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嘘も方便、知らぬが仏

作者: 結城 刹那


 1


 数多の雫が地面を打つ音が聞こえてくる。

 この音を聞くと自然と寒気に襲われる。私はパブロフの犬なのだろう。

 

「うぇーい!」


 チャラけた声かけで私はトイレの個室に入れられた。雨の日の恒例行事の始まりだ。

 個室に入ってからしばらくして、聞こえていた雨音が滝のような音を奏でる。同時に私は全身がびしょ濡れになった。校舎に入って私の元に来なくなった雨が、総出でやってきたかのようだった。


 全身から来る冷たさを感じていると、閉められたドアが開く。そこには私を嘲笑う者たちが何人もいた。体が冷たいからか、私は彼女たちに対して冷たい視線を送った。でも、彼女らは全く気にすることなく私に一枚のタオルを投げてその場を立ち去った。


 親切心ではない。親切な奴はまずこんな卑劣なことはしない。

 悪質なのだ。きっと今頃、傘立てに置いた私の傘が誰かに奪われていることだろう。これで今日も私は『雨の日に傘をささずにきた馬鹿な生徒』になった。


 もうかれこれ五年間続くいじめ。人間、長いことやっていれば適応できるはずなのに、不思議なことに五年経った今も全く慣れることはなかった。それでも、精神的苦痛のピークだった時期に比べればいくらかはマシになれたと思う。


 もらったタオルを使って体や髪の毛を吹く。服は絞ることで出てくる水だけを処理した。

 スマホは校則で持ち込み禁止しているため持っておらず、ハンカチもティッシュもバッグに入れている。腕につけた時計は防水仕様なので、そのほか犠牲になったものはない。


 トイレで乾かしながら朝のホームルームが始まる前に教室に戻った。

 教室に戻るとクラスの全員が私を見た。半数は私を軽蔑するような視線を、もう半数は無感情な視線をぶつける。数年前までは心配している視線を送ってくれる生徒もいたが、今は全員がいじめ側に毒されている。


 私は平静を装って席についた。窓側最後列の席は外からの冷たい風が入ってくる。それが濡れた服を靡かせ、冷たさが全身に染み渡る。閉めたいところだが、隣にいる生徒が「暑いんだけど」と言ってくる可能性があるためそのままにした。できる限り、彼女たちとは関わりたくないのだ。


「全員席につけー」


 朝のホームルームを告げるチャイムが流れ、担任の先生が教室にやってくる。彼の後ろには見知らぬ女子生徒がいた。彼女は微笑ましい様子で教室を見回している。新鮮な場所に来て嬉しい様子だ。新しい生徒の存在にクラスがざわめき始める。


「はい、静かに。えー、見ての通り、先日お話した新しいクラスメイトが今日やってきた。じゃあ、自己紹介をよろしく」


 先生に促されると彼女は「はーい!」と声をあげ、黒板に名前を書いていく。陽気で幼稚な様子は、高校生ではなく小学生を感じさせる。おそらく、あれが本人にとっての処世術なのだろう。私の偏見かもしれないが、高校生くらいになると皆、生きる上での自分のキャラを確立していくのだ。


 彼女は一字入魂するように力強く自分の名前を黒板に書いていく。しかし、力が強すぎるが故に名前を書いているところでチョークが半分に砕け、先が下の受け皿に流れていった。彼女は焦りながらも自分の名前を書いていく。おっちょこちょいなやつだ。


「えー、朝宮あさみや 春陽はるひと言います。みんなと仲良くなれたらいいなと思っています。今日からよろしくお願いします」


 明るく元気な声が教室を包み込む。外は雨のはずなのに、この教室だけは晴れているみたいだった。名前に見合って明るく陽気な生徒だ。私にとってはいい意味ではなく、悪い意味であるが。


 クラスのみんなは朝宮に拍手を送る。先生は「じゃあ、窓側の後ろから二番目の席に行ってくれ」と彼女を促した。朝宮は言われるがまま、私の前の空席へと足を運んでくる。あの暑苦しい生徒が目の前に来るかと思うと嫌気がさす。彼女が来る間、チラチラと私と目があった。


「よろし……ってすごい濡れてるね。どうしたの?」


 案の定とでも言うべきだろうか、朝宮は私の体を見て驚いた様子で聞いてくる。私はどう答えるべきか迷った。


「そいつ、今日は雨だって言うのに傘をささずに学校に来たんだよ。馬鹿だよな?」


 考えていると、隣の席にいた金竜きんりゅう 真江さなえが朝宮へと答える。彼女の私を見る視線は憎たらしいものだった。とはいえ、せっかく金竜が答えてくれたんだ。ここは合わせておくのが無難だろう。


「私が家を出たときは降ってなかったから」

「結構遠いところから来てるんだね。大変だ」


 朝7時に起きた時にはすでに雨が降っていた。朝宮の言うとおり、雨が降っていない時間帯に家を出たのであれば、そう捉えられても無理はない。話が早く済んで助かった。


「じゃあ、傘は持ってきてないんだ。なら、私が帰り一緒に行ってあげるね」


 安堵したところで朝宮が驚くべきことを口にする。平成を装いながら「ああ」と投げやりな返答をした。やはり面倒くさいやつだった。

 私はふと金竜を目だけで覗いた。金竜は面白くなさそうな様子で朝宮を見ていた。もしかすると、朝宮もまた彼女の標的になるかもしれない。

 

 私の通う美城女学園は令嬢たちの集まる学園だ。

 彼女たちの親のほとんどが社長か国家公務員だ。私もまた中小企業の社長の娘だ。

 そして、私の隣に座る金竜は政治家の娘であり、この学園の中では高い地位に君臨している。最初は君主だった彼女だが、今は暴君としてこの学園を仕切っている。


 私は中学一年から始めて五年間、金竜からいじめを受け続けていた。


 2


 美城女学園での昼食は、基本的にみんな校内にある食堂で食べることになっている。仲間外れにされた私も例外ではない。食堂では中等部から高等部の生徒たちが、各々友人たちと食事を嗜んでいた。


「冬花ちゃんは何にするの?」


 厨房の配膳台の上にあるパネルに書かれた『今日のメニュー』を見ながら、朝宮は私に聞いてくる。運の悪いことに私たちは一緒に行動することになった。

 それもこれも朝宮が話しかける相手が十中八九『私』だったからだ。最初に話したのが運のつきだったのか事あるごとに話す対象が隣の席ではなく、後ろの席の私だった。


「唐揚げ定食」

「じゃあ、私もそれで」

「初めての定食をそんな簡単に決めていいの?」

「いいのー」


 最初は無愛想にしていたが、気に病む素振りを見せない朝宮に対して、無意識に観念してしまって一言二言は話すようになった。ただし、まだ馴染みのあるような振る舞いは見せてはいない。下手に金竜に目をつけられないように彼女との距離は一定に保っておこうと思った。


 メニューが決まったところで厨房にいるおばさんに注文し、出来上がるのを待つ。朝宮はウキウキした様子で厨房の調理風景を眺めていた。私は彼女の様子を横目で眺める。彼女のキラキラした瞳に視線が吸い込まれていた。


 やがてお盆にご飯とお味噌汁、おひたしと唐揚げが乗せられ、私のところに届いた。追加でトッピングができるが、私は何も乗せることなくお盆を持って会計を済ませる。朝宮を見ると彼女はデザートをトッピングしていた。


「次はかつ定食にしよ。他の子が頼んでて美味しそうだったから」

「かつ定食もまあまあ美味しいよ」


 二人で並列に歩きながら、空いている席を探す。

 奥の方に誰も座っていない席があったので、そこに向けて歩いていくことにした。


「それにしても、冬花ちゃんって賢いんだね。5教科488点って」


 今日は二学期実力考査の成績発表があった。私は一学期から継続して学年1位をキープ。朝宮はそのことを褒めてくれた。


「まあ、勉強はできる方だから。親の遺伝子に感謝だね」

「そんな謙遜しないでよ。きっと冬花ちゃんの努力の成果だよ」

「いや、そんなことっ!」


 不意に、私の足に誰かの足が引っかかった。

 歩くリズムが崩れる。両手でお盆を持っていたため思うようにバランスが取れない。お盆は前に倒れ、皿や料理がぶちまけられる。それらが落ちたところに私も倒れていく。

 味噌汁の暑さが肌を刺激する。皿やお盆が肌を強く打ち、内臓を抉ったことで激痛が走り、しばらくは動けなかった。


「冬花ちゃんっ!」


 朝宮は自分のお盆を地面に置き、私の体に触れる。朝宮以外は誰も私に見向きもしなかった。そこで一連の事故の加害者を認識することができた。


「いっつぁ……夕凪……てめぇ、どこ見て歩いてるんだ」


 苦しみつつも、怒気のこもった声が聞こえる。私が何度も聞いたことのある声だった。

 痛みを堪えつつ、上体を少しだけ起こし、顔だけ後ろに向けた。そこには足を抑えながら私を睨む金竜の姿があった。全身を起こし、スカートについていた米粒などを払う。


「聞いてんのか、夕凪。私の足を蹴ったの謝れよ」

「……ごめん」


 私は微かに口を開けて、金竜に謝罪した。小さな声は抵抗の現れだ。


「はぁ? なんだそれ。お前、自分が加害者なのわかってる? 土下座だろ?」


 不貞腐れた私の謝罪に金竜は怒りを顕にした。「加害者なのはどっちだ」と言いたいところだが、全員に聞いても私が加害者だと言うだろう。誰も金竜に逆らうことはできないのだから。


 唯一、一緒にいた朝宮だけは金竜に怪訝な表情を浮かべていた。何か言いたそうな彼女に私は手で牽制する。


 体を地面に倒すとゆっくりと金竜に土下座した。土下座で勘弁してくれるなら安いものだ。金竜は「よくできました」と嘲笑って、再び食事を始めた。私は立ち上がり、厨房の方へと戻っていく。


「冬花ちゃん、どこにいくの?」

「地面汚しちゃったから片付けないと」


 朝宮を軽くあしらって、厨房へと向かった。


 ****


「ねえ、なんで冬花ちゃんは何も言わなかったの?」


 こぼした料理を片付けた後、私は着替えをするために体操服を持って更衣室に行った。水が染みたのなら自然乾燥に任せれば良いが、匂いのするものが染みたとなると流石に着替える必要がある。


 朝宮は片付けを手伝ってくれた。彼女は自分の昼食を別の誰かに無理矢理渡したらしい。 片付け中、彼女のお腹がよく鳴っていた。彼女は恥ずかしがっていたが、私としては空気が和むためありがたかった。


 そして、なぜか更衣室の着替えすらも朝宮は付き添ってくれた。どうしてかと思ったが、彼女の疑問を聞いて理解できた。

 先ほどの一連の様子をずっと不思議に思っていたのだろう。


「言うって何を?」

「さっき冬花ちゃんがこけたのって金竜さんが足引っ掛けたからだよね?」


 惚けてみたが、朝宮はすぐに別の疑問を提示した。さっきは特殊疑問文で聞いてくれたのに今度は普通の疑問文で聞いてきた。これじゃ、惚けるのは難しそうだ。


「朝宮がそう見えたんだったら、そうかもね」

「冬花ちゃんは違うの?」


 濁した回答が気に入らなかったのか、問い詰めるように朝宮が再び質問する。

 制服を脱ぎ、下着姿になると体操服を取り出して着替える。幸い、ズボンの尻の部分が破れているということはなかった。今回の犯行は衝動的によるものだったのだろう。テストの成績が自分よりも上だったことが気に入らなかったのだろう。


「いや、違わないよ。私も金竜に足を引っ掛けられたと思ってる」

「じゃあ、先生に相談したほうがいいよ。今朝濡れてたのも金竜さんのせいだよね?」

「無駄だよ。私たちがそう見えていても、他のみんなが、私が金竜の足を蹴ったと思ってるから」


 着替えを終えると後ろにいた朝宮に向き合った。午後の授業が始まるまでは教室には戻りたくない。だから時間のある限り、ここで暇を潰そうと思った。


「みんなって……でも、あれは絶対に金竜さんが足を……」

「事実がそうであっても、当事者以外のみんなが違う事実を口にすれば、そっちの事実が正しいことになる。みんながみんな、『1+1=3』って言えば『1+1=3』なの」

「そんなの間違ってるよ。だって、『1+1=2』だもん。3にはならない」

「間違ってないよ。実際、『1+1=2』であるのは1の次の数を2と定義したからにすぎない。こことは別の世界があって、そこでは1の次の数を3と定義していたなら『1+1=3』になる。定義はあくまで共通認識であって、絶対的な権限はない」

「……でも、みんなどうして金竜さんの方に加担するの」

「簡単だよ。それがこの社会を生きる上で一番合理的なことだから。金竜さんの親は政治家なの。他の生徒の親は金竜さんの親にお世話になっている。だから立場上、彼女に逆らうことはできない」


 定義が変われば、定理は変わる。みんな、金竜の親の力によって、本能的に定義を捻じ曲げられているのだ。


「だから、朝宮も今回の件は、私が金竜の足を蹴ったと思っていて。それが朝宮にとっても、朝宮の両親にとっても、都合のいいことだから」


 時計を見ると、そろそろ次の授業が始まる時間だった。

 私は制服を体操着袋の中にしまって、更衣室のドアへと歩いていく。


「冬花ちゃんはそれで平気なの?」


 ドアに手をかけると後ろから朝宮がそんなことを聞いてきた。

 平気かどうか、そんなのは決まっている。


「五年間もされてきたことだからね。もう慣れた。それにあと一年ちょっと我慢すれば終わることだから」


 そう言って、ドアを開けて更衣室を出た。言葉を紡いでいる間、朝宮の顔を見ることはできなかった。


 3


 夜。私は部屋にこもってスマホをいじっていた。

 朝から降っていた雨は夜になった今も降り続けている。天気予報では明日も雨らしい。また今日みたいに水をかけられると思うと学校を休みたくなる。でも、母は許してくれないだろう。


 不安な気持ちを拭うようにして私はSNSを覗いた。

 いじめられてから、私は『アリサーチ』にハマっている。

 アリサーチというのは私が勝手に作った造語だ。ラテン語で『アリ』は『他』を指す。すなわち、『他人』についての記述を探すのだ。エゴサーチの他人バージョンとでも言えばいいだろう。


 クラスメイトの名前を打ち、引っかかったアカウントを辿ってサーチしていく。長年やっている私は鍵のついていないクラスメイトのアカウントIDを把握しているので、それを検索してアリサーチを行っている。


 どうしてこんなことを行っているかと言われれば『精神安定』のためとでも言おうか。

 みんなは確かに私のいじめを黙殺している。でもそれはただ単に権力に打ちひしがれただけで本人の意志は別であると信じたいのだ。


 だからクラスメイトが投稿した内容を見て、みんなの本音を把握しているのだ。案の定、今日の食堂であった事件について何人かが金竜のことを非難していた。

 表向きは金竜の言いなりだが、裏ではきちんと良心的でいる。それが知れただけで救われる。私の存在価値はまだあるのだと思える。


 精神的に救われたことで余裕が出てきたのか、ふと朝宮のことを思い出した。

 SNSの検索バーに『朝宮 春陽』と打って検索をかけた。すると一件の投稿が検索をかけたキーワードをまんま使っていた。


『春陽って、◯◯高校の朝宮 春陽?』


 そう書かれた投稿は誰かへのメンション付きだった。返信相手を見ると『春陽@講演家朝宮陽一の娘』と書かれていた。そのアカウントをタップしてプロフィールを覗いた。

 短く書かれたプロフィールの下には固定の投稿がされており、次のように書かれていた。


「朝宮 陽一が事故で亡くなりました。このアカウントも消去しようと思ったのですが、父が残したかった『笑顔の社会』の実現に向けて、娘である春陽が毎日元気の出る投稿をしていこうと思います。みなさま、よろしくお願いいたします」


 私は思わず目を剥いた。朝宮の父親は講演家であり、今は故人らしい。

 ネットで『朝宮 陽一』と調べると妻とのデート中に交通事故に遭って亡くなったと報じられていた。


 思いもよらぬ朝宮の不遇の出来事を知り、私は全身から力が抜けたのを感じた。

 何もやる気が起こらなくなったため、仕方なくスマホを閉じて寝ることにした。


 ****


 翌日も予報通り雨だった。


「うぇーい!」


 昨日と同じく私は個室のトイレに無理矢理入れられた。ドアを押してもびくともしない。外側で誰かが塞いでいるのだ。二人がかりで塞げば、私なんて簡単に閉じ込められる。

 開けられないことがわかると、身体中に寒気が走った。これから起こることに対する恐怖が芽生えてきたのだ。


 少ししていつも通り水がドアを越えて降ってきた。バシャーンという水音がトイレ中に響き渡る。寒気は本物の寒さに変わった。私は身を包み込むようにして、顔を俯け、両手で反対側の肘を握った。


 あと少しの辛抱だ。そう念じることで溢れ出す感情を抑制する。

 ドアの外からは金竜たちの笑い声が聞こえてきた。押し殺しているが、抑えきれずに漏れていた。私よりも感情の隠し方が下手な様子だ。


「ん、朝宮じゃねえか。どうした?」


 ドアが開くのを待っていると外から金竜のそんな言葉が聞こえた。

 俯いていた私は反射的に顔をドアへと向けた。どうして朝宮がここに来たのだろうか。


「私もかけようと思ってさ」


 足音と一緒に朝宮の声が聞こえる。水が波打つ音が聞こえる。朝宮の言葉から彼女が持っているバケツに入った水によるものだと分かった。

 私は朝宮の言葉に驚愕した。でもそれはすぐに諦めに変わる。昨日私が彼女に言ったのだ。金竜側に付いた方が身のためだと。


「まじかよ。傑作だな。昨日まであんなに仲良かったのに。おい、聞いたか。朝宮が水をかけてくれるらしいぜ。良かったじゃねえか」


 金竜は笑いを堪えることができないのか、嘲りながらドア越しに私に語りかけた。

 私は今どんな顔をしているだろうか。好奇心と恐怖心が同時に降りかかる。

 再びバシャーンと大量の水が降り注ぐ音が聞こえる。しかし、上から来るはずの水は下から流れてきていた。


 私は「えっ?」という声が思わず口から漏れた。

 

「てめえ、何しやがる!?」


 金竜の罵声がドア越しに聞こえてきた。金竜の側近の生徒たちも一緒になって罵声を飛ばしている。そこで何が起こったのかようやく理解できた。


 朝宮は金竜たちに水をかけたのだ。 

 直後、さらに水が地面に落ちる音が聞こえた。今度は誰も何も喋らなかった。

 一体何が起こっているのか。私には一切の情報が入ってこない。


「お前、何やってるんだよ?」


 沈黙を突き破ったのは金竜の声だった。先ほどの怒気はさっぱり消え失せ、呆気に取られたような生気の抜けた声を漏らす。


「私はみんなで仲良く水かかろうと思っただけだよ」


 今度は朝宮の声が聞こえる。先ほどの陽気さは消え失せ、しみじみとした声音だった。


「……行こうぜ。こいつヤベーよ。何してくるか分からねえ」


 バケツが落ちる音が聞こえると複数の足音が聞こえてくる。地面に流れた水を踏みつけているためチャプチャプという音が立つ。それは少しずつ遠くなっていき、最後には閑散とした空間だけが広がった。


 私はゆっくりとドアを開けた。

 視界に入るのは落ちた二つのバケツにずぶ濡れになった朝宮だった。

 彼女は金竜たちの去っていった方をずっと見ていた。しかし、私が出てきたのに気づくとこちらに顔を向けた。


「お揃いだね」


 彼女ははにかんで私にそう言った。


「あんた馬鹿だね」

「心配しなくても大丈夫だよ。私の両親もきっと許してくれる」


 朝宮の言葉に、昨日のアリサーチの記憶が蘇る。

 彼女は両親の意思を引き継いだのだ。だから今回のことは看過できなかったのだろう。そして、失うものが何もないことが彼女の後押しをした。


「そう」


 私は朝宮のとこに行くと彼女の手を握った。


「風邪ひくよ。私たちも戻ろ」


 ポカンとした様子の朝宮だったが、すぐに気を取り直して笑顔をくれた。

 水に濡れた彼女の手はとても温かかった。


 4


 物語の結末というのは非常に呆気ないものだ。

 私は窓から見える雨を見ながら一人黄昏ていた。今週一週間はずっと雨との予報だったため翌日である今日ももちろん雨が降っていた。秋雨前線が停滞しているのだろう。


 しかし、今日は濡れることがなかった。数年ぶりに、私は乾いた制服で雨の日を過ごすことができていた。昨日行われた席替えにより隣にいた金竜は廊下側の席にいる。私は同じ場所をキープできたので彼女とは最も離れた位置にいた。


 横目で金竜を見ると、いつもの連中と楽しく会話している。私なんて最初からいなかったかのようにすっかり興味は消え失せていた。昨日の事件がよっぽど彼女に影響を与えたらしい。暴君も民衆からの危険に晒されれば更生するみたいだ。


「ねえ、冬花ちゃん。宿題見せてもらっていい?」


 金竜を見ていると隣の席にいた朝宮が私にねだるような視線を送る。私は彼女に冷たい視線を送ると机の中からノートを取り出した。


「帰り、飲み物奢ってね」


 そう言って、朝宮にノートを差し出す。


「えー、それはずるいよ。私、金欠なんだよ」

「やってこないのが悪い。世の中は対価交換なのよ」

「えー、そんなー」


 悲しそうにノートを受け取る朝宮を見て、思わず唇が綻びた。

 

「うそうそ。私はもう春陽からたくさんのものをもらったから、タダで見せてあげるよ」

「ほんと! やったー! じゃあ、明日も見せてもらうね」

「あまり調子には乗らないこと」

「はい。すみません」


 朝宮は自分のまっさらなノートを広げると私のノートを写していった。

 世の中、嘘をつけば都合のいいこともあるし、知らない方が身のためなこともある。

 でも、それらを全て無視して飛び込んでくれる存在というのは、当事者にとってはとても嬉しいことだ。

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