一章 武人なき村 その1
チュンチュンと小鳥が鳴いている。今日の目覚まし代わりだった、可愛らしい鳴き声。
木漏れ日は優しく光を投げかけてきて、時折風に身を任せて揺れている。
いつもだったら癒しの朝のひと時。まどろみの名残を感じながら、ゆったりした時間に浸るのだが……。
今日ばかりは、そんな気分にもなれない。
デカい欠伸を一つした。
眠い、暴力的なまでに。軽く頭痛を覚えた。
真の戦士とやらはいかなる状況下であってもぐっすりと眠れるらしいが、俺はといえば野宿が続くと蒲団の上が恋しくなる。まあ、一介の浪人だからだろう。
目を擦りながら、ぼうと焚火を眺める。
ぐうと腹が鳴る。
ああ、おまけに空腹ときた。こりゃ、生命の危機だな。生命の危機……。
意識が霞みがかっていく。死神さんと鉢合わせたら、為すすべなくお陀仏か。
益体もないことを考えていると、傍を通りかかった兎がたまたま目に入った。
俺の視線に気づいたのか、兎もこちらを見やる。
しばし互いに身動きもせずにらめっこしていたが、やがて兎はこちらの方へ寄ってきて丸太の隣にぴょんと飛び乗り、俺の顔を見上げてきた。野生動物にしては危機感がない。
もしかしたら近くに人里があって、そこに住むヤツ等が森に来る度にこの兎に餌をやっているのかもしれない。
だとしたら思いがけない朗報なのだが、人生ってのはそうそう都合のいいことは起きないものだ。過度な期待をすればほぼ確実に裏切られる。博打は当たらず、てるてる坊主を吊るした次の日には雨が降る。ゆえにこそ、淡い希望というのは抱かないのが吉だ。
急に人恋しくなった俺は、その――兎と呼ぶのも、なんだか味気ないので――若旦那に話しかけることにした。
「なあ、若旦那。この近くに、人が住んでる場所はないか?」
若旦那はつぶらな紅い瞳をこちらに向けてきてはいたものの、一向に返事をする気配はない。構わず俺はヤツの目を見やり続ける。
「……きっと目的地のことを訊いても、お前はわからないだろうな。この辺の地理だってあまり理解してないだろうし」
「…………」
「じゃあさ、せめてこの辺で何か食えるものないか? ここ数日、ロクなもの食べてなくて腹が減ってるんだが……」
と言っている最中、目の前にいるヤツがいかようなヤツか、脳が正しく認識した。
白い毛がもふもふ生えて、ぷにっと太った動物。
哺乳類である兎。
――焚火でこんがり焼けば、美味い肉が食えるのではなかろうか?
その考えが頭に浮かぶや否や、眼前の兎が食い物にしか見えなくなってきた。
俺は刀に手をかけ、若旦那に努めて優しい声音で話しかける。
「すまないな、これも食物連鎖の一環。自然の摂理ってもんだ。運が悪かったと思って、諦めてくれ」
鯉口を切り、いざ刀を振らんとした――その時。
「きゃっ、きゃきゃきゃ――!?」
どこかから、妙な甲高い声が聞こえてきた。……多分、人間のものじゃないだろう。
はてな、と思い声の方を見やる。
「いたぞっ、そこだ!」
「追え、追え、追えっ――!!」
ほどなく大人の男の声が聞こえてくる。何やら興奮した様子だ。
状況がなんとなく読めてきた。
これは……、止めに行った方がいいんだろうな。
放っておけと思わなくもないが、さすがに良心が咎めるし。
刀を鞘に戻しつつ、若旦那に笑みを投げかけ言った。
「運がよかったな、若旦那」
ヤツは相変わらず無言だったが、目をぱちくりさせて微かに首を傾げたように見えた。
「ああ、食わないよ。ちょっと今は、食事ってところじゃないからな」
今度は、首をちょっと縦に振ったようだった。
ふと好奇心が湧き、試しに訊いてみる。
「……もしかしてお前、俺の言葉がわかるのか?」
その返事を見届けようとしたが……。
「追いついたぜっ!」
「ははっ、手間ぁかけさせやがってッ!」
男達の声にはたと本来の目的を思い出す。
「すまないな、今は若旦那とゆっくり話してる時間は無さそうだ」
若旦那はまたも首を縦に振り、ぴょんと跳びはねた。
なんぞやと思ったが、ヤツはあろうことか俺の肩に乗ってきたのだ。
「お、おいおい。まさかついてくる気か?」
若旦那はもう意図的としか思えぬ感じで、己が頬を俺の顔に擦りつけてきた。
これはどうやら、本当に懐かれてしまったらしい。
「……ったく、仕方ないな。でも後で食われても、文句言うなよ?」
若旦那は初めて一度、「きゅぴっ」と鳴いた。
旦那と呼ぶには少々可愛らしい鳴き声だった。
戯れていたいのはやまやまだが、生憎今はのんびりしている暇はない。
俺は先程声のした方へとひた走った。
地を這う根を跳ねて避け、茂みを掻き分け、着いた先には……。
「うおっ、何者かと思ったら人間か」
「おっ、驚かすんじゃねえよっ!」
案の定の光景がそこにあった。
武装した成人男性が二人、刀を手に持っている。
地べたには赤々燃ゆる火に包まれた片輪が落ちていた。その中央にはまだ年端もいかないだろう男児の頭が一つ、収まっていた。
「……片輪車、か」
「へえ、あんちゃんよく知ってんなあ」
「んだ、妖怪だべ。見かけたから退治したろうと思ったんだべ」
そう言った男達の顔は、幼い子供が爆竹を手に鼠なんかを追いかけ回す時の表情によく似ていた。
「悪いことは言わないから、よしておいた方が賢明だぞ」
彼等は俺の言葉に、ぱちくり瞬きをする。
俺は頭を掻き――落ちたフケを被った若旦那が犬みたいに毛づくろいしだしていた――先を続けた。
「ええとだな。片輪車ってのは、意外と仲間意識が強いヤツ等なんだ。だからもしもお前等に守るものがあって、剣の腕にそこまで自信がないなら、手を出さない方がいい。もう手遅れかもしれないけどな」
「……んだと?」
「おいおい、妖怪の肩を持つ気べか?」
ケンカ腰で睨んでくる男達。
やれやれ、面倒なことになったな……と俺は空を仰ぐ。
「しゃらくせえ!」
「妖怪の味方なんざ、ここで叩き切ってやらぁっ!」
二人して同時に刀を構えて飛びかかってきた。
俺ははあと一つため息を吐き、腰の刀に手を伸ばし。
「……先に手を出してきたのは、お前等の方だからな?」
抜刀――一歩踏み込んで二人へと突っ込み、横薙ぎに刀を振るう。
斬ッ……確かな手応え。
そのままヤツ等の後方へと駆け抜ける。
「なっ……なっ、なん……だと?」
「まさか、そんな……」
背後から驚愕の声。
振り向き見やると、ヤツ等の手にしていた刀――その刀身が根元から断ち切られていた。
地面にはその白刃だったものが転がっている。
俺は刀の切っ先を男達に向けて訊いた。
「まだやるか?」
「ひっ……、じょ、冗談じゃねえ!」
「にっ、逃げんぞ! 妖怪人間に食われちまうッ!!」
男達は刀身を失った柄を放り出し、脱兎のごとく逃げ出していった。
当の兎である若旦那は、近くの草むらから男共をじっと見やっていた。
「きゃきゃ、きゃきゃきゃー!」
片輪車は解放されると知ると、男達とは反対の方へと飛び去った。
一件落着――なのだろう。周囲を見やっても、もう異変も脅威もなさそうだった。
刀を鞘に戻すなり、ふと一番の問題が片付いていなかったのを思い出した。
自身の腹がキュゥウウ……と切なげな音を鳴らす。
「……腹減った」
はあ、とため息一つ。
ぼうとした頭で、男達が逃走した方を見やる。
おそらくはその先に人里があるのだろう。
だが……あの男共に俺はやれ妖怪人間だの、バケモノだの吹き込まれているだろう。
果たして、物乞いして食べ物を恵んでもらえるものだろうか? そもそも話を聞いてくれるだろうか?
考えている間にも、また腹がキュルル……と鳴った。
「……まあ、なるようになるだろう」
俺は悩むことをやめ、のそのそと男達の後を追うように歩き出した。
すぐに若旦那がたったかと近づいてきて、俺の肩に跳び載ってきた。
……一応は小動物だが、なかなか重い。特に腹が減っている今は。
「なあ、ついてくるのは構わないが、せめて自分の足で歩いてくれないか?」
そう告げるも、若旦那は素知らぬ顔で肩の上で丸くなっていた。
はあ……とまた我知らず、ため息が零れた。