出逢い
祭りの熱も既に冷め、気怠さと酔いが抜ける苦痛が寝床を支配しているであろう時間。俺は肩に下げた鞄に酒瓶とコップを入れ、逆さにしたボウルのような崖を登っていた。
簡単に崩れるような足場ではないのでスタイルアップを使えばひょいひょい飛んでいけるが、それでも所々は手も使わないと上がれない程度には傾斜がきつい。とは言え、もう何年も通っているのだから鞄の瓶を割らないように登るくらいは軽いものだ。
「こんばんは」
「きゃ~待ってました! シュゼちゃん!」
シュゼちゃんねぇ。銀髪の少女リサは立ち上がり、小さく飛び跳ねながらパチパチと拍手で迎えた。そんなに待ち遠しかったのか。俺じゃなくて、酒が。
毎年飲ませろ飲ませろと騒いでいたからな。忘れて寝てしまわないで良かった。いつも世話になりっぱなしだから、たまには恩返しをしないと。
いつものように世界樹の壁のような幹へ背中を預け、地面に腰を下ろす。コップを手渡し赤い酒を注いでやった。
「初めて飲むのか?」
「ん~どうだろう。覚えてないくらいには飲んでないね~」
リサは伸ばした素足を交互にぱたぱた羽ばたかせながら答えた。
「キミも飲みなさいな」
「少しだけな」
もう一つコップを取り出し、三口分程に浅く、器の底を酒で浸す。
「じゃあ~かんぱ~い」
「乾杯」
リサは勢い良く喉を鳴らし飲んでいる。俺も少しだけ口に含んで舌を湿らせた。
うーん、やっぱり嫌いではないけれど、美味いとも言えないなぁ。
「っぷは~」
「美味いか?」
「なんか微妙。でも、楽しいかな」
どうやら俺と似たような舌をしているらしい。気に入って毎日持って来いとか言い出す心配が無さそうなのは良かった。
そういえばリサでも酒を飲んで酔っ払ったりするのだろうか。ちょっと見てみたいと思ったが、こいつが本気で暴れだしでもしたらどうやって止めるんだろう。
……恐ろしい想像は止めておこう。大丈夫、酔わないさ。きっと。
「みんなが楽しそうに飲んでるの見て、此方も飲んでみたかったんだよね~」
相変わらず足をぱたぱたさせている。今日は随分上機嫌だな、味は微妙とか言ってたくせに。喜んでもらえたなら持ってきた甲斐もあったけれど。
見た目十二、三歳くらいだろうか。チマより少しだけ背は高いけれど、なんとなく体全体の線が細く幼い印象がある。仕草や言葉遣いも妙に子供っぽいと思えば、大人を思わせる瞬間もある。
存在自体ある意味捉え所のないせいで、時々――いや頻繁に見た目通りの年齢として接してしまうが、これでもリサは俺の先生。個人授業だから師匠と言ってもいい存在だ。ちゃんと感謝しなきゃな。
「あっ……ま、いっか。随分遅かったね」
「どうした?」
「ん~まぁすぐわかるよ。逃げないでね。ふへへへ」
なんだ気色悪い。……あぁ駄目だ。師匠を気色悪いなどと思ってしまった。でも、師匠とか言いつつ俺はこいつのこと何も知らないんだよな。
知っているつもりになってはいるけれど、実際のところは俺の想像だ。本人の口から聞くまでは何も知ったことにはならない。
でもそんなの、本当に重要なことなのだろうか。リサの正体が何であれ感謝しているのは変わらないし、俺の大事な一人に違いない。それでもやっぱり、もっと何でも話し合えなければ本当の関係ではないのか? レコウ。
何か、一定のリズムで音が聞こえる。これは……足音じゃないのか!? まずい、見つかる!
「おいリサ!」
「だ~いじょうぶだって。この人は。今更逃げても意味無いから」
さっきの逃げるなってこれかよ。何呑気に酒飲んで、俺は……クソッ心臓の鼓動が……こんな小心者だったか? 足音が近い。もう――。
「そう構えるな。わたしにも一杯注いでくれないか」
「よ、傭兵長!?」
「あはははは! ビビりすぎ~」
思わず立ち上がってしまった俺の隣に、関係ないと言わんばかりにどっかり腰を据え、ガラスのコップを構えると「ほれ」と自前の酒瓶を差し出してくる。
俺はまだ頭が混乱したまま、有無を言わせない雰囲気に飲まれ、黙って酒を注いだ。
「不思議とここは明るく感じるのだな」
さっきも女二人に挟まれて酒を飲んでいたけれど、この組み合わせは異常だろう。反則だぞ。そりゃビビるっての。傭兵長とは一対一で話したことすらないのに。リサだってここの事は秘密にした方がいいって言ってたじゃないか。なんでそんな落ち着いて、俺ばっかりこんなに焦ってるんだ。だいたい――。
「側で突っ立たれると鬱陶しい。座れ」
「あ、すみません」
「あははは! シュゼおっかし~。涙出るよ~」
「くっそ……笑うなよ!」
頭がついていかない。二人は知り合いだったのか? 有り得ない話ではないけれど、そんなの今まで一度も聞いたことがないぞ。
傭兵長は俺がここにいることを知っているようだった。バレてたってことか。それはいいが、リサのことは――。
「初めまして、セリカ・ノーレグと申します。なんとお呼びすれば宜しいでしょうか」
初対面かよ! しかも傭兵長がここまで畏まるのか。ますますわからない。もう迂闊に喋れないぞこれは。
「リサでいいよ~」
「ではリサ様――」
「うふふ。普通に話しなさいな、いつもそうしてるみたいに」
リサはたまに俺へ向けてするように、笑いながら手をひらひらと振って見せた。
「そうか、助かる。ではわたしもシュゼに倣ってリサと呼ばせて貰おう」
段々と誰が誰に対して失礼で誰の立場が上なのかわからなくなってきた。一つ言えるのは俺の立場が一番下であるということだけ。
そろそろ疑問で頭が破裂しそうだ。もう、どうにでもなれ。
俺は器に酒をなみなみと注ぎ、一息で飲み干した。
「ほう」
「お~かっこいいね~。さっきはかっこ悪かったけど」
うるせえ。
「あの、傭兵長はリサを知っているのですか?」
聞けた。勢いは大事だな。
「知っているも何も。まあ会うのは初めてだが。お前はもう少し宗教を学ぶべきだな」
「宗教……」
予想していなかった単語が飛び出してきた。だが考えてみれば関係なくもないのか。宗教、恐らくは神樹信仰の話。
傭兵長は目でリサの方をちらりと伺い、話を続ける。
「神樹信仰に出てくる『神託の少女』銀の髪に白い衣。……あとは興味があれば自分で調べろ」
出てくる。出てくるか。聖書に。あれが作られたのは、何百年も昔だったはずだが。
驚きは、しないけどな。予想していた。何せこいつは、リサは不思議なところが多すぎる。俺が何年も前出会った頃から、見た目が全く変わっていない。
「あんなの鵜呑にされても困るんだけどね~。お伽噺だよ」
リサのことは、気にならないと言えば嘘になる。それでも……。俺は、怖いのだろうか? 知ってしまうことが。一つ聞けば、何かが変わってしまう気がして。
「シュゼ、お前がここに通っていることはずっと前から把握済みだ。わたしを舐めるなよ?」
「そう……ですよね。はぁ~」
「ところでノーレグ、用件はなんだい? 酒だけ飲みに来た訳じゃないんだろう?」
「……わたしの挨拶、顔見せも兼ねて、ちょっとした要請なのだが」
傭兵長はその力強く鋭い目線を俺に向けながら、リサに対して言葉を発した。
「こいつをもっと鍛えてやってくれないだろうか」
「それは言われなくてもその予定だけど」
「俺なんかのために直々にって。戦場じゃ役に立ちませんよ?」
あ、ちょっと失礼だったかな。少し酒が回ったかもしれない。気をつけよう。だが戦場で役立ちそうもないのは事実だ。
傭兵の戦いは完全に集団戦闘、役割分担化されている。俺のような全属性七十点の器用貧乏よりも、一つに秀でている者の方がよっぽど使えるだろう。俺では遠距離から大魔法で敵を蹴散らすのは不可能だ。
どんなに努力したって炎魔法でクレナを超えることは出来ないし、雷魔法でレコウも超えられない。水魔法でもリフェルに劣る。一対一で強くたって、そもそも戦場でそんな状況が無い。
「現状役立たずなのはそうなのだがな」
うわ、はっきり言うなー。ずっと前から自覚していたことだから、今更傷付きはしないけれど。
「これから先、少々戦場の状況が変わる可能性がある」
「状況が、変わる……」
「まだ不確かな情報だから詳細は話せんが、一騎打ちに強い兵が欲しい」
「それがこの子ってことね」
「無駄に終わる可能性の方が高いのだが。その時は剣を担がせて前衛でもやってもらう」
状況が変わるってなんだろう。アステリアの王が先日死んだという話は聞いた。跡を継いだグラードとかいう王が攻撃的だとかいうのも耳に挟んだ。
でもそれが一騎打ちに強い兵が欲しいこととは繋がらない。……まぁ考えてもわかる訳ないか。やるべきことは単純だ。俺が役に立てる可能性があるのなら。
「シュゼ、とりあえず一年だ。時間をやる。強くなってみせろ。使えるかどうかはそこで判断する」
「わかりました。やります」
「うむ。いい返事だ。期待している。……では、わたしはこれで失礼する。邪魔したな」
「もう行っちゃうんだ~。ビビるシュゼ面白かったのにな~」
「おい、終わった話蒸し返すな」
「リサ、今日は会えて良かった。また今度、話をしよう」
傭兵長は後ろ手に別れを告げ、闇の中へ消えていった。男らしいというか、かっこいいな。あれならクレナも本気で好きになって構わないのではないだろうか。
「リサ、今日は会えて良かった。また今度、話をしよう」
甲高い声が傭兵長のセリフをまんま繰り返した。
「似てねぇっての。迫力が全然違う」
「うふふ。ノーレグの孫も立派になっちゃってまぁ」
はぁ。それにしてもビビったな。
一年で強くなれか……。当たり前だけど、今の俺じゃ一騎打ち要員としても使い物にならないということなんだろうな。そりゃあそうか。適正がスタイルアップの人材はまずまず多い。あの試験官にギリギリ勝ててるくらいじゃ、より安定している戦闘要員を使った方がいい。
「んんっ!? んっぐんっぐ」
うわ、瓶に口つけて飲んでる。酔っ払ってるのかこいつ。訓練中以外はいつもこんなんだから判断がつかないな。これが神託の少女様――だっけ? 本当かよ。
あぁ、いかん。これでも俺の師匠なんだ。尊敬尊敬。
「んっぱっ! ちょっとちょっと! これ飲んで飲んで」
リサが顔を輝かせながら、今まで口に咥えていた瓶をこちらに押し付けてくる。やっぱ尊敬は少しきついかもしれない。
うわぁ、瓶の口がベタベタだ。嫌だなぁ。
「あっ! 何コップ使おうとしてるんだ! 此方が汚いみたいじゃないか!」
「いや汚いだろ。コップでも結構譲歩したんだけど」
「お母さんの唾は息子にとって汚くないんだぞ~!」
「何がお母さんだよ。口から離す時糸引くの見えたし……。それに昔毒だって――」
……毒だって、言ってたよな。そう、これだったんだ。きっかけは。今の俺が生まれた。お母さんって、そういう意味で言っているのだろうか。
どうする、試すか。試せば聞かなくてはいけない。俺のこと、リサのこと。踏み込むのか……。
意を決して瓶に口をつける。
「少し甘い。林檎?」
「そうそう林檎のお酒なんだよ~。ノーレグが置いてったやつ。美味しいね~これ」
体は、なんともない。そんなすぐにはどうこうならないか。あの時はどうだっただろう。
控え目な虫の鳴き声。闇をじっと見つめる。自分が目を開いているのか、閉じているのかわからなくなって。
俺とリサが初めて出逢った、あの日のことを思い出す。