いざ、ダンジョンに突入です
追いかけっこの夜から数日後。
エリシアは世界樹の前に立っていた。
身にまとうのはいかにも冒険者といった出で立ちだ。皮の胸当てにブーツといった装備品と、腰には短剣を提げている。手には一枚の紙切れ。
動きやすさ重視の軽装備だ。
どれもこれも真新しくて、傷ひとつない。初心者丸出しだ。
肩下げカバンの紐をぎゅっと握りしめ、エリシアは世界樹を見上げてほうっと息を吐く。
青空のもと、今日も世界樹は堂々たるたたずまいを見せていた。空気も澄んでいて清々しい。絶好の冒険日和と言えた。
「いよいよ私の冒険が始まりますね」
その意気込みに相槌は返ってこなかった。
ダンテとはここに来る前、冒険者ギルドで別れたからだ。
『それじゃあ俺は魔法薬の卸しに行ってくるが……』
別れ際、ダンテはがりがりと頭をかいて、盛大なため息をこぼした。その目に宿るのは色濃い狂気だ。エリシアをじっと見つめながらぼやいたことには――。
『《発酵魔法》だけじゃなく、もっとニッチで変な魔法を覚えるかもしれないと思うと……やっぱり研究室に監禁した方がいいよなあ、おまえ』
『そうなったら私は全力で逃げますよ』
『ぐっ……仕方ねえ。快く見送ってやらあ』
ダンテは心底不本意そうにかぶりを振った。
厄介な相棒を持ってしまったものである。
それはそれとして、大事なのはダンジョン探索だ。エリシアは握りしめていた紙を開く。
先ほど冒険者ギルドでダンテに選んでもらった初心者向けクエストである。
小さな紙切れには、簡潔な文字と赤い実のイラストが並んでいた。
「レムの実三つで銅貨三枚ですか。Eランクへの昇格に必要なのは金貨五枚ですから、えーっと……」
クエストを達成して依頼料を受け取ることができる。
その依頼料の累計で、冒険者ランクが上がるらしい。
銅貨二十枚で銀貨一枚。銀貨二十枚で金貨一枚。
つまり――。
「この実を二千個持って行けば、Eランク昇格……」
あまりに途方もない数字を前にして、エリシアは少し呆然としてしまう。
しかしすぐにかぶりを振って拳をぎゅっと握った。
「気長にやっていけばなんとかなります。先は長いですが、頑張りましょう」
忍耐力はある方だし、きっと大丈夫だろう。
エリシアはそう結論付け、肩掛けカバンに紙をしまう。
カバンの中はぼんやりとした闇が渦巻いていた。その中に吸い込まれて紙は一瞬で見えなくなる。ダンテが貸してくれた、収納魔法がかかったカバンだ。見た目以上に物が入る。
「入る前に持ち物をチェックしておきますか。えっと、ポーションの小瓶に、包帯に止血の薬草。飲み水。軽食のサンドイッチが一、二、三、四、五……」
エリシアはカバンから持ち物を取り出して並べていく。サンドイッチが大量だ。屋台と間違えられて何度か声を掛けられた。
あれからエリシアはダンテの家に住まわせてもらっていた。
店の裏にある建物が住棟で、その空き部屋を宛がわれている。とはいえダンテはほとんど店で寝泊まりしているので、実質ほぼ丸々一軒エリシアの家だ。そこで衣食住の面倒を見てもらっている。
このサンドイッチも彼に買ってもらったものだ。食費を持つという約束はきちんと果たされている。支払いの度に、かなり文句たらたらだが。
フルーツサンドにジャムサンドといった甘いものから、余り物のポテトサラダを挟んだもの、鳥肉を甘辛く味付けしてマヨネーズを塗ったものなどなど、ざっと一斤分くらいある。
つまみ食いでかなり減ったので、本当はこの倍あったのだが……こうして見ていると、またお腹が空いてきた。じゅるり。
「いけないいけない。これはダンジョンで食べる分です。片付けましょう」
よだれを拭って、サンドイッチを慌ててしまう。
忘れ物もないようだし、これで準備は完了だ。カバンを提げ直して勇猛果敢に立ち上がる。
「よし、それじゃあ行きましょう。いざダンジョンへ」
こうしてエリシアの冒険が華々しく幕を開けた。
世界樹の洞へと足を向けた、そのときだ。
「た、助けてくれ!」
洞から冒険者のグループがほうほうの体で転がり出てきた。
全員が傷だらけで泥と血にまみれている。エリシアのものより立派な鉄製の鎧も飴のようにひしゃげて砕けていた。
そのうちのひとりは完全に気を失って、仲間のふたりに支えられている有様だ。
冒険者のひとり、大ぶりな剣を提げた剣士が真っ青な顔で声を張り上げる。
「誰か! 回復魔法を使える者はいないか! もしくは魔法薬をわけてくれ……! もう一刻の猶予もないんだ!」
しかしその悲痛な呼びかけに応える者はいなかった。
誰も彼もが仲間と顔を見合わせ、出て行くのを躊躇しているようだった。
エリシアは訝しむ。
(どうして誰も助けてあげないのでしょう)
そこで思い返されるのはダンテの言葉だった。
彼はいくつか注意事項を教えてくれた。
『いいか、ダンジョンで他人を当てにするな。よそのパーティは商売敵だ。消えれば自分たちのパイが大きくなる。好き好んで手を貸そうなんて物好きはそういないのさ』
あのときは実感がなかったが、目の前の光景に納得する。
「なるほど。こういうことですか」
エリシアは軽くうなずく。
ダンテの言葉は筋が通っている。
たしかにそう感じたが、次の瞬間には急いで剣士たちの元まで駆けていた。
近付いてきた小娘が素人丸出しの出で立ちでも、彼らは縋るような目を向けた。傷付いた仲間を地面に横たえてもらって、カバンからポーションの小瓶を取り出す。
「えっと、傷口にかければいいんですよね……」
エリシアはそっと小瓶を傾ける。
透明な液体が、血が流れ続ける傷口に落ちる。
すると淡い光が溢れ、瞬く間に傷口が塞がっていく。怪我人は目を覚まさないが、少しだけ顔色がよくなった。か細かった呼吸もゆるやかになる。
(す、すごいです! ここまで効くとはびっくりです)
エリシアは思わず目を丸くしてしまい、剣士たちからもわっと歓声が上がった。
「あ、ありがとう! 助かったよ! こんなに上等なポーションを分けてもらえるなんて……なんとお礼を言っていいか」
「どうぞお気になさらず。皆さんもよろしければお使いください」
エリシアが小瓶を手渡すと、彼らはしきりに恐縮しながらそれを使った。たった数滴垂らすだけでどんな傷もあっさりと塞がっていく。
サンドイッチ同様、このポーションもダンテに持たされたものだ。
元はあの、鍋いっぱいの緑のドロドロである。エリシアのおかげで発酵手順がスキップできて、大量に完成したのだとダンテは嬉しそうに言っていた。それが彼らを救ったのだ。
(なんだかんだ言って、やっぱり腕は確かなんですね。あのひと)
それがなんだか自分の手柄の以上に感じられ、胸のあたりがポカポカした。
しかし気を抜くわけにはいかなかった。異常事態の気配がしたからだ。
「ひどい怪我でした。いったいどうしたのですか」
「分からない……あんな魔物、見たことがない」
剣士らは青い顔でかぶりを振る。
「大きな猫……いや、犬か……? 真っ黒な毛並みを持つ獣だった。美しい魔物だったが……俺たちでは手も足も出なかった」
「ひょっとすると、あれがキャスパリーグなのかも……」
「キャスパリーグ!? 十階より上の魔物じゃないか!」
剣士らがギョッとして、様子をうかがっていた野次馬たちにもざわめきが広がっていく。
エリシアは聞いたことのない魔物だ。だがしかし、彼らの間では有名らしい。
(たしか、このダンジョンは上に行けば行くほど魔物の強さが跳ね上がるんでしたっけ。で、たまーにそういうのが下に降りてくるとか)
つまり今現在、ダンジョンではイレギュラーが発生しているわけだ。
エリシアはもう一度世界樹を見上げる。
大樹は相変わらずのたたずまいだ。だがしかし、風が木の葉を揺らす音が妙に大きく感じられた。肌がぞくぞくと粟立つ。
「ちなみにその魔物とはどこで出くわしたんですか?」
「三階だ。撒くのが精一杯だった」
エリシアの探索予定は一階だ。そもそもFランクのエリシアでは三階まで行くことができないはず。今日の冒険に影響はないのかもしれないが……。
(むむ、ひとまず今日はやめておくべきですかね?)
エリシアはダンジョンについて何も知らない。
この状況がどれだけ危険なのかが判断できない。
それならば一旦引くのが無難だろう。世界樹は明日もここにあるのだから、無理をする必要は――。
「逃げ切れたのはヨシュアのおかげだ。ずっと俺たちのしんがりを務めてくれて……っ、待て! ヨシュアがいないぞ!?」
「えっ」
エリシアの思案は半ばで途切れた。
剣士らが血相を変えて慌てだしたからだ。
「一階の奥だ! 他の魔物に襲われたとき、きっとあそこではぐれたんだ!」
「急いで助けに行かないと!」
「だ、だが、魔法薬は使い切ってしまったぞ! 一度準備を整えないと――」
「そんなことを言っている場合か! あいつも相当な痛手を負っている! 無駄に時間を掛けたら手遅れになる!」
「待て待て! おまえも疲弊しきっているだろ! 共倒れになるぞ!」
剣士が慌ててダンジョンに向かおうとするが、すぐにふらついて地面に膝を突く。どうやらポーションで傷が治っても、失った体力や血は戻らないらしい。
そんな彼に、エリシアは手を差し伸べる。
「大丈夫ですか。あなたたちは少し休むべきです」
「だが、ヨシュアを放っておくわけには……」
「ご心配には及びません」
青い顔でうつむく剣士に、エリシアは己の胸に手を当てて告げる。
一階ならば本日の探索予定範囲内だ。
「私がそのヨシュアさんを助けてきます」
「え……?」
「そのひとの特徴を教えてください。どのあたりではぐれたのかも、詳細に」
剣士は目を丸くしていたが、エリシアの質問にきちんと答えてくれた。
赤髪で鎧をまとった若い亜人。
できれば人相書きがほしいところだったが、贅沢は言っていられなかった。
エリシアは軽くうなずく。
「分かりました。では行って参ります」
「ど、どうして」
「はい?」
「どうして、そこまでしてくれるんだ」
「簡単なことですよ」
呆然とする剣士に、エリシアはふんわりと笑う。
かつては泣きも笑いもしない氷薔薇姫と揶揄されていた。
そんな自分がこんなふうに笑えるのは、あの夜がきっかけだ。
「私も以前、困っているところを助けてもらったんです。だからお互い様です」
だから、今度は私が助ける。
ただそれだけの使命感を胸に、剣士たちが呼び止めるのも聞かずエリシアは世界樹の洞に飛び込んでいった。
(あっ、ダンテからは叱られてしまいそうですが……)
そこでふと懸念がよぎる。無茶はするなと口を酸っぱくして言われたのだ。
これは十分無茶の内だろう。
だがしかし、エリシアは足を止めなかった。
「まあ、なんとかなりますよね」
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