魔王
昔々、この地には悪い魔法使いがいました。
悪い魔法使いは世界の破滅を望んでいました。
彼は世界を滅ぼすために、ありとあらゆる魔法を修めました。さまざまな魔物をかき集めました。邪魔な国々を根絶やしにしました。
ですが悪い魔法使いの野望は道半ばで潰えます。
聖女サラが立ち上がったからです。
彼女は長きにわたる戦いの末、悪い魔法使いを打ち倒しました。
そうして彼の魂と彼の魔物のすべてを、聖女の力を込めた大樹へと封じ込めました。
大樹は長い時間を掛けて巨大なダンジョンへと変貌を遂げました。冒険者が集まって、大樹のまわりに街ができました。街は大きく発展し、多くの笑顔が生まれました。
魔王だけが時間の流れに取り残され、永遠に変わらずあり続けます。
世界樹が枯れ果てるその日まで、彼に終わりは訪れません。
めでたし、めでたし。
◇
日が落ちて、冒険者ギルドの酒場はいっそうの賑わいを見せていた。
その片隅に陣取って、エリシアは一冊の絵本を開いていた。
閉店直前の書店に飛び込んで買い求めたものである。悪い魔法使いと聖女の戦いが描かれた、誰もが知る昔話。
ぱたんと本を閉じて、エリシアは頭を抱える。
「まさかとは思いますが、この悪い魔法使いというのが……」
「あいつだ。ダンテ・ブラッドレイン」
それに答えるのはヨシュアだった。
あれからすぐに目を覚まし、エリシアとこの冒険者ギルドにやって来たのだ。どうも中年男らに不意を突いて襲われたらしく、操られていたときの記憶は一切残っていないらしい。
ダンテはいつの間にか姿を消していた。それこそ夢でも見ていたかのように。
だがしかし、あのひと幕が夢でないことの証明に、エリシアの手や服にはダンテの流した血の跡がこびりついたままだった。
「やつは三百年前に世界の破壊を目論んで、聖女サラに敗れた本物の魔王だ。知らなかったのか?」
「知りませんよ……どうして誰も言ってくれなかったんですか」
「いやだって、今さらだし」
ヨシュアは肩をすくめて自身のグラスを煽る。
「俺は生まれも育ちもこの街なんだ。子供の頃から爺さんたちから耳にタコができるくらい聞かされたからな、魔王にだけは関わるなって。それくらい俺たちにとっては当たり前で、避けるべき存在なんだよ」
「だからって本当に魔王だなんて……てっきりただのあだ名だと……」
「たまにそういう勘違いをしたよそ者が、無駄に因縁を付けて街を去るはめになるんだよなあ。きみは一緒に行動しているようだし、てっきりすでに知っているものかと」
「まあ、その……いろいろと納得しましたけど」
エリシアがダンテと組んだと知って人々が驚いたこと。
ダンテの店に誰も訪れてこないこと。
魔王と呼ばれていること。
さまざまなことに納得がいった。
「あの、世界樹の頂上にある宝というのはひょっとして」
「魔王の魂だろう?」
ヨシュアはあっさりと答えてくれた。
「世界樹がある限り、魔王の魂は封じられたままで、あいつは死ぬことができない。三百年もの間姿が変わっていないんだ」
「そう、ですか……」
エリシアはただそれだけ呟いて、テーブルに目を落とす。
ぐるぐると渦を巻く木目は、エリシアの心をそのまま映し出しているようだった。
ひどく喉が渇いていた。コップの水を飲み干しても、喉の違和感は消えなかった。
「ふむふむ、だからおかしな匂いがしたわけだな」
軽い相槌を打つのはキャルだ。
仔猫の姿で、ガツガツとダブルチーズバーガーを食べている。ダンジョンから帰る道中でエリシアたちと合流したのだ。
チーズまみれの口をぺろりと舐めてキャルが遠い目をする。
「そういえば母上から聞いたことがあったな。魔王とかいうのが、世界樹に住まう魔物すべての王だとか」
「おまえも知らなかったのかよ。自分たちの王様のことだろうが」
「仕方なかろう。母上たちが王に仕えていたのは我が生まれる前のことだ」
ヨシュアのツッコミを聞き流し、キャルはニヤリと笑う。
「しかしあの男が魔王だったとは面白い。ぜひとも一度手合わせを――」
「わははははっ! もっと飲め飲め! どうせ今はダンジョンに行けねえんだからな!」
どんっ!
酔っ払いがよろけ、エリシアたちのテーブルにぶつかる。
その拍子に、キャルの食べていたチーズバーガーが床へと落ちた。キャルの目が一気に吊り上がって建物を揺るがすほどの咆哮を上げる。
「貴様あ! 我の食事を邪魔するとは命が惜しくないようだなあ!?」
「キャスパリーグ!? なんでこんなとこっ、うぎゃああああああ!?」
大きくなったキャルが酔っぱらいを追い立てる。頭が回らないながらに「やりすぎちゃダメですよ」と釘を刺しておいたので、食べることはないだろう。たぶん。
ヨシュアが呆れたように小声でぼやく。
「なんだ? 今夜はやけに騒がしいな」
「ダンテ様のせいですよ」
凜とした涼やかな声がする。
見ればトバリがそばに立っていた。やれやれと肩をすくめて、ぼやくようにして続ける。
「あの方が今、世界樹の根本にいるのです。そのせいでみなさんやむなくここで時間を潰しているというわけです」
「ああ、なるほど。魔王のいつものやつですか」
「ええ。あの方にもまったく困ったものですよ」
ヨシュアもトバリも日常会話のトーンでダンテを語る。彼らにとって魔王の存在は当たり前のものなのだ。よそ者のエリシアが知らなかっただけで。
(……よし)
エリシアはひとつうなずくと席を立った。
ヨシュアとトバリに向けてぺこりと軽く頭を下げる。
「私、ちょっと行ってきます」
「……このまま逃げたっていいんだぞ」
ヨシュアが眉間にしわを寄せ、溜め息交じりに言う。
「あの男は危険だ。世界樹の封印があるから少し大人しくしているだけで、本質はただの狂人だ。きみがわざわざ関わる必要なんてない」
「そうかもしれません」
エリシアはゆっくりとかぶりを振る。
王城でのパーティで偶然出会い、ここ数日ともに暮らしただけの相手だ。深入りする義理はない。だがそれでも、そのたった数日が、エリシアの人生においてすでに大きな意味を持ちはじめていた。
「それでも私は行きます。行って、ダンテと話をします」
「……止めたって無駄って顔だな」
ヨシュアは苦笑いをして、軽く片手を上げてみせる。
「そこまで言うなら見送ろう。それで、気が済むまで魔王と話してくるといい」
「ありがとうございます」
「ああ、それとひとつだけ言わせてくれ。この前買わせてもらったポーション……やっぱりよく効いたよ」
「ふふん、そうでしょう。本人に伝えておきますね」
「それは遠慮したいかなあ……」
「お気を付けください、エリシア様」
ぼやくヨシュアとトバリに別れを告げて、エリシアはギルドを出た。空には雲ひとつなく、無数の星々が瞬いている。月はまだ空の高いところにいて、夜明けが遠いことを示していた。
エリシアが歩き出すと、キャルがぬっと扉をくぐって出てくる。
「行くのか、主」
「ええ。キャルちゃんも一緒に行きますか?」
「うむ。せっかくだし王に謁見願おうか」
こうしてキャルを伴って世界樹へと足を向けた。
その道はいつもとは異なり、一切の人気が失せていた。
◇
世界樹の根本には、日夜喧噪の絶えない広場がある。
ダンジョンに出入りする冒険者や、彼らを相手に商いを行う屋台などが昼夜を問わず賑わいをみせているからだ。夜でも風に乗って、エリシアの部屋まで彼らの声は届いていた。
しかし今、その広場は不気味なほどに静まり返っていた。
そこにいるのはたったひとりの男だけ。
ダンテだ。
彼は懐からおもむろに試験管を取り出すと、紫色の液体を世界樹の根本に振りかける。液体がかかった場所からじゅっと焦げるような音がして、白い煙が上がり……煙が晴れたあと、そこにはなんら変わらぬ根があった。薬品のかかった痕跡はまるでない。
「この除草薬でもダメかあ……ったく、無駄に頑丈なこった」
ダンテは樹を見上げたまま、生気のない声で続ける。
「聖女サラは俺の魂をこの樹に封じたあと、厄介な呪いを三つ残した」
ひとつ目はこの樹に入れない呪い。
ふたつ目は死ねない呪い。
みっつ目は殺せない呪い。
世界樹がある限り、それらの呪いが永遠に魔王を縛り付ける。
ダンテは試験管を取り落とし、その散らばった破片を丁寧に踏みにじる。顔を片手で覆いながら、彼は慟哭するように声を絞り出した。
「そのせいで、俺はこのクソッタレの世界を滅ぼすこともできず、ゴミどもを殺し尽くすこともできず、死ぬこともできず、ただただ無駄に三百年も生きる羽目になった。俺にできることは誰かが世界樹を踏破することを祈るか、どうにか樹を枯らすことができないか試行錯誤することのみ。気が狂いそうだった。ひょっとしたらもう狂い終えたのかもしれない。だが……それも、ようやく終わる」
そっとダンテが顔を上げる。
広場入り口のエリシアと目が合った。
ふたりの間を冷たい風が駆け抜けて、ダンテが目を細めて穏やかに笑う。
「エリシア。聖女の子孫であるおまえなら、きっと世界樹の頂に手が届く。おまえなら俺の魂を解放して、俺を殺すことができる。俺はおまえに賭けているんだ」
「それが……死ぬことこそが、あなたの目的だったんですか」
「そう。人生を捧げるのに相応しい野望だろ?」
ダンテはおどけたように肩をすくめてみせる。
続きは明日更新します。あと二話。
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