初陣です
「ガアアアアアアッ!」
「ひっ!?」
妖虎は天地を揺るがすほどの雄叫びを上げ、そのまままっすぐエリシアめがけて突っ込んできた。目にも留まらぬスピードとはこのことだ。息を呑んだ次の瞬間には、もう目の前に妖虎の爪が迫っていた。
「ひょえいっ!?」
情けない悲鳴を上げて、地面を転がるようにして無様に回避する。
ギリギリだった。髪がひと房切り落とされるのを視界の端で捉えながら、エリシアは力ある言葉を叫ぶ。
「し、《身体強化》!」
その瞬間、四肢に力が湧き上がった。そのまま地を蹴って妖虎との距離を稼ぐ。
無事、先ほどと同じくらいの間合いを取ることができたのだが――。
「は、はあ……はあ……」
「グルルルル……」
肩で息をして呼吸を整えるエリシアに反し、妖虎は飄然としていた。
嬉しげに目を細めるその様は、食いでのある獲物が増えたと言わんばかりだ。
(完全に舐められていますね……不意を突けば、なんとかなるかもしれません)
エリシアは冷や汗を流しながら、必死に考えを巡らせる。
自身の所持するスキル、獣の状態、周囲の様子。
それらすべての情報を頭に詰め込んで、暗闇で細い糸をたぐり寄せるようにして活路を探る。
思考が高速化して、時間の流れが滞る。獣の息遣い、風に揺れる花弁一枚一枚、小粒な実のひとつひとつが、いやに網膜に焼き付いた。
(うん……実?)
よく見れば花畑のあちこちに深紅の実をつけた植物が群生していた。
エリシアが今回探し求めるはずだったレムの実だ。これだけあれば余裕でクエスト達成だろう。生きて帰れればの話だが――と、そこで妙案が閃いた。
(っ……いける!)
エリシアは息すら忘れて脳髄を絞り、戦略を組み立てる。
忙しない思考の片隅で、どこか冷静な自分がふっと自嘲気味な笑みを浮かべた。
(ひとに言われるままに生きてきた私が、こんなに必死に考えるなんて皮肉ですね)
有無を言わせず公爵家に引き取られ、命じられるままに王子と婚約し、黙々と花嫁修業に明け暮れた。そこに自分の意志はひとつもなかった。
そんな操り人形のようだった自分が、ダンジョンの中で魔物を前にして、生きるために必死に考えを巡らせている。その落差がなんだかとてもおかしくて、体中の血が沸き立つような昂ぶりがあった。胸の内に秘めていた刃の錆が、みるみるうちに落ちていくのを感じた。
あのまま言われるままに生きていれば安寧な人生が送れたかもしれない。
だがしかし、それはエリシアの人生ではない。自分の生きる場所はここだと悟った。
(分かりました。考えることは生きるということ。私は今、生きている)
エリシアは現実を噛みしめる。
作戦も覚悟もどちらも決まった。
(こんなところで死んでなるものですか!)
エリシアはすーっと大きく息を吸い込む。そうして呪文を唱えた。それは火炎魔法でも雷撃魔法でもない。使い道が限られると思われていた、あの魔法だ。
「《発酵》!」
「グガッ!?」
瞬間、蜜を煮詰めたようなドロリとした香りがあたり一帯に満ちた。
花畑に自生するレムの実を魔法ですべて発酵させ、アルコールの臭気を充満させたのだ。
香りは泥のような澱みとなって妖虎の足を止める。深紅の瞳に薄い霞がかかる。
妖虎がふらつく隙に、エリシアは腰に下げた短剣を抜き放つ。
「グルガ……ガアアアアアァァッ!」
酒気を振り払うようにして妖虎が咆哮を上げ、エリシアめがけて再び疾駆する。覆い被さるように立ち上がり、限界まで引き絞って放たれた弓のように、爪を勢いよく放つ。
ざんっ!
しかしその一撃はエリシアのすぐ脇をかすめ、花々を薙ぎ払うだけだった。
酒気に当てられた獣の動きは先ほどと比べてかなり大雑把になっていた。わざわざ避けるまでもない。
この好機を逃すまいとエリシアは大きく跳躍した。妖虎の頭上に躍り出て、自身の体重すべてをかけて小ぶりな刃を突き下ろす。
「グギャッ!?」
短剣は狙いを違えることなく、妖虎の脳天に突き刺さった。
肉を切り裂き、骨を砕く嫌な手応えに続き、粘ついた水音が花畑一帯に響く。
妖虎は少しの間痙攣していたが、エリシアが飛び退くと同時。
ドスン――!
地面に倒れ伏し、そのままピクリとも動かなくなる。瞳は完全に濁りきり、花畑にじわじわと血の海が広がっていった。
「お、終わった……うっ!?」
エリシアは安堵のため息をこぼし、それと同時に口と鼻を押さえて呻く。
あたりに満ちるアルコールの臭いはかなり強烈なものだった。エリシアもすっかりそれに当てられてしまって、よろよろと花畑に倒れ込む。一呼吸ごとに胃が熱くなり、脳が溶けそうなほどだ。
「うう、ひどい匂いです……スキル……スキルは会得できますか」
『可能です。魔物を倒したためスキルポイントを会得しました』
続いて目の前に赤字が浮かび上がる。
『こちらのスキルがオススメです』
「ではえっと、この……《アルコール耐性》を」
霞む目でなんとかその文字に触れる。
するとその瞬間に、冗談のように気分がスッキリした。アルコールの臭いは依然として周囲に漂ったままだが、特に何とも感じなくなる。
ふうと息を吐くが、そこで冷静になる。
「いや、便利ですが……ピンポイント過ぎるでしょう。なんですかこのスキル」
スキルというか、体質とかそういうジャンルの話な気がする。
スキル、奥が深い――かもしれない。
むうと考え込むエリシアだが、そこでハッとする。
「そ、そうだ。ヨシュアさん」
鎧のもとまでよたよたと向かった。
赤毛の彼は依然として気を失ったままだったが、ポーションを垂らすと顔に血の気が戻った。呼吸も落ち着き、安らかな寝息が聞こえてくる。
「よかった。あとは外に連れて行くだけですね」
エリシアは額の汗を拭って、ふうと息を吐く。
これで一安心だ。そう思ったそのとき、低い声が花畑に響いた。
「面白い」
「っ……!?」
あと一回更新予定です。
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