喧嘩2
レコウは何も言わず、淡く光る人工晶石を一つ持ってどんどん街の外側へ向かい歩いて行く。俺はその数歩後ろを、同じく何も言わずに付いて歩く。
前を歩く奴の背中から静かな意思が見えた。そして多分、俺もそうなのだろう。
あいつがどこへ向かっているのか、何をしようとしているのか、大体わかる。長い付き合いだからな。くだらない。こんなこと、何の意味があるって言うんだ。
階段を降りて行く。ゆっくり、星の光も、街の光も届かない暗闇の中を。遠くで鳥が鳴いている。ここは、上より一層暗い。
「おい、こんなの意味ねーよ」
レコウは何も応えない。靴の裏の感覚が硬い石の階段からふわりとした砂に変わる。訓練所、その最下部。
円形になった空間の、その中央あたりまで歩きレコウはくるりとこちらを向いた。
「シュゼよ、オレずっと考えてたんだが、わかんねーわ」
「何を考えたって?」
「お前にどうして欲しいのか。オレがどうしたいのかわかんねー。でもこのままじゃダメだっつーのはなんとなくわかる」
馬鹿特有の『なんとなく』頭で考えるのではなく感じるってやつ。学年で座学底辺争いしてるだけはある。ただこいつは、妙にそれでいて勘が鋭いところがあるのも確かなのだが。
「だからよ、シュゼ。オレはまずお前に本音を聞かなくちゃならねぇ」
そう言うとレコウは俺に目を合わせたまま、左手に持っていたこの空間唯一の光、人工晶石をポンと軽く脇に放り投げた。
見えていた金髪が光から遠ざかり闇に溶けていく。俺の視線は無意識に、投げられた明かりの方へ向き――。
ドッと鈍い音が頭に響いて視界が回る。なんだ? 汚え、この野郎不意打ちで殴りやがった!
クソッ。体勢を崩した。右手を地面に付けて辺りを見る。左の頬がドクドクと熱い。暗くて見えない。頭を揺さぶられたせいで見失った。……どこだ。
ちくしょう。殴り返してやる。
視界の端、右側で微かに光る石の前を影が通り過ぎた。
咄嗟に右腕を折りたたんで顔面を守る。そこに重い衝撃が加わった。
避け損なったが、防いだ。喰らえこの野郎!
「つっ……!」
俺の左回し蹴りが奴の腹のあたりに入った。影が動く。そして俺の顔面、さっきと同じ場所にまた拳がめり込む。
暗くてガードが効かない。だけど大体位置は掴んだ。だったらやられる前に殴り倒してやる!
脇を締めて右手で思い切り突く。肉の感触。どこかに当たった。
引いた右肩に衝撃が来る。何かを食らった。
痛みは感じない。口の中に血の味がする。
右足を蹴り上げる。左腕を振り回す。服を掴んで思い切り頭突きをする。
腹を蹴られる。鼻を殴られる。顎に膝が入る。
殴る度に、殴られる度に、ミシミシと骨の軋む音が聞こえる気がする。
言葉は一切交わされない。荒い呼吸の音と、口から空気の漏れる呻き声だけ。
顔面を殴る。殴り返される。胸を殴られる。腹を殴り返す。
耳を。足に。肩を。腕を。鼻を。腹を。頭に。腰を。
左足の蹴り、引くのが遅れて掴まれる。軸足を払われ、勢いを付けて思い切り地面に叩きつけられた。
全身が熱い。息が切れて視界がぼやける。その代わり目が暗さに慣れてきた。レコウが膝に両手をついて肩で息をしているのがわかる。
立たなくちゃ。立って、反撃を。
「シュゼ、思ってることを、言え」
何を言ってるんだ。まだ俺は負けてない。今立つから待ってろ。
「何に、こだわってる。何がこえーんだ。オレに、聞かせてみろ」
誰が言うか。お前だって息切らしてるじゃないか。今、そっちに行ってとどめを刺してやる。
「俺が、俺が怖いのは……」
今、立ち上がって、そっちに。
「俺は、お前達が居なくなるのが怖いんだ」
本音なんて言うもんか。ぶっ飛ばして、終わりだ。
「お前達が、ユーマみたいに、いなくなるのが怖い。だから、みんなが、俺の大切な人になってしまうのが怖い」
くそ、目がぼやける。なんで……。
「大切な人がいなくなるのは辛いから。だから……。俺は逃げて……」
いつの間にか俺の目からは涙が溢れて止まらなくなっていた。こんなこと、言うつもりじゃなかったのに。どうして言ってしまったのだろう。塩水が切れた口元に滲みて、痛みが戻ってくる。
「みんなが、俺の心に入らないように。俺が、みんなの心に入らないようにって。だってよレコウ! 俺達は傭兵で、もしかしたらいつか――」
「シュゼ、わかった。もういい。馬鹿にもよく、わかった。話してくれてありがとうな。でもよ、もうおせーよ。おせーんだよ。オレたちはもう、大事な仲間だろうが」
言われなくてもわかっていた。もう遅いんだ。もう、大事だと思ってしまっている。親のいない俺達には、こいつらだけが、こいつらこそが家族なんだと。
試験で無理をして勝とうとしたのも、本当は強くなりたかったんだ。お前らを守れるくらい強く。そうすれば、失う怖さに勝てると思って。
俺はなんとか寝そべった状態から体を起こす。疲労感が戻って全身が怠い。痛い。
レコウは逆に、尻もちをつくように地面に座り込んだ。
「全く、何やってんのよあんたらは」
えっ? なん、なんでいるんだよ。
「男ってほんと呆れた馬鹿ね」
「いつから、いた?」
「最初っからよ。後付けても全然気付かないんだから」
暗闇の中からクレナの影がこちらに近付いてくる。はぁ、ちくしょう。泣いてるのバレただろうな。恥ずかしい。
クレナはゆっくり俺の前まで来るとしゃがみ込んで、そして首に腕を回し、抱きしめてきた。
力が強い。疲れた体と心では抵抗も出来ず、されるがまま。
「こんな傷だらけになって……。あんた、ユーマと仲良かったもんね」
「あ、ずりー」
「レコウは黙ってて」
クレナの体が時折ひくひくと痙攣する。こいつ、泣いているのか。
「あいつが死んだのは、俺のせいだから」
「そんなことない。違う。違うよシュゼ。あたしもレコウもあそこに居た。あんただけのせいじゃない。一人で、背負い込まないで」
何も言えない。そうなのかもしれない。俺だけのせいじゃないのは、間違っていないんだろう。でも俺の心が、自分自身がそれを受け入れられない。ユーマの最期の顔が目に焼き付いて離れない。あの時あいつと目を合わせなければ。
レコウが黙って立ち上がり、こちらに来て手を差し伸べる。俺もその手を取り、俯いたまま立ち上がった。膝が揺れる。喧嘩は、俺の負けだ。
「シュゼ、いくぞ」
そう言うとレコウは右腕を大きく後ろに振りかぶり、その拳が俺の腹を下から突き上げた。
「ぐっふ……っ!」
「ちょっ、あんた何やって! 終わったんじゃなかったの!」
「どうだ、オレはつえーだろ。クレナもつえーぞ」
何言ってんだこの馬鹿。
今のは、効いた。声が出ない。
「シュゼ、お前も強い。オレたちは強い。わかるか? あの頃とは違う。戦争なんかで簡単に死んだりしない」
「……なんで……馬鹿は、殴らないと、話が出来ないんだ……」
「すまん。こうするのが一番良いって前に先輩に聞いた」
鵜呑にするな……こんなに殴られたのは生まれて初めてだよ。
「オレがみんなを守るから、お前もみんなを守れ。オレのことも守れ。お前はオレが守ってやる。それでいいだろ」
滅茶苦茶だ。なんの根拠もない。
……でも、それで良いのかもしれない。俺達は戦いしか知らないから。がむしゃらに戦うことでしか、自分も他人も守れない。
孤児だった俺を拾ってくれたウィズ、傭兵長には恩も感じている。あまり話したことのない先輩や、後輩にだって死んで欲しくない。ここを逃げ出してどこかで暮らすなんて選択肢は、最初から俺の中に無い。
だったらこの命の使い道は……。逃げて迷って、何もしないくらいなら俺は……。
「……いってぇなクソ。それでいいよ。もっと強くなって、お前らを守ってやる」
「よし、じゃあ誕生祭も来いよな」
「負けたからな。行くよ」
「はぁ……ほんっと男って馬鹿みたい。先帰って薬持ってくるから、後で女子寮寄りなさい」
吐き捨てるように言い残し、クレナはスタスタと早足で先に行ってしまった。
俺達は人工晶石を拾ってからふらつく足取りでゆっくり後を追う。体が重かった。こんなことはもう二度とごめんだ。
「あいつ、お前に気があるんじゃねーか?」
「からかうのやめろよ。腹が痛くて笑う元気もない」
「でもさっきはあんなに抱きついてたぜ?」
「あいつの場合それは、面倒見がいいっていうか。母性本能? が強いんだろ。多分」
「あんな胸で母性本能って……。っと、っぶね、聞かれたら殺される」
学校が休みの日や早く終わった時など、よく広場で子供達に囲まれているクレナを見ることがあった。本人は表面上仕方なくのように装っているけれど、嫌いじゃないんだろうな。
それにしても打撲で全身が熱い。二人で制服の上だけを脱いでダラダラと歩いた。
今はお互い暗黙のルールで魔法を使わなかったが、レコウは第二適正にスタイルアップを持っていてよく鍛えている。使われていたら勝負にもならなかっただろう。あの蹴りは効いたなぁ。あと最後の投げ。まだ肩甲骨のあたりが痛い。
「シュゼさぁ、強くなったよなー」
「はぁ? 今お前に負けただろう。嫌味かよ」
「お前昔は泣き虫だっただろー。それに比べりゃ別人だぜ」
「やめろよ。小さい頃の話は反則だろ」
子供の頃よく泣いてたのは確かなんだよな……。そうだな、弱かった。その度にあいつが助けてくれて、慰めてくれた。甘え過ぎていたんだろう。俺は。
いつでもユーマを目で追っていた。あいつが隣に居てくれないとそわそわして落ち着かなかった。
もう甘えていられない。既に手遅れだから。大切な奴らを守るためには、強くなって相手を打ち倒す。これが今出来る精一杯。例え相手に恨まれても。地獄に墜ちても。
女子寮前の花壇を囲うレンガに、泥のように重くなった体を降ろして待っていると、やがてクレナが出てきた。
「ごめん、二人起こさないように探すの手間取っちゃった」
リフェルとチマが同室なんだったか。あいつらもう寝てるのか。寮の窓を見上げるとまだ多くの部屋に明かりが灯っている。
クレナが無造作に差し出してきた『裂傷』と書かれた小瓶を受け取る。
「借りるよ。明日火傷の薬と一緒に返すから」
「はいはい。急いでないから。もうあんま馬鹿なことするんじゃないわよ」
さっきは自分も泣いていたくせに、もうすっかり冷めましたといった半ば男を見下した声色だ。
「馬鹿なことしかしないレコウに言ってくれ」
「悪かったってー。だけどシュゼも少しすっきりしただろ?」
「……かもな」
その後自分たちの部屋に戻り、ランプの明かりの中貰った深緑色の怪しい薬を塗りながら、お互いの身体が痣だらけになっているのを見て笑った。肩にくっきり靴の痕が付いているのは格好悪いな。治るまで人前で服は脱げない。
「あのさレコウ、俺が夜中抜け出してることなんだけど」
「あー、言わなくていいぞそれは」
「気にならないのか?」
「ならねーことねーけど。でもお前に必要なことなら、やめろとも教えろとも言わねー。勿論秘密にしとく」
「正直、助かるよ。いつか言える時が来たら教えるから」
「そーしてくれ。オレはもう寝る。はー全身いてー」
そうだな、今日はもう疲れた。二段になっているベッドに潜り込む。俺は下、金髪は上だ。
リサはさっきの見てたんだろうな。クソ。次に行った時絶対からかわれる。カズも要注意だ。バレたら何年先も笑いのネタにされそうだ。リフェルやチマにはなんて言って誤魔化そう。そういえばクレナに口止めしておくのを忘れた。
こいつらみんな、死なせたくないな。頑張るからな、俺。頑張って、俺達の敵をやっつけるから。
誕生祭は何日後だったっけ。レコウは、もう寝ただろうか。寝るの早いんだよないつも。
「起きてるか?」
返事はない。もう寝たか。
「……ありがとうな」
「おう」
起きてんじゃねーか。




