4.サムソン・ハワード
「ぶっ殺してやる、あのクソ女め……」
まるで呪いの呪文のように、ミリアムは何度もつぶやいていた。人目をさけ、スラムのトンネルの暗闇に身をひそめたミリアムは、ありとあらゆる憎悪と殺意を巡らせた。上着のポケットから高い葉巻を取り出し、火をつける。
虹のレンズの光をあびた顔の腐敗はますます度を増していた。葉巻を咥えようにも、溶けた唇はそれを拒否している。溶けた肉と共に葉巻が地面に落ちた。ミリアムは顔に触れた。指先が ぷつりと頬にささり、もうひとつ口を作る。
「……チク、ヒョウ……」
やがてミリアムは言葉さえ出せなくなっていた。荒い呼吸が浅くなり、途切れ始める。初めて死を意識した、その時だった。
「誰かいるのか?!」
トンネルの入口で、若い男の声がした。ミリアムがギョロリと目をやると、数m先に男がひとり、トンネルの中をのぞいていた。
幸いこちらには気付いていない。ミリアムは狂喜した。……チャンスだ、と。
男ハンスは真っ暗なトンネルの中に入った。
「エレナ? ゴハン? いたら返事をしてくれ!」
その言葉にミリアムが刮目した。
エレナ……エレナ、ああ、エレナ!
北条ジュリアが吠えていた名前だ。合点に応えるように、心臓が大きく鼓動した。
ハンスの声は空しく反響した。外とは違い、トンネルの中の空気は湿っぽかった。そして胸が悪くなるような、こもった臭気が漂っている。まるで浮浪者の吐息のような、とにかく嫌な臭いだった。その臭いに顔をしかめたハンスは、一歩さがり、踵を返す。
その瞬間、薄っぺらい手がハンスの顔を覆い、抱きすくめた。悲鳴をあげる間もなく、後ろ向きに倒れたハンスの鼻に、つんとくる異臭がさす。
「この体はもう使い物にならねぇ」
その人ならざるものの声にハンスは悲鳴をあげ、もがき叫んだがミリアムは獲物を逃すことは無かった。ハンスの背中で、ミリアムの体は痙攣し、唸り声がトンネルにこだまする。ミリアムの頭が卵のように割れ、腐肉と血の臭いが充満した。
頭の割れ目が兎の鼻のように痙攣した瞬間、中から無数の目玉や口のついたゼリーが抜け出る。顔をのけぞらされたハンスは、ミリアムの指の隙間からその光景を見た。ゼリーと目が合い、鳥肌がたったが目を離す事ができない。
無理矢理開かれたハンスの口に、それは一気に流れ込んだ。苦痛に顔を歪ませ足をばたつかせ、吐き出そうと懸命に叫んだが、無駄に終わった。喉の奥が無理やりこじ開けられ、口いっぱいに流れ込むゼリーが肺で暴れだす。
同時、うなじの奥深くに何かが刺さった感覚があった。そこから冷たい何かが脳に広がる感覚に、ハンスは狂ったように暴れ出す。
ミリアムは歌うように、暴れるハンスの耳元でささやいた。
「お前の体はもらった」
ハンスの鼻や耳から血が溢れ、あちこちにバタつく足は痙攣に変わり、やがて動かなくなった。トンネルの反響が消え、静寂につつまれる頃……ハンスはゆっくりと起き上がった。
地面に倒れたままのミリアムの死体を傍観し、彼の上着から葉巻を取り出す。トンネルから出たハンスは、夜の街の明るみに目を細め、眩し気に手をかざす。肩越しに振り返り、ミリアムの死体を見落とした。
「運が良かったなァ、クソガキ。礼にお前の体、この俺が有効に使ってやる」
ハンスもとい今はミリアムの口から、下品な笑い声がもれたのだった。
★
時計の針が21時を過ぎる頃。もしかして重篤な状態なのではないのだろうか、とエレナは気を揉み、野良犬のように診察室前を行ったり来たりしていた。30回目を折り返した時だった。天井の丸型スピーカーに声が入る。
『北条ジュリアさんの付き添いの方は、1番診察室へお入りください。繰り返します……』
その放送にエレナは食いつくように、1番診察室のドアを開けたのだった。
診察室は青い遮光カーテンはきっちり下ろされ、木製の綺麗な机に、最新であろうパソコンが光っていた。パソコンの傍らに、大きな革張りの上等な椅子が構えてある。そこに悠々と手を組み、ゆったりとした姿勢で医師が深く腰をおろしていた。
「どうぞ、そこに掛けて」
医師は見たところ、パンと同じほどの年齢だろうか。海色の綺麗な碧眼、セミロングのプラチナブロンドが印象的だった。パンほどではないが、眼鏡の似合うなかなかの色男だ。決してモヤシ体系ではなく、筋肉の目立つバランスのいいスタイルをしている。医者でこれは相当モテるだろうとエレナは頭半分関心した。
胸元に輝く名札には〔サムソン・ハワード〕という名前と、〔院長〕という称号が綺麗に印刷されてある。エレナはそばの丸椅子に尻を置き、サムソン院長の言葉を待った。
「えー、北条ジュリアさんは……いつもの発作だね」
文字いっぱいのパソコンを打ちながら、やわらかな口調で簡単な説明がはじまる。
ジュリアの腹痛は心因性で、ストレスが原因だということ。今回もその発作で、痛み止めを処方したとの話だった。その経緯を聞く限り、サムソン院長はジュリアの完治を目指し、日々身を粉にしているようだった。
話をひととおり終え、サムソン院長はエレナに向き直った。
「何か質問は?」
無事なことがわかって安堵したエレナは、首を横に振った。
「大事がなくて本当によかったです、ありがとうございます」
サムソン院長はそれに軽く頷き、エレナを一瞥する。
「……失礼だけど、ジュリアちゃんとはどういった関係かな?」
「友達です」とエレナはしっかり受け答える。それにサムソン院長は穏やかに微笑んだ。
「よかった。これからも仲良くしてあげてね」
まるでジュリアの肉親のような口ぶりに、エレナは安堵に頷いたのだった。
…
ジュリアの個室は、他の病室とはまったく離れた場所にあった。最上階の、院長室の隣にあったのだ。床は病棟とは違い、毛短の硬めの絨毯が敷かれてある。それぞれのドアは病室のそれではなく、滑らかな木で成功な彫り物が施されてあった。
(一般病室とは全然違う場所ね。どうしてジュリアだけ特別な個室なのかな?)
エレナはぼんやり考えつつ、奥へと進んだのだった。
およそ病室とは言いがたい、長く大きなドアをノックする。ドアの向こうから、「どうぞ」とジュリアの小さな声が返った。
個室は、事務机や棚がおざなりに置かれた、がらんとした空間だった。大きなベッドのへりで1人、ジュリアがちんまりと座っている。
両腕から伸びたコードがスパゲッティのようだ。エレナに軽く手を上げたジュリアは、そばの椅子に促した。
「もう起きて大丈夫なの?」とエレナ。
ジュリアはどうということなく頷いた。
「よくあるの。気を遣わせたわね」
それにエレナはやっと大きな息をついた。
ジュリアに訊きたいことは山ほどあった。しかし踏み込む以前に、ジュリアのことをほとんど知らない事実に言葉を飲む。そうとも、まだ何も知らないのだ。
ベッドに座るジュリアは可憐で弱々しく、今にも吹き飛んでしまいそうだ。エレナは自分の世界の狭さに、膝上の拳を固くにぎる。ジュリアはこの小さな体で、どれほどの闇を抱えてきたのだろうかと。
「さっき主治医さんとお話をしたの。優しそうな人ね」
エレナのそれとない言葉に、ジュリアがぱっと顔を上げた。
「ええ。身寄りのない私の後見人になってくれて、子どもの頃からお世話になってるのよ」
「そうなんだ。これからも仲良くしてあげてね、だって。ジュリアのこと、とても大切に思ってるのが伝わったわ」
エレナの感心に、ジュリアは饒舌に返す。
「子どものころは参観日とか、学校行事にも必ず来てくれてたの。時間が合えば、勉強を教えてくれたり、買い物に行ったり、映画を観たり……」
患者と医者の関係性というのは、健康丈夫で医者要らずのエレナにはよくわからなかった。だけどジュリアの親身な存在に、エレナはなんだか嬉しくなった。それは、安堵にも似た気持ちだった。
「とても素敵ね!」とエレナ。
「ええ。お泊りできる日は一緒にお風呂に入ってくれるし、こわい夢をみた時は一緒に眠ってくれるの」
嬉しげなジュリアにエレナはまばたきひとつ。ジュリアは耳までほんのりと桃色だ。ジュリアの堰を切ったトークは止まらない。
「学園でトラブルがあった時の対応や示談金とかも全部面倒をみてくれて……。夜景が綺麗なビルの上で肩車してくれたりもしたの。誕生日は毎年、先生のお家でお祝いしてくれるのよ。私の手をとって、〔悲しい日だろうけど、君が生きてくれてる事が嬉しい〕って」
さすがのエレナもその関係に十分違和感を感じた。同時、あの鉄仮面なジュリアが嬉しそうに頬を染め、やたらと口数が増えたことに驚いた。
ジュリアの甘い〔先生ラブコール〕は留まるところを知らず、その間エレナの脳内には〔ロリコン〕の4文字が全力で転がりまわっていた。
ジュリアは小柄で、大きめにみても小学校ほどの容姿をしている。比べ、あの主治医サムソン先生はどうみても30近い、いい大人だ。はたから見れば親子だろうに、ビジュアル的に色々とやばいのではないのだろうかと。
「……ジュリアは本当にサムソン先生が大好きなのね」とエレナ。
とたん驚きエレナを見るジュリアが、タコのように真っ赤になった。
「えっ……えっそんな、うそ……」
ジュリアの言葉尻が消え、両手で顔を隠しうつむく。ベッドの中で遊ばせていた足がこらえなく動き、力つきたように固まった。
しばらく沈黙があった。ジュリアが顔を上げると、緩んでいた顔はすっかりいつもの冷静さを取り戻していた。
「……、別に、普通よ」
気取った口調で言い切るものの、頬の赤さがすべてを物語る。ジュリアがパンにまったくなびかなかったわけをエレナは理解した。ジュリアはサムソン先生に恋をしているのだ。
ジュリアが話を切り替えるように咳払いひとつ。
「それよりエレナ、あの2人には気をつけなさい。何か裏があるわ。いつも通りでいい、でも心では冷静に見て」
エレナはそれに改めて頷いたのだった。
その時、ノックが響いた。ドアが静かに開けられる。エレナはその姿に驚きに声をあげた。
「パン!」
パンはパン先生の格好のままだった。エレナを見るや重いため息をひとつ。そのまま携帯を開き、踵を返して部屋を出た。どうやら廊下で電話をしているようだ。ジュリアとエレナが何事かと目を合わせる。
ジュリアが慣れた手つきでコードを外す。そしてそそとドアを開け、首を外に突っ込んだ。突っ込んでしばらく、今度はひっこめてエレナを見た。ジュリアにはめずらしく、苦虫を噛み潰したような、何とも複雑そうな表情だ。
「えっ……何??」とエレナ。
ジュリアはひとつ咳払いし、エレナに告げた。
「……マリア叔母さんに連絡は?」
空気が一瞬固まり、エレナはゾンビのように時計を見た。針は22時をとうに過ぎている。静かな街にエレナの絶叫がこだました……わけはなく、エレナはそのままベッドに仰向けにぶっ倒れたのだった。
★
聖イルミナ医院を出たところで、先に出ていたパンが車を前につけた。
相変わらず、素人目にもなんとも高級そうな車だ。エレナは促されるまま助手席に乗り、レザーシートに背を預けた。車が滑るように走り出す。
月が輝く、洗いたての綺麗な夜だった。外の世界を断ったように静かな車内は、ほんのりとパンの香水がかおる。
澄み渡る夜空とうってかわって、エレナの心は曇天一色だった。
マリア叔母さんの叱責は免れない。もし駆けつけたマリア叔母さんに、MIBと同棲しているのがばれたらと思うと、今にも胃がひっくり返りそうだった。
エレナの様子を横目見たパンは、何の気なしに応えた。
「大丈夫だ、堂々と帰宅すればいい。マリア叔母さん側にも上手く話をつけておいた」
マリア叔母さんを納得させる内容がさっぱり頭に浮かばない状況で、エレナが目覚めたように顔を上げる。
「えっどうやって?!」
「私達は情報操作に特化したグループだ、造作もないさ。君は今夜、隣町のドーナツ店でドーナツチャレンジに夢中だった事になっている」
言って、懐から取り出した写真を見せた。エレナがドーナツをおいしそうに頬張っている写真だ。
「えっ……私ドーナツ店なんて行ってないし、こんなチャレンジもしたことないわ」
写真はCG臭さは一切ない、どう見ても実写だった。他にも数枚、街をのんびり散歩している写真まであった。
パンはぽかんと口を開けるエレナをちらりと見る。
「マリア叔母さんに言付けられ様子を見に来たミシェル・ダルシャンに、君はドーナツとお茶を振る舞い、笑顔で帰宅させた。……いいな?」
エレナは大困惑に首を振った。まったくもって理解できなかった。家に帰ってもいないのに、ミシェルにドーナツをふるまった事実に愕然とする。
「えええ……本当、何をしたの? どういうこと……!?」
「そういうことだ」
パンは答えにならない応えを当然のごとく返す。
「しかし、さすがに時間的に骨が折れた。明日からは上手く話を合わすように」
エレナはただ、頷くしかなかった。ドーナツは確かに好物だったが、それはミシェルしか知らない情報だ。心臓がドキリとした。
〔それよりエレナ、あの2人には気をつけなさい。何か裏があるわ。いつも通りでいい、でも心では冷静に見て〕
ジュリアのセリフが、警笛のように頭を巡ったのだった。
…
帰宅するやいなや目に飛び込んだのは、リビングにファストフードを広げているゴハンだった。
「お帰り! お疲れさん、腹減ってない? じゃーん、ナクドナルド買ってきたぜ! 皆で食べよ」
この人懐っこい笑顔に裏があるなんて信じられなかった。信じたくなかったのかもしれない。
エレナはゴハンに心ここにあらずに返した。
「……ごめん、食欲があまりなくて」
「あら~、そりゃ残念。じゃ俺たちが食っちゃうね」
ゴハンはちっとも残念がらずに、エレナの分をパンと分け始める。
「ファストフードか……」
パンが残念そうに呟き、渋々と照り焼きナックバーガーの包みを開く。
「スラムはどうだった」
「ああ、案の定だったよ」
ゴハンも包みをガサつかせ、大口開けて頬張る。「ジュリアに絡んでたミリアムとビッグメンは、エキゾチックだった」
エレナはレンズで見たミリアムを思い出していた。
「ねえゴハン、エキゾチックってなに?」
ガッツリ話を聞く体制のパンとエレナに、ゴハンは「ちょっと待って」と咀嚼に集中した。
パンが包み紙を丁寧に畳みつつ、エレナに振る。
「エキゾチックは不定形流動型エイリアンの事だ。白いスライムのようなエイリアンで、有機体に寄生する」
エレナはうんうん頷いた。ユーキタイがなにかはさておいて、ミリアム達はエキゾチックというエイリアンなのか~、と。
パンは流れるように続けた。
「現在の分類学によるおよそ30余りの寄生分類動物門の系統上、分子系統分析ではエキゾチックは中生・類線形・鉤頭・舌形の種を主に寄生タイプとして……」
エレナが素早く〔待った!〕の手をかざす。
「待ってパン! そこまでで十分よ。よくわかったわ、ありがとう」
パンは軽く頷き、ポテトをつまんだ。エレナは深呼吸ひとつ。パンは本当に生真面目だなあと感じていた。ゴハンと違って慎重派というか、不思議な真逆さを感じたのだった。
ゴハンがドリンクを一口、コップをデスクに置いた。
「橋の上でビッグメンは死んでた。ミリアムは、スラム付近のトンネルで遺体が発見されたんだよ」
その言葉にエレナが立ち上がる。
「うそっ私レンズの光で殺しちゃったの……?!」
自分を食おうとしたビッグメンは覚悟できていたが、ミリアムは軽症だと思っていた。悪人とはいえ手を血に染めた事に、背に汗が流れる。
エレナの言葉に、ゴハンはしっかりと首を横に振った。エレナは呆然とソファに腰を落とす。ゴハンはそれを確認してからまた続けた。
「ミリアムの遺体には寄生痕があったから……ミリアムはあの身体を捨てて、誰かに乗り移ったってこと」
「誰かに、って……誰?」
エレナが怪訝に訊ねる。
ゴハンは気難しそうにひとつ間をおき、ため息ひとつ肩をすくめた。
「……ミリアムが誰に寄生したか不明だし、エレナちゃんが顔を見られてる以上、【ミリアムからの報復】の可能性がある」
ゴハンはバーガーをデスクに置き、エレナに向き直った。
「こうなった以上、十分に気をつけて。レンズも肌身離さず、何かあったら俺やパンを遠慮なくこきつかってくれよ」
〔こうなった以上〕に言葉詰まる。理由が何であれ、ゴハンとの約束を破ったのは自分なのだ。
「それよりも」ゴハンがさておきに続けた。
「気になったのが、ミリアムの発言だ。奴は【お前の胎の中と、器であるお前を何年も何年も大事に見守ってきた】……、確かにそう言った」
さっきまでの明るさは消え、真剣な面持ちでゴハンは続ける。
「俺は明日から【北条家虐殺事件】を洗い直すから、パンはエレナちゃん達を頼むぜ」
パンは百も承知に頷き返す中、エレナはゴハンの言葉にふと思い出していた。
(ジュリアの、胎の中……)
昼ごろにジュリアをレンズで視た時、下腹部が霧がかっていたことを思い出す。聖イルミナ学園では、ジュリアの腹痛は心因性で、ストレスが原因だと言っていた。最新機器の検査で、なぜジュリアの胎の中の存在が判別できなかったのだろう?
その事を報告しようとして、エレナは無意識に言葉を飲んだ。心にくすぶった不信感が、黙っておけとせっつく。
そうとも。何か裏がある以上、目の前の2人を完全に信用するわけにはいかないのだ。エレナは、日常を非日常にした彼らの事を、何も知らないのだから。何より、ジュリアの意思を尊重したかった。
MIBはそんなエレナをつゆ知らず、やおらナゲットのソースがどうの、シェイクの味がどうのと話を飛ばしている。
〔……それよりエレナ、あの2人には気をつけなさい。何か裏があるわ。いつも通りでいい、でも心では冷静に見て……〕
ジュリアの言葉が頭を巡る。冷静にみようにも、こうなった以上どうしたらいいかわからなかった。ジュリアと話がしたくてたまらなかった。まるで独りで夜の山に迷い込んだような気分だ。
「私、もう寝るね。色々あって疲れちゃった」
エレナは言って、ゴハン達のオヤスミの返事もそぞろに寝室へと逃げ込む。服を脱ぎ捨て、やっつけ仕事のようにシャワーを浴びた。
ミリアム達、そしてジュリアの北条家虐殺事件……こんなに気が晴れないバスタイムはそうない。ひととおりすませ、エレナはベッドに背を落とした。
まどろみ遠く、今日あった出来事が走馬灯のように頭を巡る。とてもではないが、寝付けそうになかった。
その時、寝室のドアが控えめにノックされた。エレナは上半身を起こし、タオルケットを抱き寄せドアを見る。
「何?」
「少しいいか?」
穏やかな声が返った。パンだ。
エレナは少し考え、「そこじゃだめ?」と返した。エレナは白のキャミソールにデニムのショートパンツだし、何より今日は一人になりたかったのだ。
「……ああ、ここじゃ駄目だな」
パンのその応えにエレナは小さなため息ひとつ、「どうぞ」と返した。
ドアノブが滑らかに下がり、タンクトップ姿のラフなパンがドリンク片手に入室する。エレナは目を丸くした。パンの手元には、イチゴやベリー、キウイやオレンジなど、カラフルなフルーツが宝石のように輝くドリンクがあったからだ。
「わぁ、きれい!」と思わずエレナ。
パンはエレナに手渡し、隣に腰を落とした。エレナはフルーツドリンク同様、目を輝かせている。
「ありがとう。どうしたのこれ、すっごくきれい」
「サングリア・ブランカだ。さっき作った。白ワインがほんの少し入っているが、エレナ用にほとんどジュースだ」
エレナは頷きストローで軽く吸ってみた。フルーツの甘さと清々しい香りが口いっぱいに広がる。甘すぎない爽やかな味がたまらなかった。おいしいおいしいと飲むエレナは、パンの視線に瞬きひとつ顔を赤くした。パンは微笑ましく目を細めている。そのなんとも抗いたがいセクシーさは、直視すると心臓が破れてしまいそうだった。
「そんなにじっと見ないで。恥ずかしいわ」とエレナ。
パンは少し残念そうに鼻をかいた。
「笑顔になってよかった。少し疲れているようだったから。何か思うところがあるならいつでも相談してほしい」
エレナは妥協的に軽く頷いた。思うところの原因はMIB本人に他ならないからだ。
「……君が沈んでいる原因は、俺たちMIBのことだろう?」
その見透かしたようなパンの振りに、エレナの動きが固まった。
「俺たちはお互いをよく知らないだけなんだ。エレナ、よければ君と少し話がしたい。お互いをもっと知るために」
まるで別れ間際の恋人のセリフだと思った。同時、パンの一人称が〔私〕から〔俺〕になっていることに腹の割りをみる。
手元の冷えたグラスに、パンはナイトテーブルに置いてあった自分のグラスを向けた。乾杯のそれだ。エレナはおずおずとそれにグラスの口を当てる。少し重めの音が響き、エレナは伺うようにパンを見上げた。
「何が気になる?」とパン。
「……わからないところ。……うん、わからないの。2人が隠し事をしてないかとか、私をだましてないかとか……。でもそういうのって、そういうのだからこそ相手に言わないものじゃない……?」
ふわっとしたエレナの言葉を、パンはきちんと聞き入り続きを待った。
「どこかがおかしい気がする。だから信用していいのかわからないの。懐柔されてるんじゃないかって、不安になる。なのに、色んなことがたくさん起きて……、……もう意味わかんなくて」
エレナは言って、フルーツドリンクを少し口に含んだ。飲んで、味気なく膝に落とす。
パンはその様子に目を伏せた。
「……エレナにそんな気持ちにさせてしまっていたんだな。本当にすまない。エレナのことだ、さぞ辛かったろう」
その言葉にエレナが顔を上げた。パンがエレナの髪をそっと撫でていたからだ。
「君にわかってもらえるよう、努力する。もちろん、すぐに信頼を得るのは難しいこともわかっている。だからこれからも、どうか見ていてほしい。少しでも嫌な事があったら、どんな些細な事でも伝えてくれ」
パンの真剣な眼差しに、エレナは戸惑いがちに小さく頷いた。パンがそれに安堵の笑みを浮かべ、大きな手でエレナの頭を抱き寄せる。厚い胸板が額に当たった。自分とは違う熱にエレナの心臓が破裂しそうなほど跳ね上がる。
素肌を守っていたタオルケットは気を失ったかのように落ち、あらわとなった柔肌にパンの逞しい腕が当たった。パンの吐息が、髪にかかっているがわかる。
「言葉にするのも不安だったろう、勇気を出して伝えてくれてありがとう。俺たちはこれからも君を守る。何があろうと、それだけは忘れないでくれ」
穏やかな声の中に、どこか祈るような必死さがでていた。
〔……心では冷静に見て……〕
ジュリアの言葉が、遠く感じた。このまま熱に負けて、その腕の中で抱きついてしまいたかった。甘く痺れる脳は今にもとろけそうだ。
しかし、それを断ったのは、身を引いたパンだった。優しくひと撫でし、おもむろに立ち上がる。
「明日の予定は?」
その言葉にエレナは甘い夢からさめたように我に返る。慌てて姿勢を正し、乱れた髪を手串で整え小さく首を横に振った。顔が熱い、きっとタコのように赤いだろう。
「ううん、特に予定は無いわ」
パンはそれに頷き、落ちたタオルケットを拾い上げる。
「携帯を新調する必要がある。現在の状況で連絡が取れないのは死活問題だ。北条ジュリアは血気にはやる節があるが、携帯を壊した負い目はあるだろう。一緒にショップへ出向き、ついでで連絡先を交換するといい」
その言葉にエレナはふとした。
「どうしてジュリアが私の携帯を壊した事を知ってるの? 私、パンには〔落とした〕って言ったのに」
パンは応えるように笑み、タオルケットをベッドに置いた。
「携帯は落とした程度であそこまで割れないし、君はよく顔に出る上、北条ジュリアの罰が悪そうな顔でだいたいの状況はわかる。仲良くなれたようで何よりだ」
言って、エレナの頭を子どものように撫でた。「よく質問できたな、上出来だ」
赤くなるエレナに目を細め、「今夜はもう遅い、おやすみ。いい夢を」と一言、部屋を後にする。
そのあっさりとした流れにエレナは思わずパンを呼び止めた。
ドアノブを手に振り返るパンに言葉が続かなかった。もっとそばにいて話をしたかったけど、言葉にするのがなぜだか恥ずかしい。言葉詰まるエレナに、パンは少し笑む。
「……蕾を咲かせないと約束した。いい子で寝てくれ、目に毒だ」
ドアが静かに2人を断つ。エレナはふと自分の格好に恥ずかしくなり、タオルケットに包まった。
〔ツボミをさかせないって何だろう?〕とか思いながら。
★
それは日付けが変わった頃の事だった。
昼夜せわしない聖イルミナ医院の盛りから外れ、サムソン院長は自室で目蓋を揉んでいた。薄暗い部屋で脱ぎ捨てられた白衣を横目、北条ジュリアのカルテをぼんやりと眺める。デスクにはジュリアが幼い頃に作ってくれたメダルや折り紙が並んでいた。
その隣に、ジュリアに瓜二つの女性の写真立てがひとつ。サムソン院長は写真を手に取り、長い溜息をついた。
「……去る者は日々に疎し、か」
巡る想いを断つように、電話が鳴り響く。サムソンは写真立てをふせ、流れるように受話器を取った。しばらく間があった。サムソン院長の目元がふいに陰り、目を伏せる。
「わかった、すぐ向かうからそこで待ってて。ミリアム、気を確かにね」
サムソン院長はそっと受話器を切り、すぐさまジャケットを羽織って自室を飛び出したのだった。