので、そういうところが小動物のようでかわいい。
一口、噛ませればあとは自分で食べるので、バラド様を自席につくように促す。
気の効く書記のメリダ様が、先にお茶を置いてくれていた。
「ごちそうさま、ルシェ嬢。良い味だった。片付けは受け持とう。腹ごなしだ」
「ありがとうございます。では私も料理研究クラブの方に戻りますわ。ごきげんよう」
「ごきげんよう」
「またいらしてください!」
「クルミのパンも食べたいです!」
思い思いの言葉に手を振り、私は軽くなったバスケットを手に部屋を出た。
自動で閉まっていく扉の気配を背に、ため息をつく。
そこに狙い済ましたかのような声がかけられた。
「まただめだったようね、ルシェ・ハワード」
振り向けば宿敵ミレー・アバッシュが扇を片手にしゃんと立っていた。
「今日の勝負はなににしたの?」
「クルミ割り競争です。最後の一個がなかなか割れず、惜しくも」
「クルミ割り……また地味なことにバラド様を巻き込んだのね。希代の魔法使い、バラド様を」
彼女はバラド様を慕う非公式ファンクラブを取りしきる女傑だ。
私のことを認めていない一人でもある。
一年生の頃は、なんかミレー様には無視をされているよなという自覚を私に芽生えさせつつ、華麗な無視をし続けるという高度なテクニックをうけ親交を深めてきた。
けれどバラド様と勝負をするようになってからは、こうして話をしてくれるようにもなった。
婚約破棄のために勝負を挑み続ける私に、彼女なりの温情が生まれたのかもしれない。
「バラド様に敵うわけないのに、ほんとうにその面の皮の厚さだけは一級品ね。それで、次はどんな勝負を挑むつもりなのかしら? 生半可なものでバラド様を負かそうなんて考えないでよね。バラド様は敗北すら切れ味するどく美しくなくては」
「切れ味のするどい敗北……?」
廊下を歩きながら、彼女と次の勝負をなににするか検討する。
「活版印刷競争なんてどうででしょうか。文字拾いは熟練の技。練習をしておけば、なかなかのはやさを誇れるのではないかと思いますの」
「また地味な……。貴女に魔法が使えれば、もう少し派手になるのに…………そうだわ、魔道具を使うのはいかがかしら? すでに魔法が込められているものなら貴女でも扱えるし、逆にバラド様には扱いが難しいこともあるでしょう」
「そうなのですか?」
「バラド様ご自身の甚大な魔力に反応して、周囲に危険を及ぼしかねませんから、取り扱いには慎重になるのではないかしら。授業でもそのような様子が見て取れますわ。そもそも、魔法を使おうとせずとも、風を起こし雲を呼べる方ですもの。魔力のない貴女には想像もつかないご苦労がおありなの」
「勉強になります。私では、そうしたことがなかなかわからないから。ミレー様に教えていただくと見識が広がりますわ」
「そうやって、せいぜい御勉強だけはなさることね。貴女の数少ない取り柄だわ」
「ありがとうございます。魔道具のことを相談してもよろしいかしら。ミレー様のご意見をぜひ聞きたいわ」
空っぽのバスケットを握りしめる。
「次こそは、勝って婚約破棄ですわ」
待っていてね、バラド様!