3.怪士の面、陰陽事変
処刑執行人のような靴音が、闇に重々しく響く。
斧のようにギターを担いだ漆黒のゴスパンク少女、ジュリアが眉間にシワを寄せ、1歩前に出た。
狼が羊の首へ食らいつくような、殺気走った瞳に怪士の面が映る。エレナはその姿に大きく目を見開き、溶けるように涙を流した。
(ジュリア……!)
全く臆することの無いジュリアが、どれほど大きく見えただろう。あふれ出るジュリアの殺気が、塗りつぶすような不安を一瞬で打ち消したのだ。
一方、怪士の面は愕然とジュリアを見た。どういうわけか、ナイフを首筋にでも当てられたかのように硬直し、落ちるように腰を抜かす。笛のような甲高い悲鳴まま子犬のように震え上がり、幻覚を否定するように首を振った。
「ま、禍つ者……」
怪士の面のその声に、ジュリアはかまわずエレナを見た。鼻血を流すエレナの姿に、ジュリアの両目が大きく見開く。はらわたが慄えるような烈しい怒りに、体中の血液が逆流するほどの殺意が沸き上がった。猫の威嚇のように髪を逆立て、怪士の面を睨みつける。
「……私の友達に何するのよ!」
同時、轟音にも似た咆哮が響きあがった。エレナは一瞬、何が起きたかわからなかった。猫の威嚇に似た咆哮は地響きとなり、屋敷を大きく揺らし始める。立つこともままならないエレナが見たのは、ジュリアの影から伸びた真っ黒の巨大な影だった。
巨大な影かまわず、ジュリアは矢のように飛びかかった。振りかぶったギターが怪士の面にストライクをかまし、さらに胴、腰、足を叩き潰す。イチヂクを叩き付けるような、水っぽい音が矢継ぎ早に飛んだ。
次の一撃、こめかみにホームランをくらった怪士の面が大きくひび割れる。
絶叫と共に噴水のように吹き出た血しぶきが、地面に鮮やかな赤を残した。ぼろきれのような怪士の面は、狂ったような悲鳴をあげていた。純粋な恐怖に染まりきったその声は、地獄に叩き落された罪人のそれだ。
ジュリアは恐ろしい事に真顔だが、微塵の躊躇もない殺意にエレナは思わず後ずさった。最初こそ、鬼に金棒の気持ちだった。しかし今、どんな映画の悪役も演じきれない闇が目の前で牙を剥いている。エレナは本能から、足が震えるのを感じていた。そして確信した。昼間まで楽しく過ごしていたジュリアは、あの〔北条ジュリア〕なのだと。
家族をエイリアンに殺され、その復讐のためだけに生きてきた闇が、ただ快楽にほくそ笑んでいた怪士の面を容赦なく塗りつぶす。怪士の面は逃げては叩き潰され、這い上がれば殴り潰されを繰り返し、原形をとどめなくなっていた。
ジュリアは怪士の面を遠慮なく蹴り飛ばして仰向けにし、仮面を剥ぎ取った。そして、静かに舌を打つ。
「……こいつじゃない」
ジュリアのその声に応えるように、怪士の面はたちまち水分が抜け、干物になったかと思えば粉となり消えた。
ジュリアの手から離れた仮面が、弧を描いたお椀のようにぐわらぐわらと転がり落ちる。ジュリアは軽い溜息一つ、エレナに駆け寄った。袖で涙で濡れた頬を拭って、鼻血を拭いてやる。
「大丈夫?」
ジュリアの優しさにエレナは熱い涙があふれた。玉のような雫をはじくように、ジュリアが軽く頬を叩いてやる。その時、ごうんと地響き一つ。屋敷はジュリアの突撃から、じわじわと音を立てて崩れようとしている。ジュリアは顔をあげた。
「とっとと霊符を貼りましょ。もうここに用はないわ」
頷いたエレナが霊符をかかげた、その時だった。仮面の縁が黒くなったと思えば、湧き出るように髪が生えたのだ。
「えっ」
ぎょっとする間もなく、仮面は滑るように走り出す。そのスピードはゴキブリさながらで、エレナが思わず悲鳴を上げた。仮面が本体なのだと悟った時すでに遅し、間髪入れず仮面がジュリアに飛びかかる。
(しまった! ジュリア!!)
ジュリアが背のギターに手をかけた瞬間、仮面は無重力に放り込まれたかのように、宙をくるくると回った。あっけに見る2人の目の前で、仮面は勢いをなくして静止する。
それを手に乗せるように現れたのは、着物の少女だった。構えるジュリアをエレナが手で制止する。着物の少女は、ふわりと煙をたなびかせ、目覚めるように顔を上げた。
「おおきになあ。これは私が抑えとくから、あんたが貼ってや」
仮面がずいと差し出され、エレナが大きく頷く。地震のような振動は地面を揺らしていた、屋敷が大きく傾きはじめ、溢れた物は雪崩のごとく、おちる破片は火山灰のようだ。
仮面に霊符を貼った瞬間、仮面は怪鳥のような絶叫を上げた。世界がパッと真っ黒になり、すかした手が空をかく。まるで宇宙のようにくるくる回るエレナは、摩訶不思議な世界とはいえ、現実世界ではありえない状況に内心パニックになっていた。そんな闇で声が響く。着物の少女の声だ。
「ここはお大臣さんが銭に飽かせて蠱術師にこしらえさせた人蠱や……」
くるくる回っているせいか、着物の少女の声はうんと遠く、同時に近くにきこえた。
「……そこにえらい恐ろしいもんが入った思うたら、まだ子供やないか。嬢さん、あんたはここよりも恐ろしい禍つ者や。せやからここは壊れた。私にはあんたが闇そのものに見える。何千、何万そうして生きてきたんや……」
着物の少女の声がうんと遠くなる。やがて、形容しがたいふわふわな地面に足がついた。まるで海の底のようだった。
「ようやっと捕らえたぞ、怪士の面」
どこからともなく響く男の声に、ふとあたりが明るくなる。
かがむエレナは、あたりが金色の光に包まれていることに驚き、光の元を見た。
そこには、金色に光る直衣姿の京が佇んでいた。京は着物の少女のように、金糸がほつれてはもどりして輪郭を保っている。チラリと見えた横顔は、穏やかな笑みをたたえていた。京が妖しくも穏やかに告げる。
「われの手が届かぬとでも思うたか。この境が黄泉へと送り届けてくれよう」
不敵な笑みだった。京は2本指を口元に当て、仰々しく囁く。
「……導妖迦天尊」
京の指の隙間から、花びらがふきだした。花びらはたちまち炎に変わり、闇に紛れた怪士の面を包み込む。
怪士の面は断末魔をあげながら炎をまき散らした。まるでCGの炎に包まれているような感覚に、エレナとジュリアは呆然と見ていることしかできなかった。エレナ達は知る由も無いが、京が出したこの炎はあの世の火、妖火なのだ。錯乱した怪士の面が空を逃げ惑う。もはやエレナもジュリアも眼中になく、その命乞いはすすり泣きに変わっていた。
「去ねい、あさましき鬼よ」
京が告げ、胸元から形代を抜く。吐息で飛んだ形代は、たちまち金色の巨大な獣に変化した。一見は狐だが、大きく裂けた口の下に、裂けたような目がある。そして何より、おぞましいほど禍々しかった。
その金の獣は、虫けらでも見るように怪士の面を睨み落とす。裂けた口がさらに大きく裂け、あまりにも鮮やかな血色の口が開かれた。
まるで風呂の栓を抜いたかのようだった。ブラックホールを彷彿とさせる口は、たちまち全てを飲み込む。怪士の面の叫びが遠く消え、飲み込まれていく。やがて金の獣は静かに口を閉じた。悠々と舌なめずりした金の獣は、弧を描くようにひとつ飛び、まるで扇子を閉じたかのようにぷつりと消える。
そうして、静寂が肌を撫でた。残されたのはエレナ達と京、あとはただ暗黒だけ。金色に輝く京だけがたよりだった。
ジュリアはふと、自分が巨大な黒い手に包まれていることに気付いた。巨大な黒い手は愛しそうにジュリアの頬を指でなで、また優しく包み込む。巨大な手は猫の毛のように柔らかく、馴染みのあるにおいがした。ジュリアは気抜けに身をまかせ、静かに目を閉じる。屋敷が消えてから、なんだか麻酔でも打たれたかのような睡魔に襲われていたのだ。
そして、それはエレナも同じだった。熱くも冷たくもない地面が心地よかった。マツゲのむこうで、淡く光る着物少女と京が、懐かし気に手を結んでいる。
「お琴……遅くなってしまったな。すまなかった」
京の声にお琴が微笑み、泡のようにゆっくりと空へと還っていく。見上げる京はどこか寂しげでもあれば、諦めたかのような背にも見えた。
気付けば、蛍のような光の粒がちらちらと舞っていた。視線をやると、地に伏せた鉄の扉の隙間から、光の粒が溢れていた。それがこれまで喰われた魂なのだと、エレナは漠然と確信する。蛍にも似た光の粒は、次々舞っては空へと消えていく。まるで春の妖精のような、あたたかな光だった。
(おわったのね、みんな……)
エレナは睡魔に頭が落ち、昇るように意識を手放したのだった。