燕の過去
手を握られる。髪を触られる。「緊張しなくてもいいよ」と親切そうに言われて肩を揉まれる。どれも一部の人間━・・・ものすごく鈍感な人間━・・・にとってはセクハラでもなんでもないかもしれない、しかし少なくともやられた本人がそうだと思えば間違いなくセクハラと言えるであろうそんな行為を、当時デビューしたばかりの新人作家だった燕は日常的に受けていた。しかし燕の中には「これをセクハラだと思うのはひょっとして私だけで、間違っているのは私のほうなんじゃあないだろうか」という迷いがあったのと、単純に相手が自分よりもずっと年上で腕力もあるおっさん・・・中年男性で恐ろしかったというのがあり、直接本人に「やめてください」とはっきり伝えることはどうしても出来ずにいた。それだけでなく、家族友人含めた第三者の誰にもそのことを打ち明けることが出来ない・・・そんな状況の中で燕がただ一人相談相手として選んだのが、あの頃まだ出会って数か月の私だった。
多分出会って数か月、というのが燕にとっては返って魅力的な条件に感じられたのだと思う。親しい人間相手になら絶対に発生する面倒の数々を省略できるというのは大きかっただろうし。面倒って言ったらアレだけど。
で、相談を受けた私は「それは紛うことなきセクハラというものだよ」と判定を下した上で、無い頭を振り絞って色々と悩み、考え、最終的には燕にこう言った。
━・・・どうしても無理なら私からその担当にあなたの気持ちを伝えてあげる。でもやっぱり、できればあなた本人が直接相手に「嫌です」って言えるのが一番いいと思う。もちろん私がちゃんと隣について見ててあげるから。頑張れる?
私がこんなことを言った理由としては、嫌だと思うことをはっきりと嫌ですと言えた記憶、経験というものがあったほうがこの子の今後の人生に役立つだろうなと思ったというのが8割。相手だって第三者を介されるのではなくて燕本人から直接苦言を呈されたほうがまだ理解も納得もしやすいし角も立ちにくいだろうと考えたのが2割だ。
後者に関しては、セクハラをした本人がそもそも自分のしたことをセクハラだと自覚できているのかが怪しかったからというのが大きいが・・・それでも被害者である燕に対し、ある種加害者側への誠意のようなものを求めてしまった側面が確実に存在していて、今にして思えば自分の事ながらちょっとどうなんだろうと思う。それでなくても被害者を加害者に直接立ち向かわせるなんて言語道断、という考え方をする人のほうが多い気がするし、やはり今にして思えばそちらの考え方のほうが圧倒的に正しいような気もしてしまうので、うん、私のあのやり方で本当に良かったのかどうかは多分永遠の謎だ。ひょっとしたら実は謎でもなんでもないのかもしれないが、少なくとも自分自身では判定できない。
判定できないのだが、とりあえず今回想する上で重要なのは燕がこの提案にはいと頷いてくれたことだ。私はすぐに自分、燕、問題の担当編集3人での話し合いの場をセッティングした。
しかし、本当はずっと嫌だった、ああいったことはもう今後一切やめてほしいと震えながら懸命に訴えた燕に対し、相手の反応は芳しくないものだった。君は大げさすぎる、あれはごく普通のコミュニケーションだった、あの程度のことをセクハラだと思うのは君の心が狭いからだと平気で返してくるのを横で聞いていた私は「あ、これはもう何の遠慮も必要ないし角の立つ立たないを気にしている場合じゃないな」と判断し、話し合いの間中ポケットの中でずっと起動させていた録音装置を容赦なく編集長に提出した。
被害を被った上で、それでも何とか相手に分かってもらおうと健気に言葉を尽くす燕と、行為があったこと自体は肯定した上で絶対にその不当さは認めようとしない担当編集のようすの記録は、緊急性を要する事態だと判断されるに足るものだったらしく、結果めでたく燕の担当編集は交代となった。流石に会社自体を辞めさせることはできなかったらしく問題の人物は今も編集部に勤務しているが、彼が燕に対し激しい憎悪や恨みを抱き報復行為に及ぶ可能性、危険を考えれば妥当な裁定だと思う。燕が編集部に出向く時間帯は絶対に2人が鉢合わせしないように調整されていると聞くし。
「いやもうほんと、いつも言ってるけどマジで気にする必要ないからね。謙遜とかじゃなく普通に事実として私あの時なんにもしてないじゃん本当に。話し合いの時隣に座ってただけじゃん」
私の言葉に燕は小さく息を吐いたあと、ゆっくりと首を横に振って言った。
「私の相談を真剣に聞いてくれましたし、あの話し合いの場を用意してくれたのも先輩ですし・・・それにあの時、先輩が録音装置をこっそり持っていてくれたおかげでなんとかなったんじゃないですか」
私は一瞬言葉に詰まったが、頬を指でかきながらやんわりと反論した。
「いやあれはね、なんかたまたまあの時私が持つ役目やってたってだけで、べつに燕だってポケットの中に入れとくぐらい簡単にできただろうし、功績でもなんでも」
「嘘。先輩あの時言ってたじゃないですか。もし万が一秋水さんがレコーダー隠し持ってるのが見つかったら怒りの矛先が秋水さんに向くかもしれないから、私が持っておくねって」
「あー・・・言われてみれば・・・私言ったかもね・・・そういう恩着せがましいことをわざわざ・・・」
見つかる心配なんてまずないだろうに。




