2.迷い家、幽霊屋敷
ジュリアを待つことしばらく。一向に動きはなかった。まるで時間が止まったかのようだ。
気を揉んだエレナは、恐々と、ぽっかりと暗闇の口を開けた幽霊屋敷に足を踏み入れていた。
(京は、屋敷に入ったら声を出したり返事をしちゃいけないっていってたわね……)
エレナはしっかりと口にチャックをし、右手の霊符をお守りのように抱く。
(このお札を、ゴーストに貼るだけ、すぐ終わる……すぐ終わるわ。そしたらジュリアのお腹が治るもの)
外は暗いが、中はいっそう暗い。まるで墨で塗りたくられたかのようだった。古い日本家屋らしく、木でできた家具や棚で狭い通路ができていた。古いレコードや蓄音機を横目、やや広めの台所に出る。床は石畳でできていて、分厚いまな板やザル籠が静かに伏せられていた。
あたりを見渡すと、ここから各部屋に繋がっていることがわかる。段差あがってすぐの和室、廊下奥に部屋が2つ。掘りごたつのある茶の間に、空っぽの食材保管庫。そして最後に、台所わきの、硬く閉ざされた大きな鉄の扉。
……鉄の扉は以外は、なんてことないただの家だ。
とはいえ、物にはあふれていた。統一性はなく、あちこちに狸の置物や、巻物、玩具や雑貨だのが乱雑に置かれてある。いずれも古い物だったが、エレナはそのうちの1つに目をひかれた。
ノートだ。
学校で使うような普通のノートが1冊、和室に落ちていた。そばには昔からよくあるタイプのボールペンが転がっている。エレナは手に取り、そっと開いてみた。
〔19XX年。この記事を誰かが発見してくれることを願う〕
かなり震えた走り書きだ。
(19XX年……今から10年以上も昔だわ)
エレナは先を目で追う。
〔実験は失敗だった。日本の神社から盗んだあの【怪士の面】は、最新技術を駆使しても制御できなかった。形成力体が時空に歪みを作り、この屋敷に飛ばされた。ドアも窓もびくともしない。完全に閉じ込められた。〕
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〔ここはずっと夜のようだ。時計の針も動かない。物音ひとつしない。喉が渇いた。腹が空いた〕
しばらく、食物の捜索と出口探索が続く。さらにページをめくる。
〔空腹で幻聴や幻覚がひどい、【怪士の面】が語りかけてくる……これに手を出すべきじゃなかった。だれか助けてくれ、こんなところで死にたくはない。上はおれをさがしてくれているだろうか〕
次のページをめくる。
〔 てつの とびらが あいた 〕
夢遊病者が書き殴ったかのような文字。そこで走り書きは終わっていた。この書き込み主はどこへ消えたのだろう。推測するに鉄の扉の向こうなのだろうか?
エレナはノートを置き、鉄の扉の前に出た。鉄の扉はびくともしない。耳を当てても音も無い。
そこでエレナは気付いた。どういうわけか、冷たさを感じないのだ。まるで夢の中にいる感覚に似ていた。
とりあえず一旦外に出ようとして仰天した。いつ閉まったのだろう、玄関は硬く閉ざされている。
(うそっ誰もいなかったのに、どうして!?)
ややパニックに玄関を掴むも、微塵も動かない。奮闘することしばらく、エレナはその場に座り込む他なかった。なんだか泣きそうだった。大人しくジュリアを待っていればよかったとしきり後悔していた、その時だった。
「あんたも迷たか……」
その幼い声にエレナは心臓を鷲掴みされた気分で顔を上げた。浅黄色の着物を着た、12~14歳ほどのおかっぱがエレナを見下ろしている。
(まさか、鬼!?)
エレナがよろめきつつ、霊符を抜いた。着物の少女はかまわず、滑るように移動しエレナの霊符に触れる。エレナはぎょっとした。着物の少女には足がなかったのだ。
声なき悲鳴を飲み込み、エレナは一歩飛びのいた。着物の少女は呆然と霊符をみつめ、今にも泣き出しそうに両手で口をふせる。
「……その護符、ぼんの……? まことか? ……あのぼんが……」
エレナははたと、まばたきひとつ。着物の少女を頭のてっぺんから足の先(といっても膝下はなかったが)を見た。
着物の少女はいかにもな幽霊だった。暗い青色の輪郭は煙のように常に湧き出し、人の形を保っている。目や口は穴が空いたように落ち窪み、全体の煙を吸い込んでいるようだった。
(ぼんって、京のことかな? この札を書いてくれたのは京だし……)
着物の少女は祈るように目を閉じ、誓うようにエレナを見た。
「……その護符……あんたはぼん、いや……京に言付けられ、鬼を封じにきた。相違ないな?」
★
そこからは話が早かった。着物の少女がふと消え、和室でゆっくり手招きをする。いかにも幽霊なそれはちょっと怖かったものの、ラエティーシャの時同様、話が通じるというのは生命の壁をも越えるのを実感した。
和室に腰掛けたエレナの前に、着物の少女が先ほどのノートをめくる。
「白いのは、鉄の扉と共に突如闇から湧いて出たんや。事あろうに怪士の面を持っとった。あの怪士の面は、歴代の蠱主が被っとったもんや。人を共食いさせ、その念で呪術を行ってきた術師の面よ」
白いの、とはおそらく白いスーツ男のことだろう。頷くエレナに着物の少女が続ける。
「白いのは、そんな厄介な代物を持ってきおったんじゃ。ここ、迷い家は一気に穢れてしもた……。怪士の面は人を迷い込ませ、ここを新たな人蟲にした。餓えた白いのは、怪士の面が呼び寄せた人を喰い続け……やがて気が違ってしもうたんや」
ひやりとした何かが背を伝うようだった。エレナがぞっと身震いする。
(白いスーツ男は10年以上も、ここでずっと人間を食べていたの……?!)
驚くエレナをちらりと見、着物の少女はノートを閉じた。
「……怪士の面はその汚穢だけでは飽きたらず、数多もの魂を呼び喰らい、坩堝となってしもた。漏れた瘴気はあらゆる病を生む。このままでは大八島国はおろか、いずれ現世の均衡が崩れてまう」
その言葉にエレナは息を飲んだ。要するに鬼を退治しないと世界がピンチだというのだ。【戦慄!エイリアン地獄~恐怖の襲来~】が頭をよぎる。あれも似たような話だったが、映画とリアルでは意味合いも変わる。
着物の少女は諦めるように俯いた。
「わしはもうあの白いのを恨んでない。恨むことにも疲れた。……どうかあの白いのを止めてやっとくれ……。怪士の面を、壊してくれ」
エレナは言葉に詰まった。武器といえばぺらぺらの霊符1枚ぽっち。強制カニバリズムで狂った男と戦うなんて映画じゃあるまいし、一介の女子高生にはまず無理な話だ。
「あれは鉄の扉の向こうにおる。これ以上穢れるとわしも鬼になってしまう。どうか、ぼんの遣いよ、どうか……」
その瞬間、着物の少女が掻き消えた。
水を打ったかのように静まりかえった空気に、針を刺したかのような微かな音が通る。エレナは驚きまま振り返り、鉄の扉を見た。……扉が、かすかに動いたのだ。
(鉄の扉のむこうに、何かいる……)
とたん、静寂を叩き割ったような誰かの絶叫が響いた。血に溺れるような声色だった。錆まみれの鉄の扉がわずかに動き、トマトを潰したような音と共に、血が吹き出す。エレナは冷水をぶっかけられたかのように強ばり、逃げることも隠れることもできなかった。肉を叩くような音と咀嚼音、搾り出すような声だけが響く。……そしてまた、静寂。
気味が悪いほどの静寂に全神経が痺れる。粟粒みたいな汗が身体中に吹き出る。心臓が痛いほど撥ね、恐怖に強ばった体は金縛りのように動かない。鉄の扉から漏れた血に目が離せなかった。てらつく血は、ゆっくりと石畳にひろがってゆく。頃合いをみたかのように、鉄の扉が開いた。
ゆっくりと中から現れたのは、かつては白だったであろうスーツを赤黒く染めた、仮面男だった。十中八九、あの仮面が【怪士の面】だろう。その見開かれた黒い目は、闇の中から射抜くような生黒い怨恨を孕んでいた。食いしばった歯の隙間から、血をしたたらせた髪の毛が数本飛び出している。
(あれが……あの面が、鬼……)
そして、スーツ男。
スーツ男は奇妙にも操り人形のような、地に足つかぬ動きだ。その手にはペンキのように真っ赤な臓物が握られている。トマトを啜ったかのような水っぽい音をたてながら、仮面男は台所に立つ。ほんの数メートル先にエレナがいるにも関わらず、気付く様子は一切なかった。
「おかしいのう、おかしいのう……何やら気配がしたのだが」
エレナはその様子に驚いた。仮面男から声が漏れるも、奥からのぞく口は閉ざされている。仮面自体が、喋っているのだ。怪士の面は、手元の臓物を肉まんのように口に詰め込む。それに応えるように、スーツ男が租借した。貪りながら、激しい身振りであたりを舐めるように見渡す。
「そこかぁ喰ろてやろか……どこじゃあ、喰ろてやろうぞぉ……」
仮面男が部屋に飛び込み、飛び出す。また別の部屋に飛び込み、踊るように飛び出す。その度に血が地面を濡らした。エレナは失禁できるものならしていただろう、石のように強ばる体が大きく震える。
「ここかぁ!」
エレナが腰掛ける和室に、仮面男がびゅうと飛び込んだ。エレナは思わず悲鳴を漏らす。その声にぴたりと止まった仮面男が、ゆっくりとエレナに振り返った。
「おや、気付かなんだ。もう1人おったとは」
その瞬間だった。胸元のレンズが一瞬、カメラのフラッシュのような閃光を放つ。それに目覚めたエレナは、弾かれたように飛び出した。
玄関は閉まってる。残る逃げ道はひとつ、鉄の扉の向こう側のみだ。血で滑る足元にバランスを崩しながらも、エレナは鉄の扉に飛びついた。しかし取っ手を引くも、固く口を閉ざした鉄の扉は動かない。同時、真後ろで耳が割れるほどの笑い声が響き、エレナの髪が鷲掴まれた。
〔楽しやぁ、楽しやぁ〕
ぶうんと後ろに放り投げられ、エレナは食器棚に大激突した。痛みはないが、恐怖が心を塗りつぶす。這う這うの体で逃げ回るエレナを見下ろした怪士の面は、いたずら小僧のように笑い含めた。どう嬲り殺してやろうか、そんな声だ。
「いや……いやあ、ジュリア!」
エレナの悲痛な叫びは、屋敷に静かにこだました。
風もないのに、水中のように波打つ木々。
ジュリアは墨のように黒い芝生からがばと起きた。水中に漂うかのような感覚に、到着したのだと理解する。しかし周囲にはゲームのバグのように真っ黒で、薄紫の空だけが切り取ったように見下ろしている。
いつの間についてきたのか、膝のチビが「ヂィ」と鳴く。ジュリアの膝からころんと落ちたチビは、ジュリアの制止かまわず暗闇へ駆けて行った。ジュリアが転がるように後に続く。
やがて真っ黒な森がそぞろに途切れ、木造平屋の大屋敷が現れた。同時、かすかな声……エレナの悲鳴が聞こえる。
その懇願にも似た悲痛な叫びに、ジュリアは全身の毛が逆立ったかのような感覚になった。応えるようにチビが威嚇する。ジュリアは弾けたように玄関に飛びつき、玄関に手をかけようとして空を掻いた。
まるで絵のように掴めぬ玄関かまわず、ジュリアは背のギターを構え、全力で大きく振りかぶる。エレナが怖い思いをしていると思うと、矢も盾もたまらなかった。
「やーっ!」
エレナはうわずった悲鳴しか出なかった。馬乗りになった怪士の面に全力で抵抗するも、怪士の面はむしろエレナ抵抗を舐めるように眺めている。くつくつ喉を鳴らし、戯れるように頬を貼り飛ばす。
その手の鉈は、いつでも命を奪えることを示していた。
エレナは奥歯を噛んだ。怖かったが、悔しかった。ただただ悔しかった。自分はどうしてこんなに無力なのかと。自分がもっと強ければ、ジュリアのように制裁を食らわす事ができるのにと。
エレナが歯を食いしばった、その瞬間だった。落雷のような爆音が大きく響きわたる。
ぶち破られた玄関から、風がびゅうと流れ込み、怪士の面は紙のように吹っ飛んだ。吹き抜けるような風がエレナの髪を揺らす。怪士の面は投げつけられたかのごとく天井にぶつかり、肉塊のように石畳に落ちた。
爆音の主を見上げた怪士の面は、とたん女のような金切り声をあげて転がり逃げた。逃げ惑った先、台所の隅から爆音の主を見る。
爆音の主は、地獄を切り抜いたかのような闇をまとっていた。